第8章 貴族主催の商談会と再会の席で、立場が決まる
王都貴族街の奥。
一般市民が足を踏み入れることすら稀な、白亜の館。
そこが、今回の商談会の会場だった。
エリナ・フェルナンドは、館の前で一度だけ深く息を吸った。
(ここが……貴族社会の“内側”)
緊張は、ない。
あるのは、静かな覚悟だけだった。
この商談会は、王都の下級から中級貴族が主催するものだ。
目的は明確――
「信頼できる商人を選別すること」。
つまり、
**ここに呼ばれた時点で“候補”**なのだ。
エリナは、控えめだが質の良い服を選んでいた。
高価すぎず、安っぽくもない。
装飾は最低限。
“平民としての身分”を隠すつもりはなかった。
だが、卑屈になる気もない。
それが、彼女の選んだ立ち位置だった。
会場に入った瞬間、
エリナは肌で感じた。
(……視線が、刺さる)
貴族たちの視線は、商人を見る目ではない。
“道具を選ぶ目”に近い。
誰が使えるか。
誰が従順か。
誰が余計なことをしないか。
エリナは、そのどれにも当てはまらない。
だからこそ――
逆に、興味を引いた。
「……あの人が?」 「台車一つで市場を制したという……」
囁き声が、波のように広がる。
商人たちは緊張した面持ちで、
必死に自分の価値を売り込んでいた。
だが、エリナは違った。
彼女は、
売り込まなかった。
聞かれたことにだけ、
正確に、簡潔に答える。
誇張もしない。
へりくだりもしない。
その態度が、
貴族たちの間に微妙なざわめきを生む。
「……妙だな」 「媚びない」
やがて、
その場の空気が一瞬、凍りついた。
「――久しぶりだな」
その声。
エリナは、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、
かつての婚約者。
整った服装。
貴族としての立場。
だが、その表情には――
明確な動揺があった。
「……ええ。お久しぶりです」
淡々とした声。
それだけで、
周囲の貴族たちが察する。
(――何か、ある)
元婚約者は、必死に平静を装った。
「まさか、ここで会うとはな」 「商談会だ。場をわきまえろ」
その言葉が、
自分自身に向けられた言い訳だと、
誰より彼自身が分かっていた。
エリナは、何も言わない。
責めない。
恨みも語らない。
それが、
最も残酷だった。
「……紹介しよう」
司会役の貴族が声を上げる。
「今回、特に注目を集めている商人だ」 「王都市場で、独自の手法で信用を築いた」
視線が、
一斉にエリナへ向く。
元婚約者の顔色が、
はっきりと変わった。
「彼女の説明は、非常に明快だ」 「副作用や限界を隠さない」
称賛が、淡々と積み重ねられる。
その一つ一つが、
元婚約者の過去を否定していく。
(――平民的で役に立たない?)
違う。
理性的で、誠実で、信頼できる。
それが、
貴族社会が今、最も欲している資質だった。
比較は、残酷だ。
元婚約者が紹介される番になる。
「……商才に優れると評判だが」 「最近は、成果が伸び悩んでいると聞く」
言葉は丁寧だが、
評価は冷たい。
エリナは、視線を向けない。
勝ったからではない。
もう、見る必要がなかったから。
商談会の終盤。
複数の貴族から、
「継続的な取引」の打診が入る。
条件は厳しい。
責任も重い。
だが――
エリナは、はっきりと頷いた。
「お受けします」 「ただし、条件があります」
会場が静まる。
「誇張した説明はしません」 「不都合な点も、必ず伝えます」 「それでも良い方とだけ、取引します」
沈黙。
そして――
一人、また一人と、頷く貴族たち。
その光景を、
元婚約者は立ち尽くして見ていた。
自分が切り捨てた女が、
自分の“上”で評価されている現実。
エリナは、最後に一度だけ、彼を見た。
そして――
何も言わず、微笑んだ。
それで、十分だった。
商談会の喧騒が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
貴族たちは、各々が目をつけた商人を囲み、
小声で条件を詰め始めていた。
笑顔の裏で、計算が交差する――
それが、この場の日常だ。
エリナ・フェルナンドは、
壁際の静かな位置で、次の質問を待っていた。
焦りはない。
もう、売り込む段階は終わっている。
その背後から、
抑えきれない苛立ちを含んだ声が落ちてきた。
「……少し、話せるか」
元婚約者だった。
周囲の貴族たちは、
二人の間にある“空気”を敏感に察し、
自然と距離を取る。
(逃げないのね) (当然でしょう)
エリナは、ゆっくりと振り返った。
「ここで、ですか?」 「……短く済ませる」
その言葉自体が、
すでに“下”からの申し出だった。
二人は、少しだけ人の少ない場所へ移動する。
沈黙。
先に口を開いたのは、彼だった。
「……随分と、変わったな」 「そうでしょうか」
淡々とした返答。
昔なら、
その一言だけで、彼女は表情を崩していた。
だが今は違う。
「正直に言う」 「ここまで来るとは、思っていなかった」
それは、謝罪ではない。
後悔でもない。
“予想外だった”という自己弁護だ。
エリナは、頷きもしなかった。
「私も、あなたがここまで落ち着かないとは思いませんでした」 「……なに?」
一瞬、彼の顔が歪む。
「落ち着いていないのは、どちらでしょう」 「私は、ただ商談に来ているだけです」
事実だった。
彼女の声には、
感情も、棘も、過去もない。
それが、何より彼を追い詰める。
「……あの時の判断は、間違っていなかった」 「平民的な考えは、貴族社会では通用しない」
必死に、過去を肯定しようとする。
だが――
この場にいる全員が、その言葉を否定していた。
「通用しない、ですか」 「今、こうして取引の話が出ているのは、なぜでしょう」
彼は、言葉に詰まる。
「あなたが求めていたのは、“見栄えの良い才覚”」 「私が積み上げてきたのは、“結果の出る誠実さ”」
それだけの違い。
そして、その違いが――
決定的な差になった。
「……戻る気はないのか」
その一言で、
全てが終わった。
エリナは、はっきりと首を振る。
「ありません」 「過去に戻る理由が、どこにもありません」
静かな声。
だが、
逃げ場のない宣告だった。
その瞬間、
近くで会話を聞いていた貴族の一人が、口を挟んだ。
「失礼」 「君が、彼女の元婚約者か」
彼の肩が、びくりと跳ねる。
「彼女の評価は、すでにこちらで確認している」 「非常に優秀だ。少なくとも――」
一拍。
「判断を誤ったのは、君の方だ」
社交辞令ではない。
裁定に近い言葉。
周囲の貴族たちも、
否定も擁護もせず、沈黙を選ぶ。
それが、結論だった。
元婚約者は、何か言おうとして、
結局、言葉を失った。
エリナは、深く一礼する。
「お話は、以上です」
それだけ言って、
彼女はその場を離れた。
背後で、
元婚約者が何も言えずに立ち尽くしているのを、
彼女は振り返らなかった。
――もう、関係のない人間だから。
その後、
正式な取引の話がいくつも進んだ。
条件は厳しい。
責任も重い。
だが、
彼女は“対等な相手”として扱われていた。
それが、
過去との完全な決別だった。
商談会が終わり、
夜の貴族街を歩きながら、
エリナは小さく息を吐いた。
(……終わったわね)
復讐は、していない。
だが――
評価が、全てを終わらせた。
次に来るのは、
「比較」という名の公開処刑。
逃げ場のない場所で、
彼は完全に負ける。




