インドの河原
インドに行けば人生観が変わる。そんな漠然とした目的でもってアジアの大国を目指した若者が、旧世紀には多く居たという。
薄青白い大気の下、うねる様な雲の群れが地表をなめる。そのさらに奥には夜闇に塗りつぶされた大陸の姿が薄ら見えるも、そのひし形めいた国境線までを認識することは適わなかった。
かつての宇宙飛行士は一流の技能者であるとともに優れた詩人であった。「私はカモメ」なんて詩的な比喩表現がするりと出てくる程度には情緒豊かだったのだろう。
今はもう、望むべくもない事だ。
宇宙に行けば人生観が変わる。そんな漠然とした目的でもって空の向こうを目指す若者が、最近は多い。
22世紀現在、一般的な大学生が夏季休暇をアルバイトに当てた程度の金を払えば宇宙まで出ることができるほどに地球軌道の開発が進んだ今となっては、宇宙旅行者全員に高い教養と情緒を求めるのは酷だ。
それでも依然、宇宙は頑として人間を拒絶している。ブクブクと着ぶくれた達磨の真似事をしなければ直接触れ合うこともままならない世界にはいまだ未知があるから、そこに自身の感受性の萌芽を促してくれる何かがあるのではないか、と期待する人間が後を絶たないのだ。
浅慮である、と言ってしまえばそれまでだが、一応の向上心の発露であるとも解釈できる。苦行をすっ飛ばして手っ取り早く悟りを開こうというのだから仏陀も怒髪天を突くかもしれないが、それでも悟りを開こうとしているだけ意気はある。
つまりはそういうことなのだと大学の古典文学サークルの先輩に丸め込まれ、あれよあれよと宇宙までやってきて、こうして眼下に地球を見下ろす私も相当の考えなしだ。他人をとやかく言う資格は無い。
眼下の地球は、思いのほか速いスピードでその表情を遷移させていた。
「どうよ、人生観変わった?」
件の先輩は、自分の宇宙服のバイザーを私のものに接触させてそんなことを聞いてきた。古典SFの宇宙戦争じゃあるまいに、無線通信機で事足りるはずがわざわざ、である。
「結局、先輩はそれがやりたくて宇宙まで上がってきたんでしょう」
「それもある。勿論ね」
うっとおしげに手を払う。先輩ははにかみながらふわりと跳んで、無駄に宙返りして私の横に立った。通信機越しの声には笑いが混じっている。
「でもさー、やっぱり、なんか変わるモノもあるんじゃないかなと思って」
はにかみ交じりの先輩の声は、心の踊り様を雄弁に語っている。楽しい、嬉しい。そういった感情を一切包み隠さない声音が鼓膜をくすぐって、どこかむず痒い。
「見ようと思えば電子媒体でいつでも見られる景色だけどさ」
言葉に詰まる。私の無粋をからかう様に、先輩は歯を見せて笑う。背景に広がる遥か何億光年彼方の星々は地表から見るよりも幾分か鮮烈で、マクロでありながらミクロな、見たことのない景色がそこにあった。
「それにさ、何かが変わるんなら、それはやっぱり君と一緒がいいじゃない?」
不意に鼓動が高鳴る。私は思わず先輩を見た。それはどういう意味だろう。そういう意味なのか? しかし先輩の表情は窺えなかった。地球の裏側から太陽が顔を出し、宇宙線防護フィルタがバイザーの奥を隠してしまっていたからだ。
「ほらみて、太陽! 私、これが見たかったんだ」
先輩の声が弾む。私もまた、息を呑む。地球の陰から顔を出した太陽の光は地球の円周上に沿って光輪を描き、やがて膨大なエネルギーが地表を照らし出してゆく。朝の訪れだ。地表で暮らしていれば特別でもない日常が、今は大自然が織りなす奇跡めいた光景に見える。
それが、素直に美しいと思えた。
「どうよ、人生観変わった?」
先程と同じ調子で先輩の声。しかし今は、どこか確信めいたものが籠っているような、そんな雰囲気がある。
「……そうですね、少しは変わったかもしれません」
一拍置いて応えたのは、せめてもの強がりだ。先輩の口車に乗せられっぱなしではあまりに格好がつかないという、一種男としての矜持のような。私にとってだけ意味のある言い訳のような。
「そっか、私も」
先輩の表情はいまだ窺えなかったが、どうやらその必要もなさそうだ。そのあまりに簡素な返答に、喜びや、少しの照れや、それこそ万感の思いが籠っていることを感じることができたから。
私は朝の光に染まっていく地球を見下ろしながら、ああ、バイザーが遮蔽されていてよかったと、弛緩した表情筋をつとめて引き締めながら思った。