SS 食後酒
夫ジアド視点の、歪んだ胸くそ悪い独白です。
読んだら背景がわかりますが、蛇足かもしれません。
父が浮気をした。
十四歳くらいの頃だったか。
浮気相手が父の不在時を狙って、母に「離婚しろ」と直談判に来た。
一尾のパシャの娘で、純潔を失ったので、ここで父と結婚できなければ「馬の家」行きになる。
当然、必死になり、あらゆる手段を取ってきた。
暴れ回る女を押さえていた執事が、顔を攻撃されて大怪我を負った。
人の家で暴れまくって、取り押さえられて縄で縛られたボロボロの女。
化け物のような表情と、何人もの男に怪我をさせた様子はとても恐ろしかった。
父は「あちらが迫ってきたんだ。断れなかっただけで、愛はない」と言う。
母はそんな言葉では納得できないようで、大げんかをしたあとに寝込んでしまった。
貴族の娘を父が傷物にした。
一方で、彼女が我が家の使用人たちに怪我をさせた。しかも、そのうちの一人は執事という重要な立場にいる者で、働けない状態にされてしまった。
双方に非があるということで、痛み分けのような結論に持っていったらしい。
暴れた女は貴族用の「馬の家」で引き取りを拒否され、平民に落とされたという。おそらく平民向けの娼婦になったのだろう。
父は、一人の女の人生をメチャクチャにしたのに「失敗したなぁ」と笑っていた。
誰にでも優しいという評判の父に対して、嫌悪を抱くようになった。
母はその件を気に病んで体調を崩し、精神的にも不安定になった。
父は仕事よりも母を優先するようになった。
たとえば、約束があっても、母の具合が悪ければ断るとか……。
それを「優しい夫」と褒める貴族たちが、気味悪い。
病弱になった原因は、父なんだぞ?
新しい執事はなかなか決まらなかった。
誰だって、怪我をするような職場で働きたくないだろう。
しかも、父はやめざるを得なくなった執事に、詫びもしなければ退職金を出すこともなかった。突然仕事に穴が空いて迷惑だ、と言ったらしい。
人当たりがいいだけの、ひどい男。周囲の者たちは、垂れ目で柔らかな話し方に騙されている。
私はこんな男になりたくない。
だが、後継者として色々なことを学ばなければいけない。
学校で習うこともあるが、父から直接教わることも多い。
どんなに紳士ぶっても、薄汚い性根を隠すのがうまいだけだ。尊敬する心など、木っ端微塵になって、吹き飛ばされてしまった。
時折、私が理解できないところがあると「仕方ないなぁ」というように、笑みを作るのが許せなかった。
私の頭が悪いのではなく、父の教え方が悪いのに。
十六歳の頃、父が私の家庭教師と浮気していることに気がついた。
貴族の令嬢だと問題になるから、平民の女性を選んだのか?
出かけると人目に触れるから、家の中で浮気するのか。
この男は、母を思いやっているんじゃない。
波風を立てたくないだけなんだ。
そして、彼女……家庭教師は、貴族に逆らえなかったんだろうか。
それとも「ダンディー」とご婦人方に人気があった、この男の雰囲気に自ら……?
もう嫌だ。
汚い。
偉そうに言うな。私は知っているんだぞ。
あんな、彼女の甘い媚びるような声を訊きたくなかった。
……それをもっと聞きたいと思う自分を、必死に否定した。
私は勉強することができなくなった。
家庭教師の顔も見たくない。
父から教わることなんかあるものか。
学校の成績も、みるみる下がっていった。
息抜きに、学友に誘われて、平民の居酒屋に行った。
私は十七歳で、少し服装を工夫すれば大人に見える年齢。
平民用の服は学友が用意してくれた。
店の中に小さな舞台があり、時間になると給仕をしている者たちが舞台に立つ。
その中の一人が、とてもいい声をしていた。
体つきも魅力的で……見とれている私に気がついた学友が、彼女を席に呼んでくれた。
「先ほどの歌、とてもよかった」
緊張して、うまく言葉が出てこない。
だが、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
「ほんと? ありがとう。身分違いの、手が届かない高貴なお方を恋い慕う歌なの」
彼女の笑顔には屈託がなく、嘘のない、美しい世界がそこにあった。
学友が「今日のところは、俺のおごりだ」と意味深にウィンクをして帰って行った。
早朝に、バレないように帰宅したが、執事に出迎えられた。
「いや、これは、ちょっと……」
言い訳もろくにできなかった。執事は人差し指を口に当て、話さなくていいという仕草をした。
「ご友人のお宅で試験勉強をされていたと、うかがっています」
ああ、なんと気が利くのだろう。真の友とは、こういう者のことを言うんだと、そのときは本気で思ったのだ。
何度か彼女の店に通い、仲を深めた。
ある日「お貴族様の行くお店に行ってみたい」と彼女におねだりされた。
かなり悩んだが、惚れた女に良いところを見せたい。
二尾のパシャは行かない、一尾向けの気楽な店ならいいだろう。そう考えた。
来年には学校を卒業して、つまらない婚約者と結婚しなければならない。
その前に、真剣に人を愛せる時間を慈しんで何が悪い。
そう思っていたのだが、運悪く店で婚約者に遭遇してしまった。
あっという間に修羅場となり、婚約は解消された。
私の有責で、慰謝料も取られた。
「少しばかり顔が良いから、評判の悪い家でも我慢してあげようと思ったのに」とひどい捨て台詞を吐かれた。
彼女の次の婚約者に、あの学友が納まった。
もしかしたら、謀られたのだろうか。
――私の後釜を狙うにしても、もっと穏便な方法はなかったのか。
彼女自身には大した未練も感じなかったし、そう思っただけだ。
それよりも、彼との友情が見せかけだったのかと考える方が辛かった。
継ぐ家がない学友と元婚約者。どうやって暮らす気なんだか。
二人揃って馬の家に行くのかもしれない、そう思うと哀れな連中だ。
もっといい婚約者などその気になればすぐに見つかる。そう軽く考えていた。
だが平民を恋人にした男として、私は有名になってしまった。
同じ人間なんだから、恋に落ちることもあるだろう。
そんなに嫌悪する方がおかしい。
貴族の愛人は許せて、平民の恋人は許せない? なんともおかしな理屈だ。
貴族を特別視するこの国が変なのだ。もう、変わっていくべきでは?
父親にくどくどと説教されたが、「貴方が母の心を壊したことに比べたら、どうということもないでしょう」と言ってやったら、黙った。
昔、愛人が暴れたとき「浮気をしたが、愛しているのは妻だけ」と父は言った。
なんと中途半端な。
どちらも不幸にして、結局、どちらも愛していなかったのではないか?
私は、恋人をちゃんと大切にしよう。
改めて、心に誓った。
それから十年、あっという間だった。
元から、父が貴族の令嬢にひどいことをしたので、我が家の評判はよくなかった。
宴も参加が義務づけられているものにだけ出席し、母がお茶会に行けなくなって、貴族社会と距離を置いていた。
恋人や使用人たちに、平民の街を案内してもらった。
複雑に入り組んだ道は、はぐれたら出ることができないだろう。
不思議な呪いの飾りが玄関につけられ、子どもたちが人にぶつかるのも気にせずに走り回る。
人間らしい営みだと、眩しく思った。
だが、父はそんな私が気に入らないようだ。
「仕事もせずにふらふらして」と怒るが、全てを把握したくて私に仕事を寄越さないのは父ではないか。
補佐をしろというが、それは執事や文官がやっている。
私に何をしろと言いたいのか、よくわからない。
執事に「私は間違っているのだろうか」と問うたことがある。
「いいえ、坊ちゃまは素晴らしい感性の持ち主です。誇りに思います」
と言ってくれた。
父がどこからか、嫁を買ってきた。
これで体裁を整えて、当主を継げという。
また、自分の都合だけを押しつけて。
私はとても頭にきた。
だから、従うふりをして、逆のことをやってやったのだ。
妻の部屋を恋人に使わせ、名前ばかりの妻は目に入らないところに追いやる。
ちらっと可哀想かと思ったが、父の手先なのだ。容赦はいらないと思い直した。
そのあとは、想像以上に幸せな生活が待っていた。
会うために平民の格好をしなければいけなかった恋人が、同じ屋根の下にいる。
うるさい父親は、母と領地に引っ込んだ。
仕事は執事が滞りなく片付けてくれる。
そんな中で、恋人の妊娠がわかった。
実に、いいタイミングだ。
嫁がいいカモフラージュになってくれる。
妻は大人しい女で、こちらの言うことに従って暮らしていた。
子どものお披露目会を申し出るなど、自分の立場をわきまえているところもいい。
やはり、真実の愛は、愚者をも黙らせる。
賞賛するしかない、尊いものだと理解できる妻は、なかなか見所がある。
もう少し肉付きが良くなったら、可愛がってやってもいいかもしれない。
幸せを噛みしめながら、誇らしい気持ちで、私の子どものお披露目の宴に出席した。
後継者ができて、この家の未来は明るい。
そんな中に、恋人が登場した。
妻ではなく恋人と夫婦生活を送っていることを暴露されて、父に怒られた。
母は人が変わったかのように、攻撃的な言葉を放つ。
愛らしい恋人は……はすっぱで下品な姿を現わした。
みんな、なんと恐ろしい本性を隠していたのだ。収集がつかないではないか。
そして、私に協力的だった妻が、いつの間にか姿を消していた。
わけがわからない。
父は私から当主を取り上げて、自分が返り咲くしかないとブツブツ言っている。
そんな勝手なことが許されてたまるか。
当主を取り上げるだけの、私の瑕疵を証明することができず、父は行き詰まっているようだった。
何も変わらないまま、数日が経った。
兵士たちが押しかけてきて、捕らえられて牢屋に入れられた。
それも貴族用ではなく、平民用に放り込まれる。
他の囚人とは別だが、声が聞こえるし、雰囲気が恐ろしい。
汚い牢屋にひどい食事。薄汚れていく服と体。
取り調べで暴力を振るわれることもあった。
こんなひどいことをされるなんて、おかしいじゃないか。
文句を言ったら、「反省していないな」と、また殴られた。
血統を偽る気だったのかと取り調べを受け、隣の独房にいる父には「お前が家門を没落させた」と罵られる日々。
裁判で私の主張は揚げ足を取られ、悪意に晒される。
妻の境遇が悪かったことなど、執事の責任だろう。私を責めるのはお門違いだ。
そうして、最初から決められていたかのように、絞首刑が決まった。
理不尽だ、冤罪だと叫んだが、黙れと殴られただけだった。
もしかしたら、妻が助けに来てくれるかもしれない。
だって、私は何一つ悪くないのだから。妻は忠誠心から、いろいろと手配してくれるに違いない。
そんな希望を胸に、罵声を浴びながら刑場まで歩いた。
裸足の足が痛い。誰かが石を投げてくる。
恐ろしい。不安がこみあげて、体が震える。涙が出そうだ。
「ごめんなさい。悪かった。許して」
意識していないのに言葉が次々と出てくる。声も震えて、心の余裕がなくなってきた。
ほぼ反射的に言っているだけだが、言っても意味がないとわかっていても、とまらない。
全てが手遅れなのか?
いや、私にはまだ妻がいる。
あの有能さを、ここで発揮しないでどうする。
さあ、妻よ!
……名前は何と言ったかな。
家庭教師の話を書き忘れていたので追記 (2025年12月22日)




