過去の記憶③
鬼丸と結衣が出会ったあの日から数年の月日が流れた。
体感としてはほんの数分であるが、どうしてか何年も経っていると自然と頭が理解していた。
鬼丸の過去の記憶を揺蕩う結衣は、鬼丸が毎日水鏡で結衣を見守っている姿を眺めていた。
結衣はあの日以来、宝月家の後継者としての立場を剥奪され、住処も母屋の一等室から離れへと移されてしまった。
結衣が本来歩むはずだった道は、妹の亜衣が引き継ぐこととなり、不安気に瞳を揺らす幼き少女に結衣が暮らしていた部屋が与えられた。
始めこそ逢瀬を重ねるようにこっそりと幼き姉妹であったが、ある日離れを抜け出して亜衣の元へ向かう姿を見咎められてしまった結衣は、両親に激しく叱責された。亜衣はこれから次期当主として覚えるべきことがたくさんある。落ちこぼれの烙印を押された結衣と過ごし時間を無駄にできないのだ、と。
目の前で激しく怒る両親に怯えた表情を見せる亜衣であったが、次第に震える唇を引き結び、決意のこもった瞳で姉の姿をじっと見つめていた。
それ以来、亜衣までも結衣に冷たい視線を向けるようになった。結衣は戸惑った。あれほど「おねえちゃん、おねえちゃん」と甘えてきた可愛い妹の豹変ぶりは恐ろしく、また、そうさせてしまった原因が自分にあるという事実が結衣を絶望させた。
予期せず苦い記憶を追体験した結衣はその当時の悲しさを思い出し、ギュッと締め付けられた胸を押さえた。
「くそっ、結衣の味方となる者は一人もいないのか」
もどかしそうに表情を歪ませて水鏡を覗き込む鬼丸であったが、離れで一人寂しく暮らす結衣に寄り添う人物が現れた。
結衣の乳母であった時子である。
時子は、両親に見放された結衣の手を取り、基本的な読み書きを教え、知識を与えた。そして一番に、彼女に愛情を与え、人との関わり方を教えた。時子の存在は、心の寄る辺のなかった結衣を支えるものとなった。
両親に見放され、理不尽に晒されようとも、結衣は前を向き、懸命に生きた。
いつしか、小さくも力強く生きる結衣の背中を見る鬼丸の目は、愛しい者を見るかのように柔らかく細められるようになっていた。
◇
そしてついに、【契約の儀】当日を迎えた。
「頭領、本当に行くのですね」
「ああ、それが俺の贖罪だ」
鬼丸の前には、あの日鬼丸に腕輪を手渡した呪詛師の男性がこれでもかと眉を下げて佇んでいる。
「はあ……わかりましたよ。では、封印の紋を刻みます」
「頼む」
鬼丸はしゅるりと着物の袖から腕を抜き、上半身を外気に晒した。
結衣は咄嗟に両手で目を覆い、恐る恐る指の隙間から眼下の光景を見守った。
無駄なく見事に引き締まった身体を前に、男性は感嘆の吐息を漏らすとともに、名残惜しそうに鬼丸を見つめる。
「あなたほどのあやかしが、一人の人間の娘に生涯を捧げるなど……いえ、なんでもございません」
「ふん」
毎日欠かさず水鏡を覗き込む鬼丸の姿を見守り続けてきた男性である。鬼丸の意思が固く、並々外れた覚悟を持っているということも、他の誰よりもよく理解しているのだろう。
「それでは、参ります」
男性は、スウッと息を深く吸うと、光の反射で色を変える塗料に筆先を沈めた。
真剣な眼差しで、滑らかな手つきで、鬼丸の臍の下を中心に封印の紋を刻んでいく。
「あなた様の妖力を封じるのは容易くありません。微量の妖力の器としてふさわしき姿となりますのでご理解ください。そして、この封印の紋には制約を施しております」
「どのような制約だ」
「あなた様と宝月の娘の縁を深く結びつけております。娘が幼き日の記憶を取り戻した時、この封印は解かれます。それ即ち、娘が記憶を取り戻せば、あなた様は隠世へ戻らねばならないことを意味します。お分かりですね?」
鬼丸と結衣が幼き日に出会い、彼女の人生を大きく揺るがしたことを思い出せば、鬼丸は結衣のそばにいられなくなる。自分が結衣に不自由を強いてしまった存在であると隠したまま、そばにいることは鬼丸にも大きな苦しみを与えることだろう。
あの日、戯れに現世を訪れ、幼気な少女を傷つけたことに詫びることすら許されない。
それもまた、鬼丸に与えられた贖罪なのかもしれない。
結衣はただ、固唾を飲んで鬼丸の覚悟を見守る。
鬼丸は苦し気に眉間に皺を寄せ、ギュッと目を閉じてから、力強い眼差しで呪詛師の男性を見据えた。
「ああ、元よりそのつもりだ。俺は、結衣のそばにいられる限り、結衣を守り抜くと誓う」
鬼丸の目に宿るのは、贖罪や義務感による想いだけではなかった。
思わず息をするのも忘れるような、地獄の業火に焼かれたように錯覚する熱い眼差しだ。
真正面からその目に射抜かれた男性は、ハッと息を飲み、止まっていた手を再度動かした。
「……その、燃えるような想いも封じましょう。きっと、その想いを抱き続けることは、あなたをさらに苦しめる」
鬼丸は答えずに、男性が描き足す様子をじっと見守っている。
「宝月の娘が受けた呪詛返しは、私の作った腕輪によるもの。もしかすると、この封印の紋が解かれるとき、記憶と共に封じられた娘の力も解放されるやもしれませぬな」
しみじみと囁くような男性の声が、室内にジワリと溶けていく。手首が、熱い。
やがて、封印の紋を描き終わった男性は、膝に手を当てて勢いをつけてから立ち上がった。そして、人差し指と中指を立てて印を結ぶと、鬼丸の腹部に刻まれた紋様が青白い光を放った。
目を覆うほどの光量に、結衣は思わず両目を瞑った。
そして、次に目を開いた時には、見知った幼い姿となった鬼丸が、興味深そうに自らの姿を顧みている様子が目に入った。
「ほう、見事だ」
「ありがとうございます。そろそろ向こうの準備も整うようですぞ」
用意していた子供用の着物に袖を通した鬼丸が水鏡に駆け寄る。大きな水瓶なので、身体が幼くなった鬼丸は背伸びをしてようやく中を覗き込むことができた。
そこには、契約の儀に臨むべく、正装をして緊張の面持ちで直立する結衣の姿があった。
「この水鏡は数年間、あなた様と娘を繋いでまいりました。娘が呼びかければ、きっとこの水鏡が応えるでしょう」
「そうか、決して聞き逃すことがないようにせねばな」
先ほどまでの低く重みのある声から一転し、声変わり前の少年特有の高い声音を発した鬼丸は、真剣な表情で水鏡を見つめている。
「ああ、大切なことを伝え忘れるところでした。力あるものに真名を呼ばれれば、内に秘めたる力を十二分に引き出すことが叶います。ですが、此度の契約に関して言えば、それは封印の力を揺るがしかねない。それを避けるためにも、幼名を名乗られるのが良いでしょう」
「……そうだな。この姿の間は、鬼丸と名乗ろう」
「それがよろしゅうございますれば」
二人が固唾を飲んで見守る中、ついに水鏡の中の結衣が召喚の魔法陣の中心に立った。
当時の緊張が蘇り、結衣の胸も激しく鼓動を打ち鳴らす。
そして、水鏡を通じて、一人の少女の切なる願いが響き渡った。
『どうか、誰でもいいから、呼びかけに応えて――!』
リン、と鈴が鳴るように、空気を揺らす幼き結衣の声。
引き寄せられるように鬼丸が水鏡の水面に触れると、水面は淡い光を放った。
「頭領、どうかご無理はなさらず……お元気で」
「ああ、お前には世話になった。親父殿にもよろしく伝えておいてくれ」
鬼丸は呪詛師の男性の方を振り返り、口の端を上げて見せると、すぐに水鏡に視線を戻して頭から勢いよく飛び込んだ。
そこで、結衣も何か見えない力に引き上げられるようにぐわんと頭が回って――記憶の海から浮上した。




