理想社会を考えることの害毒について
ユートピアを考えることの害毒。
世界史、日本史上の英雄たちが築こうとした国家が短命に終わった理由などについて。
三年前、北方謙三氏の、「三国志」を読んでいるときに書いた文章です。
人類は、様々なユートピア、理想社会を考え出した。
高潔な人格者が指導する哲人国家。
共産主義国家。
あらゆる権力を排除したアナーキズム(無政府主義)。
エリート、知識人が差別され、吊し上げられ、そのブルジョア精神を徹底的に自己批判させられた文化大革命期の中国や、同じく知的階級を抹殺し、農村国家を作ったポル・ポトのカンボジア。
遡れば特権階級、反革命者を次々と断頭台に送ったフランス革命後のジャコバン政府。
さらには、労働者と農民の国の名の基に建国され、七十年あまり継続し世界における二大勢力の一方の雄となったソビエト社会主義共和国連邦。
アレクサンドロス、始皇帝、チンギス・ハン、織田信長、ナポレオンといった人物は、英雄主義に通じる明確な理想国家像を持っていた。が、英雄と呼ばれる人物がおのれの理想を基として作り上げた社会、国家は、ほとんど短命に終わる。それは、彼らが作り上げた国家社会が、凡人には荷が重いからであろう。社会の大多数を占めるのは平凡人なのだ。
英雄という存在は、後の世に生きる人にとっては、様々な物語の源泉となるが、同時代に生きる人にとっては、とても迷惑な存在だと思う。
そのカリスマ性と、為し遂げた栄光により、同時代人を熱狂させたりもするから、始末に悪い。熱狂というのは、ハレの時の一時的感情。日常的に継続できるものではない。
日常を豊かな心で送り、平凡・普通を尊いとする多くの人によって構成される社会。その気持ちに添った政治が望ましいと思う。
超越的存在を崇め、それが社会の規範となる宗教国家も、歴史上しばしばみられる。
宗教は恐ろしい。人の心を支配する。人間は、有限な存在であり、どうしても無限なものを求めてしまう。
人の心を超越的、夢想的なものに導くよりは、
心の拠り所、現世を生きる人の救いとなる宗教であってほしいと思う。
心優しい理想主義者で、人間の本質は善であると信じる人は、愛に満ちあふれた理想社会といったものを夢想するかもしれない。
が、ひたすらな愛と優しさのみで満ち溢れた社会というのは、極めて退屈な社会で、普通の神経を持った人間に耐えられる社会ではないだろう。
人類の歴史でユートピア的理想社会を唱えて実現された社会は、例外なく非人間的恐怖社会となった。
歴史を冷静な目で観れば、ユートピア、理想社会を目指すという思考は、無駄であるという以上に害悪であると思う。
教育の力で人間の本質を変革し、新しい価値観を持った人間たちによる理想社会の実現、などという試みも、憎悪的社会しか生まないことは明らかだ。
前置きが長くなってしまった。
北方謙三は、その著作において、ある国家像を描いた。
楊令伝においては、流通が核となる国家を。
それは、現実的な思考に基づく、理想とまでは言わない、より良い斬新的社会の一試案として考えられてよいことと思った。
そして、この三国志においては、劉備はその時点では数百年続いていた漢の皇帝の血脈の、さらなる継続を目指す。そうなれば、漢の皇帝家は、誰も侵すことができない尊いものとなる。時代の覇者が天下を取る易姓革命の国、支那に、国家の芯ができる、と説く。
これは、言うまでもなく、日本の歴史における天皇家を語っているのであろう。
戦前のような天皇個人が神とされた国家は、前述した様々な空想的思考に基づく理想社会の範疇に入る。
が、国家を過激な方向に走らせず、社会に伝統となる確固たる継続的存在を保持する、良質なテクニックとして、天皇制は、尊重されて良いと思う。