1. 砦の街、フェルテへ
ガラガラ回る車輪に合わせて体が跳ねる。硬い座席に何度も打ち付けた腰をさすりながら、窓から外を覗く。
馬車の通る道はしっかりと舗装されている。こんなにも馬車が跳ねるのは、道ではなく馬車の質が悪いのだろう。馬車に乗った回数は片手で足りるほどだが、その中でも群を抜いて乗り心地が悪い。
整備されている道の外には砂地が広がるばかりで、遠くにポツリと城砦が見える。
砦の街、フェルテ。火の精霊エルフィーゴを信奉し、ディオス・ディスカンソ共同体の北東を守護するテルケダード帝国の最果て、異民族との境界の街だ。フェルテを超えると不毛の大地と砂漠が広がっている。そこに住む異民族との争いは過去何十年も終息を見せず、この先もなくなることはないと言われている。
異民族の侵攻を防ぐために造られた街は、軍事国家の名に恥じぬ防衛力、戦闘力を誇り、敵の侵入を許したことはない。
元は砦だけが建っていたが、砦を衛る軍人の家族が移住し、そこで新たな家族が産まれ、ということを繰り返し、今や立派な一つの街となった。
しかし砦の街は存在意義を忘れず、街に住むものは女子供に至るまで、一定の戦力を有している。有事の際には国を手助けできるよう、足手まといにならぬよう、産まれた頃から戦う術を叩き込まれるのだ。
そうやって成長したものばかりだから、砦の軍人は後ろを気にすることなく戦える。
質素というより粗末な馬車は今、そのフェルテを目指して進んでいた。
光の神エルブリージョと、闇の神ラオスクリーダを崇めるヴィダメルテ神国を出るときは、簡素ながらも乗り心地の悪くない馬車だったが、神国の中央教会から離れ、乗り継ぐごとに質が下がり、今乗っているものは馬が引く木箱といった風情だ。
神国ではあり得なかった待遇に、遠くまで来たことを実感する。
ずいぶん長く馬車に揺られた。ここにはきっと、『エルブリージョ寵児』の顔を知るものはいない。
わずかな寂寥といくばくかの不安、そして好奇心を抱く少女、ルミーナを乗せ、馬車はフェルテの街へと向かっていく。
* * * * * * * * *
砦の街ゆえに厳しい検査があるのかと思っていたら、拍子抜けするほどたやすく通れた。
「こんな馬車でも教会の力は通じるってわけね」
口内だけで呟いた。どれほど質素な馬車に乗せられようと、中央教会から遠く離れた国境地帯まで送られようと。それでもルミーナはエルブリージョ加護を持つ唯一の存在であり、その権威はテルケダード帝国を含むディオス・ディスカンソ共同体全土に通ずるものなのだ。
「ま、私は役立たずだけれど」
独り言を聞き咎めたのか御者が視線を送ってきたが気にせず街並みを眺める。
賑わっているが街のそこかしこに軍服を着た人が立ち、露店はあれど道幅は狭く路地が多い。
街の構造を知る者ならば逃げ隠れし易く、余所者にとっては迷路になる。
砦の街らしい造りだ。
ルミーナを乗せた馬車が停まったのはフェルテの代名詞、国境に臨む砦の裏口だ。馬車で移動できるのはここまでのようだった。馭者の手を借り、ルミーナは馬車から降り立つ。中央協会から馬車を乗り継ぎ二週間。一日の大半を座って過ごしたせいですっかり凝り固まった体を大きく伸ばす。
白金の髪が風に広がり、陽の光を透かしてきらめく様は一幅の絵画のようだった。
「うぉっほん」
わざとらしい咳払いに視線を移すと、丈の長い水色の上着を纏った男が立っていた。案内人だろう、事前に知らされた情報によれば年齢は六十を超えているはずだが、ずっと若く見える。背筋はまっすぐに伸び、体つきもしっかりとしていて、まったく老いを感じさせない。
「初めまして、私の名前はフェリクス、姓をユレと申します。この砦にて軍医を務めております、『鑑識の加護』持ちでございます」
差し出された手を握る。本来ならルミーナも名乗るところだが、この街に来たのは光の神の加護持ちではない。今のルミーナに名乗る名はなかった。
心得顔で頷いた軍医は馭者に帰るよう促すと、ルミーナを伴って歩き出した。おとなしく後ろを着いていく。
「貴女には今後、この街で暮らしていただきます。最近は異民族との小競り合いが続いている。戦争となった時には、貴女の祈りで我らを守護してほしいのです」
加護、ではなく、祈りで。
この老人は優しい。ルミーナがこの街に送られた意味を正しく理解した上で、尊重してくれている。
その優しさは、ルミーナの心に小さな棘となって突き刺さる。
押し黙ったままのルミーナを肩越しに見やり、フェリクスは石造りの廊下を進む。
やがて一つの扉の前で立ち止まった。半地下、といった位置に隠すようにあるこの部屋は、密会にでも使われているのだろうか。
見るともなしに室内を見ながら、ルミーナは用意された椅子に腰掛けた。
「貴女はこの街の住人となるわけですが、そのために新しい名と世話係を用意しました。あちらと比べると窮屈な生活になるやも知れませんが、どうか心安らかにお過ごしください」
あちらというのは中央協会のことだ。ルミーナは苦く笑った。中央協会の待遇が厚かったのは最初だけだ。何の加護も発現できないと知ると、ルミーナはただの人形になった。教会の奥深くに閉じ込められ、時間を浪費するだけの毎日。衣食住を保証されてはいたが、それは何の慰めにもならない。
八つの時に『エルブリージョの寵児』と見いだされ、見限られるまで三年。そこから幽閉同然に暮らした五年。ルミーナはあそこほど窮屈な場所を知らない。
あそこから出られて清々しているのだ。たとえそれに、どんな意図があったとしても。
「貴女の新たな名前は、ペオーニア・デュポワ。事故で両親を亡くし、天涯孤独となった貴女は、遠路はるばるヴィダメルテ神国から遠い知り合いを頼ってきた。いいですか、貴女の世話係は、貴女の母の兄の妻の祖父の従兄弟の親友の弟の子どもです」
まさしく遠い知り合いだ。どう伝手をたどればそんな人が面倒を見てくれることになるのだろう。なんだかおかしくなってきた。
「わかりました、私の名前はペオーニア・デュポワで、遠い、ほんとうに遠い知り合いを頼ってきた」
笑い混じりに復唱する。世話係との関係性は一回では覚えられそうにないから、当面は遠い知り合いでいいだろう。ペオーニア、という新しい名前も気に入った。ルミーナというのは、『エルブリージョの寵児』を指す称号のようなもの。個人の名前ではない。
新しい名の響きに喜び、自らの設定にくすくすと肩をふるわせるペオーニアに、フェリクスは目元を緩めた。
そこへノックの音が響く。
フェリクスが入室の許可を出すと、扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、黒髪黒瞳の男だった。
短く整えられた髪は艶を帯び、けだるげに細められた瞳は光を吸い込む。着ている服は軍服ではなく、簡素なシャツにズボンだけだ。腰に下げられた幅広の剣は、柄も鞘も見事な漆黒で飾られている。年は三十に届く頃だろう。
「あー……。俺はあんたの世話係、レオン・オーバンだ。レオンと呼んでくれ」
握手を求めて差し出された手を凝視するほかない。
いつまでも手を握らず、名乗りもしないペオーニアに、差し出した手が宙をさまよい、最終的に後頭部を掻くことで落ち着いた。
「どうした? 俺じゃ不満か?」
困ったように問われて、ようやくペオーニアは我に返った。
「ちょっと待って!! 嘘でしょ、あなたが私の世話係なの!?」
思わず椅子から立ち上がって叫ぶ。かろうじて保たれていた淑やかさがすべて吹き飛んだ。
ペオーニアはもともと下町育ちだ。教会で仕込まれた礼儀作法など、大きな驚きの前では火に炙られた蝋より速く消え去る。
「あ、おう。聞いてなかったのか?」
ペオーニアの勢いに気圧されているが、至極当然の疑問をぶつけてきた。ここに来る前に一通りの事情は聞かされているはずだ。
「聞いてたわよ! でも、だって――」
ペオーニアはきちんと聞いていた。世話係の名前も聞いていた。しかし、その聞いた名前というのが――、
「レオンティーヌって、女性だったじゃない!!」
「あー……」
ペオーニアの言葉にレオンが深くうなだれ、フェリクスが大きく口を開けて笑っている。
ペオーニアからすれば笑い事ではない。女性だとばかり思っていた世話係が男性となれば、話が変わってくる。心の準備ができていない。
「あー、それはだな、あー……」
どういうことだと詰め寄るペオーニアに、しどろもどろなレオンではなく、フェリクスが答えた。いまだ肩が揺れ、笑いをこらえ切れていない。
「く、くふ、それはだな、ペオーニア。くっく、一昔前に、男に女性名を付けるのが流行ったことがあってな、ふふっふ」
「……俺は、その流行を引きずって名付けられたんだ。普段はレオンで通してる」
ちなみに私の本名はフェリシアだ、とフェリクスと名乗っていた人物に付け加えられ、ペオーニアは軽いめまいを覚えた。
「悪いな、いまさら変更はきかねえから、諦めてくれ」
申し訳なさそうに、しかし変えることはできないときっぱり告げられた。
「わかったわ、きちんと確かめなかった私も悪いものね……」
肺のなかの空気を全て吐き出し、ペオーニアは改めてレオン(彼がレオンと名乗ったのだから、レオンと呼ぼう)を見上げた。
「さっきはごめんなさい、あまりに驚いて。改めて挨拶を。私の名前はペオーニアです。これからよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
今度はペオーニアが差し出した手を、レオンがしっかりと握り返した。