結衣と鬼丸②
ある日突然力を失ってから、色鮮やかだった結衣の生活は一変した。
これまでは次期当主として、歴代一の力を持つ子として、それはもうチヤホヤされて育ったものだ。父は厳しかったが、期待や愛情を日々感じていた。
それがある日突然、左手首に封印の紋と思しき紋様が浮かび上がり、結衣の置かれる立場はあっという間に変化した。
紋を刻めるあやかしは、高位のあやかしだと知られている。
宝月家に代々伝わる家訓に、『高位のあやかしに関わるべからず。出会えば速やかに隠世にお帰りいただき、決して怒りを買うこと勿れ』というものがある。
幼き結衣は、手首に紋様を刻まれた時のことを全く覚えていなかった。
恐らく、膨大な力と一緒に前後の記憶までも封印されたのだろうと推測された。身に覚えもなく、突然力を失った結衣は不安で押し潰されそうになっていた。親に縋り、大丈夫だと優しく頭を撫でて欲しかった。きっと、結衣を大事に育ててくれた両親ならば、そうしてくれる。
そう信じていたのに――手首の紋を見た父は、結衣を酷く叱責した。高位のあやかしの怒りを買ったのだと、家訓に背き、禁忌を犯したのだと、そう酷く罵られた。そして力の衰えを知るや否や、次期当主に妹の亜依を指名し、結衣と関わる時間が無駄だとばかりに遠ざけた。
そして、親の怒りを買い、将来有望と謳われた力までも失った結衣は、失意のうちに母屋の一等室から屋敷の最奥の離れへと居住を移された。仕える使用人もたったの一人。実の親に見放された結衣を見かねて志願してくれた、彼女の乳母、時子だけだった。
一人寂しく、何年も離れで暮らしていた結衣。時子だけは変わらずに結衣を大切に扱ってくれ、読み書きや算術を教えてくれた。
そんな結衣の最後の希望は、十五歳になったら執り行われる【契約の儀】であった。
宝月家の家系に生まれた子供が、初めてあやかしを呼び寄せて使い魔契約をする儀式。
巫力の強さに応じて、より高位のあやかしを呼び寄せることができる。
儀式の日、結衣は期待と不安で胸がはち切れそうになっていた。力を失った自分に、あやかしを呼び寄せる力があるのか、と。
刺すような視線を一身に受けながら、結衣は【契約の儀】に臨んだ。
召喚の魔法陣の中心に立ち、あやかしに呼びかける。主人の声に応じたあやかしと、晴れて使い魔として契約することができるようになる。
どうか、誰でもいいから、呼びかけに応えて――!
そうして、悲痛な結衣の願いに応えるかのように、姿を現したのが鬼丸だったのだ。
なぜ、高位の鬼を呼び寄せることができたのかは分からない。
結衣だけでなく、儀式に立ち会った父や重鎮たちも驚き目を見開いていた。
『お、鬼じゃ……』
『だが、子供、なのか?』
『よもや鬼を呼び寄せるとは……だが、鬼があの落ちこぼれと契約を結ぶとは思えん』
動揺に騒めく大人たち。その言葉は結衣の心に重たくのしかかった。
そうだ。どうして呼び寄せることができたかは分からないけれど、あやかしの上位に君臨する鬼が、落ちこぼれの自分と契約してくれるわけがない。
きっと、気まぐれにやってきただけ。期待してはならない。
どろりとした暗い気持ちが足元から這い上がってくるように結衣を呑み込んでいく。
けれど、鬼丸は結衣と使い魔契約を結んでくれた。
『娘、名を何と言う』
幼いながらも威圧感のある鬼の子を前に、結衣は不思議と懐かしさを感じた。
『結衣……私の名前は、宝月結衣』
結衣は鬼を前にしても萎縮することなく、名乗った。
『結衣、か。俺のことは、そうだな……【鬼丸】と呼ぶがいい。今日からお前の使い魔となってやろう』
『えっ! ほ、本当に……?』
まさか、鬼と使い魔契約をすることになろうとは。
結衣だけでなく、その場の誰もが驚愕した。一族の汚点である封印の紋を刻まれた少女が鬼と契約するなんて、誰も予想だにしなかった。もしや、幼き日の希望に満ち溢れた力を取り戻す兆しなのでは、そう推測する者もいた。
だが、鬼の子と契約したものの、結衣の力が戻る兆候はなかった。本家の人間は、結衣の扱いを見直すべきか密かに話し合いを重ねたが、結果、様子見とし、これまでの待遇が改善されることはなかった。
腫れ物のように扱われようと、これからは鬼丸がいる。鬼丸の存在が、空っぽだった結衣の心の穴を埋めてくれたのだ。
使い魔契約時を思い返し、結衣は歯を食いしばる。
(鬼丸は鬼なのに、私と契約したせいで軽んじられてしまうのね)
先ほど中庭を抜ける際に囁かれた悪意ある言葉は、結衣だけでなく鬼丸までも侮蔑するものであった。
結衣はふう、と息を一つ吐き出すと、笑顔を貼り付けて鬼丸を振り返る。
「ごめんね。私なんかと使い魔契約をしたから、鬼丸まで悪く言われて――」
バンッ!
結衣の謝罪を遮るように、鬼丸が机を勢いよく叩いた。びくり、と結衣の肩が跳ねる。
鬼丸は、鋭い目線を結衣に向ける。明らかに怒気を孕んだ視線に、結衣は思わず後退りする。
「謝るな。俺の主人を『なんか』なんて言うな。俺は、結衣だから契約を結んだ。結衣じゃなければ呼びかけに応えなかった。俺が、俺がどれほど契約の日を待ち望んでいたか――」
結衣を壁際に追い詰めるようにズンズンと歩みを進める鬼丸が、不意に視線を落とした。
「鬼丸?」
(契約の日を待っていた? どういうこと?)
結衣は鬼丸の言葉の真意を探るべく、鬼丸にそっと手を伸ばす。けれど、触れる直前に鬼丸が顔を上げたため、慌てて手を引っ込めた。鬼丸は子供扱いされることを特段嫌うのだ。
「とにかく、俺の主人を悪く言うことは許さない。結衣はもっと胸を張れ。この俺の主人なのだからな」
「うん。ごめ……ううん、ありがとう」
再び謝罪の言葉を口にしそうになり、慌てて言い直す。謝るなと言われたばかりで謝ってしまっては、今度こそ鬼丸に叱られてしまう。
「結衣様、鬼丸様、お戻りですか?」
その時、部屋の扉の前に影が差した。声の主は、離れ唯一の使用人である時子だ。
「うん、今帰ったところ」
「時子、熱い湯を沸かしてくれ。風呂に入りたい」
「はいはい。いつもの湯加減ですね」
主人を置いて一番風呂にあずかろうとする鬼丸に、結衣は思わず吹き出しそうになる。
使い魔契約を結んだあやかしだけれど、鬼丸は友人のようであり、弟のようであり、兄のようであり、結衣にとっての大切な家族に違いなかった。
時子が湯の準備をしに風呂場に向かい、鬼丸はいそいそと着替えの準備をしている。あやかしがみんな風呂好きかは知らないが、鬼丸は熱い湯に浸かるのが好きらしい。
「ねえ、たまには一緒に入る?」
ベッドに腰掛けながら、風呂の用意をする鬼丸に声をかける。
「なっ……! ド阿呆。俺は一人でゆっくり浸かるのが好きなんだ。絶対に入ってくるなよ!」
僅かに狼狽して頬を赤く染めながら、噛み付くように拒絶する鬼丸。その姿はなんでも一人でやりたがる年頃の子供にしか見えなくて、結衣は密かに笑みを深める。
「鬼丸様、準備が整いましたよ」
「お、早いな。さすが時子。じゃあ、行ってくる。覗くなよ!」
「はいはい、覗かないってば。ごゆっくり」
あっという間に風呂の準備をした時子の声かけに、鬼丸はしつこく念を押してから部屋を出ていった。少し足取りが弾んで見えたのは気のせいではないだろう。
そんな唯一無二の使い魔を見送りながら、結衣は膝の上で肘をついて鬼丸が出ていった扉をじっと見つめる。
(鬼丸はきっと知らないよね。私がどれだけ鬼丸の存在に救われているか――)
鬼丸が風呂から上がれば次は自分の番だ。結衣は荷物を片付けて部屋着の用意をしようとして、「あっ」と呟いた。
カサリ、とウエストポーチから取り出したのは民代に貰った依頼料。
「依頼料持ってきちゃった。勘定係に渡してこなきゃ」
代行業を請け負った見返りに頂戴する依頼料は、母家の勘定係が一元管理している。いつもは帰宅後すぐに依頼料を預けに行って離れに帰るのだが、うっかりしていた。
「うーん。一人で母屋に行ったら、鬼丸怒りそうだけど……お金のことはきっちりしておかなきゃだよね」
耳を澄ませば、湯を浴びる音に乗って鬼丸の鼻歌が聞こえてくる。この様子だと長風呂になりそうだ。
「よし、行こう」
結衣は、依頼料の入った封筒を手に、気合を入れて立ち上がった。少し勘定係の元に寄るだけ。そう自身に言い聞かせるようにして部屋を出た。




