第30章 刃
指定された場所は、王都中央の古い迎賓館だった。
使われなくなって久しいが、管理は行き届いている。
埃はなく、床は磨かれ、灯りも十分。
——だが、温度だけが低い。
「中立地帯、か」
アーロンが周囲を見渡す。
「逃げ道も多い」
「監視もな」
トーマが天井を一瞥した。
魔導監視。
評議会のものだ。
つまり、ここでは“派手なこと”はできない。
それを承知で、相手は場所を選んでいる。
先に来ていたのは、男一人だった。
年齢は四十前後。
派手さはない。
だが、立ち姿に無駄がない。
ガルド・ルーヴェル。
商会の長。
倉庫街の裏を束ねる存在。
「来てくれて感謝する」
彼は、席を立たずに言った。
「こちらこそ」
エリナは対面に座る。
護衛は付けていない。
互いに。
それ自体が、牽制だ。
「まず、謝罪からだな」
ガルドは静かに言った。
「最近、倉庫街で混乱が起きている」
「事故が多い」
「迷惑をかけた」
完璧な言い回し。
誰の責任とも言っていない。
「謝罪は受け取る」
エリナは頷く。
「だが、原因の説明は?」
「自然な摩擦だ」
ガルドは即答した。
「管理が変われば、現場は揺れる」
「慣れれば、収まる」
“あなたのせいだ”と言っている。
だが、非難ではない。
ただの現象説明。
「収まらなければ?」
「その時は、また考えよう」
柔らかい。
だが、引かない。
エリナは、一枚の書類を取り出した。
「これを見てほしい」
契約一覧。
ここ数日で更新されたもの。
「……ほう」
ガルドは目を通す。
「流れを整理したな」
「事故を減らした」
「商人も、作業員も、判断しただけだ」
合法。
合理。
ガルドは、紙を机に戻した。
「君は、賢い」
「だが」
彼は、視線を上げる。
「街は、数字だけで動かない」
「人がいる」
「恐れも、癖も、借りもある」
脅しではない。
事実の指摘。
「だから、提案だ」
ガルドは言った。
「君たちには、この区域の管理を任せる」
「代わりに——」
「代わりに?」
「それ以上、踏み込まない」
線を引く。
暗黙の了解。
表と裏の、棲み分け。
「拒否したら?」
エリナは尋ねる。
ガルドは、少しだけ笑った。
「街が疲れる」
暴力ではない。
だが、圧は続く。
「……質問を一つ」
エリナは言った。
「この街で、“決めている”のは誰だ?」
ガルドは即答しなかった。
それ自体が答えだ。
「評議会か?」
「商会か?」
「それとも——」
エリナは、静かに続ける。
「長年そうしてきただけの、慣習か」
沈黙。
ガルドの指が、机を一度叩いた。
「君は、危うい」
「壊すつもりか?」
「壊すつもりはない」
エリナは答える。
「変えるだけだ」
「何を?」
「“決め方”を」
ガルドは、椅子にもたれた。
「理想論だ」
「かもしれない」
「だが」
彼は目を細める。
「理想は、血を呼ぶ」
「呼ばせない」
エリナの声は、低い。
「数字と契約で、終わらせる」
「……面白い」
初めて、ガルドの声に感情が滲んだ。
「なら、こちらも一つ条件を出そう」
「聞こう」
「次の七日間」
ガルドは言った。
「こちらは、何もしない」
「君たちも、今以上に踏み込まない」
「その間に、街がどう動くかを見る」
勝負。
だが、期限付き。
「受ける」
エリナは即答した。
逃げない。
会談は、それで終わった。
握手はない。
だが、線は引かれた。
迎賓館を出た後、アーロンが言う。
「猶予をもらったな」
「猶予じゃない」
エリナは答えた。
「試されてる」
七日。
その間に、街が“どちらを選ぶか”。
ガルドは、それを見てから動く。
「……象徴を折るって話だったな」
トーマが呟く。
「そうだ」
エリナは夜の街を見た。
「だから、次は」
こちらが“象徴”を作る。
暴力ではなく。
契約でもなく。
街そのものが選んだ、結果として。
七日間の初日は、驚くほど普通に始まった。
鐘が鳴り、門が開き、荷車が動く。
人々は、昨日と同じように仕事を始める。
少なくとも、表面上は。
エリナは高所から倉庫街を見下ろしていた。
屋根の上。
全体が見渡せる位置。
「……もう、動いてるな」
小さな変化。
だが、意識して見れば分かる。
中央通りの通行量が、わずかに減っている。
代わりに、南側の裏道が混み始めている。
誰かが指示したわけではない。
人が、判断しただけだ。
午前。
ある商会で、荷の引き渡しが止まった。
「今日は、こちら経由で」
「中央は避けたい」
理由は、曖昧。
だが、拒否はされない。
なぜなら、その裏道は——
事故が起きていない。
昼前。
評議会の事務局。
一人の若い書記が、帳簿を見比べていた。
「……数字、変ですね」
巡回区域内の稼働率が、さらに上がっている。
区域外は、微減。
まだ誤差。
だが、傾向は見える。
彼は、上司に報告した。
上司は、書類を閉じた。
「様子見だ」
今は。
倉庫街の一角。
作業員たちが、休憩中に話している。
「最近、あっちの通り、静かだな」
「前は、よく揉めてたのに」
「管理が変わったらしい」
名前は出ない。
だが、評価は共有される。
午後。
エリナは、意図的に何もしなかった。
巡回は通常通り。
追加の介入なし。
だが、困っている場所には必ず人がいた。
助けるわけではない。
話を聞くだけ。
それで十分だ。
夕方。
ガルドの元に、報告が届く。
「……流れが、想定より早いです」
「何が?」
「商人が、自発的に動線を変えています」
ガルドは、机に指を置いた。
「初日だぞ」
「ええ」
「……数字は?」
「まだ小さいですが、確実に」
ガルドは、黙った。
七日間。
その意味が、少し変わり始めている。
夜。
拠点。
「今日は、何もしなかったな」
アーロンが言う。
「した」
エリナは答える。
「“余計なこと”を」
「?」
「人は、選べると知ると、考え始める」
押されれば反発する。
だが、選択肢を置かれると——
自分で決めたと思い込む。
「明日は?」
トーマが尋ねる。
「少しだけ、見せる」
「何を?」
「“選んだ結果”が、どうなるかを」
夜更け。
倉庫街の外れで、荷が一つ、無事に運び込まれた。
特別な品ではない。
高価でもない。
だが、問題なく届いた。
それだけで、十分だった。
選択は、もう始まっている。
七日間の一日目は、
音もなく終わった。




