空っぽの人間
今までのレイドの人生に、本当がどれだけ存在しただろうか?
すべての人間は日常生活において、己の本心を隠しながら生きている。楽しくもないのに笑い、嬉しくもないのに喜ぶ、それが人間だ。人間社会で生きるとはつまり、演技をするということに他ならない。
誰もが本心を偽の心で塗りつぶし、思ってもいないことを口にし、行動するものだ。
そしてレイドは、演技の比率が限りなく百パーセントだった。
普通の人間ならば、生活において演技と本音の割合は、六対四といったところだろうか。みな趣味の世界で生きることがあり、本心で他人と付き合うことがある。恵まれ努力した人間ならば、仕事においてすらも本心で生きる。
レイドの父は、まさにそうだった。常に己を貫き続け、自分の意思で生き抜いてきた。
本心を捻じ曲げたのは、ただの一度だけ。レイドを作ったことだけだ。
それに対し、レイドの生活は嘘にまみれた物だった。
父の前では本心を隠し、認めてもらうための行動、演技をし続けた。いい子を演じ、悪い子を演じ、面白い子供を演じ、めんどくさい子供を演じた。
メイドたちの前でも、演技をしていた。父に関わりの深い者、それらに対して本心を曝け出すことはしない。もしかしたら伝え聞いた言葉で、父は自分を認めてくれるかもと考え、基本はいい子で、だが人間らしさを残し、親しみやすい人間を演じていた。
その演技を解いたのは最近、メイドとの関わりでは、大半が演技だった。
冒険者として活動する時も、もちろん演技だ。本当のレイドとは程遠いほどに完璧な人間。
力はもちろん、人間性すら完璧と思わせるほどの、徹頭徹尾、完全無欠の演技をこなし続けてきた。戦う時はもちろん、ともに笑い合っている時も、仲間が傷つき、涙を流している時も。
表に出した表情はすべて演技の物だった。
ほぼ百パーセント己を貫き生きた父とは真逆の、ほぼ百パーセント己を偽り続けたレイド。
演技に演技を重ね、本来の自分とはかけ離れたレイドは出来上がった。
その結果だろう。もはや誰にも本当のレイドがどのような存在なのかは分からない。
優しい人間なのか?
厳しい人間なのか?
怠惰な人間なのか?
勤勉な人間なのか?
強い人間なのか?
弱い人間なのか?
英雄なのか?
凡人なのか?
もはやレイド本人にすら、分からない。
そんなレイドが唯一、本当だと断じられることが、父への憧憬だった。
始まりが父への憧憬。そのスタート地点が歪んでいたからこそ、自分が何者かすらわからなくなった。苦しむ原因になった、唯一の本当。
もしも始まりが別の物であれば、レイドはもっと己を貫く、強い人間になっただろう。
努力の果てにたどり着いた境地とはいえ、多数から称賛されるほどの能力を持った人間になれたのだ。才能は十分すぎるほどある。
天才にはなれずとも、秀才レベルの才能が。
その才能を駆使し、今よりももっと幸せな、人として最高ランクの幸せを享受できていたはずだ。本当の笑顔を見せていたはずだ。本当の涙を流していたはずだ。
英雄を目指し、自身の性別すら偽る人生など送らなかったはずだ。
一人の女の子として、生きていただろう。
こんな混沌の人生など一瞬でも垣間見ることのない幸せな人生を歩んでいただろう。
しかしそれはもしもの話。最初に父への憧れを抱き、それが困難な道と知りつつも歩もうと思った時点で、レイドの人生は決まってしまった。
誰もが敬遠する、誰もが逃げ出す、誰もが絶望する。
いばらの道を歩む人生を。
憎しみから派生した喜びなどでは耐えられるはずもない途方もない苦しみ。己の心を蝕み続け、やがて崩壊させるほどの絶望。
深い深い悲しみに落ちたレイドは、父への称賛以外の欲望を。
本当を口にする。
「誰か……私を……助けて……!」
誰にも届かない本当の叫び。
自身を蝕み続ける苦痛から逃れたいと思った、初めての懇願。
今まで、絶対に口に出せなかった。
この本心を伝えてしまえば、もう今までの道には戻れないから。父からの称賛を浴びたいという目標を達成するための道へと、二度と戻れないから。
そして誰も助けてくれなかったら、レイドにはもう何も残らないから。
唯一持っている本当が掻き消え、空となった器しか残らない。
真に生きる意味がなくなり、死ぬしか道がなくなるから。
感じた喜びがほんの微小の喜びだけの人生で幕を閉じるから。
だから誰にも、助けなど求められなかった。
そして今になってようやく吐き出したレイドの本心は、誰にも届いていない。
目の前に映るのはただの暗闇。手さぐりで辺りを探しても誰もいない。
どれだけ大きな声を張り上げても、なにも返ってこない。
憧憬を捨て、助けを求めたのに。
空っぽになる恐怖を捨て、勇気を振り絞ったのに。
すべてが無駄になり、無になる。
「誰か私を助けて!」
虚空に響く一人の女性の虚しい叫び。
涙を流しながら、暗闇の中を進み続ける。
手を伸ばして、助けを求め続ける。
けれど、その手を握る人間は誰もいない。レイドの手は、空を切り続ける。
唯一持つ憧憬を捨て去り、魂からの叫びを繰り返し続けているのに。喉がかすれるほど、何度も何度も何度も何度も叫び続けているのに。
誰もレイドの呼びかけには応じない。
「誰か……助けて……」
歩みを止め、とうとう膝をつくレイド。
結局は、誰もレイドに手を差し伸べない。
心からの懇願は誰の耳にも届かず、誰の目にも映らない。
ただただ無意味に、無為に終わる。
本心からの叫びを、助けてほしいという願いが消えうせたとき。
レイドの心には、何も残らない。
何をするべきかわからない。何をしたいのかもわからない。
空っぽの心のまま、レイドは暗闇の中でただ一人、倒れ伏す。
誰もいない虚しい空間。
この世界において一人ぼっちなのだと、そう突きつけられた錯覚が、レイドを襲う。
(もう……)
もはや、声すら出ない。
懇願に懇願を重ねたレイドの声は完全に消失する。
最後の勇気は、こうして無意味に終わった。
あとはもう、待つだけだ。
空っぽになった心で、誰からも助けてもらえなかった哀れなレイドの人生が終わるのを。
ただ待つだけ。
(何も残らない人生だったなぁ)
これまでを思い浮かべ、自分がいかに虚無な人間であったかを悟る。
英雄になる目標を立てても、結局はただのいい人どまり。
グレンのような、圧倒的な力を持った真の英雄にはなれなかった。
唯一持つ本当、父の憧憬から派生した認められたいという夢も、叶えられなかった。
血のにじむような努力の果てに身につけた、この世界でも最高クラスの知力体力は、己のために振るい続けて何も残せなかった。
きっと、レイド以外がこの能力を持っていたら、数多くを残せていたことだろう。
叶えることのできないバカげた目標など持たず、数多くある出来ることを確実にこなしていき、人々の心に残り続ける存在になっただろう。
(私はなんて、愚かな人間なんだろう……)
自分の愚かさがたまらないほどに虚しい。
せっかく手に入れた力を有効に活用できず、無駄にしてしまった自分が情けない。
己の不甲斐なさ、そして目標を達成できなかった悲しみを抱えながら。
暗闇の中、己の視界もまた暗転させようと、ゆっくりと瞼を閉じる。
自分はもう死ぬ。何も残せぬまま。全く無意味な人生のまま、死にゆく。
しかし負の感情に苛まれながらも、この苦しみから死という方法を持って解放されることに、安堵もする。
(やっと……楽になれる)
かくしてレイドの意識は、完全な暗闇へと落ちた。




