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パラノイド  作者: 善文 杏南


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4/5

 部屋は広い。リビングとベッドルームがある。トイレと風呂もある。

 窓の外には雪原が広がっている。山頂の近くに小さな山小屋が見える。

「あの小屋、なんだろう」

 呟くと先生が答えた。

「登山者の避難小屋」

 一階のレストランでは流行りの洋楽が流れていた。

 昼食の為に入ったのだけど食欲がなかったのでクリームソーダだけでいいと言ったら「何か食べた方がいい」と先生が言うのでサンドイッチも注文した。先生は貝のパスタを食べていた。

 先生は誰にでも親切で優しい。だから黎子にも優しい。ちょっと派手なお姉さんがいて二人は似ていて華やかで一緒にいると眩しい。二人とも心が澄んでいるので一緒にいると惨めになる。だけどよく考えたらそうじゃない。先生の心は澄んでなんかいない。

「だって先生も私を犯した」

 先生はテレビの前のソファーに座っている。黎子を少し見たあと視線をテレビに戻した。

 初めて彼とセックスをした時、黎子の性器から大量に血が出て先生は取り乱した。だけど医者なのですぐに適切な処置をしてくれたのは頼もしいと思った。

 黎子は虐待で経験済みだったけど先生は黎子が初めてだったらしくて全然スムーズじゃなかった。

 凄くモテる人で近付いてくる女性をあしらうのが上手なので女(たら)しなんだろうと思っていた。騙したとか捨てたとか悪い噂もあった。

 だけど誤解だった。振られた腹いせに悪い噂を流す女性が沢山いただけで先生は人を傷つけることを極端に嫌う人である。高価な服は持っているけど車は一台だけである。高級車ではあるけどもう十年同じ車に乗っている。

 買い替えるお金はあるのにそうしないのは大事にしているからである。先生は遊び人ではないし悪人ではない。

 悪人ではないけど気持ちのいい触り方をして黎子をよく誘惑する。

 黎子の髪を撫でる先生の手はいつも冷たい。冷たい手で髪の下の首を撫でられるとくすぐったいけど気持ちいい。そうやって触られてとろんとしているといつの間にかセックスに発展している。殆ど毎日セックスしている。

 去年二人で海に行った。天気が悪かった。

 だけど曇っていたからこそ地平線が曖昧で日没時には海と空に境界がなくて綺麗だった。

 先生は食事に拘りがない癖に料理が得意である。

 ホウレン草やレバーや魚や牛乳を使った料理を作って黎子に沢山食べさせる。とても美味しいのだけど時々食べられない。食事は怖い。母は父を毒殺した。そんな時に食べられるのはアイスクリームとお菓子だけである。

 足りない栄養は先生が点滴を打ってくれる。

 だけど黎子も料理は出来る。簡単な物しか作らない。

 先生には毎日算数の問題を解かされる。元々数字が嫌いで覚えが悪いので簡単な足し算をすぐに間違える。苛々する。九九を強要される。料理をする時に言わされるのが多い。先生が傍でそれを聞いている。間違えるとすぐに止められたり終わったあとに訂正されたりする。レシピならいくらでも暗記出来るけど数字は嫌いである。

 いつか旅行鞄を買いに行った。地下の店だった。フロアの隅にあって秘密基地のような見つけにくい店で壁は緑で床板は濃い茶色だった。

 高級な店だった。店員は背の高い痩せた男性が一人とショートカットの小柄な女性が一人。二人とも眼鏡を掛けていて寡黙で無表情だった。先生と二人で鞄を選んだ。

 旅行に行く約束をしていた。遠い所に行こうと言った。それがいつも駄目になるのは黎子が狂っているからである。人ごみで大騒ぎをしたり約束を忘れるからである。

 先生はいつも注射器を持っていて黎子がおかしくなるとそれをポケットから出して黎子の腕に打つ。

 思い出した。つい昨日もそうだった。

 鶏肉のソテーを皿に乗せたあとアスパラを切ろうとしていた時だった。玄関に誰かが立っている気がして振り向いた。だけど気のせいだった。気のせいじゃなかった。時々おかしい。先生が立っていたのに見えていなくて先生が黎子の肩に触ってようやく気付いた時混乱して激怒した。

「また勝手に私にモルヒネを打ったの?」

 ヒステリーを起してクッキーの缶を先生に投げた。床に転がる缶を見ながら苛立って悲鳴を上げた。ひとしきり騒いで落ち着くとすぐ近くにいる先生に気が付いた。

 先生はダイニングテーブルの椅子に座って濡らしたタオルで顔に付いた大量の血を拭いていた。額が切れたらしい。

 窓の外には雪原が広がっている。一階のレストランにいた頃から外は吹雪で出られない。

「今日も持ってるの? 注射器」

 クローゼットの扉を開ける。先生の黒いコートのポケットを探る。

「持ってないよ」

 先生はテレビのリモコンを手に持っている。テレビを見ながら言う。

「外で鎮静剤を打ったのは一回だけだろ? ずっと前に」

「先生は私を薬漬けにして殺してしまう気なんでしょ? 先生ならそんなの簡単でしょ? 最近体がだるいの。気を失いそうなぐらい。先生に貰った薬を飲んだ後はいつもそう。悪夢も見るの。気持ち悪い化け物が暗闇の中でいつも私を狙ってるの。私が寝ると先生ってどこかに電話してるでしょ? 私が夢の中で化け物に襲われてるっていうのに。私を厄介払いしたい先生は私を殺して緑ちゃんの所に帰りたいんでしょ? でも私は人形じゃないよ。こんな私でも好きな人に裏切られると悲しいよ」

 先生はテレビの前のソファーに前屈みに座ってリモコンを押してテレビのチャンネルをしきりに変えている。


 いつの間にか眠ってしまったみたいで気が付くと部屋は暗かった。

 掛けられていた毛布や布団を押しのけても寒くない。部屋は暖房がついたままになっている。

「先生」

 呼んでみたけど返事はない。窓の外は暗い。嵐は収まらない。何も見えない。

 まだ眠たい。もう一度寝ようと思った。だけど目を閉じても眠れなかった。

 外は嵐。風の音が不安を煽る。眠れない。先生がいない。

 ベッドから下りる。クローゼットを開けると赤いコートを取る。先生のコートはハンガーに掛ったままになっている。

 コートを着て部屋を出ると廊下は明るかった。最上階の三階である。吹き抜けになっているので回廊から見下ろすと一階のオレンジ色の絨毯の上を歩く人の姿が見えた。宿泊客やロッジのスタッフである。

 階段で一階まで下りるとロビーの時計を見た。九時半だった。

 フロントを見るとスタッフの若い女性と目が合ったので居た堪れなくなって意味もなくロビーの壁際を歩いて一周した。途中でレストランに先生がいるのを見つけた。

 ロビーとはガラスで仕切られただけなので店内が見える。昼食を食べたのとは別の店である。

 ピアノがあって壁にはパステルカラーの絵が沢山掛かっている。先生はカウンター席に座っている。夕食だろう。黎子が起きないので一人で部屋を出たんだろう。

 だけど先生の隣に川野奈々子がいる。それにバスで話した大学生が座っている。大学生は紺色のパーカを着ている。先生はスーツである。

 クリーム色のセーターを着た奈々子はオレンジ色の口紅を塗っている。黒髪のボブカット、理知的な一重の目。彼女と緑ちゃんは似ているかもしれない。一瞬同じ人に見えて動揺した。だけど彼女は緑ちゃんじゃない。川野奈々子はMRである。

 窓の外に教会が見えた。吹雪の中でライトアップされている。

 レストランのテーブル席は半分近くが埋まっている。ステーキやハンバーグの匂いが充満している。そっと店内に入ってパーティションで死角になっているテーブル席に座って先生達の話に聞き耳を立てた。

「じゃあ彼女は明日来るの?」

 奈々子の声である。

「はい。試験が終わってから。クリスマス当日までには必ず来るって」

 大学生が言う。

「立秋先生は彼女に何をプレゼントするんですか?」

「この旅行がプレゼントでしょ? よくお休み取れましたよね、お忙しいのに」

「もしかしてプロポーズとか」

「違うよ」

 奈々子の笑い声が聞こえる。

「でも黎子さん、可愛いですよね。お似合いでいいなあ」

 大学生の声である。すかさず奈々子が言う。

「可愛い人だとは思うけど先生には似合わないのよ。先生にはもっときちんとした大人の女性が似合うんですよ。彼女とだとちぐはぐで変よ。あの見た目で先生みたいな人に愛されるなんてずるい」

「ああ、あの髪とか服? 赤い髪、可愛いと思うけどな」

「黎子さんって頭がおかしいから貴方はもう近付かない方がいいよ。ほんとに何をするかわからないのよ。立秋先生は優しいから傍にいてあげてるのよ。そうじゃなかったら」

 耐えられなくなった。立ち上がって三人の背後に立った。

「優しい? そんなの最初だけ。先生は物凄く意地悪なんだから」

 奈々子と大学生は振り向いて驚いた顔をしているけど先生は驚いてない。

「自己中で我儘で」

 先生が「座れよ」と自分の横の椅子を引く。「何か飲む?」

「先生の気紛れに振り回されるのはもう嫌」

 椅子に座った。先生の向こう側に座っている奈々子を見ながら言う。

「私はね、記憶障害があるだけ。時々物の名前を忘れるだけ。同じことを繰り返すことがあるだけ。過去を今だと思い込むことがあるだけ。先生や他の誰かを忘れることがあるだけ」

「先生は刺されたことがあるのよ、黎子さんに」

「帰ろう」

 先生の手を掴んで引っ張る。

 階段を上がった。絨毯が敷かれているので足音はしなかった。

 夢を見た。

 昔最初に先生が用意してくれたアパートの部屋だった。早朝の青い景色が印象深い。確か五時前だった。

 アパートの二階の黎子の部屋である。カーテンが開いている。窓ガラスが割れている。強盗に入られた。物音で目が覚めた黎子は起きて台所にいる強盗に遭遇して大きな手で口を塞がれた。

 強盗は黎子を突き飛ばして黎子が倒れた隙に逃げていった。

 玄関のドアが勢いよく弾き飛ぶのを初めて見た。強盗の大柄な体つきは覚えているのに顔は思い出せない。

 外にパトカーが停まっている。赤色灯が住宅街の青い景色を異様な形に染めている。小さな川を挟んで向かいの住宅に住む大家が川の隣で事情聴取を受けている。

 風鈴が揺れる。生温かい風が吹く。ベッドに先生が眠っている。強盗が入ったと聞いて駆け付けてくれた。

 物騒だからこれからは一緒に暮らそうと言ってくれた。




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