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婚約破棄された聖女ですが、私の唇には竜王の封印がかかっているので、口づけないと世界が滅びますけど?~転生した私を捨てた第二王子が青ざめても、もう遅い~

作者: uta
掲載日:2026/07/06

「聖女セラフィナ、貴様との婚約を破棄する!」


大聖堂に、第二王子ライオネルの声が響き渡りました。


ステンドグラス越しの光が、彼の金髪を白々しく照らしています。その腕には、頬を上気させた男爵令嬢ミレーユがぴったりと寄り添っておりました。


「貴様は口づけひとつ交わさぬ氷の女! 真の愛など知らぬ、偽聖女だ!」


──ああ、始まったな。


私は、菫色の瞳を伏せたまま、内心でそっと息をつきました。


(定時退勤したかったのに、残業が確定した気分だわ)


前世──瀬良史奈。過労死した現代日本の危機管理コンサルタント。この体に転生してから、私は自分の運命を『鑑定スキル』で既に把握しておりました。


だからこそ、この茶番も、想定内。


聖堂に集まった貴族たちが、ひそひそと囁き交わします。憐憫、侮蔑、好奇。そのどれもが、私という人間ではなく、『冷血聖女』という記号に向けられていました。


「ライオネル様……わたくし、こんな冷たい方が聖女だなんて、ずっと悲しくて。真実の愛を知らない方に、この国は任せられませんわ」


ミレーユが、勝者の微笑みを浮かべて私を見上げます。愛らしい顔。計算された健気さ。


──『真実の愛の令嬢』、ね。


「何とか言ったらどうだ、セラフィナ! その冷たい沈黙こそ、貴様が愛を知らぬ証拠だ!」


ライオネルが勝ち誇ったように叫びます。


私は、ゆっくりと顔を上げました。


「わかりました」


静かな声でした。喚くことも、涙を流すこともなく。


「婚約は破棄いたします。聖女の任も──返上させていただきますね」


その瞬間、勝ち誇っていたライオネルの顔が、わずかに強張ったのを、私は見逃しませんでした。


「な……なんだと?」


ライオネルが目を瞬かせます。想定と違う反応だったのでしょう。


「え……? 縋りついたりなさらないの……?」


ミレーユも、拍子抜けした顔をしています。


彼らはきっと、私が泣いて縋ると思っていたのです。「どうかお考え直しください」と、みっともなく取り乱すと。


(残念でした。前世で理不尽な組織にしがみつく愚かさは、骨身に染みておりますので)


私の唇には、うっすらと桜色の花びらの紋様が刻まれています。


これこそが、この世界の核心。


太古、世界を焦土に変えかけた災厄──竜王アルド。その膨大な魔力を封じるため、聖女の唇に刻まれた『封印』。


私が誰にも口づけを許さなかったのは、冷血だからではありません。


安易に唇を許せば、封印が緩み、世界を滅ぼす災厄が漏れ出すから。


『真実の愛の口づけ』で封印を解くには、正しく選ばれた対の存在でなければならない。ライオネルでも、ミレーユでもない。


──けれど、それを彼らは知らない。学ぼうともしなかった。


「聖女様、本当によろしいのですか?」


大司教が青ざめた顔で問いかけてきました。彼だけは、封印の重みをわずかに知っている。


私は、花のように微笑みました。


「ええ。真実の愛を知らない氷の女に、聖女など務まりませんもの。──後は、ご自由に」


一礼して、私は踵を返します。


背後で、ミレーユの得意げな笑い声が聞こえました。


(せいぜい、その椅子の座り心地を楽しむことね)


欲しがった椅子には、座る資格が要る。


それを、彼女はまだ知らないのです。


───


大聖堂を出た私を、駆け寄る足音が追いかけてきました。


「セラフィナ様ぁっ!」


そばかすの残る快活な顔。元専属侍女のリタでした。


息を切らせ、目に涙を溜めて、彼女は私の前に立ちふさがります。


「セラフィナ様が氷の女ですって? あの方ほど、誰かのために我慢なさる方はいませんのに!」


「リタ……」


「私、見てきましたもの! 熱を出しても浄化の務めを果たし、夜通し結界を張り直して、それでも一言も弱音を吐かなかったあなた様を!」


彼女の言葉に、胸の奥がじんと温かくなりました。


前世でも、今世でも。私はずっと、誰にも頼れずに働き続けてきた。


「リタ、あなたは王宮に残りなさい。私についてきては、あなたの立場が──」


「いやですっ! 主家も王宮も捨ててまいりました。私がお仕えするのは、セラフィナ様おひとりです」


……ああ、もう。


過労死するまで働いた前世では、こんな風に誰かが私のために泣いてくれることなど、ありませんでした。


「……ありがとう。それなら、一緒に来てくれますか」


「はいっ! それにしても、あの第二王子とミレーユ様……封印のことも知らずに、大変なことになさいましたわねぇ」


「あら。私はもう、聖女ではありませんもの。国のことなど、知りませんわ。これから、私は『定時で帰る冒険者ライフ』を始めるのです。──残業も、休日出勤も、もうごめんですから」


「ていじ……?」


「ふふ、こちらの話です」


風が、私の淡い金髪を撫でていきました。


これはもう、ざまぁの序章。


けれど今は、まず自分の幸せを掴みに行くのです。


───


辺境の街レーヴェンは、冒険者たちの熱気で溢れていました。


私は冒険者ギルドに登録し、鑑定・浄化・危機予測のスキルを活かして、瞬く間に評価を上げていきました。


「セラフィナさんに依頼すると、事故が起きないんだよなぁ」


「危険を先に見抜いてくれるからな。しかも定時できっちり切り上げる」


(そう、無理はしない。命あっての物種ですから)


前世の反省を活かし、私は決して働きすぎませんでした。それでも──いえ、だからこそ、仕事の質は高く保たれ、信頼は積み重なっていきました。


そんなある日のこと。


魔物の巣窟となった廃坑の調査依頼で、私は一人のS級冒険者と組むことになりました。


「……ガイだ」


黒髪の、見上げるほどの大男。ぶっきらぼうな低い声。それきり、彼は口を閉ざしました。


強面。無口。近寄りがたい威圧感。


(うわ、強面。無口。コミュニケーション取りづらそう……)


と、身構えたのですが。


廃坑の入り口で震えていた痩せた野良犬に、彼は無言で干し肉を差し出しました。


村の子どもが転んで泣くと、大きな手でそっと抱き起こしてやりました。


私が重い調査道具を運ぼうとすると、何も言わずに横から取り上げて、軽々と担いでいきました。


(……あれ? この人、もしかして)


調査を終え、冷え込む夜。焚き火のそばで、彼はごそごそと何かを準備していました。


そして、ずいと私の前に差し出したのは──


湯気の立つ、一杯の温かいスープ。


「……食え」


それだけ言って、彼は顔を背けました。よく見ると、耳が赤くなっています。


(耳が、赤い……?)


私は、思わず菫色の瞳を見開きました。


前世でも今世でも、誰かにこんな風に、ただ「食え」と温かいものを差し出されたことなど──あったでしょうか。


「……いただきます」


スープは、優しい味がしました。体の芯まで、じんわりと沁みていくような。


(この人のこと……もう少し、知りたいかもしれない)


焚き火の向こうで、ガイの竜眼が、ほんの一瞬、紅く煌めいた気がしました。


───


ガイとの依頼を重ねるうち、私たちの距離は、少しずつ近づいていきました。


彼は相変わらず無口でした。けれど、その沈黙の意味を、私は少しずつ読み取れるようになっていました。


唸り声ひとつで「危ない、下がれ」。


差し出される水筒で「疲れただろう」。


背中を向けて座る、その位置取りで「俺が守る」。


(不器用にもほどがあるでしょう、この人は)


「セラフィナ様、ガイさんといるとき、とても穏やかなお顔をなさいますね。これはもう、私が背中を押して差し上げねば」


「余計なお世話です」


ある晩、依頼帰りの丘の上で。


ガイが、ぽつりと口を開きました。


「……お前は、なぜ誰にも頼らない」


珍しく、彼のほうから紡がれた言葉でした。


私は少し驚いて、それから静かに答えました。


「頼り方を、知らなかったのです。ずっと一人で、務めを果たすのが当たり前で」


「……そうか。俺も、ずっと一人だった。対の相手を、待ち続けて」


「対の……相手?」


彼の竜眼が、月明かりの下で紅く光りました。人間のものではない、竜の瞳。


私は、すべてを察しました。鑑定スキルが、彼の正体を告げていたからです。


「……あなたは、竜王アルド。私の唇の封印を、分かち合うべき魂の片割れ」


「わかっているんだろう。お前の鑑定スキルなら。……怖いか」


私は、首を横に振りました。


「いいえ。むしろ──ほっとしました。あなたが、私の運命の相手だと知って」


ガイの強面が、ぐしゃりと崩れました。照れているのです。耳まで真っ赤にして、彼は唸るように言いました。


「……そういうことを、真顔で言うな」


(ふふ、可愛い人)


このとき、私はまだ知りませんでした。


私たちが向き合うべき運命の時が、思ったよりずっと早く、迫っていたことを。


───


ある日、レーヴェンに一報が届きました。王国ヴェルダリアの、異変。


「魔物の氾濫が止まらないんだと」


「聖女様の浄化がなくなってから、封印が緩み始めたって話だ」


ギルドの喧騒を聞きながら、リタが静かに紅茶を淹れました。


「王国の魔物氾濫、止まらないそうですよ。聖女様の浄化がなくなってから、封印が緩み始めたとか。……ざまぁ、とはこういうことを言うのですね」


カップから立ち上る湯気の向こうで、彼女は穏やかに微笑みました。


そして──その日の夕暮れ。


私の住む辺境の家の扉が、乱暴に叩かれました。


「セラフィナ! セラフィナ、いるのだろう! 戻ってきてくれ、頼む! 国が……国が滅ぶ!」


聞き覚えのある声。扉を開けると、そこには変わり果てたライオネルが立っていました。


王子の威厳など、どこにもありません。土埃にまみれ、憔悴し、目を血走らせて。


彼は、私の前に膝をつきました。かつて公衆の面前で私を糾弾した、あの第二王子が。


「ミレーユが『真実の愛の口づけ』を試したが、何も起きなかった! 封印は緩む一方だ! 魔物が、都まで……!」


私は、静かに彼を見下ろしました。


喚くこともなく、勝ち誇ることもなく。ただ、淡々と。


「あら」


花のように、微笑んで。


「私、真実の愛を知らない氷の女なのでしょう? そんな偽聖女に──国は救えませんわ」


ライオネルの顔が、凍りつきました。


「そ、それは……あれは、その……」


「口づけひとつ交わさぬ冷血の女。真の愛など知らぬ偽聖女。……たしか、そう仰いましたわよね? 大聖堂で、大勢の前で」


一言ずつ、彼の言葉を、そのまま返していきます。


ライオネルは、真っ青になって震えていました。


「私の沈黙が、何を守っていたか。あなたは、学ぼうともなさらなかった。ミレーユ嬢も、同じこと」


「頼む、教えてくれ! どうすれば封印が……!」


「欲しがった椅子には、座る資格が要ったのです。──それを、あなた方は、失ってからようやく知る。遅すぎましたわね」


そっと、扉を閉めようとした、そのとき。


遠くの空が、不気味な紅に染まりました。


地の底から、地鳴りのような咆哮が響いてきます。


封印が、限界を迎えつつあったのです。


───


空が、燃えるように紅く裂けていきました。


緩みきった封印から、竜王の膨大な魔力が──世界を焦土に変える災厄が、溢れ出そうとしていたのです。


大地が震え、遠い都の方角で、悲鳴のような魔物の群れが湧き上がるのが見えました。


「セラフィナ様!」


リタが青ざめて駆け寄ります。ライオネルは、腰を抜かして地面に座り込んでいました。


そして──私の隣に、静かに立つ者がいました。


ガイ。


黒髪をなびかせ、その全身から、抑えきれない竜の力を滲ませて。


「セラフィナ。時が来た。……お前の意志を、聞かせてくれ」


私は、自分の唇に指を触れました。桜色の花びらの紋様。ずっと、誰にも許さなかった、この唇。


──強いられてではなく。儀式のためでもなく。


私自身が、選ぶのです。愛する相手を。


「ガイ」


私は、彼を見上げました。菫色の瞳に、もう迷いはありませんでした。


「あなたと、分かち合いたい。この運命を。この先の、すべてを」


ガイの強面が、くしゃりと歪みました。千年待った孤独が、ようやく報われる瞬間の、震えるような表情。


「……ああ。俺も、ずっと──お前を待っていた」


大きな手が、そっと私の頬を包みます。


無口な彼の、たった一言。それは、どんな美辞麗句よりも、私の胸を満たしました。


紅く裂けた空の下。溢れ出す災厄の狭間で。


私たちは、口づけを交わしました。私の、初めての。


その瞬間──唇の花びらの紋様が、光を放ちながら、ほどけていきました。


けれど、それは『解除』ではありませんでした。


花びらは二つに分かれ、ひとひらは私の唇に、もうひとひらはガイの胸へと移ろいます。


封印は、書き換えられたのです。『二人で分かち合う』形へと。


暴れ狂っていた竜王の力が、ゆっくりと制御され、優しい光へと転じていきました。


世界を焦土にするはずだった災厄は──世界を守る、温かな加護へと。


紅かった空が、澄んだ青を取り戻していきます。


口づけを封じてきた花びらは、真実の愛によって、ようやく咲いたのです。


ライオネルが、呆然と、その光景を見上げていました。


「これが……お前の、本当の……」


すべてを失ってから知る、真実。


それが、彼への──そしてミレーユへの、何よりの断罪でした。


───


封印が書き換えられた後、王国ヴェルダリアの真実は、公開の場で明らかにされました。


冷血と罵られた私の沈黙こそが、世界を災厄から守っていたこと。


捨てられた聖女が、唯一無二の封印の器だったこと。


ライオネルとミレーユは、無知ゆえに世界を滅びの淵に追いやった罪で、その地位のすべてを失いました。


『真実の愛』を騙ったミレーユの唇には、何の力もなかった。欲しがった椅子には、座る資格が要ったのです。


──けれど、私はもう、その顛末に興味はありませんでした。


王国からは、何度も何度も、手紙が届きました。


「どうか聖女として戻ってきてほしい」「国を救ってほしい」「相応の地位と褒賞を約束する」


そのたびに、私は辺境の家の暖炉に、その手紙をくべるのでした。


ぱちり、と火の粉が爆ぜます。


「セラフィナ様、また王宮から催促の手紙ですよ。もう十七通目ですわ。しつこいこと」


「あら、数えていたのですか」


「ざまぁの記録ですもの、しっかりと」


二人で、くすくすと笑い合いました。


窓の外では、ガイが村の子どもたちと遊んでやっています。強面の大男が、小さな子を肩車して、少し困ったように、けれど優しく微笑んでいる。


痩せていた野良犬は、すっかり丸々と太って、彼の足元で昼寝をしていました。


前世で、私は過労死するまで働きました。定時で帰る幸せも、帰る場所も、頼れる人も、何ひとつ持たないまま。


でも、今は違います。


ここには、温かいスープを差し出してくれる人がいる。背中を押してくれる、忠実な友がいる。


──帰る場所が、ある。


手紙をすべて燃やし終えて、私は暖炉の火を見つめました。


そこへ、ガイが戻ってきます。子どもたちに手を振って、ぶっきらぼうに、けれど確かに私の隣へ。


彼が、いつものように、一杯の温かいスープを差し出しました。


「……飲め」


私は、それを受け取って、微笑みます。


「ねえ、ガイ。王国からの手紙……返信は、しなくていいですよね?」


ガイは、少し目を細めて。耳を、ほんのり赤くしながら、短く答えました。


「ああ。……ここに、いろ」


たった一言の、彼らしい引き止め方。それで、十分でした。


スープの湯気の向こうで、私の唇の花びらの紋様が、幸せそうに、ほんのりと桜色に色づいていました。


「ええ。……そういえば、あなたの胸の紋様と私の唇の紋様、時折、同じ光で呼応するのですよ。まるで、新しい何かが芽吹こうとしているみたいに」


ガイの竜眼が、驚いたように見開かれ、それからふっと和らぎました。


竜人の里からの来訪者も、近いうちに訪ねてくるとか。


「──けれど、それはまた、別のお話ですわね」


今はただ、この温かいスープと、隣にいる人と、静かな辺境の夕暮れを。


定時で帰れる、この幸せを──


心ゆくまで、味わうのです。

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