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座敷わらしが殺された  ――血塗られた守り神の終焉――

作者: 真野真名



 東北の旧家、九天くてん家。真偽のほどは定かではないが、家系は神代まで遡る、幾世代にもわたり世間の羨望を一身に集める富と、揺るぎなき名誉を得続けてきた。だが、古き家には古き影が纏わりつき、暗い痕跡が重なり残っていく。離れ座敷には、代々“座敷わらし”が棲むと伝えられていた。それは童の姿をした小さな守り神。夜ごと誰もいない座敷よりかすかな笑い声を漏らし、家の繁栄を陰から支える存在とされた。その姿を直接見た者は少ないが、この家が幾世に渡り栄華を誇ったのは、この小さな神の絶大な加護によるものと家人は疑いもなく、深く信じ、疑いもなかった。


 その日はいつも以上に闇が濃く、屋敷を取り巻く空気は重く湿気を多く含み、風は軒下の竹を唸らせ、闇の中に揺れる影はゆらゆらと蠢き、不吉な予感を宿していた。


 そしてその夜、聖なる奇跡は静かに終焉を告げた。そして九天家の長い繁栄に、血に染まった破局が刻まれたのだった。


 発見者は当主の孫、九天恭平。まだ二十五に過ぎない若者で、帝都の大学を出、都会のモダンな空気を纏ったまま帰郷したばかりであった。

 母の見舞いを兼ね、数日の滞在予定であったが、早くも帝都にある下宿先の煎餅布団が恋しくなっていた。慣れ親しんだ実家ではあったが、妙に寝苦しく夜遅くまで寝付けず悶々と過ごしていた。そのため彼は屋敷の誰よりも早く異変に気づかざるを得なかった。

 深夜、時計の針は静かに真夜中を過ぎ、屋敷のすべてが眠りに沈む時刻。離れ座敷の方角より、人の笑う声にも、あるいは泣く声にも似た判別しがたい声が、零れ聞こえてきた。


「わらし……?」


 恭平の胸の奥に言い知れぬ不安が這い上がり、思わず震えが走った。彼は手燭を携えまるで何かに引き寄せられるかのように、足音を潜め座敷へと向かう。意を決し、障子を開いたその瞬間、彼の眼に飛び込んできた蝋燭の灯りに浮かび上がった光景は、人の理解を超越していた。


 畳の上には、暗闇の中でも鮮烈に“赤”が広がっていた。湿り気を帯びたその赤は、見る者の心に凍りつくような本能的な恐怖をもたらした。さらに、座敷の空気は鉄錆のような血の生臭さが満ち、恭平の喉を詰まらせた。手燭を掲げる手は震え、光の中に浮かび上がったのは、小さな手、小さな足。

 それは、紛れもなく座敷わらしの“骸”としか思えなかった。


 九天家は深夜にも関わらず、廊下を走る音があちこちで響いていた。老いた当主・九天弦三郎は、腰を抜かし畳に崩れ落ち、病をおして離れ座敷に駆けつけた当主の妻・静江は数珠を握りしめ、魂の抜けた声で泣き崩れた。長年仕えた番頭の源造は、何度も十字を切るように手を振り、口をもごもごと動かすのみ。誰一人として現実を受け入れることはできなかった。


 使用人たちには緘口令が敷かれ、離れ座敷への立ち入りは禁じられた。


 その離れ座敷では、血塗れの畳の中央にある座敷わらしの小さな体は、捨てられた人形の如く歪み、頭部は原形を留めず潰れ、赤い着物は憎悪に裂かれた断片となっていた。その袖には、爪を立て必死に抵抗した跡がくっきりと残り、見る者の心を深くえぐった。


「座敷わらしが……殺された、と?」


 静江の声は恐怖にか細く震え、ひそひそと窓を揺する風の音に溶けるように消えた。誰もが目前の光景を理解できないでいた。妖とも霊とも云われる座敷わらしが、なぜ生の血を流す? なぜ“殺す”ことが可能なのか。


 弦三郎は、呻き声のごとく、低く呟いた。

「人ではあるまい……夜中に他所者が、易々と入れるはずはない。そして座敷わらしは、この座敷より決して出ぬのだ」


 重苦しい沈黙が、座敷全体を覆った。ただ風の音だけが、諦めたように障子をなぶり続けた。


 恭平の視線は床の間へ向かった。そこには奇怪なものがあった。ひび割れ粉々になった古い鏡――家伝の化粧鏡だった。破片はまるで星屑のように畳に散らばり、その上に小さな足跡が残されていた。しかし、その形は座敷わらしのものでは決してなかった。


 沈黙は重く、圧力となり座敷全体を押し潰す。恭平は小刻みに震える手燭を手に、血と悪意に彩られた座敷を見渡した。


 何かが、決定的に、あまりにも不自然で、おかしい。

 彼の頭の中で論理の歯車が回転する。座敷わらしが“殺された”のなら、誰かが触れたはずだ。外部の者ではあり得ぬ。離れ座敷は夜になると内側より厳重に鍵が掛けられる。つまり夜間に入れるのは家族と主だった使用人のみ、しかも鍵を扱える者だけ。しかし普段から夜間には決して誰も近づこうとはしなかった。では、誰が、何の目的で?


 畳に散らばる鏡の破片の一つに、血と微細な灰がこびりついていた。恭平は指先で触れ、鼻を近づけて嗅いだ。


 そして――。


 畳縁、壁際にうっすら残る足跡。それが決定的な証拠として、恭平の胸に結びついた。


 彼は床の間から離れる源造の背を見た。その背筋が微かに、絶え間なく震えている。


 もう、確信していた。


「源造さん……」


 声は氷の刃のごとく、座敷に響き渡った。


「源造さん……今夜、どこにいたのですか? 正直に答えてください」


 七十を越えた源造は、長年この家族同然の忠実な番頭であった。しかしその顔は蝋のごとく青ざめ、脂汗が滴り、眼は恐怖のために焦点を失っていた。長年守り続けた家の秩序と、己の野望とが、同時に崩れ去る瞬間を迎えたのだ。


「わ、わしは……納戸に……納戸の戸締まりを……」


 恭平は冷徹な声で遮った。


「納戸には、もう誰もいません。さっき、僕が確認しました。あなたは偽っています」


 座敷に張りつめた空気が、まるで金属の弦のように震えた。源造の手は微かに痙攣し、身体全体が逃げ場のない恐怖に捕われていた。


「この座敷わらしは、あなたにとって邪魔な存在だったのではありませんか?」


「な、なにを、馬鹿な……!」

「まさか! 源造が」

 源造の声に当主の声が重なった。


 恭平は、父親にちらりと視線を送った後、冷徹な眼差しを源造に向けた。長年帳簿を扱い、家の財を掌握してきた番頭。数年前より、少しずつ誰にも気づかれぬよう金を抜き、秘密裏に私腹を肥やしてきた。その事実を、座敷わらしは“知ってしまった”のだ。


 源造の口が痙攣し、歯をかちかちと鳴らす。灰――それは煙草の灰。足跡も、童のものではなく、確実に大人のものであった。


「……黙れ!」


 源造は、獣のような叫びを上げ、懐から錆びついたのみを取り出した。その刃先は血に黒ずみ、鈍く光る。憎悪の形相で恭平に飛びかかる。その速度は七十を超えた老体とは思えぬ凄まじさであった。畳を蹴る音、激しく揺れる障子の軋み、倒れる灯火、家族の発する驚愕の声、それらが混然となって座敷を弾けさせる。


 しかし、次の瞬間。


 割れた鏡の破片が、ふわりと空中に舞い上がり、源造の顔に勢いよく降り注いだ。金属のような悲鳴、血の匂い、破片が触れるたびに、源造の皮膚は焼けつくようにただれた。


「赤い眼が――見ておる!」


 源造の叫びが、屋敷全体を震わせた。声は床を揺るがし、天井を貫くようであった。


――翌朝。


 陽光が、座敷を照らし始める頃。血塗れの座敷わらしの骸は跡形もなく消えていた。肉も、衣も、破片も。残るは、割れた鏡の破片と、畳に深く染みついた赤黒い染み。それは人の顔にも、あるいは怨念を示す「怨」の文字にも見え、陽光に照らされると、かすかに膨らみ、かすかに縮み、まるで生きているかのごとく、座敷の空気を歪めた。


 源造は捕らえられたが、すでに精神は破壊されていた。血に染まった畳の上で転げ回り、赤い色を見るたびに自らの目を抉ろうとし、泣き叫ぶ。「見ておる、笑っておる!」――その言葉は、座敷を揺るがすほどに何度も繰り返された。


 恭平は冷徹に理解していた。座敷わらしの“体”が消えたのは、破壊された依代が別の形に還ったからである。散らばったガラス片の上に残されていた小さな足跡がそれを示していた。霊の本質は記憶と秘密。依代が砕かれても、秘密は死なず、再びこの家に宿る場所を求め、形を変えて現出する。


 その夜、恭平はひとり離れ座敷に立ち、冷たい夜風を受けていた。窓を開けると、暗い空気がすっと入り込み、畳に残る赤黒い染みを撫でるように流れた。その染みの輪郭は、光の角度によって揺らぎ、微かに動く。まるで何かが恭平をじっと見つめ、嘲笑し、彼の胸奥に眠る恐怖心をくすぐるかのようだった。


 風に揺れる染みの奥、暗闇の中で、赤い光がごくわずかに瞬いた。最初は錯覚かと思った。だが、光はゆっくり、確実に形を取り、二つの赤い眼が、闇の向こう側から、恭平をじっと見据えているのを、彼は逃れようのない恐怖とともに認めた。


 ――それは、座敷わらしの赤い眼であった。


 眼はまるで血を溶かした赤琥珀のように輝き、闇に浮かび、まるで語りかけるかのようであった。「この家の秘密を、誰が守るべきか、誰が知るべきか」――その意志は、人の言葉では表現し得ぬ強烈な存在感を帯び、恭平の精神の奥底まで突き刺さった。


 恭平は立ちすくんだ。震える手は障子に触れ、その震えは障子紙を通し夜に流れ出た。背筋を凍らせる風の音、微かに香る血の匂い、畳に染みつく赤の存在感……そのすべてが、彼の理性を押し潰し、精神をひしゃげさせるかのようであった。


 その紅の瞳は、座敷の隅々まで漂い、破れた障子の隙間や鏡の破片の上、畳の赤黒い染みに潜み、まるで恭平の魂の奥底を這い回るかのように、視線を逸らさなかった。視線に触れるたび、恭平は心の奥底に潜む罪悪感や恐怖、さらには人間としての弱さを炙り出される感覚に襲われた。


 ――眼は嘲笑う。そして囁く。


 「次はお前が、この家の秘密を知る番だ」


 声なき声は、風と共に耳元を撫で、意識の奥深くに染み込む。眼は笑い、泣き、怒り、そして悲しみ――あらゆる感情を内包し、恭平の意識を浸食していった。畳にこびりつく赤黒い染みは、今や単なる血の跡ではなく、意志を持った存在となり、まるで畳そのものが、赤く光る眼の命令に従って呼吸するかのようであった。


 恭平は一歩、また一歩と後ずさり、床の間の鏡の破片を見つめた。その破片の端に、血の光の小さな反射が瞬き、瞬くごとにまるで生き物のように跳ね、彼の心を蝕んだ。破片に映る世界は歪み、空間はねじれ、現実と幻覚の境界はもはや曖昧であった。


 赤い眼は、笑うか泣くか、恭平には判別できぬその表情で、静かに、しかし絶え間なく、彼の魂を見つめ続けた。そして、遠く奥深くから、かすかな笑い声が響く。笑いなのか、悲鳴なのか、あるいは単なる風の音なのか、もはや判断は不可能であった。ただひとつ確かなのは、その声は消えることなく、永遠に、恭平の心に刻まれるという事実であった。


 その瞬間、恭平は理解した。座敷わらしとは守り神などでは決してない。彼らは、この家に隠された罪と秘密の生きた記録であり、消え去ることはなく、依代が砕かれようとも、別の形で必ず蘇る。赤き瞳は、その意志の象徴であり、未来永劫、九天家の歴史を見守り、裁き続けるのである。


 恭平は障子を閉め、背を向けた。だが、耳元で囁く冷たい声は、まだ消えない。


 ――如何に暮らしぶりを整えようと、お前も九天家の人間である限り、逃れることはできぬ、と。


 障子の隙間から、赤い着物の裾が一瞬だけ揺れ、やがて闇に溶けた。座敷奥深くから、判別不能の笑い声が、恭平の胸奥に深く食い込み、永遠に続くかのように、止まることはなかった――。






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