10. トクベツ
結局家に着くまで、二人とも無言を通した。ペオーニアは何を話せばよいのかわからず、それはレオンも同じだったろう。ただ、道中何も言わずにレオンが上着を貸してくれた。
断る理由もなかったためにそのまま借りたが、寒くもないのに不思議だったのだ。
その理由は家に着いてから判明した。
「風呂に入れ」
そう端的に言うレオンに逆らえず、浴室で服を脱いだときに気づいた。着ていた服の背中が汚れている。地面に下ろされ、のしかかられたのだから当然だ。レオンはこれに気づいたから、上着を渡してくれたのだ。何も言わず、何も聞かず、何があったか察しただろうに。
男に触れられたことを思い出してしまい、気分が悪くなると同時に、レオンの優しさに触れた心が温かくなった。
ともかく今は、嫌な感触を洗い流してしまいたい。
ペオーニアは熱い湯を頭からかぶり、いつもより丁寧に、長い時間をかけて全身を洗っていった。
ペオーニアが浴室に入ったのを確認してから、レオンは夕食の準備を始めた。今日は軽いものでいいだろうと、野菜スープを作ることに決める。
適当に野菜を切っている中、ナイフを持つ手に何度も余計な力が入った。胸の中で激情が渦巻いている。
それは、知らない男と親しげにしていたペオーニアへの理不尽ないらだちであり、ペオーニアの背中がひどく汚れていることに気づいたときの目がくらむほどの憤怒であり、そしてなにより、ペオーニアをそんな状況に追いやっている自分への嫌悪感だった。
ペオーニアの世話係を任された以上、ペオーニアを守る義務がレオンにはある。それはわかっているが、レオンは日中ペオーニアと離れている。その結果として、ペオーニアはすでに二度、街のごろつきに襲われている。
一度目は運良くレオンが助けに入れた。
二度目は、おそらくエウラリオ・カルカテルラと名乗ったあの男が助けてくれたのだろう。
しかし幸運は、そう何度も続くものではない。ペオーニアの安全を考えるならば、穴ウサギ亭への送迎だけでもすべきであるし、もっと言うなら四六時中傍に控えるべきなのだ。
けれどレオンにはそれが出来ない。
レオンは毎日、砦に通っている。兵士の稽古を付けるためだ。しかし、レオンは軍関係者に良く思われていない。忌むべき負の象徴として、恐れられているのだ。
砦への出入りは目立たぬ裏口から、滞在時間は必要最低限で、砦内部を不用意に出歩かない。
誰よりも強いレオンは、戦力として必要とされ、後進の育成も頼まれる。その中にレオンを慕って教えを請う者はいない。だれもがレオンを恐れ、いつか排除すべき相手として教えを享受しているのだ。
砦でレオンの味方と言えるのは、フェリクスだけだった。レオンと親しい彼だけが、唯一対等に接し、言葉を交わす。
砦の街であるフェルテにいる以上、毎日の訓練は欠かすことの出来ないレオンの義務であり、ペオーニアを預かる前からの責務だった。
砦には女性もいるが、ほとんどが男で構成されており、そんな場所に若く美しいペオーニアを連れて行くわけにはいかない。フェリクスからも、あまりペオーニアを砦に出入りさせないよう言われている。
そのため、日中はペオーニアを一人にするしかない。レオンの自宅には監視のための装置が付けられており、ペオーニアを家に残すのはためらわれた。広場など人の多い場所でなら安全かと、外で過ごすよう言いつけた結果がこのざまだ。
ペオーニアを危険な目に合わせる世話係など、何の意味もない。
ほの暗い感情に身を浸しながらも、スープを作る手は止めない。ちょうどできあがったとき、ペオーニアが姿を見せた。
湯上がりで上気した頬はバラ色で、所作におかしな点は見られない。大きな動揺も混乱もないようだと確認が済んだら、ひとまずペオーニアを座らせる。
「わりぃな、俺が適当に作った。これで我慢してくれ」
鍋ごとスープをテーブルに置き、皿とスプーンを渡す。どこか身構えた様子だったペオーニアは、一瞬呆然とした表情を浮かべたが、すぐに鍋に手を伸ばした。
食欲がある様子に密かに胸をなで下ろす。食べる元気があるなら大丈夫だ。そうひどいことにはならない。レオンの経験則だ。
「今日は、ゴンサロの店はどうだった? あいつの店は、繁盛してるのか?」
突然脈絡もなく話しかけたからだろう、ペオーニアの肩がわずかに跳ねた。
「え? ええ、うん。繁盛してるわ。本当にたくさんのお客さんが来てくれるの」
伺うようにこちらを見るペオーニアに視線で促せば、安心したように笑ってから、今日あったことを話し始めた。
店での出来事を一通り語り終える頃には、鍋もすっかり空になっており、レオンは満足げに瞳を細めた。
ペオーニアもすっかりいつもの調子を取り戻し、レオンは最後の仕上げとばかりに、一度キッチンに下がってから、用意したカップをペオーニアに手渡す。
「何?」
いつもは食後にペオーニアが淹れたお茶を飲むが、今日のカップの中身は蜂蜜入りのホットミルクだ。フェリクスからもらった質の良い蜂蜜だが、使いどころがなく持て余していたのだ。
ふんわりと香る甘いにおいに、カップを渡されたペオーニアが目を丸くしている。
「今日は、あー、あれだ、トクベツだ、トクベツ」
レオンの不器用な慰めに、ペオーニアの瞳が潤んだ。泣くなら泣けばいい。嫌なことはすべて、泣いて流して忘れてしまえばいいのだから。
しかしペオーニアの瞳から涙が落ちることはなかった。強く唇をかんで一度うつむくと、次に顔を上げたときにはいつもの彼女だった。
「ふふ、トクベツって何よ。今日もいつもと変わりない日だったわよ?」
笑いをこぼしてホットミルクに口を付ける彼女に、反射的に手を伸ばしていた。
抱きしめたい、と。傷ついているはずなのに、弱った姿を見せようとしない彼女を慰めたい、と。この腕に囲いこみ、どんな危険からも護ってやりたい、と。
衝動的に動いた腕を、寸での所で止める。このまま抱きしめたら、決定的に何かが壊れる。その確信を持って、伸ばした腕を引こうとした。
こちらを見つめる蜂蜜色の双眸に気づき、中途半端な姿勢で固まる。このまま抱きしめられるはずもないが、かといって何もせず腕を下ろすのは間違っている。
ペオーニアの訴えるような、期待を帯びて潤む瞳からどうにか目をそらし、彼女の頭に手を置く。
「ちょっと、やめてよ、ぐしゃぐしゃになっちゃう!」
くしゃり、と髪をかき回してやると、抗議の声が聞こえた。
意に介さずにさらにくしゃくしゃと髪をかき回し、最後にぽん、と頭に手を置くと、ペオーニアがおとなしくなった。
かと思えば、勢いよく立ち上がり、カップを手にしたまま自室へと駆けていった。
最後に「おやすみなさい」と聞こえたから、このまま朝まで部屋から出てこないだろう。
「くそ、マジかよ……」
ちらりと見えた、真っ赤に染まった彼女の顔に、年甲斐のない情動をもてあまし、一人天を仰ぐ。しばしそうして気持ちを落ち着けると、レオンもまた自室へと向かった。
一人で頭を冷やさなければ、何を口走るかわからない。
せっかくまた、ペオーニアと自然に会話ができるようになったのだ。もう二度とぎくしゃくした空気には戻りたくない。
それぞれの自室で、二人煩悶とした思いを抱えながら、夜は更けていった。
* * * * * * * * *
翌日の朝食の席では、わずかにぎこちなさを残しながらも自然な会話が出来たことに、二人はこっそり胸をなで下ろした。
レオンとたわいない話をして朝食を終え、いつもより少し早く家を出る。昨日の今日で一人にするのは良心が許さなかったらしいレオンが、ペオーニアを穴ウサギ亭まで送ると譲らなかったからだ。
これからは毎日送迎をすると言い出しかねないレオンを、ペオーニアは必死になだめ、どうにか今日の見送りだけで済むようにした。
毎日送迎されるのは、大切にされているようで嬉しいが、レオンの日常に障りがあってはいけない。そんなことをペオーニアは望まない。
「ねえ、レオン。近いうちにお祭があるって、知ってる?」
二人並んで行く道すがら、尋ねてみる。昨日エウラリオから聞いた話だと、もうすぐらしい。言われてみれば、なんとなく街全体が浮き足立っているのがわかる。
穴ウサギ亭での仕事と、ゴンサロの料理を盗むのに夢中で、いままで気づかなかった。
「祭? ああ、冬越えの祭か」
冬の間に凍えないよう、熱を与えてくれるエルフィーゴに感謝を捧げる祭だ。
「リオさんが教えてくれたんだけどね、美味しいものもたくさん食べられるって。私、参加したいんだけど」
隣を歩くレオンを伺うと、眉間にしわが寄っていた。人目に付かないよう気を付けている普段の様子からするに、祭などという人の集まる場所は苦手そうだ。しかし美味しいものは食べ歩きたい。
「穴ウサギ亭はどうするんだ?」
「あっ! 忘れてた……」
仕事はどうするのだと問われて、失念していたことに気づく。祭の間も穴ウサギ亭は営業するのだろうか。それとも屋台でも出すのか。
ゴンサロに確かめる必要がある。いつも通り営業するなら、レオンに頼んで夕方以降に見に行きたい。屋台を出すなら、店番をしながらでも他の屋台を見られるはずだ。
「つってもな。俺は祭の期間に時間は取れねえんだよ……」
平時より警備に気合いが入るとは言っても、祭りの間は何かと問題が起きやすい。レオンは有事の際に素早く事に当たれるよう、砦での待機を命じられている。
祭を楽しむような年齢はとっくに過ぎたし、ともに回るような相手もいないために文句もなかったが、今年はペオーニアがいる。
彼女一人を、祭で浮かれた民衆の中に放り込めば、要らぬ厄介を引き起こす。妙な確信があった。
「大将に相談してみるわ。それならいいでしょう?」
レオンと祭に繰り出せないのは残念だが、仕事なら仕方ない。穴ウサギ亭が何をするか知らないから、本当に祭に参加できるかもわからないのだ。
「そんなに祭に行きたいのか?」
祭に執着を見せるペオーニアを、レオンが珍獣のように見つめる。レオンからすれば、人でごった返すだけの騒ぎに、なぜ参加したいのか理解できない。
「ええ! だって、きっと楽しいでしょう!?」
勢い込んでレオンに迫るペオーニアは、瞳を輝かせ、祭が心底楽しみで仕方ないと訴えていた。
その勢いに気圧されて思わず頷く。本人が楽しめるならそれでいい。
「わかった。俺もどうにか出来ないか考えとく」
実質的な祭参加の許可が下りたことに、ペオーニアは内心拳を突き上げた。満面の笑みでレオンを見上げ礼を口にすると、「っ、おう」と、まごついた返事が返ってきた。
「あら、もう着いちゃったわ」
穴ウサギ亭が見えたことに、落胆を隠さず口に出す。働くのは楽しいが、二人きりの時間が終わってしまうのが惜しかった。
「残念だわ、もっと二人で話したかったのに」
「家に帰りゃ、いつでも二人だろ」
レオンの言葉にはじかれたように見上げると、優しく苦笑するレオンの顔があり、頬が熱くなるのがわかった。
「も、もう行くわ。ほら、すぐそこだから大丈夫よ!」
赤く染まった顔を見られるのがなんだか気恥ずかしくて、早口でまくし立てる。二人の時間が終わるのが惜しいのに、レオンといると心臓がせわしない。
意志に反して弾む胸を押さえ、穴ウサギ亭に向かって走る。店に入る前に一度振り返ると、レオンが手を挙げて応えた。それに手を振り替えし、今度こそ穴ウサギ亭へと入っていく。
ペオーニアが店内に消えたのを見届けると、レオンも踵を返した。今日も砦で訓練がある。それ以外にも、フェリクスに祭のことを相談したい。ペオーニアが願うことはできる限り叶えたいのだ。彼女の笑顔を想い、足を速めた。




