鑑賞のマナー
時刻は夜の8時。青年はシネマガーデン大崎の9番シアターに足を踏み入れた。通路の足元を照らす青白い灯りが、静まり返った空間を等間隔に区切っている。まもなく上映開始だ。
手にした半券を確かめ、彼は最後列へ向かった。
映画を見るとき、彼はいつもこの席を選ぶ。
高いところが好きなのだ。
腰を下ろすと、固いシートが小さく軋んだ。
背中に預けた体重が、ようやく落ち着く。
見下ろす客席には、三人ほどの観客が散らばっていた。ポップコーンの袋を探る音、スマートフォンの画面が一瞬だけ灯る。誰とも視線が交わらない距離だ。
巨大なスクリーンでは、まだ本編とは無関係な映像が明滅している。来年公開予定の映画の予告が、意味のない言葉として流れ続けていた。
青年は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
いよいよだ。
入場特典のクリアファイルを握る手に、自然と力が入った。
三年前。制作発表の告知を見た瞬間から、
今日という日は彼の中で特別な日になっていた。
『リュデス戦記 - Aftertale -』。
十二年前に完結した少年漫画の、二十周年を記念する新作映画。
原作最終回の“その後”を描いた完全オリジナルストーリー。製作総指揮・脚本・キャラクターデザインは、原作者の神原自平良先生ご自身。驚くべきは、声優が当時のテレビアニメとまったく同じオリジナルキャストであることだ。今や大御所となったあの人も、大人の事情で呼べない、と言われていたこの人までも、奇跡的に全員が再集結した。
期待が、胸いっぱいに膨らんでいく。
シアターはゆっくりと闇に沈み、鑑賞マナーの注意喚起が流れ始めた。制作会社のロゴがひとつ、またひとつとスクリーンに浮かんでは消える。
心臓の鼓動が、はっきりとわかる。
視界のすべてが、これから始まる映像へと収束していく。
その高揚が頂点に達しようとした、その時だった。
右から、鋭い青白い光が差し込んできたのは。
何事かと、彼は横目でその方向を見た。
二席ほど離れた隣に、でっぷりと太った中年男性が座っている。身体はシートに収まりきらず、肘がわずかにはみ出していた。年の頃は五十前後だろう。顔はスクリーンではなく、手元に落ちている。
男の手の中で、スマートフォンの画面が白く光っていた。
それが、さきほどから断続的に視界の端を刺している。
映画は始まっているはずだった。
だが彼の意識は、どうしてもその光に引き戻される。
暗闇の中で、あまりにも無遠慮な明るさだ。
胸の奥に、ざらついたものが溜まっていく。
息を吸うたびに、それが広がる。
——消せよ。
言葉にはならなかったが、確かにそう思った。
喉の奥が熱くなり、歯が噛み合わさる。
「……あの」
声は思ったより低く出た。
「消してもらえませんか」
男は、こちらを見ようともしなかった。
スマートフォンから視線を離さず、何事もなかったかのように画面を追っている。
胸の鼓動が、ひとつずつずれていく。
スクリーンに映る映像よりも、隣にある存在のほうが、やけに大きく感じられた。
暗いはずのシアターが、急に狭くなる。
ここには、自分と、この男しかいない
——そんな錯覚が、はっきりと輪郭を持ちはじめる。
青年は、再び唇を噛み締めた。
スクリーンでは、すでに物語が動き始めていた。
薄暗い神殿。古びた石柱の影が幾重にも重なり、壁に描かれた聖戦の壁画が、ぼんやりと浮かび上がる。静寂の底から、かすかな金属音が響いた。
闇の中から、漆黒の鎧を纏った男が姿を現す。
——ちょっと、待って。
青年は息を止めた。
その鎧、その立ち姿。その場に満ちる気配。
―――オルツィニーだ。
一瞬、思考が止まる。
嘘だろ。本当に?間違いない。
心臓が、今度はまったく別の速さで脈打ち始めた。
信じられない。序盤からとんでもないサプライズ―――
——その瞬間だった。
「チッ」
右手から、短い音が落ちてきた。
高揚は、急激に冷やされた。
視界の端に、あの青白い光がまた滲む。
中年の男は、相変わらずスクリーンを見ていない。
親指だけが忙しなく動き、スマートフォンの画面が明滅している。
どうやらゲーム中らしい。
胸の奥で、何かが音を立てて沸き始める。
さっきよりも、はっきりとした熱だ。
外に出るか。
スタッフを呼ぶか。
だが、そのためにこの場を離れる?
——冗談じゃない。
スクリーンが切り替わる。
暖かな陽光に満ちた城下町。
フリン・コートが現れた。かつての若き騎士。今は、リュデシオンの騎士団長。
原作の最終決戦で折れた神剣は、もうその手の中にない。
それでも、木剣を振るうその姿に、英雄だった頃の面影は確かに残っている。
「フリン!」
褐色の肌のヒロインが、笑顔で駆け寄ってくる。
新しい衣装、新しい髪型。それなのに、間違えようがなかった。
青年は、無意識のうちに身を乗り出していた。
息が、詰まる。
——ああ。やっぱり、神原先生は天才―――。
その思考の続きを、
また、右側が断ち切った。
カサカサっ、というビニール袋を弄る音が聞こえてきた。
直後に「クチャッ」という不快な咀嚼音。
おまけに、脂っこい匂いまで漂ってきた。
青年は、横目でその正体を睨みつけた。
先程の中年男が、フライドチキンを食べていた。
明らかに映画館内の売店では扱っていない代物だ。
更にチキンの骨をしゃぶり終えると、男は油のついた指先を、当然のように座席の肘掛けへと擦りつけ始めた。
その瞬間、スクリーンではフリンとヒロインの会話が始まっていた。
王国再建のため、彼らが新たな旅に出るかどうか。重要なシーンだ。
青年は必死に意識を映画へ引き戻す。
その瞬間、青年の耳元で――
カチ、カチ、カチッ。
男がペンのノックを連打していた。
どうやらメモを取るつもりらしい。映画を見ながら何を書き留めるというのか。
しかもそのペンは、金属バネの跳ね返りがやたらと鋭いタイプだった。
青年のこめかみがピクピクと引きつり、感情がついに沸点に達しようとした。
すべての怒りが溢れ出すその一歩手前――。
そのときだった。
中年男が突然、「うっ......!」と呻いた。
顔は青ざめ、呼吸は荒い。
そしてそのまま、ゆっくりと前のめりに倒れ込み、動かなくなった。
倒れた中年男の顔は、青年の方に向けられていた。
目はうっすらと開いたまま、焦点の合わない光を湛えていた。
青年は足を伸ばすと、つま先で、男の顔に触れた。
反応はない。ゴムでつついたみたいだった。
もう少し、強く蹴ってみた。
それでも、男は動かなかった。
青年は、視線をスクリーンに戻した。
それからのおよそ1時間半。
彼は心ゆくまで、映画の内容を楽しんだ。




