初めての視察
そういえば、私はレベッカに授業で教わるまで、実は父と母の名前すらわからない状態だった。
使用人たちは「旦那様」「奥様」と呼び、母と父は互いを「あなた」「ハニー」と呼ぶためである。
父が真面目な顔をして母を「ハニー」と呼ぶのが何だか面白く、また夫婦仲が大変よろしいようでそれを微笑ましく思っていたものだが、なんてことはないーー母の名前がハニーであっただけのことだった。紛らわしい。
父はルーウェン・アシュレイ。
アシュレイ家の長男として生まれ家督を継いだ。
普段は王宮で仕事をしているのだが、なんと宰相であったらしい。
宰相。
王制の組織図なんて詳しくはわからないが、結構重要な役職なのではないかと思う。
宰相と聞くと「王様の横に立っている偉い人」というイメージがあり、ついでに「横領とか悪いことをしている小太りの中年」という偏見もある。
だが我が父ルーウェン・アシュレイはそんな偏見(私が勝手に持っているだけだが)とは百八十度真逆の、物腰柔らかくスマートで、どちらかというと潔癖そうな印象のある人物像だった。見た目も三十代半ばほどのように若々しい。実年齢は知らない。ダークブラウンの髪に翡翠の瞳をしていて、私の瞳の色は父譲りである。
そんな父と結婚したのが、北方のオルド辺境伯家の一人娘である母、ハニー・アシュレイである。
母はプラチナブロンドの髪に灰色の瞳を持った一見、儚げ系美人であるが、その実、王宮で宰相として働く父に代わって、アシュレイ領の管理を任されている才女である。
レベッカが言うには、普通夫人の役目としては、社交と屋敷の管理が一般的だそうで、領土全体の経営管理まで行うことはないそうだ。
そのため、通常の家庭教師の施す教育は教養と社交マナーに留まるらしいのだが、私に対する教育計画としては、それらが身についた頃には、母の方針で政治経済のほか数学も行う予定にあるのだとか。
数学と言っても前世日本の義務教育にあるような数学ではなく、帳簿のつけ方だとか、資産・収益関連の見方など、どちらかというと簿記に近いものだと思う。
これには母に感謝するばかりである。
乙女ゲームの世界であるので、男尊女卑という社会慣習はなさそうではあるが、やはりベースは中世ヨーロッパとなっているようなので、女性のできる仕事の範囲というのは限られているように思えた。そんな中で男性と同じような知識を持ち仕事ができるというのは、言わずもがな今後の武器となるだろう。
さてはて、今後王家もしくはどこかのお家に嫁ぐことになろうとも、領地経営のできるくらいには教育を施そうという母の素晴らしき理念があるため、今日は領土の視察に赴く予定となっている。
「ねえ、エマ。ワーズロースってどういうところ?」
いつものようにドレッサーの前で侍女のエマに、髪を結ってもらっているところである。
今日の服装は動きやすいようにリネンブラウスにブラウンのトラペーズスカートだ。
「ワーズロースはとても大きい都市ですのよ。今はちょうど定期市が開催されているので、群島諸国の珍しいものもあるかもしれませんわ」
今日視察に行く予定の場所は、今しがた話に出ているワーズロースという都市である。
そも、アシュレイ領は地理で言うと、王領の隣にあるのだが、国の西方に位置しているので、広く海に面している。
その中でも、これから行くそのワーズロースという都市が、アシュレイ領で最も物流の盛んな主要都市となっているのだ。半島を有していることから海上交易路が敷かれているようである。
そういった国家間の交易も管理しているらしいので、改めて母すごいと思った。そんな母は今日は視察には一緒に行かず、屋敷でゆっくり休むのだそうだ。ここ最近何やらずっと忙しそうにしていたが、それがひと段落ついたので、のんびりさせてあげようという父の計らいらしい。
ちなみに父の方も非常にストイックで、実は週に一度、領内の村に順繰りで視察に出かけている。
ハードワークだなと思うものの、王宮での仕事は週休二日であるらしい。仕事の日も夕飯時にはほとんど帰宅できているので、王宮はどうやらとてもホワイトな職場であることが見て取れる。それで国営が回っているのだから、現王はもしかしたらとてつもなく傑物なのかもしれない。
「ピエリス、準備は大丈夫かな?」
「はい! ばっちりです!」
朝食を家族揃って取った後、私は庭園へと出ていた。
視察に同行するのは、私付きの侍女であるエマと、執事のメルヒン。それからアシュレイ家の護衛騎士五名である。
「あなた、ピエリス。気を付けて行ってらっしゃいね」
「ああ、夕飯前には戻るよ、ハニー」
母に見送られ、オベリスクの前に立つ。
これから初めて瞬間移動を体験するのだ。ドキドキしたきた。
「ピエリス、手を」
そう言われて父と固く手を繋ぐ。
エマや執事、護衛騎士たちはもちろん手など繋いでいないのだが、問題なく一緒に転移できるのだろうか。それとも、私たちが移動した後でひとりずつオベリスクに触れて移動するのか? わからないが、父に尋ねる時間も、考え込む時間もなかった。
「それじゃあ、行くよ」
心の準備はできていたが、その言葉にドキリと胸が高鳴った。
そして次の瞬間ーー
「わあ……!」
私は見知らぬ部屋にいた。
*
アシュレイ家の庭園にあるオベリスクから移動した先は、ワーズロースにアシュレイ家が所有する屋敷の一室だった。
ワーズロースは領土内で重要拠点のひとつとなっているため、別邸を構えたのだと。
こちらに滞在する頻度は少ないようだが、屋敷を維持するための使用人が数人いるようで、屋敷の中は非常にきれいに保たれていた。
「これもオベリスクなの?」
「そうだよ、ピエリス。オベリスクは様々な形状のものがあるんだ」
転移した屋敷の部屋の中心部には、ふくろうのブロンズ像があった。これもオベリスクであるらしい。
オベリスクがオベリスクとしての機能を持つには、空間魔法の術式を組み込むかどうからしいので、形はどうあれ大して関係ないようだ。
それにしても、オベリスクでの移動は本当にあっという間だった。視界が微かにぐにゃりと歪んだかと思うと、そこは既に転移先の一室だったのだ。魔法ってすごい。
「よし、行こうか。お昼は群島の民族料理を食べてみよう」
「たのしみ!」
メロディア聖王国の西方、海の向こうには群島諸国が点在していて、群島諸国連合というものを成している。
エマが今朝話していた通り、今は四か月に一度の定期市が開かれているとのことだから、群島諸国からもたくさんの出店があるのだろう。素直に楽しみである。
部屋を出てすぐにエントランスホールがあった。
エントランスホールを抜けて外に出ると、目に飛び込むは雲一つない突き抜けるような晴天。柔らかな日差しが心地よく、海が近いからか、そよぐ風に僅かな潮の匂いを感じる。
「この屋敷は街の中心部から少しだけ離れたところにあってね。馬車で近くまで移動するよ」
地味に初めての馬車である。
さすが三大公爵家というべきか、馬車のシートはふわふわで座り心地良く、ガタガタという揺れが一切気にならないレベルだった。道という道がしっかり舗装されていて揺れが少なかったというのもある。
体感十分程で中心部に到着したと御者に声をかけられる。
父にエスコートされて馬車を降りると、そこはまるで異国であった。
天然石の石畳に、西欧らしい情緒溢れる建築様式の家々。目に留まる建造物のどれもが素朴な色合いのブリックを基調として、玄関ポーチや装飾材の深みのある色がアクセントとなっている。窓枠には花鉢を飾っているところが多いために街全体が華やかに彩られていた。
「すごい……」
馬車を停留させたのは噴水が中央にある広場だった。周りには露店が立ち並んでいて、道行く人々はみな活気に満ち溢れた表情をしている。
異世界転生したと言っても、私の知る世界は屋敷の中だけだった。初めて訪れた異世界の街並みに、私はただただ感嘆の声を上げるばかりである。
「どうだい、すごい賑わいだろう?」
「ええ、いっぱい人がいます!」
「逸れてしまっては事だからね。しっかり手を繋ごう」
「はい!」
確かに迷子になんぞなってしまえば、この人の賑わいからして見つけてもらうのは至難の業であろう。私は決して逸れることがないように、父の手を固く握った。
父は定期視察だと言っていたが、その目的は本当のところ一人娘ピエリスの社会科見学であるのかもしれない。
私は父と手を繋いで市場を歩き、あれこれと露店を見て回った。ただの観光である。
露店は本当に様々なものがあって、趣向の凝ったアクセサリーや装身具を扱う店であったり、絵画や彫刻品、一見にしてガラクタのようにも見える骨董品の類を扱う店であったりーー中にはインドを彷彿させるような異国の織物や香辛料を店先に並べた出店もあった。そしてジューススタンドに民族料理の屋台などなどである。
「ねえ、おとうさま」
「なにかな」
「アシュレイ領はどこもここみたいに豊かなの?」
私は、父が買ってくれた餃子ドックのようなものをもぐもぐと頬張りながら、思っていたことを聞いてみる。
昼前だというのに、懐かしい餃子のような肉まんのような、思わずよだれが出そうになる良い香りがしたので、堪らず父にねだったのだ。食べ歩きをすることに執事は良い顔をしていなかったが、父は「これも経験」と言って買ってくれた。話のわかる父である。
「うーん、そうだねぇ。比較的富んでいる方ではないかと思うよ」
この都市が物流豊かな商業都市であるからなのかもしれないが、目につく範囲にはスラム的な貧困街や孤児のような子どもは見当たらないし、行き交う人々はそれなりの生活をしているのだろうというのが、見て取れる装いをしている。
「……みんなしあわせ?」
「それはどうだろう」
貧しく生活に困っている人や、支援施設の有無などを聞きたかったのだが、五歳児が急に難しい言葉を使うわけにもいかないので、悩んだ末に出た言葉はなんだか短絡的すぎた。
父も苦笑して「みんなが幸せだったらいいけどね」と言った。
ーーそんな問答があったからだろうか。
父の中で思うところがあったのかもしれない。昼食にと、街のレストランで食事をとった後、私は父に連れられて、街外れにある古びた建物へとやって来ていた。
ちなみに昼食は群島発端だと言う、焼きそばに似た麺料理を食べた。めちゃくちゃおいしかった。