見下し男との婚約が破棄されたのでお祝いにケーキを食べていたら、紳士に「どんな復讐を望む?」と質問されました
朝一番、「お前はもう用済みだ」と婚約者に言われた時、何をするか?
決まっている。当然、ケーキを食べに行くのだ。
「承知しました。他に女性がいらっしゃるんですものね? つきましては、ベルク様の有責として婚約破棄にかかる慰謝料を請求させていただきます」
「リゼット、子爵令嬢のお前ごときがよくも――」
「失礼しますわ」
そう言って、わたしはさっさとルバンサス伯爵家の御邸を後にし、長いこと通っていなかったお気に入りのパティスリーに足を運んだ。併設された、朝日射し込むカフェのテラス席で、一年ぶりにメニューを開く。
「うわぁ、食べてないケーキがこんなにある……」
この一年で追加されたのだろう、まだ味わったことのないケーキが幾つも載っていて、注文を取りに来た店員さんが驚くほどの量を、わたしは頼んだ。
丸いテーブルに可愛くて美しいケーキが、お行儀よく並んでいる。
フォークでケーキをすくい取るようにして口に入れると、クリームとスポンジがふわっと溶けた。
「んんー!!」
これよ、これ。
パティスリー・エルは都でも五指に入るお店だと思うのに、都の端にあるせいか混みすぎず落ち着いていて、気兼ねなくのんびり過ごせるところも気に入っている。
開店直後に席に着き、誰もいないテラス席でわたしはゆったりとケーキを楽しんだ。至福とはこういうことを言うんだ、きっと。
なのに。
「今日は随分たくさん頼んだんだな。いい食べっぷりだ」
その幸せな時間が、突然遮られた。
丸テーブルの脇に、いつの間にか男性が立っていた。肩より長い程度の淡い金髪を一つに結い垂らした、どこか紳士然とした人。
「あの……どちら様でしょう?」
至福の時を邪魔されたわたしは、思わず硬い声で問いかけてしまった。だって、傍若無人の婚約者――いえ、もう『元』婚約者だった――から解放され、一年ぶりに好きなものを食べに来たというのに、話しかけられるなんて。
わたしは五感のすべてをケーキに捧げたいのに!
「そう邪険にしないでくれ。君と同じさ、この店にはよく来るんだ。さすがに毎日ではないけどね」
紳士は薄く笑うと、わたしに許可を得ることもなく、丸テーブルの向かいに堂々と座った。
どうやら彼は常連さんらしい。わたしのことを知ってるってことは、一年以上前から通っている人なんだろう。
目の前の、彼の姿をじっと観察する。整った顔立ちだ。ぱりっとしたシャツ姿の、ちょっと上品な軽装。庶民にしては垢抜けているし、貴族にしては緩すぎる気もする。
「まあ、だから……私のことはあまり気にせず食べてくれ。久々に君の姿を見かけて、つい声を掛けてしまっただけなんだ」
「はあ」
わたしは怪訝な声で紳士の言葉を受け取った。
気にするなというんだから、気にしない。
五感のすべてをケーキに向けて、わたしは至福な時間の続きを楽しむ。ベリータルトの甘酸っぱさに、金箔がのった細いショコラケーキの苦み。柑橘が香り高いチーズケーキ。苺とクリームのサクサクとしたパイ(これは以前からのお気に入りだ)、ぱりぱりとした飴がけのシュー生地……。
「しあわせ……」
他人が近くにいることも忘れて、わたしは呟いた。
「心底幸せそうに食べるな、君は」
なぜか紳士がにこにこと、嬉しそうに微笑んでいる。急に気恥ずかしくなって、わたしは視線を泳がせた。
「だって、本当に美味しいんだもの。美味しいものを食べて、幸せを感じないほうが無理よ」
それが世界の真理ってものじゃないかな。
紅茶を一口飲み、わたしはさっぱりとした口の中にケーキを運ぶ。
「んー、おいしい……」
くす、と笑い声が聞こえて、はっと息を呑んだ。
丸テーブルに頬杖をついた紳士が、目を細めてこちらを見つめている。
「失礼。君を見ているだけで幸せを分けてもらえそうだよ。それで今日は、何かの祝い事か?」
「お祝い……ある意味、そうかも」
わたしは肩を竦めた。
「もうケーキを我慢しなくていいお祝いかな」
「我慢?」
不思議そうな声音で問われ、わたしはつい、苦笑してしまう。そうよね。普通はおかしな話よね。
「わたしね、お菓子やケーキを我慢させられていたのよ。婚約者に……」
ベルクの不機嫌そうな顔が思い浮かんでしまい、首を振ってそれを掃った。
「美味しそうに食べるのが嫌なんですって。馬鹿げた話でしょ?」
「……なんなんだ、その婚約者は」
理解不能だとでも言いたげに眉根を寄せ、紳士が首を捻る。
わたしはその瞬間、心の穴を塞いでいた栓が、すぽんと抜けてしまったような心地がした。
ああ、この人は、わかってくれるんだ。
そう思ったら、口が勝手に動いていた。
「彼は、『太るな』『痩せたままでいろ』とか理由をつけていたけど、実際は多分、私が幸せなのが嫌だったんだと思う」
ベルクにとってわたしは、優越感を感じるための道具でしかなかった。自分より家格の低い家柄、自分より平凡な髪の色(わたしの髪は栗色だ)、自分より平凡な成績……。
そんなわたしがベルクと関係ない部分で、幸せそうにしていた。それがむかついたに違いない。
「彼はわたしのことを、見た目も中身も劣っていて、自分の方が上だって常に言っていたから」
この一年、ずっと自分は耐えてきた。
ケーキのことだけじゃない。馬鹿にされ、罵倒され、蔑まれ。尊厳というものをずたずたにされても、何も言わずに、口を閉じてきた。
フォークを持った指先に力がこもり、白くなる。
けれど、わたしは敢えて、目の前の紳士に微笑んでみせた。
「家のこともあるし我慢してきた挙句、浮気されて婚約破棄を告げられたの。笑っちゃうでしょ? でも、もう会うこともないでしょうし、美味しいものを食べて忘れよう、ってわけ」
なるほどな、と紳士は低く呟いた。
「君は悔しくないのか?」
静かに問われ、わたしの中で、何かがぷつんと切れた。
「……悔しいわよ!!」
悔しくないわけ、ないじゃない!
自分でも制御できない大きな声。目の奥がじわっと熱くなって、視界がゆらゆらと歪み始める。それを止めたくて、わたしは大きな口を開けてケーキを頬張った。甘く溶けるムースが、わたしの心を優しく撫でていく。
ああ、やっぱりケーキは、偉大だ。
「なら、見返すなり、報復なりしてやればいい。君は、どういう形で報復したい? 私刑か? 呪いか? 毒殺か?」
次はどのケーキを食べるんだ? と問いかけるような口調で恐ろしいことを言われ、わたしは危うく、フォークを噛んでしまうところだった。
「いやいやいやいや。そんな。物騒すぎるわ……」
とても冗談には聞こえなくて、わたしは首を慌てて振った。
紳士はおかしそうに笑って、
「では君は、どんな復讐を望む?」
と、あくまで復讐の内容を訊いてくる。
わたしは何もそんな、ベルクの命や体を、痛めつけたいわけじゃない。
でもこのまま黙って去ってあげるのも、それはそれで、もやもやとした不満が残るだろう。
最後の一皿となったピスターシュのケーキを見つめながら、わたしは考え込んだ。
報復するなら、彼が一番嫌がることをしてやればいい。彼はわたしの幸せを嫌っていたのだから。
「……彼は、常に誰かを見下していたいのよ。だから……彼が逆立ちしても敵わないくらい素敵な人と幸せになるのが、一番の報復だわ」
わたしは言いながら、自分の言葉に納得して頷いた。もしそんなことが起これば、ベルクは顔を真っ赤にして悔しがるに違いない。
「でも問題は、そんなあてがどこにもないってことかも」
そうよね。ベルクが逆立ちしても敵わないくらい素敵な人がいたとして、その人がわたしを選ぶ理由が無いんだから。
わたしは「残念」とおどけてみせて、ピスターシュのケーキにフォークを入れた。美しい、翡翠色のクリームが滑らかに削られて、中からとろりとした淡黄色の層が現れる。
それを一口食べ、わたしは、このケーキを最後にとっておいてよかった、と思った。ナッツの香ばしさとまろやかなコクが、染みるように広がっていく。嫌な気分がいっぺんに吹き飛んで、まるで雲の中にいるみたいな気持ちで、わたしは目を閉じた。
「なら、私が立候補しよう」
ふわふわした気持ちが霧散した。
「ええ!?」
目を見開いて、さっきよりも数段大きな声で、わたしは叫んだ。
名前も知らない人から、まさかこんなことを言われるとは誰も思わない。
(冗談にしても、すごい自信。確かに見た目は素敵だけど……)
わたしの向かいで、彼は優雅に微笑んでいる。その余裕っぷりからして、わたしをからかって楽しんでいるのかもしれない。その美貌を見れば、周りの女性たちが彼を放っておかないだろうことは簡単に推測できた。だから、男性慣れしていない私を困らせて、反応を見て楽しんでいるのかも。
「私が相手では、不足かな」
彼は、唇をそっと弧を描くように笑ませて、頬杖をついたまま低く囁いた。その、さも色男然とした振舞いが、さっきのわたしの推測を裏付けていく。
わたしも負けじと、花のような微笑みを作ってみせた。これでも貴族の端くれとして、令嬢の仕草は一通り身につけているのだ。
「ふふっ、まさか。お上手なのね」
にこ、と小首を傾げながら、わたしは意味ありげにまたたいた。あなたの考えはお見通しですよ、と言外に滲ませて、それでも所作はしとやかに。
わたしはその所作を引きずったまま、ピスターシュのケーキを口に運ぶ。小さなケーキはあっという間に減っていき、最後の一口を、わたしは名残惜し気に食べた。
「このクリーム、本当においしい……」
舌の上で甘さがほどけて、ピスタチオの青みのある香りがふわっと抜けていく。濃厚なのに重たくないのは、味わいの奥に、ほんのかすかな酸味があるからかもしれない。
視線を落としていたわたしの視界を、ふいに何かがよぎった。
それが彼の腕だ、とわかった時にはもう、その人差し指の先がわたしの唇の端に触れていて、しっとりとなぞって離れていくまで、あっという間だった。
彼の指先には、翡翠色のクリームがついている。
彼はそれを、まるで宝物に口づけるような仕草で、そっと口元に近づけた。そうして瞳だけをわたしに向けて、
「うん。君の言う通りだ」
と、薄く笑う。
体のありとあらゆるところから、一気に汗が噴き出した。
さっきまで、完璧な令嬢を演じていたと思ったのに。なのにわたしの口元には、クリームがついていて。しかもそれを、男の人に拭われて、舐められた。
顔が燃えるように熱い。恥ずかしくて、今すぐ逃げ出してしまいたい。
すべての関節が固定されてしまったように、動けなかった。視線すらも彼に縫い留められてしまって、わたしは、彼がおかしそうに笑うのをただ見ていることしかできない。
固まったわたしの横を、店から出てきた店員が通り過ぎていく。そして彼の横で立ち止まると、
「オーナー、ショーケースの新作、フレーズとシトロンどっちを手前に出します?」
と、訊いた。
「並びは?」
「ショコラの隣です」
「ならシトロンが前だ。フレーズは色が強いから奥でも目を引く」
わかりました、と店員が頭を下げたとき、わたしの呼吸はかろうじて再開した。
この人、パティスリー・エルの、オーナーなのか。
目の前の紳士を見つめたまま、わたしは二人の会話を聞いている。
「それと、オーナーが昨日配合を変えたピスターシュ、お客様にすごく好評ですよ。予約分だけでもう売り切れそうです」
「そうか、ありがたいね」
彼の視線が、わたしの前にある空になった小皿に注がれた。
さっきまでピスターシュのケーキがあった、その皿に。
「明日の分は多めに仕込もう。量はあとで指示する」
わかりました、と店員が頷いて去り、その場に沈黙が訪れる。
わたしは静かに溜息を吐いた。頬が別の熱を持ち、じわじわと温かさが広がっていく。
「あのケーキ、あなたが作ったの?」
「そうだよ」
「他のものも、全部?」
「ああ。製造は彼らに任せているが、ルセットは全て私が組んでいる」
その一言を聞いたわたしは、さっき彼にされたことすら忘れて、感嘆の声を小さく洩らした。
「信じられない……神がここに……」
あんなに、あんなに美味しいものを組み上げた存在が、同じテーブルに座っている。
胸が高鳴り、気持ちの塊が体の奥から湧きあがって、弾けた。
「わたし、ずっとこのお店が好きで! 初めてここのケーキ食べた時から、大好きで!!」
思わず前のめりになって、わたしは彼にまくしたてた。
「ありがとう、こんな美味しいものを作ってくれて……生きててよかったって何度思ったか……」
「大げさだな」
彼は困ったような口調で苦笑した。
「でも、君にそう言われると悪い気はしない」
なおも称賛しようとするわたしの前で、彼はポケットから名刺のようなものを取り出し、わたしに差し出す。
「近々パーティーがあるんだ。予定が合えば来てくれないか」
わたしはそれを両手で受け取り、会場を確かめる。
「ブランヴェル公爵家……あなたのケーキが並ぶの?」
「そうだね、あそこの公爵は甘いもの好きだから」
「でも、公爵家のパーティーなんて、わたしが行ってもいいのかしら」
たかだか子爵家の娘が、同伴者も無しに行くなんて。
気後れして様子をうかがうわたしに、彼はほんのりと目元を緩ませる。
「大丈夫。気軽な四季の宴だし、試食役として枠があるからね。むしろ、君にこそ来てほしい。ぜひ新作ケーキの感想を聞かせてくれ」
新作、という言葉の甘い響きが、わたしの心臓を跳ねさせた。
◇
庭とひと続きの大広間、その壁際の長いテーブルの前で、わたしは言葉を失っていた。公爵家の誇るシャンデリアの煌めきが、整然と並んだプティフールを美しく輝かせている。その小さなケーキたちは、緑、黄色、赤、茶、黒、紫とわずかずつ色相を変えていて、虹やプリズムのような華やかさに、もう、ただただ溜息しか出ない。
本当に食べていいのかしら。こんなに綺麗な、宝石みたいなケーキを。
わたしはためらいながらも、誘惑に抗えず、そっとケーキを小皿にのせた。
絹の手袋に包まれた指が緊張でかすかに震え、フォークの先がふるふると揺れる。落とさないように注意しながら、わたしは小さなケーキを一口大にすくって、口にした。
ああ、やっぱり、あのお店の味だ。
あとを引く美味しさ。澄んだ甘みが口の中で溶けて、淡い余韻が残る。ほのかな酸が凛とした味を作っていて、とても品がいい。まるであの人みたいな。
(そう言えばわたし、結局、彼の名前も知らないんだわ)
彼の落ち着いた声、穏やかな微笑みを垣間見て、彼が作るケーキの味をこんなにも体に刻み込んでいるというのに、彼自身のことはほとんど知らない。パティスリー・エルのオーナーシェフであるということくらいしか。
(今日は来ているのかしら……)
わたしはどこかそわそわと、浮つくような心地であたりを見回した。当然ながらと言うべきか、彼の姿は見当たらない。
(忙しいのよね、きっと)
仕方ない、と細く息を吐いて――わたしは自分でびっくりした。
彼に会えないことを、残念に思っている。
(……名前を聞きたかっただけよ)
わたしは心の中でその理由を繰り返して、プティフールの行列を見つめた。
彼は新作ケーキの感想を聞きたいと言っていたし、いつかまた、会える時が来るだろう。そうしたらそのときに、今夜のケーキがどれだけおいしかったかを伝えて、それから、彼に名前を尋ねて――ううん、自分から伝えないと。私も名乗ってないのだから。
ケーキをぱくぱくと食べながら、わたしは彼からもらった招待状を思い返していた。丁寧な筆致で綴られた、リゼット・オーワイルの名前。
「あれっ」
わたしはフォークを小皿にのせた。
どうしてわたしの名前が記されていたんだろう?
(以前、お店で名乗ったことあったかな……?)
もしそうなら、オーナーだから知っていてもおかしくはない。けれど、話のついでとばかりに渡された招待状に、彼が書きこむ暇はなかったはずなのに。
わたしは首を捻って、発泡酒のグラスを手に取った。透き通る薄紅のお酒の中を、極小の泡が幾つも立ち上っていく。くい、と飲むと口当たりが良くて、わたしは一気にグラスの半分ほどをあけてしまった。ケーキを食べると、口の中に残っていた果実の香りと相まって、これもまた美味しい。
「しあわせ……」
そう吐息と共に呟いた時、後ろから、鋭い声がわたしの背中を刺した。
「リゼットじゃないか。こんなところで何してる?」
わたしは手にしていた小皿を置き、振り向いて、声の主を睨みつけた。
「その薄緑のドレスですぐわかったよ。お前、上等なドレスはそれしか持ってないもんな」
ベルクは女性の腰を抱きながら、鼻でせせら笑ってわたしのことを馬鹿にした。ベルクにしなだれかかるような女性も、やだあ、とか言いながら笑っている。
「俺を忘れられなくてやけ食いか。これだからお前はだめなんだ。ケーキなんてくだらないものに執着して。なあ? ヴァネッサもそう思うだろう?」
一瞬にして、全身の血が熱く煮えたぎった。
「ケーキなんてですって? わたしのことはともかく、食べてもないくせにケーキを侮辱するのはやめて。それ以上言ったら、許さない」
あの人が作った美しいケーキを汚されて、黙っていられるはずがない。
わたしは怒りに震えながら、したり顔で見下ろす元婚約者に言い放った。
「ふん、逆切れかよ。惨めだな」
「あなたこそ、自分から婚約破棄した女に対していちゃもんつけに来るなんてよっぽど暇みたい。そうでもしないと自分の器の小ささに耐えられないの? 悪いけど、あなたの自己満足に付き合ってあげる時間はないから。わたしは今日、この美味しいケーキをじっくり味わうために来てるの。もう、話しかけないで」
すらすらと、水が上から下に流れるような勢いでわたしは言った。
前々から用意していた言葉でもないのに、心の中で引っ掛かっていたことが全部出てしまったかのようで、清々しさを感じながらも、どこか冷ややかな自分がいる。
ベルクはわなわなと震えていた。寄り添っていた女性を軽く突き飛ばすようにして距離を取り、つかつかとこっちに向かって詰めてくる。
あ、これは、よくないな。と思った瞬間、ベルクの腕が大きく振り上げられた。
「うるさい、生意気なやつめ!」
わたしは殴られた後を想像し、自分の体が、プティフールのテーブルにぶつからないように角度をずらした。パーティーを騒がせてしまうにしても、せめて、ケーキに被害を出さないように。
でも、顔を逸らせ、腕で防いでいるわたしの体に、ベルクの拳が届く気配はなかった。代わりに、ざわ、と周囲の空気がどよめき、わたしはおそるおそる薄目をあけて、今の状況を確認した。
わたしに向かって振り上げられたベルクの腕を、掴む人がいる。
ベルクとわたしの間に立つようにして、その人は立っていた。一つに結い垂らした淡い金髪が揺れる背中は、闇夜より少し明るめの夜会服に覆われている。顔は見えない。なのに、わたしはその姿を見ただけで、その人が誰かすぐにわかった。
ベルクの震える声が、彼を呼ぶ。
「こ、公爵閣下……」
え?
わたしは息を呑んで、あの人だと思った背中を見つめる。
助けてくれたのは、彼ではなかったの?
姿勢を正しながら位置を変え、わたしは恐々と、広い背中を見せている人の横顔を覗き見た。
瞳は冷徹にベルクを見据えていて、唇は引き結ばれている。
しかしそれは紛れもなく、彼本人で。
パティスリーのカフェ、目の前に座って微笑んでいたその人が今、わたしを庇って立っていた。
(嘘……)
だって、パティスリー・エルのオーナーだって言ってたのに。
「私の作ったケーキは、ご不満かな」
公爵様は柔らかい口調でベルクに問いかけ、優雅な所作で手を離した。
「作っ……!? い、いえ! 滅相もございません! 決して、そのような意味では」
ベルクはそそくさと猫を被り、卑屈な笑みを浮かべて公爵様を見上げた。
斜め後ろに立つわたしを振り返ることなく、公爵様は微笑んでいる。
「そうか、ならよかったよ。せっかくのパーティーなんだ。美味いものでも食してはどうかね。あ、ケーキはくだらないのだったか」
顎をやや上向かせ、公爵様はベルクを見下ろしながら淡々と投げかけた。
事態を見守っていたと思われる周囲の貴族たちが、扇で、もしくは拳で口元で隠しながら、くすくすとひそやかな笑い声を洩らした。
ベルクは真っ赤な顔で唇をかみしめ、震えている。
「……公爵閣下ともあろうお方が、なぜ、こんな女を構うのですか」
その問いはもっともだ。
だって、わたしにもわからない。
公爵様はパティスリー・エルのオーナーで、わたしは一年前までそこの常連客で――つい先日言葉を交わしただけの間柄で、名前も何も、知らなかったのに。
エルシード・ブランヴェル公爵。先王の孫にあたる、若き俊傑。
その彼が、それまでにないほど柔らかく微笑んで、わたしを振り返った。
「自分の婚約者を構うのは当然だろう?」
「え?」「は?」
わたしとベルクが同時に、間抜けな声を上げた。
彼は芝居がかったような悲し気な顔をして、顎に指を添える。
「おや、違ったか? てっきり受けてもらえるものだと思っていたが……」
「まさか、だって……本気だったの?」
信じられない気持ちの問いかけは、思わず素が出てしまっていて。でも、彼はそれを当たり前のように受け入れて歩み寄り、わたしの背中に慎ましく手を添えた。
「私が冗談であんなことを言うとでも?」
ふふ、と彼は優しく笑って、その顔を周囲に向けた。そして、ベルクに笑顔を見せながら、最後通牒を告げるかのごとく言葉を紡ぐ。
「……というわけだ。これ以上彼女に絡むなら、お引き取り願おうか」
公爵家のパーティーで告げられたその言葉は、社交界での死を意味していた。
ベルクの隣に寄り添っていた女性の姿はすでになく、ベルクはただ一人きり、ぶるぶると震えていた。蒼白な顔で、礼儀も忘れたようにふらふらとその場から立ち去る。
わたしは呆然としたまま、傍らに寄り添う彼を見上げた。
彼はわたしの腰にそっと手を回して、くるむように抱きこむと、もう片方の手でわたしの指先を取り、恭しく掲げた。
「リゼット嬢。改めて、私の気持ちをお伝えしよう」
彼の声は、あのピスターシュのクリームのように滑らかで甘い。
「君に毎日、私のケーキを食べてほしいな。……大事にするよ」
彼はそう囁くと、手袋に包まれたわたしの手の甲に、控えめな口づけをひとつ落とした。
◇
夜風が心地よく吹いている。
あの後、好奇心を隠し切れない貴族たちの波から守るように、彼はわたしを御邸のバルコニーへと導いていた。階下の喧騒が風に乗って上がってくる。今ごろ大広間では、わたしたちの噂でもちきりかもしれなかった。
「……エルシード・ブランヴェル公爵閣下?」
わたしは彼のフルネームを、確かめるように声でなぞった。
「はい、何かな」
彼は手すりに身をもたれさせ、頬杖をつきながらわたしを見つめている。
「公爵閣下、その節は、大変なご無礼を……」
頭を下げようとしたわたしを、彼は声だけでとどめた。
「よしてくれ、今更だろう? 黙っていた私も悪いのだし。ありのままの君で接してくれ。私たちは、婚約者同士なのだから」
ね、と柔らかく問われ、わたしはそれ以上抗うこともできず、素直に頷く。
「……招待状に、わたしの名前がありました。知ってたんですね」
ちょっと悔しい気持ちで、でもそれ以上に、知られていたことがくすぐったく、わたしは拗ねた口調で問いかけた。
「前に君が、自宅用の焼き菓子を注文したことがあっただろう。オーナーとして、常連客のことはある程度把握している。あの日、久しぶりに君の姿を見かけて――考えるより先に、君の名を書いていた。職権乱用とは、言わせないよ?」
おどけた調子に彼の余裕を感じ、わたしはつい、むっとして不満を滲ませてしまう。
「どうして教えてくれなかったの? あなたの名前……」
「君の驚いた顔が見たくて。可愛いから」
直截的な言葉を返されて、わたしの顔が熱くなった。
「報復はどうだ? 少しはすっきりしたか?」
わたしの熱を冷ますように、彼は軽やかに話を変える。
ずるい。
その紳士的な切り替えにすっかり翻弄されながら、わたしは目を逸らせて階下に広がる庭を眺めた。でも、庭の様子なんか、まるで視界に入ってこない。わたしの五感は隣にいる人にすべて向けられていて、彼以外を感じるゆとりなんて、まったくなかった。
わたしは深呼吸をして、彼の質問に答える。
「うん。言いたいことも言えましたし……でも、正直今でも腹が立ってます」
「もしかして――彼に未練が?」
「そうじゃなくて」
斜め上の推測をされて、わたしは苦笑してしまった。
「あんなに綺麗で美味しいケーキを馬鹿にされたことが、頭にきて」
そう言うと、彼は肩を揺らして笑った。
「作ったものを大事にされるというのは、嬉しいな」
彼は頬杖を解いて身を起こすと、わたしの頬に手を添えた。手袋越しの親指が頬の丸みに沿って這う優しい仕草に、体温が上がる。
「エルシードさまは、どうしてパティシエに?」
高鳴る鼓動を誤魔化したくて、わたしは疑問を口にした。彼との距離が近くて、夜風だけでは、この熱を冷ませそうになかった。
「元々菓子が好きなんだよ。趣味が高じて、というやつだ。ただ……」
彼はそこで言葉を区切り、わずかに開いていたわたしたちの距離を、慎重に詰める。
頬を撫でていた彼の手が、わたしの顎に移動して、かすかな力が込められた。
「今は菓子よりももっと、甘いものがほしい気分だね」




