虐げられた公爵令嬢は、隣国の白蛇王に溺愛される
ハインツィア公爵家の裏庭の隅、棘のあるアザミが紫の花を咲かせている雑草の蔓延る林の中を、フェリシアはあてどなく歩いていた。
ハインツィア公爵家にはフェリシアの居場所はない。
物心ついたときには母は亡くなっていた。
母の訃報を聞いて国境の戦地から帰還したハインツィア公爵──フェリシアの父はその時部下の女性との間に子ができていたのである。
フェリシアの母は、元々は王の妃で侯爵家の令嬢だった。
だが、ロザミア王国は草原の国と砂漠の国、二国と隣接をしており、砂漠の国は常に肥沃なロザミア王国の土地を狙っている状況であった。
そのためロザミア王国は草原の国と同盟を結ぶ交渉を行った。
その中で、草原の国の姫を友好の証に娶ることになり──己以外の妃がいることを嫌った隣国の姫は王に妃を捨てることを要求した。
子がいないことを幸いとして、王は王妃と離縁をした。
そこで、王妃が下賜された相手がフェリシアの父であった。
父は母を嫌ってはいなかったが、好いてもいなかったらしいと、侍女たちの噂話をフェリシアは聞いていた。
母は父よりも五つも年上だったので、若い公爵は仕方なく母を娶ったのだろう。
母が身籠ると、生まれてくるフェリシアの顔を見ることもなく国境の戦地に援軍のため、兵を率いて向かった。
砂漠の国の兵士たちは屈強で──ロザミア王国の旗色は、草原の国の援軍をもってしても悪い状態が続いていたのだという。
砂漠の国の者たちは不可思議な力が使える。動物に姿を変えることができるらしい。
砂漠の国サリハの間者が国内に潜伏していることを危惧して、ロザミア王国では食用以外の動物と関わることは、軍馬や荷運びの馬など以外には禁じられていた。
生活のために使役する動物については、厳重に管理されてかならずしかるべき届け出が必要だったのである。
母の訃報を聞いてフェリシアの父ハインツィア公爵は、さすがにその時まだ二歳だったフェリシアを放置することはできないと考えたのか、それとも母が死ぬことを待っていたのか、戦地から戻ってきた。
彼は若い部下の女性を連れていた。
その女性は、子爵家の三女で、名をマデリンと言う。
父より三歳年下で、その時はまだ十九歳。彼女は怪我を癒やす衛生兵として従軍していて、戦地で父と親しくなったらしい。
マデリンと父には、一歳の子がいた。
マデリンは──父との関係を従軍している他の兵士たちにかなりきつく咎められていたようだ。
ハインツィア公爵の妻が元王妃であることは、皆が知っている。
いくら下賜されたとはいえ──その夫を奪うとは、あまりにも不敬だと。
あろうことか戦地で身籠るとは。そして、恥知らずなことに出産をするとは。
戦地になにをしにきたのかと──同じく衛生兵として従軍していた女性の兵士たちからも、後ろ指をさされていたようだった。
そのせいか、マデリンは母の忘れ形見であるフェリシアを憎悪していた。
母を失い、父しか寄る辺のないフェリシアに父は冷淡で、マデリンとの子だけを溺愛した。
マデリンが使用人たちにフェリシアを屋根裏に押し込めるように言っても、食事を抜くように言っても、咎めることなどしなかった。
「……お母さまに、あいたい」
母のことは、よく覚えていない。
思い出せるのは優しい手と、いい匂いと、あたたかさだけだ。
フェリシアは寒さと空腹に耐えながら屋根裏の隅に、いつも膝をかかえて座っていた。
僅かに残る母の記憶だけが、フェリシアにとって唯一の心の慰めだった。
それから、数年。七歳にもなると、フェリシアは屋根裏から外に出るための扉に手が届くようになった。
外に出るときはいつも誰かの許可を得なくてはいけなかったが、空腹に耐えかねて外に出たフェリシアは、運が悪いことにマデリンに見つかってしまった。
マデリンは煌びやかなドレスを着て、すっかり公爵夫人というような顔をしていた。
薄汚れたフェリシアをみつけると、怪物のように表情を歪めて、フェリシアの雪のような銀の髪を掴んで片手でその体を持ち上げた。
「汚れたクソガキ、勝手に動き回らないで! 家の中が汚くなるじゃない! 老婆のような銀の髪も、不気味な紫の目も、あの女とそっくりで憎たらしい!」
ぶちぶちと髪が抜ける。痛みに呻きながら頭をおさえたフェリシアを、マデリンは床に投げ捨てた。
したたかに体を床に打ち付けて、フェリシアは息を詰める。
「……っ」
「あぁ、嫌だ! 早く死ねばいいのに、どんどん大きくなって! お前の母のように、さっさと死ね! お前のせいで私はいつまでも、あの女の亡霊に囚われなくてはいけないのよ!」
「……お、か……さま」
「お前の母親なものか! 消えて、私の前からさっさと消えなさい!」
フェリシアは、マデリンの前から逃げ出した。
体中が痛んだ。だがそれよりも、声が出ないぐらいに、マデリンがおそろしかった。
走って、走って──気づけば、裏庭に出ていた。
あてどなく草むらの中をさまよっていると、アザミの花が群生している草むらの中に、白く長い紐のようなものをみつけたのである。
「……あなたは」
フェリシアはその紐を、拾いあげた。
鱗に覆われた少し湿っていて、冷たい体をした、それは白く美しい蛇だった。
「怪我をしている。……私が、助けてあげる」
蛇を拾いあげると、フェリシアの脳裏に母との思い出が過った。
母はロザミア人にしては珍しく、動物を嫌っていなかった。
フェリシアに、王国では禁書になっている動物の出てくる絵本をこっそりと読み聞かせてくれた。
その中には蛇もいて、虎や、竜や、犬や猫などもでてきたのだ。
「あなたは、お母様のことを思い出させてくれた。きっと、幸運の蛇ね」
蛇は弱っていた。ロザミア王国では動物は嫌われているから、アザミの中に隠れるまでの間におそらくは人にみつかり石を投げられたり、棒で叩かれたりしたのだろう。
フェリシアは蛇を服の中に隠して、誰にもみつからないように屋根裏に戻った。
この日から、ひとりきりのフェリシアに友人ができたのである。
◇
フェリシアは王国では動物を飼ってはいけないことを理解していた。
だから蛇を部屋に隠していることは誰にも言わなかった。
フェリシアの部屋に誰かが訪れることはなかったので、みつかることはまずなかったのだが、蛇には食事が必要だ。フェリシアは蛇が何を食べるのかを知らなかった。
皆が寝静まった夜中にこっそり部屋から抜け出して、食堂で干し肉の切れ端や、かぴかぴになったパンなどを手に入れると、蛇はそれを少しだけ食べた。
ベッドさえない屋根裏に、フェリシアは着古して小さくなった服にくるまるようにして眠っていた。
蛇はいつもフェリシアの体に絡みつくようにして一緒に眠った。
蛇の体はひんやりと冷たかったが、ひとりきりではないことが、フェリシアの心にぬくもりを与えてくれていた。
「私は、フェリシア。ハインツィア公爵家の、娘。お母様は亡くなってしまって、今はひとりぼっち」
蛇は言葉を話したりはしなかったが、フェリシアは蛇に自分の話を色々と聞かせた。
「義理のお母様は、私を嫌ってる。部屋から出ていることがみつかると、頬をぶたれるの。ずっと、怖かったけれど、今は恐くない。私は食べなくても、死んでしまってもいいけれど、あなたにはご飯が必要だもの。あなたを守ることができるのは、私しかいない」
蛇を守らなくてはと思うと、フェリシアは強くなれる気がした。
今まではおびえてうずくまってばかりいた。
だが、蛇のために食料が必要だった。
だから夜中にこっそり部屋を抜け出して必要なものを手に入れたり、誰もいない時間を見計らって裏庭の井戸で水浴びをしたり、林で果物を手に入れたりするちょっとした冒険を、怖がらずにできるようになった。
マデリンにみつかり頬をぶたれても、父にみつかり嫌悪の瞳でみられても──蛇を守るためなら、頑張ることができた。
蛇は、フェリシアにとってはただひとつの、かけがえのない家族だった。
そんな生活を続けて数年がたち、フェリシアは十五歳になっていた。
幼いフェリシアにとって大きかった蛇も、今ではフェリシアのほうが大きい。
蛇はフェリシアと共にいるときは、じゃれるように首に巻きついたり腕に巻きついたり、頬に自分の顔をすりつけたりしていた。
まるでフェリシアの言葉がわかるかのように、賢い蛇だ。
すっかり元気になってもどこかに逃げることもせずに、フェリシアの傍にいてくれた。
「いつか、私がもうすこし大きくなったら、一緒にどこかに逃げましょう。そうだわ、砂漠の国サリハがいい。そうしたらあなたは嫌われない。私も……あなたと二人で、生きていくことができるかもしれない」
蛇は返事をすることはないが、長い尾をフェリシアの指に巻き付けるようにした。
フェリシアは「約束ね。もう少し、待っていて」と言って、微笑んだ。
そんなある日、フェリシアは使用人たちによって屋根裏から強引に使用人部屋へと連れていかれた。
蛇はフェリシアの寝床として使っている布の中に賢く隠れてくれていた。
使用人部屋で待っていたのはマデリンと、そしてその娘の、フェリシアよりも一歳年下のフローラだった。
フローラもまたマデリンのように、髪も肌も、爪の先までよく手入れされていた。
高価そうなドレスを着た、輝くような金の髪と青い瞳、薔薇色の頬をした可憐な少女であった。
フェリシアは、フローラが苦手だった。
マデリンのように暴力をふるうことはなかったが、フェリシアの姿を見ると、あまり少女らしくない表情で、見下したように、不愉快そうにフェリシアを睨むからだ。
時には、使用人たちに命じて「お姉様を見えないところに連れていって」と言い、裏庭に放り投げさせたりした。そうすると、とても嬉しそうに暗い笑みを浮かべるのだ。
フェリシアのことをフローラは心底嫌っているようだった。
「フローラ、あなたの姉は勉強もせず何もせず、ただ毎日怠惰に家の中にいる役立たずだとお母様は思うのだけれど、フローラはフェリシアに何をやらせればいいと思うかしら」
「そうですね、お母様。家畜以下の汚いお姉様には、家畜の面倒をさせればいいのです。汚い仕事をさせましょう、どうせ、汚れているのですから」
「それがいいわ、さすがは私のフローラ! ではそのように、お父様に進言しましょう。わかったわね、役立たず」
「少しは家の役に立ってくださいな、お姉様」
彼女たちはどうやら新しい嫌がらせを思いついたようだった。
フェリシアの住処は、屋根裏から馬小屋へと変わった。
馬小屋は家の外にある。だからそのため、少しの油断があったのだろう。
馬たちは可愛らしく、どんなに大変な仕事であってもフェリシアの心は癒された。
手はあれて、傷だらけだったが、それでも公爵家の屋敷の中で息をひそめているよりはずっと楽だったのだ。
藁の上で蛇と共に眠り、時には蛇を首に巻き付けて仕事をした。
「あなたに名前をつけていなかったわね。あなたは、イグニスというのはどうかしら。動物たちの絵本に出てきた、神様の名前なの。イグ、どう?」
蛇はするりと、フェリシアの頬に自分の顔を寄せる。きっと気に入ってくれたのだろう。
雪のふりしきる、凍えそうなほど寒い日の朝。
フェリシアはイグニスを首に巻いて、馬の体を藁で擦っていた。
馬の体はあたたかく、そうしていると寒さがやわらいだ。
彼らは皆、聡明でフェリシアによく懐いていた。
「きゃあああっ」
馬に声をかけながら体をこすっていると、不意に悲鳴が響いた。
使用人の一人が、馬屋の前を偶然通りかかったのだ。そうして、フェリシアの首に巻きつく蛇の姿を見たのである。
すぐに家から父やマデリン、フローラがやってきた。
「一体どういうつもりだ、フェリシア! 何故、蛇がここにいる!?」
父が馬用の鞭をフェリシアに振り上げる。
フェリシアはイグニスを守ろうと、イグニスの長い体を抱きしめてうずくまった。
馬用の鞭がフェリシアに降り降ろされる。
背中をしたたかに打たれて、フェリシアは喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
声をあげたくなどなかった。それはフェリシアの、せめてもの意地だった。
「なんだ、この蛇は!?」
「嫌っ、気持ち悪い! あっちにいって!」
「来ないで、いやああっ」
イグニスはフェリシアの腕の中から飛び出すと、父に向かって牙をむき出しにしながら噛みつこうとした。
とっさに父は逃げ、マデリンやフローラたちも逃げ惑う。
イグニスは鎌首をもたげながら、威嚇の音をあげて、口を大きく開く。
「毒蛇か!? 殺せ!」
父の命令で、使用人たちがイグニスに剣や槍を向ける。父は軍人だが──蛇一匹に、ひどく怯えていた。
サリハの兵士たちの記憶が過ったのだろう。
フェリシアはイグニスが逃げることを祈った。
だがイグニスは──フェリシアを守るように使用人たちを威嚇し、噛みつき、そして──。
その体が、剣で切り裂かれて──真っ二つにされた。
使用人たちは気味が悪そうにイグニスを摘まみあげて、草むらにゴミを捨てるように、ポイッと投げ捨てた。
それからのことは、よく覚えていない。
フェリシアは、公爵家の一室に閉じ込められた。外に出ることは許されず、罪人のように扱われた。
動物を飼っているとこを見られたのだ。
だが、それは公爵家の中で秘されたようだった。
おそらくは──フェリシアについて父やマデリンは公にしたくなかったのだろう。
フェリシアが外に出ることを許されたのは、十六歳の時。
必要最低限の世話しかされていないために体つきは貧相だったが、それでも女らしく成長していた。
「国王陛下が、オリヴィアにはすまないことをした、妻に迎えてくれて感謝するという手紙を寄越してきた。無理やり、私に娶るように言っておいて勝手なことにな。オリヴィアが早くに命を落としたのは自分のせいだと、我儘王妃もいたく反省をしているらしい」
父の執務室に呼び出されたフェリシアに、父は言う。
オリヴィアというのが、母の名だと、フェリシアははじめて知った。
公爵家では誰もその名を口にしない。マデリンの前では、話題に出すことさえ禁忌だった。
「オリヴィアに詫びたいと──お前と、王太子殿下を婚約させるという。オリヴィアにお前を生ませたのは、王や侯爵家への体面のためだが、ようやく少し役立つときがきた」
フェリシアは──イグニスをなくして、生きることになんの希望も見いだせなくなっていた。
だから父の言葉に、ただ人形のように頷くだけだった。
屋根裏に閉じ込められ、馬番をさせられ、それから罪人のように扱われていたフェリシアは、身なりを整えられて城へと連れていかれた。
そして、王太子オスウィン・ロザミアと挨拶を交わした。
王と王妃は亡きオリヴィアに対する罪悪感からか、フェリシアに対して親切に接した。
オスウィンもにこやかに話しかけてくれた。
だがフェリシアは、今まで他者とまともに話したことがない。
話し相手といえば、馬か、イグニスだけだった。
だから──うまく、言葉をかえすことができなかった。たどたどしい返事しかできないフェリシアを見つめるオスウィンの瞳の奥には、明らかな失望があった。
今までの分を取り戻すように、公爵家ではフェリシアに徹底的に王妃教育を行った。
寝る暇も休む暇もなく、徹底的にフェリシアは躾けられた。
フェリシアがオスウィンの婚約者になったことに、マデリンとフローラの怒りはすさまじく、頭から水をかぶせられたり階段から突き落とされたりと、彼女たちの嫌がらせは明らかに殺意が含まれるようになった。
それでも、運がよかったのだろう。
フェリシアは十七歳になってもまだ生きていた。
王立学園に入り、何事もないように暮らしてはいたものの、心の中にはいつも剣で切られたイグニスの記憶があった。
だから──パーティーのたびに、フローラがオスウィンにぴたりとくっついていても、フローラが友人たちと皆でフェリシアのことを嘲っていても。
心の痛みは感じるものの、あの時以上に苦しいことなどなにもないと、フェリシアは静かに耐えていた。
母も、父に嫁いできたときにこのような気持ちだったのだろうか。
婚約者として王に嫁ぎ、捨てられて、望まぬ結婚をさせられて。
公爵家でも、立場はなく、夫から愛も得られずに──けれどそれでも、フェリシアのことを愛してくれていた。
母もイグニスも、いなくなってしまった。いつか砂漠の国サリハに向かい、イグニスと二人で暮らそうと約束をした。
ロザミアに侵略を繰り返している国だ。だが、フェリシアにとっては彼の地にだけ希望があるように感じられていたのだ。
そんなことを──楽しく笑いあう貴族たちを、城の大広間の壁際に一人佇み眺めながら、考えていた。
オスウィンとフローラが、体を密着させて踊っている。
そこには、姉の婚約者と、妹という以上の親密さがあるように感じられた。
オスウィンと信頼関係を結び、彼の妻として生きていくことを、真剣に考えることもあった。
だが、月日が経てば経つほど、オスウィンはフェリシアを嫌った。
父の罪の象徴であるフェリシアを、強引に押し付けられたという気持ちがあるのかもしれない。
それとも、愛らしい笑顔で無邪気に言葉を交わすフローラに、惹かれたのかもしれない。
その両方かと、フェリシアは──虚しさと共に息を吐きだした。
冬が過ぎ、春になった。
オスウィンとフェリシアの結婚式の日取りが近づいている。
けれどオスウィンはフローラとばかり、時間を過ごしていた。
マデリンも、まるでオスウィンをフローラの夫のように扱っており、フェリシアのハインツィア家での居場所は相変わらずどこにもないままだった。
婚約を、反故にしてもらおう。
でも、そんなことができるのか。
ここから、逃げて砂漠の国に行こう。
──砂漠というのは、どこまでも果てしなく広がる砂地なのだという。
白く美しい砂が、どこまでもどこまでも続いていて、それはまるで砂の海のようだという。
ここで死ぬより、その美しい砂の上で死にたい。
きっと砂が、何もかもを隠してしまうだろう。フェリシアの生きた証でさえ。
サリハに行こう。そう決意した矢先のことだった。
それは、オスウィンの卒業式典。王立学園には多くの貴族が集まり、王太子殿下の卒業を祝っていた。
フェリシアもドレスを着て、参列していた。
式典が終わったら、オスウィンに別れを告げよう。
どうかフローラと幸せになって欲しい。もう、貴族として暮らしたくない。
──どこか遠くに、あなたたちの邪魔にならない場所に消えるから。
何も告げずに逃げるべきかと悩んだが、伝えるべきだと判断をした。
そうすればオスウィンは何の気兼ねもなくフローラと結婚ができる。
フェリシアのことは、『好きな男と逃げた恥知らずの女』とでも言っておけば、皆が納得するはずだ。
何があったのか、どこに行ったのかさえわからないのでは、かえって彼らに迷惑がかかるだろうと考えた。
静かに式典の終わりを待っていたフェリシアは──けれど、兵士たちに突然拘束をされた。
そして、オスウィンの大きな声が式典会場に響き渡った。
「皆、聞け! そこにいるフェリシアは、醜悪なことに蛇を飼っていたのだという! その蛇は、フェリシアに命じられてハインツィア家の使用人たちに危害を加えたそうだ!」
会場が、ざわめく。
どうして今になってイグニスのことを、と、フェリシアは目を見開いた。
オスウィンの横で、フローラがにやにやと笑みを浮かべている。
「ハインツィア公爵家は、フェリシアを不憫に思いそれを隠していたようだが、私の身を案じたフローラが私に教えてくれた。フェリシアはサリハに通じている、裏切り者の売国奴だとな!」
「……っ、違います、私はサリハに通じてなどおりません!」
イグニスは、言葉を話すこともできない。人の姿に戻ることもない。
ただの、蛇だった。
蛇を飼うことは罪だ。だが、内通者などではない。
フェリシアの反論は黙殺された。オスウィンの「黙らせろ」の一言で、兵士たちに口の中に布を詰め込まれる。
「内通者は死罪だ。父からもすでに了承を得ている。父は、オリヴィア殿が自分を恨み、フェリシアにサリハと内通をさせたのだろう。復讐をするだめだと言った。フローラのおかげで、内通者に気づくことができた。フェリシアは、処刑とする」
──そして私は、フローラと婚約をする!
高らかなオスウィンの声を、フェリシアはどこか遠くの世界の出来事のように聞いていた。
どうせ死ぬのなら、美しい砂漠を見て死にたかった。
投獄され、処刑台にのぼらされたフェリシアは、ただそれだけを考えていた。
体の至る所が痛む。サリハと通じて何をしようとしていたと、散々鞭でうたれたが、フェリシアは知らないということしかできなかった。
後ろ暗いところはなにもないのだ。話せることなど、なにもない。
痛みはあったが、抵抗も釈明もしなかった。
無駄だ。無意味だ。
はやく、終わらせて欲しい。
死ぬことは、怖くない。
きっとフェリシアの心は、目の前でイグニスを斬られた時に、とっくに死んでしまっていたのだろう。
──せめて美しい砂漠を見て死にたかった。
そうすれば砂が、何もかもを隠してくれる。フェリシアの体も、砂の下に沈んで、沈んで。
そうすればきっと、もう誰にも、貶められることなどない。誰にも、痛めつけられたりしない。
『お腹をすかせたイグニス様に、蛇も、うさぎも、カエルも犬も、自分の体を食べてと言いました』
『みんな、イグニス様のおともだちなのに』
『動物たちは優しいのね。──けれどイグニス様は、そんなことをするのなら、自分は砂になって消えてしまいたいと言いました。そうして、サリハの砂漠はできたと言われています』
母の手が、優しくフェリシアの髪を撫でる。
絵本を読む母の声が、記憶の底から優しくフェリシアを包み込むように蘇ってくる。
フェリシアは王都の広場につくられた断頭台の上で、目を閉じた。
人々の罵倒は、屋根裏部屋の窓を揺らす風の音のようだ。興奮したようなオスウィンも、悲しみの奥に喜悦を浮かべるフローラの表情も、もう見えない。
「殺せ!」
オスウィンの声が響く。痛いのだろうか。苦しいのだろうか。
けれど、これで──母やイグニスの元に、行くことができる。
しかし──。
痛みも、苦しみも、衝撃も。フェリシアには、もたらされなかった。
「いやあああっ」
「助けて!」
「何故、サリハの兵が!?」
人々の逃げ惑う声、悲鳴、何かが潰れる音。
そんな音が響く中で、フェリシアは瞳を開く。
「フェリシア、無事か!?」
フェリシアの前に、見上げるほどの偉丈夫が立っている。やや浅黒い肌に白に近い銀の髪をして、異国の鎧を着た美しい男だった。
彼はフェリシアに剣を降り降ろそうとしている男たちの腕を、剣を抜き一瞬のうちに切り落とした。
そして、次々に向かってくる兵士たちを、憎悪交じりの怒りの瞳で睨みつける。
青年の姿が、王都の家々よりも背の高い、巨大な美しい蛇の姿に変わる。
蛇はロザミアの兵たちをばくりと口に咥えて、勢いよく吐き出した。
兵士たちは家や地面や壁に、子供が投げた石ころのようにぶつかって動かなくなる。
蛇は青年に姿を戻した。空からは、黒い大きな烏に乗ったサリハの兵士たちが、次々と降りてくる。
サリハの兵は、虎や狼や巨鳥へと姿を変えて、ロザミアの兵士たちを圧倒する。
青年はその様子を一瞥すると、それからフェリシアを断頭台から助け出して、抱きあげた。
「……あなたは……イグニス……?」
「わかるか、フェリシア。あぁ、そうだ。俺は君に救われた蛇の、イグニスだ」
「どうして……」
「サリハの民は、変幻の力が使える。変幻時は、人間体のときよりも体が頑丈になる。蛇の体が二つに斬られても、頭さえ潰されなければ再生が可能だ。ある程度は、ではあるが」
そんなことよりも──と、青年が続ける。
「俺はイグニス・サリハ。サリハ王国の正当なる後継者だ。君を奪いに来た、フェリシア。遅くなってすまない」
「……イグニス……様」
イグニスが、サリハの王──?
けれどイグニスは、人間の姿にならなかった。どうして、今になって。
たくさんの疑問が浮かんだが、フェリシアはただ、イグニスの名前を呼ぶことしかできなかった。
「皆、聞け! 俺の命の恩人、フェリシアの身柄は確保した! ロザミアを滅ぼすのは今日ではなくていい。首の皮が一枚繋がってよかったな、オスウィン、そしてハインツィアの家のものたちよ」
オスウィンとフローラが、そして国王夫妻。
それから、ハインツィア公爵と、マデリンが──。
見えない何かに切り裂かれるように、片腕から、顔から。
両方の瞳から、口から。
そして足から、それぞれ鮮血を噴き出した。
イグニスの背から、八の首をもつ白蛇がはえて、鎌首をもたげているように──フェリシアには見えた。
その蛇たちがそれぞれ、オスウィンたちの体を引き裂いたのだ。
彼らは悲鳴と呻き声をあげながら、崩れ落ちる。
「フェリシアが受けた痛みを知れ! 致命傷ではないから安心をしろ。簡単には殺してやらない。そんな、もったいないことはしない。死とは、終わりだからな」
イグニスの号令にこたえて、サリハの兵士たちが空から飛来する黒い鳥の足に捕まり、背に乗る。
そこには鳥の姿も、そして竜の姿もある。
翼のある動物たちが、人の姿に戻ったサリハの兵を引きあげさせていく。
「これからじわじわと、少しずつお前たちから奪ってやる。手を、目を、足を、声を。全てを、だ。サリハがいつでも王城を落とせることを、ゆめゆめ忘れるな。寝首をかかれる日を想像し、震えながら眠れ」
血を流す王たちの姿に、ロザミアの兵士たちは恐慌状態に陥った。
イグニスはフェリシアを抱きあげたまま、軽々と竜の背に飛び乗った。
「行こう、フェリシア。約束を果たしに来た。サリハでいつか、一緒に暮らそうと、約束をしたな」
「イグニス……イグニス様、生きていて、よかった……っ」
フェリシアとイグニスを乗せた竜は、ロザミアを越え、国境を越える。
美しい黄金色の砂がどこまでも続く、砂漠の上を飛んでいく。
イグニスに抱きついて泣きじゃくるフェリシアを、イグニスはもう離さないとでもいうように、強く抱きしめていた。
◇
イグニス──本名を、イグナティウスという。
これは、サリハの砂漠をつくったという神話の残る神からとった名である。
サリハ王国第三王子イグナティウスがロザミア王国に亡命をしたのは、イグナティウスが十二歳の時だ。
この時、宰相フィンレイと呪術師による内乱が起こり、王が殺された。
イグナティウスの父も母も、そして兄弟たちも殺された。
イグナティウスは護衛兵たちによってなんとか生かされた。
唯一の、王家の生き残りだった。
イグナティウスが生き残ったのは、あまり目立たない第三王子だったからだ。
サリハの民は変幻という特殊な力を使える。それぞれ生まれたときから、動物に姿を変えることができる。
姿を変えることができる動物はただ一種類だけ。それは生まれつき決まっていた。
兄たちは竜に姿を変えることができたが、イグナティウスは蛇だった。
蛇は竜よりも弱いといわれており、第三王子だったということもあり、イグナティウスはたいして期待もされていなかった。
砂漠を越えロザミアに辿り着いた時、イグナティウスの命は無事だったが、呪術師による獣化の呪いにかけられており、小さな蛇の姿から人の姿に戻ることも、本来の変幻の姿である巨大な白蛇になることもできなくなっていた。
弱り死にかけていた白蛇を、ロザミアの民は嫌った。
動物を嫌っていることもあるのだろうが、蛇は忌み嫌われる対象だった。
命からがら林に逃げ込み、誰にもみつからないように、アザミの下に隠れていた。
そこに──フェリシアがあらわれたのだ。
イグナティウスは言葉を話せなかったが、フェリシアの言葉は全て理解できた。
国に戻らなくては、呪いをとかなくてはという焦りは常にあったものの、必死に白蛇を守ろうとしてくれるフェリシアを、イグナティウスもやがて大切に思うようになっていった。
あなたはイグニスだと呼ばれた日、イグニスはイグナティウスであることをやめてもいいとさえ思った。
サリハを見捨てたわけではないが、呪いをとく方法がみつかったら、フェリシアをサリハに連れていく。彼女を守ろうと、心に決めたのだ。
そして──イグニスは、公爵家の兵によって、体を真っ二つにされた。
無力な自分が憎かった。草むらに捨てられてもなお、蛇の姿のままであった自分が、憎らしかった。
フェリシアを愛している。彼女を守りたい。この命にかえても、彼女を──と。
奇跡が、起こったのだと思う。
意識を失ったイグニスを、抱えて逃げる者がある。
それは、フェリシアに世話をされていた馬の一頭。その馬は、変幻をしたサリハの兵士だった。
イグニスは──人の姿に戻っていた。
死の淵に落ちたことで、呪いはイグニスを『死んだ』と判断したのだ。
対象が死ねば呪いはとける。
イグニスの呪いはとけていた。だが、サリハ人だと知られてしまえば、イグニスもフェリシアも命はなかっただろう。
ハインツィア家に潜入していた馬は、イグニスが消息不明の王子だと気づき、その命を守ったのだ。
イグニスは長く療養をした。そして、ロザミアの各地や、サリハの各地に潜伏していた兵をあつめて宰相と呪術師の支配下にあった王宮を制圧した。
フェリシアの元に行きたかったが、イグニスの立場がそれを許さなかった。
そして──ようやくフェリシアを迎えに行く準備が整った時、フェリシアの身が危険であると、ロザミアに送り込んでいた兵士からの伝令があった。
イグニスは急ぎ兵をまとめて──処刑をされる寸前だった、フェリシアを救ったのだ。
サリハの王宮や、サリハ王国が平和になったかと問われれば、まだまだそうとは言い切れない。
けれど、どうしても──。
フェリシアに、隣にいてほしかった。
イグニスの命が繋がっているのは、フェリシアのおかげだ。
フェリシアのいない人生など、考えたくもなかった。
「フェリシア、これからは俺が君を守る。サリハは豊かな国ではないが、共に、生きてくれるか?」
「……約束、しました。サリハに一緒に行こうって。イグニス様、あなたの傍に、私もいたい」
砂漠に沈んでいく美しい夕日に照らされて、フェリシアの雪のような白い髪が赤く輝いている。
フェリシアが涙をこぼしながらも、美しく微笑んでくれるので、イグニスは胸がいっぱいになった。
どれほどの困難が、どれほどの苦痛が彼女を襲ったのか、イグニスはよく知っている。
それでもそうして笑うことができるフェリシアは、誰よりも美しい人だ。
彼女はまだ、命の恩人としか、思ってくれていないだろう。
これから長い時間をかけて──彼女に愛を捧げていこう。
そうイグニスは、その細い体を腕の中に閉じ込めながら、心の中で呟いた。
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蛇年なので、蛇の話です。竜が好きですが、蛇も好きです。
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