婚約破棄された聖女ですが、私の唇には竜王の封印がかかっているので、口づけないと世界が滅びますけど?~転生した私を捨てた第二王子が青ざめても、もう遅い~
「聖女セラフィナ、貴様との婚約を破棄する!」
大聖堂に、第二王子ライオネルの声が響き渡りました。
ステンドグラス越しの光が、彼の金髪を白々しく照らしています。その腕には、頬を上気させた男爵令嬢ミレーユがぴったりと寄り添っておりました。
「貴様は口づけひとつ交わさぬ氷の女! 真の愛など知らぬ、偽聖女だ!」
──ああ、始まったな。
私は、菫色の瞳を伏せたまま、内心でそっと息をつきました。
(定時退勤したかったのに、残業が確定した気分だわ)
前世──瀬良史奈。過労死した現代日本の危機管理コンサルタント。この体に転生してから、私は自分の運命を『鑑定スキル』で既に把握しておりました。
だからこそ、この茶番も、想定内。
聖堂に集まった貴族たちが、ひそひそと囁き交わします。憐憫、侮蔑、好奇。そのどれもが、私という人間ではなく、『冷血聖女』という記号に向けられていました。
「ライオネル様……わたくし、こんな冷たい方が聖女だなんて、ずっと悲しくて。真実の愛を知らない方に、この国は任せられませんわ」
ミレーユが、勝者の微笑みを浮かべて私を見上げます。愛らしい顔。計算された健気さ。
──『真実の愛の令嬢』、ね。
「何とか言ったらどうだ、セラフィナ! その冷たい沈黙こそ、貴様が愛を知らぬ証拠だ!」
ライオネルが勝ち誇ったように叫びます。
私は、ゆっくりと顔を上げました。
「わかりました」
静かな声でした。喚くことも、涙を流すこともなく。
「婚約は破棄いたします。聖女の任も──返上させていただきますね」
その瞬間、勝ち誇っていたライオネルの顔が、わずかに強張ったのを、私は見逃しませんでした。
「な……なんだと?」
ライオネルが目を瞬かせます。想定と違う反応だったのでしょう。
「え……? 縋りついたりなさらないの……?」
ミレーユも、拍子抜けした顔をしています。
彼らはきっと、私が泣いて縋ると思っていたのです。「どうかお考え直しください」と、みっともなく取り乱すと。
(残念でした。前世で理不尽な組織にしがみつく愚かさは、骨身に染みておりますので)
私の唇には、うっすらと桜色の花びらの紋様が刻まれています。
これこそが、この世界の核心。
太古、世界を焦土に変えかけた災厄──竜王アルド。その膨大な魔力を封じるため、聖女の唇に刻まれた『封印』。
私が誰にも口づけを許さなかったのは、冷血だからではありません。
安易に唇を許せば、封印が緩み、世界を滅ぼす災厄が漏れ出すから。
『真実の愛の口づけ』で封印を解くには、正しく選ばれた対の存在でなければならない。ライオネルでも、ミレーユでもない。
──けれど、それを彼らは知らない。学ぼうともしなかった。
「聖女様、本当によろしいのですか?」
大司教が青ざめた顔で問いかけてきました。彼だけは、封印の重みをわずかに知っている。
私は、花のように微笑みました。
「ええ。真実の愛を知らない氷の女に、聖女など務まりませんもの。──後は、ご自由に」
一礼して、私は踵を返します。
背後で、ミレーユの得意げな笑い声が聞こえました。
(せいぜい、その椅子の座り心地を楽しむことね)
欲しがった椅子には、座る資格が要る。
それを、彼女はまだ知らないのです。
───
大聖堂を出た私を、駆け寄る足音が追いかけてきました。
「セラフィナ様ぁっ!」
そばかすの残る快活な顔。元専属侍女のリタでした。
息を切らせ、目に涙を溜めて、彼女は私の前に立ちふさがります。
「セラフィナ様が氷の女ですって? あの方ほど、誰かのために我慢なさる方はいませんのに!」
「リタ……」
「私、見てきましたもの! 熱を出しても浄化の務めを果たし、夜通し結界を張り直して、それでも一言も弱音を吐かなかったあなた様を!」
彼女の言葉に、胸の奥がじんと温かくなりました。
前世でも、今世でも。私はずっと、誰にも頼れずに働き続けてきた。
「リタ、あなたは王宮に残りなさい。私についてきては、あなたの立場が──」
「いやですっ! 主家も王宮も捨ててまいりました。私がお仕えするのは、セラフィナ様おひとりです」
……ああ、もう。
過労死するまで働いた前世では、こんな風に誰かが私のために泣いてくれることなど、ありませんでした。
「……ありがとう。それなら、一緒に来てくれますか」
「はいっ! それにしても、あの第二王子とミレーユ様……封印のことも知らずに、大変なことになさいましたわねぇ」
「あら。私はもう、聖女ではありませんもの。国のことなど、知りませんわ。これから、私は『定時で帰る冒険者ライフ』を始めるのです。──残業も、休日出勤も、もうごめんですから」
「ていじ……?」
「ふふ、こちらの話です」
風が、私の淡い金髪を撫でていきました。
これはもう、ざまぁの序章。
けれど今は、まず自分の幸せを掴みに行くのです。
───
辺境の街レーヴェンは、冒険者たちの熱気で溢れていました。
私は冒険者ギルドに登録し、鑑定・浄化・危機予測のスキルを活かして、瞬く間に評価を上げていきました。
「セラフィナさんに依頼すると、事故が起きないんだよなぁ」
「危険を先に見抜いてくれるからな。しかも定時できっちり切り上げる」
(そう、無理はしない。命あっての物種ですから)
前世の反省を活かし、私は決して働きすぎませんでした。それでも──いえ、だからこそ、仕事の質は高く保たれ、信頼は積み重なっていきました。
そんなある日のこと。
魔物の巣窟となった廃坑の調査依頼で、私は一人のS級冒険者と組むことになりました。
「……ガイだ」
黒髪の、見上げるほどの大男。ぶっきらぼうな低い声。それきり、彼は口を閉ざしました。
強面。無口。近寄りがたい威圧感。
(うわ、強面。無口。コミュニケーション取りづらそう……)
と、身構えたのですが。
廃坑の入り口で震えていた痩せた野良犬に、彼は無言で干し肉を差し出しました。
村の子どもが転んで泣くと、大きな手でそっと抱き起こしてやりました。
私が重い調査道具を運ぼうとすると、何も言わずに横から取り上げて、軽々と担いでいきました。
(……あれ? この人、もしかして)
調査を終え、冷え込む夜。焚き火のそばで、彼はごそごそと何かを準備していました。
そして、ずいと私の前に差し出したのは──
湯気の立つ、一杯の温かいスープ。
「……食え」
それだけ言って、彼は顔を背けました。よく見ると、耳が赤くなっています。
(耳が、赤い……?)
私は、思わず菫色の瞳を見開きました。
前世でも今世でも、誰かにこんな風に、ただ「食え」と温かいものを差し出されたことなど──あったでしょうか。
「……いただきます」
スープは、優しい味がしました。体の芯まで、じんわりと沁みていくような。
(この人のこと……もう少し、知りたいかもしれない)
焚き火の向こうで、ガイの竜眼が、ほんの一瞬、紅く煌めいた気がしました。
───
ガイとの依頼を重ねるうち、私たちの距離は、少しずつ近づいていきました。
彼は相変わらず無口でした。けれど、その沈黙の意味を、私は少しずつ読み取れるようになっていました。
唸り声ひとつで「危ない、下がれ」。
差し出される水筒で「疲れただろう」。
背中を向けて座る、その位置取りで「俺が守る」。
(不器用にもほどがあるでしょう、この人は)
「セラフィナ様、ガイさんといるとき、とても穏やかなお顔をなさいますね。これはもう、私が背中を押して差し上げねば」
「余計なお世話です」
ある晩、依頼帰りの丘の上で。
ガイが、ぽつりと口を開きました。
「……お前は、なぜ誰にも頼らない」
珍しく、彼のほうから紡がれた言葉でした。
私は少し驚いて、それから静かに答えました。
「頼り方を、知らなかったのです。ずっと一人で、務めを果たすのが当たり前で」
「……そうか。俺も、ずっと一人だった。対の相手を、待ち続けて」
「対の……相手?」
彼の竜眼が、月明かりの下で紅く光りました。人間のものではない、竜の瞳。
私は、すべてを察しました。鑑定スキルが、彼の正体を告げていたからです。
「……あなたは、竜王アルド。私の唇の封印を、分かち合うべき魂の片割れ」
「わかっているんだろう。お前の鑑定スキルなら。……怖いか」
私は、首を横に振りました。
「いいえ。むしろ──ほっとしました。あなたが、私の運命の相手だと知って」
ガイの強面が、ぐしゃりと崩れました。照れているのです。耳まで真っ赤にして、彼は唸るように言いました。
「……そういうことを、真顔で言うな」
(ふふ、可愛い人)
このとき、私はまだ知りませんでした。
私たちが向き合うべき運命の時が、思ったよりずっと早く、迫っていたことを。
───
ある日、レーヴェンに一報が届きました。王国ヴェルダリアの、異変。
「魔物の氾濫が止まらないんだと」
「聖女様の浄化がなくなってから、封印が緩み始めたって話だ」
ギルドの喧騒を聞きながら、リタが静かに紅茶を淹れました。
「王国の魔物氾濫、止まらないそうですよ。聖女様の浄化がなくなってから、封印が緩み始めたとか。……ざまぁ、とはこういうことを言うのですね」
カップから立ち上る湯気の向こうで、彼女は穏やかに微笑みました。
そして──その日の夕暮れ。
私の住む辺境の家の扉が、乱暴に叩かれました。
「セラフィナ! セラフィナ、いるのだろう! 戻ってきてくれ、頼む! 国が……国が滅ぶ!」
聞き覚えのある声。扉を開けると、そこには変わり果てたライオネルが立っていました。
王子の威厳など、どこにもありません。土埃にまみれ、憔悴し、目を血走らせて。
彼は、私の前に膝をつきました。かつて公衆の面前で私を糾弾した、あの第二王子が。
「ミレーユが『真実の愛の口づけ』を試したが、何も起きなかった! 封印は緩む一方だ! 魔物が、都まで……!」
私は、静かに彼を見下ろしました。
喚くこともなく、勝ち誇ることもなく。ただ、淡々と。
「あら」
花のように、微笑んで。
「私、真実の愛を知らない氷の女なのでしょう? そんな偽聖女に──国は救えませんわ」
ライオネルの顔が、凍りつきました。
「そ、それは……あれは、その……」
「口づけひとつ交わさぬ冷血の女。真の愛など知らぬ偽聖女。……たしか、そう仰いましたわよね? 大聖堂で、大勢の前で」
一言ずつ、彼の言葉を、そのまま返していきます。
ライオネルは、真っ青になって震えていました。
「私の沈黙が、何を守っていたか。あなたは、学ぼうともなさらなかった。ミレーユ嬢も、同じこと」
「頼む、教えてくれ! どうすれば封印が……!」
「欲しがった椅子には、座る資格が要ったのです。──それを、あなた方は、失ってからようやく知る。遅すぎましたわね」
そっと、扉を閉めようとした、そのとき。
遠くの空が、不気味な紅に染まりました。
地の底から、地鳴りのような咆哮が響いてきます。
封印が、限界を迎えつつあったのです。
───
空が、燃えるように紅く裂けていきました。
緩みきった封印から、竜王の膨大な魔力が──世界を焦土に変える災厄が、溢れ出そうとしていたのです。
大地が震え、遠い都の方角で、悲鳴のような魔物の群れが湧き上がるのが見えました。
「セラフィナ様!」
リタが青ざめて駆け寄ります。ライオネルは、腰を抜かして地面に座り込んでいました。
そして──私の隣に、静かに立つ者がいました。
ガイ。
黒髪をなびかせ、その全身から、抑えきれない竜の力を滲ませて。
「セラフィナ。時が来た。……お前の意志を、聞かせてくれ」
私は、自分の唇に指を触れました。桜色の花びらの紋様。ずっと、誰にも許さなかった、この唇。
──強いられてではなく。儀式のためでもなく。
私自身が、選ぶのです。愛する相手を。
「ガイ」
私は、彼を見上げました。菫色の瞳に、もう迷いはありませんでした。
「あなたと、分かち合いたい。この運命を。この先の、すべてを」
ガイの強面が、くしゃりと歪みました。千年待った孤独が、ようやく報われる瞬間の、震えるような表情。
「……ああ。俺も、ずっと──お前を待っていた」
大きな手が、そっと私の頬を包みます。
無口な彼の、たった一言。それは、どんな美辞麗句よりも、私の胸を満たしました。
紅く裂けた空の下。溢れ出す災厄の狭間で。
私たちは、口づけを交わしました。私の、初めての。
その瞬間──唇の花びらの紋様が、光を放ちながら、ほどけていきました。
けれど、それは『解除』ではありませんでした。
花びらは二つに分かれ、ひとひらは私の唇に、もうひとひらはガイの胸へと移ろいます。
封印は、書き換えられたのです。『二人で分かち合う』形へと。
暴れ狂っていた竜王の力が、ゆっくりと制御され、優しい光へと転じていきました。
世界を焦土にするはずだった災厄は──世界を守る、温かな加護へと。
紅かった空が、澄んだ青を取り戻していきます。
口づけを封じてきた花びらは、真実の愛によって、ようやく咲いたのです。
ライオネルが、呆然と、その光景を見上げていました。
「これが……お前の、本当の……」
すべてを失ってから知る、真実。
それが、彼への──そしてミレーユへの、何よりの断罪でした。
───
封印が書き換えられた後、王国ヴェルダリアの真実は、公開の場で明らかにされました。
冷血と罵られた私の沈黙こそが、世界を災厄から守っていたこと。
捨てられた聖女が、唯一無二の封印の器だったこと。
ライオネルとミレーユは、無知ゆえに世界を滅びの淵に追いやった罪で、その地位のすべてを失いました。
『真実の愛』を騙ったミレーユの唇には、何の力もなかった。欲しがった椅子には、座る資格が要ったのです。
──けれど、私はもう、その顛末に興味はありませんでした。
王国からは、何度も何度も、手紙が届きました。
「どうか聖女として戻ってきてほしい」「国を救ってほしい」「相応の地位と褒賞を約束する」
そのたびに、私は辺境の家の暖炉に、その手紙をくべるのでした。
ぱちり、と火の粉が爆ぜます。
「セラフィナ様、また王宮から催促の手紙ですよ。もう十七通目ですわ。しつこいこと」
「あら、数えていたのですか」
「ざまぁの記録ですもの、しっかりと」
二人で、くすくすと笑い合いました。
窓の外では、ガイが村の子どもたちと遊んでやっています。強面の大男が、小さな子を肩車して、少し困ったように、けれど優しく微笑んでいる。
痩せていた野良犬は、すっかり丸々と太って、彼の足元で昼寝をしていました。
前世で、私は過労死するまで働きました。定時で帰る幸せも、帰る場所も、頼れる人も、何ひとつ持たないまま。
でも、今は違います。
ここには、温かいスープを差し出してくれる人がいる。背中を押してくれる、忠実な友がいる。
──帰る場所が、ある。
手紙をすべて燃やし終えて、私は暖炉の火を見つめました。
そこへ、ガイが戻ってきます。子どもたちに手を振って、ぶっきらぼうに、けれど確かに私の隣へ。
彼が、いつものように、一杯の温かいスープを差し出しました。
「……飲め」
私は、それを受け取って、微笑みます。
「ねえ、ガイ。王国からの手紙……返信は、しなくていいですよね?」
ガイは、少し目を細めて。耳を、ほんのり赤くしながら、短く答えました。
「ああ。……ここに、いろ」
たった一言の、彼らしい引き止め方。それで、十分でした。
スープの湯気の向こうで、私の唇の花びらの紋様が、幸せそうに、ほんのりと桜色に色づいていました。
「ええ。……そういえば、あなたの胸の紋様と私の唇の紋様、時折、同じ光で呼応するのですよ。まるで、新しい何かが芽吹こうとしているみたいに」
ガイの竜眼が、驚いたように見開かれ、それからふっと和らぎました。
竜人の里からの来訪者も、近いうちに訪ねてくるとか。
「──けれど、それはまた、別のお話ですわね」
今はただ、この温かいスープと、隣にいる人と、静かな辺境の夕暮れを。
定時で帰れる、この幸せを──
心ゆくまで、味わうのです。




