第33章 事故
六日目の朝、街は静かだった。
静かすぎる、というのが正確だ。
前日までに流れた噂は、形を変えて沈殿している。
誰も大声では話さない。
だが、足取りが揃わない。
人は、危険を恐れると、互いを見なくなる。
最初の違和感は、巡回交代の十分前だった。
南側の交差点。
水路と露店と倉庫が重なる場所。
エリナが「来るならここ」と読んだ地点。
鐘は、鳴らなかった。
本来、交代時刻の合図として鳴るはずの小鐘。
昨日、外され、仮固定されたままのもの。
誰も、鳴らさなかった。
代わりに起きたのは、人の判断だった。
巡回兵の一人が、時計を見る。
「……もう時間だ」
鐘が鳴らない。
だが、遅れるわけにはいかない。
彼は、交代を始めた。
その瞬間だった。
露店の荷車が、動いた。
意図的ではない。
だが、偶然でもない。
車輪止めが、半分だけ外されていた。
風が吹き、
人の流れが押し、
傾斜が作用する。
条件が揃った瞬間。
荷車は、水路側へ滑った。
「下がれ!」
声が上がる。
だが、反応が遅れる。
人が多い。
音が重なる。
荷車は、巡回兵の一人にぶつかった。
直撃ではない。
だが、足を取られた。
そのまま、水路へ。
落下。
水音。
悲鳴。
深さは、腰ほど。
溺れることはない。
だが、制服が沈む。
巡回兵は、立ち上がれなかった。
足首を、打っていた。
現場は、一瞬で騒然とした。
「大丈夫か!」
「誰か引き上げろ!」
「危ないって言っただろ!」
誰の責任か。
それを探す声が、混じる。
エリナは、すでに動いていた。
走らない。
怒鳴らない。
水路に入り、兵を支える。
「立てる?」
「……はい」
声は震えている。
恐怖ではない。
自分が“事故の中心”になったことへの戸惑い。
彼女は、周囲を見回した。
荷車。
車輪止め。
露店の主。
誰も、意図的ではない。
だが、全員が関係者。
「作業を止めないで」
エリナは言った。
静かな声。
「怪我人は、私が見る」
指示は、短く、明確。
人は、動き出す。
十分後。
巡回兵は、応急処置を受け、退いた。
重傷ではない。
歩行は困難だが、命に別状はない。
それでも。
“人が巻き込まれた”という事実は、重い。
噂は、即座に形を変えた。
・事故が起きた
・巡回兵が怪我をした
・危険なのは、あの区域だ
語尾は、すべて断定。
評議会。
空気が、昨日と違う。
「人が出たな」
「軽傷だが……」
「次は?」
誰も、続きを言わない。
エリナは、報告を終えたあと、こう言った。
「これは、失敗ではありません」
数名が、顔を上げる。
「選択させられた事故です」
「選択?」
「鐘が鳴らないとき、どうするか」
彼女は、間を置く。
「その判断に、責任を感じさせるための事故です」
ルーヴェル商会。
ガルドは、報告を聞き、わずかに口角を上げた。
「出たな」
「はい。巡回兵、一名」
「死んでいないな?」
「命に別状は」
「それでいい」
彼は、椅子に深く座る。
「彼女は、どう動いた」
「即時対応。封鎖なし。責任追及なし」
「……強いな」
だが、その声には、苛立ちが混じる。
夜。
エリナは、現場に戻った。
水路の縁。
車輪止めは、回収されている。
露店の主は、黙って頭を下げた。
「責めない」
彼女は、そう言った。
「でも、忘れないで」
主は、深く頷く。
日誌。
六日目の欄。
彼女は、少し長く書いた。
――敵は、事故を起こすのではない。
――事故を「誰かの判断」に変える。
――次は、その判断を、奪いに来る。
六日目は、終わった。
街は、まだ動いている。
だが、人は迷い始めている。
七日目。
敵は、迷いを利用する。
七日目の朝、巡回区域に貼られた地図が一枚、増えていた。
新しい情報ではない。
訂正でもない。
ただ、注記が多い。
・点検中
・注意
・一時的変更あり
どれも、正しい。
だからこそ――
何を信じていいか分からなくなる。
人は、足を止める。
誰かが聞く。
「ここ、通っていいのか?」
別の誰かが答える。
「昨日は大丈夫だった」
「でも、今朝事故があったって……」
情報は、交差し、濁る。
エリナは、その様子を離れた場所から見ていた。
「始まったな」
アーロンが言う。
「ええ。次は、封鎖を期待してる」
「封鎖すれば?」
「敵の勝ちよ」
彼女は、はっきり言った。
「判断不能を、“判断放棄”で終わらせたい」
午前。
露店街の一角。
巡回兵が、通行を迷っていた。
「この道は……」
地図を見る。
張り紙を見る。
人の顔を見る。
どれも、決め手にならない。
その時。
荷運びの少年が、声を上げた。
「通れるよ!」
一瞬、空気が止まる。
「昨日も通った!」
根拠は、薄い。
だが、断言だ。
人が、動く。
一人、二人。
何も起きない。
結果として、安全だった。
その光景を、影から見ている者がいた。
ルーヴェル商会の下働き。
記録係。
彼は、書き留める。
――“断言する者”が、流れを作る。
午後。
別の場所。
今度は、断言が裏切った。
「大丈夫だ!」
声を上げた男。
だが、足元の板が外れ、転倒。
怪我は軽い。
だが、断言が信用を失う。
噂は、変質する。
・誰の言葉も当てにならない
・責任を取る人がいない
・結局、自分で守るしかない
個人化。
分断。
評議会。
「封鎖すべきだ」
「いや、混乱を招く」
「では、どうする」
答えは、出ない。
エリナは、静かに立ち上がった。
「判断不能を、共有します」
全員が、彼女を見る。
「安全か危険か、決めません」
「……それは」
「代わりに、“今分かっていること”だけを示します」
夕方。
巡回区域に、新しい掲示が出た。
・事故件数:三
・重傷:一
・死亡:〇
・原因調査中:二
評価も、結論もない。
事実だけ。
人は、立ち止まり、読む。
数字は、嘘をつかない。
だが、安心もしない。
それでも。
判断の材料が戻ってくる。
ガルドは、報告を聞き、眉をひそめた。
「評価しない、か」
「封鎖もしていません」
「……嫌な手だ」
敵の作った霧を、霧のまま扱う。
強引に晴らさない。
夜。
エリナは、灯りを一部落とした。
全てではない。
不安が、完全には消えないように。
「……次は、選ばせる側に回るな」
彼女は、独り言のように言う。
七日目は、終わった。
街は、まだ揺れている。
だが、判断不能は、共有された。
八日目。
敵は、共有を壊しに来る。




