欠けたピース
高校を卒業して十年。俺たち三人は久しぶりに再会した。あの日の約束が、まるで聖書みたいに神聖だった頃が懐かしい。
「変わってねぇな、お前ら」
居酒屋のカウンター席。相変わらず口火を切るのは裕也だった。昔からリーダー気取りで、声も態度もでかい。笑いながら、でも人を見下すような目をするのは、何も変わっていなかった。
「お前はちょっと太ったな、達也」
「うるせぇよ」
達也が苦笑しながら応える。こいつは裕也の取り巻きみたいな立場で、昔からそうだった。自分の意見を言わずに、常に裕也の顔色を伺っていた。俺も、そんな彼を内心バカにしていた。でも、今夜は違う。
「で、お前は何やってんの? 今」
裕也が俺に目を向けた。薄く笑っているが、内心は探っている。自分より上か下か、それを判断するための目。
「出版関係。編集やってる」
「へぇ、頭よさそうな仕事じゃん。じゃあけっこう稼いでんだ?」
冗談めかして聞くその声に、俺は皮肉が混じってるのを感じた。だからあえて、にやけたまま答える。
「まぁ、生活に困るほどじゃないよ。そっちは?」
「俺? 建設系。まぁ現場監督だな、今は。毎日汗だく。でも楽しいよ、やりがいあるし」
達也が間に入るように「裕也の現場ってさ、テレビで取材されたんだよな。すごいよ」と補足する。何かを誇示したいのは、きっと俺だけじゃないのだ。
「そうか。良かったな」
そう言いながら、俺はグラスを持ち上げた。この再会は、俺のほうから持ちかけたものだ。あの日、俺たちが手を取り合って交わした“誓い”を、どうしても確かめたかった。
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二軒目のバーで、達也がトイレに立った隙に、裕也がぽつりと漏らした。
「なぁ、誠……お前、あの頃のこと、どう思ってんの?」
誠。それが俺の名前だ。俺は一瞬、間を置いた。何を指しているか、分かっていた。
「……仕方なかった、と思ってる」
「そうか。俺は、正直、まだ引きずってるよ」
裕也はグラスを傾けながら、遠くを見ていた。目は虚ろで、でもどこかで俺を試していた。あの出来事――十年前の“あの事件”のことを。
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高校三年の春、俺たち三人はある一人の女子生徒を好きになった。中谷遥。成績優秀で性格も明るく、誰にでも分け隔てなく接する、いわゆる“ヒロインタイプ”だった。誰が最初に彼女を好きになったのか、今となっては分からない。ただ、気づいた時には三人とも遥に惹かれていた。
それが問題の始まりだった。
表面上は仲良く振る舞いながら、俺たちは水面下で火花を散らしていた。裕也はストレートに告白し、達也は何も言えず、俺は策略を使った。
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俺は遥の親友に近づいた。さりげなく相談に乗るふりをして、遥が裕也を“怖い”と感じていたこと、達也には“優しいけど空気みたい”だと思っていたことを聞き出した。確信はなかった。でも、勝ちたかった。
ある日、放課後の屋上に遥を呼び出した。「ただの相談」と言って。俺は彼女に、こう言った。
「裕也のこと、気をつけた方がいいよ」
遥は目を見開いた。「どういう意味?」
「……あいつ、お前が断ったこと、周りに言いふらしてる。しかも、勝手に付き合ってるって話も出てる」
もちろん嘘だった。でも、俺の目を見て遥は信じた。信じてしまった。そういう性格だった。
それから一週間も経たずに、遥は裕也と距離を置いた。裕也は焦り、苛立ち、教室で机を蹴り飛ばした。達也は相変わらず何も言わなかった。
そして、遥が俺に告白してきた。
「誠くんだけが、信じられるって思った」
罪悪感はあった。だが、それよりも勝利の甘さが勝った。俺は、笑って彼女を受け入れた。
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「……お前、あの時、俺のこと裏切ったよな」
裕也の声に、現実に引き戻された。バーの薄暗い照明の中で、彼の目だけがギラついている。
「遥に何吹き込んだ?」
俺は苦笑した。
「まだそれ言うか? もう十年だぞ」
「関係ねぇよ。あれがきっかけで俺、地元で噂になって、推薦も飛んだ。お前は知らねぇだろ? でも、あれで俺の人生、狂ったんだよ」
心臓がドクンと鳴った。
それは初耳だった。いや、知らないふりをしてきただけだ。あの策略が、まさか本当に“人生”を変えてしまっていたとは。
「お前さ、あの時だけじゃねぇよな」
裕也の声が低くなる。
「遥が事故った時も、お前……見舞いにも来なかったよな」
「……」
「何してたんだよ。恋人だったんだろ?」
答えられなかった。遥は大学に入ってすぐ、自転車の事故で大怪我を負った。一命は取り留めたが、後遺症が残った。俺は、その時すでに彼女と距離を置いていた。
“冷めた”なんて、優しい言い方だ。本当は、もう彼女に魅力を感じなくなっていた。理想の“遥”じゃなくなった彼女を、俺は見捨てたんだ。
「……ごめん」
絞り出すように言うと、裕也は鼻で笑った。
「達也はな、毎日病院通ってたよ。知ってたか?」
俺は、知らなかった。
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帰り道、冷たい秋の風が頬を叩いた。酔いがすっと冷めていく。裕也は何も言わずにタクシーに乗って去っていった。俺と達也だけが、駅までの道を歩いた。
沈黙の中で、俺はふと達也に聞いた。
「……あの時さ。達也は遥のこと、本当に好きだった?」
達也はしばらく黙っていた。でも、やがて小さな声で答えた。
「今も好きだよ」
足が止まった。
達也の顔が、初めて“男”の顔に見えた。
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駅のホーム。夜の静寂の中で、電車の到着を待つ。達也の言葉が、耳の奥にこだまする。
「今も好きだよ」
それはただの未練じゃなかった。思い込みでも、美談でもない。彼は、俺や裕也と違って、本当に遥のことを“人”として見ていたのかもしれない。
俺が遥を欲しがったのは、あのときの競争に勝ちたかったからだ。欲望と虚栄。裕也が求めたのは支配と誇示。達也だけが――。
「……なんで言わなかったんだよ。あの頃」
問いかけると、達也は苦笑した。
「言ってたよ。気づかなかったのは、お前らだけだ」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。見ようとしてなかったんだ。自分のことで頭がいっぱいだった。友達の顔を、心を、全然見ていなかった。
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一週間後。俺は遥の名前を検索した。どこかに消息があるかもしれないと、ふと思った。
SNSは非公開。共通の知人も疎遠になっていたが、大学の同級生の投稿の中に、偶然彼女の姿を見つけた。
小さなカフェのカウンターで、笑顔で接客している遥。左足には補助器具。けれど、表情は穏やかで、あの高校時代よりも“人間らしい”強さがあった。
俺の中で何かが崩れ落ちた。後悔? 罪悪感? いや、それだけじゃない。彼女は、自分の過去を受け入れて、前を向いて生きている。その姿が、まぶしくて、見ていられなかった。
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夜、達也に連絡を入れた。
「遥に会いたいと思ってる」
既読になったまま、しばらく返事は来なかった。1時間後、たった一言。
《今さら何を話すつもりだよ》
鋭い刃のような言葉だった。
その通りだ。今さら会って、何をどう償う? 何を言えば、あの時の卑劣さをごまかせる? ただ、自分が楽になりたいだけなのではないか?
その夜、眠れなかった。ベッドの上で、十年前の記憶が洪水のように押し寄せてきた。
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高校最後の文化祭の前日。俺たちは体育倉庫の裏で殴り合った。理由は些細だった。遥が誰と写真を撮ったとか、そんな話だったと思う。
拳が頬に当たる感触、血の匂い、涙目の裕也、唇を噛み締める達也。それでも友情は壊れなかったと信じてた。殴り合えば、心が通じ合うと信じてた。なんて幼稚だったんだろう。
けれど、本当に壊れていたのはその時だった。互いに口にしなかっただけで、三人とも気づいていたはずだ。もう戻れないことに。
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ある朝、俺は会社を休んだ。電車に乗り、遥が働くカフェの前に立った。扉の向こうから、笑い声と食器の音が聞こえる。
けれど、どうしても中に入れなかった。扉に手をかけ、引こうとして、また離す。客として入るのは簡単だ。でも、俺は客じゃない。ただの裏切り者だ。
ふと、向かいのベンチに達也が座っているのが見えた。
目が合う。彼は、少し驚いた顔をしたが、すぐに視線を外した。そして、携帯をいじりながら立ち上がり、俺の横を無言で通り過ぎた。
「達也……」
呼び止めたが、彼は振り向かずに言った。
「帰れよ。お前に、ここは似合わない」
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達也の言葉は、針のように刺さった。帰れよ。お前に、ここは似合わない。
その通りだった。俺は遥の人生に、もはや居場所などなかった。
足は重く、空気が胸に張りつくようだった。俺はカフェの前から離れ、夜の街をさまよった。
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数日後、三人で再び集まった。
「もう終わりにしよう」
俺が切り出した。声は震えていた。
「このままじゃ、俺たちは壊れ続けるだけだ。遥のことも、お互いのことも……」
裕也が目を細める。
「壊れてるのはお前の心だろ。逃げるなよ」
「逃げてるんじゃない。整理しようとしてるだけだ」
達也は黙って俺を見た。
「俺も、もう限界だよ。あの頃のままでいられるほど、俺たちは若くない」
長い沈黙のあと、裕也がぽつりと言った。
「……俺も、謝る。お前のこと、ずっと恨んでた。誠」
俺も、素直になった。
「俺も悪かった。遥に冷たくして、本当に申し訳なかった」
達也が頷いた。
「俺もさ、もっと素直に言えばよかった。ずっと隠してたこと、後悔してる」
それは、遥への気持ちだけじゃない。お互いへの遠慮、嫉妬、怖れ。
十年という時が、ようやく俺たちを解き放ったのかもしれない。
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別れ際、三人は固い握手を交わした。
これから先、どんな道を歩んでも、俺たちは確かに友達だった。欠けたピースのような存在だった。
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数ヶ月後、俺はカフェを訪れた。扉のベルが鳴り、遥が顔を上げた。
彼女は俺を見ると、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに笑った。
「久しぶりね」
その声は柔らかくて、以前よりもずっと強かった。
「お前は……変わったな」
俺は笑いながら言った。
「うん。私も、もう昔の遥じゃない」
俺たちは言葉少なに、お互いの過去を認め合った。
そして、友情は新しい形で息を吹き返した。




