2.温もりはそこに。
カンカンカン! カンカンカン!
脳天に音という名の凶器が振り下ろされる。なにかでなにかを叩くような、そんな音だ。
「カンカンカン! カンカンカン!」
今度は誰かの声となって鼓膜を通して直接脳みそをかき乱した。
「起きてーーーーーーーーーーーーーー!」
「わーーーーーーーーーーー!」
飛び起きた。脳みそにメガホンを埋められ叫ばれたのかと思った。
スマホのアラームは十分おきに二時間にわたって鳴り響くよう設定するのは基本だが、それを凌駕するやかましさだ。
布団越しに足が重たくなる。金髪の幼女が楽しげ俺の上に乗ったのだ。女の子は鍋とフライパンのようなものを持っていて、それを叩き合って不快な音を発していたのだと知る。
「やっと起きたねえ? まだ眠たい?」
「あーいや、眠たくないよ」
「よかったねえ。お腹すいた? ご飯食べる?」
「あー……お腹……」
俺は慌てて腹をまさぐった。伸ばした足を引っ込めると、女の子はひゃん、と高い声をあげながらベッドに転がる。
痛みはおろか、傷すらもなかった。
あれは夢だったのか。だとしたら今はなんなのか。場面が変わっただけでまだ夢のなかにいるのだろうか?
しかし俺の頭のなかには、腹が刺突されたときの苦しみが残っていた。思い出そうものなら痛みまでもが現れてしまいそうになるほど鮮明にだ。
「もー。いきなりなにー?」
とジタバタとベッドに転がる推定五歳前後の幼女は日本人とはかけ離れた顔つきをしている。よく見ると、両耳の先端が尖っていた。
部屋を見渡してみる。
俺が寝ているベッドと同じものが他に五つ並んでおり、壁沿いには大きな木製の本棚が並べられ、天井からは古びたランタンがいくつか吊るされている。そのうちのひとつは、まだ仄かな火が静かに灯っていた。
俺は直前の記憶を巡らす。
「よい旅を」と男は言った。死んでいれば旅もくそもないが、こうして俺は生きている。
確信するにはまだ早いが、これが夢ではないとすれば、鬼のお面をかぶった男の仕業であるのは間違いないだろう。
足音が聞こえてきた、部屋の角から直接続く階段からひょっこりと女性が顔を出したあと、慌てた様子でやってきては女の子を抱えて頭を下げた。
「申し訳ありません! 娘がとんだ失礼を!」
母親と思われる女性は、こちらが恐縮してしまうぐらい大げさに謝罪を繰り返す。呆然としながら母親の後頭部を見つめつつ、娘よりも長い立派な耳がついているなと思った。
「ブレルニール様…どうか……どうか娘だけは……罪は私が背負います」
そこで俺は我にかえり、慌てて首を振る。
「待ってください。なにかの間違いです。俺はなにも怒っていませんし、なによりブリの煮付けみたいな名前じゃありません」
「え……ブリニツ……?」
「ブリの煮付けです」
「煮付けだなんてそんな! 本当に、本当に申しわけありま--」
「だから! ちょっと待ってください」
怯えた表情を見せる母親に心を痛めつつも、一息漏らしてから冷静さを取り戻す。相手が混乱しているように、俺だってなにがなんだかわかっていない。大切なのは冷静になることしかない。
恐怖に震える母親と困ったような表情で抱えられている娘に、ブリの煮付けではないことを説明する。なんでも、そいつと俺は顔が似ているらしかった。
黒の装束というおよそ一般人は着ない服装--ただの学ランだが--を身に纏わせていることからも、この国の王族である「ブレルニール・エフェルメント」と勘違いしていたのだ。
なんでも、ブリの煮付けメントみたいな名前をしたやつは王の子息でありながら悪名高く、機嫌を損ねようものなら親子で築いてきたこの宿屋も一瞬で廃墟にされてしまいかねないのだとか。
だから懇切丁寧に王族とは関係ないことを伝える。そして安堵のあまり膝を地につける母親に、もうひとつ質問を重ねる。
俺はいったいどうして、ここで眠っているのか。
「宿の裏に小山があるのですが、そこへ火を焚く薪をとりに行っていたのです。そしたら、娘が見つけたのです」
「それはいつですか?」
「昨日の夕方頃です。外傷もなく眠っているだけのようでしたから、とにかく安静にさせようと思いここへ……その時、城のほうに手紙を用いて一報してしまいました……おそらく、もう間もなく使いの方がやってきます」
「恐ろしい王族だと思っていたのに、助けたということですか?」
率直な疑問だった。これほど怯えて震え上がっているのにも関わらず、助ける意味などないように思えた。
母親はゆっくりと頷く。温もりに溢れた、優しい表情だった。
「私は宿屋の娘ですから。どんな方であろうともほうっておけません」
「ほうっておけません!」
母親の言葉に娘も高らかに続いた。
俺はふたりの優しさと勇気に、敬意を抱いた。
「あなたはどうして、山のなかに?」
今度は母親が質問をした。
しばらく考えてみるが、妥当な答えを見つけることはできなかった。ここがどこなのか、どういう経緯でここにいるのかもわからない。
そのことを伝えると、母親は娘を抱いたまま立ち上がる。
「ここは宿屋ですから、素性なんてどうでもいいの。わからないことがあったら聞いてください。もうすぐ食事の準備ができるので、そのときにでも」
なにもかもが不明で、なにもかもが不安であるはずの現状のなかでも、穏やかな面持ちでいられるのは彼女たちふたりの優しさと笑顔のおかげだ。
恥ずかしいから口にはしないけど、おかげで冷静でいられる。
どうにかして元の生活を取り戻そうと誓う。
でもまあ、その前に、まずは腹ごしらえだ。
俺はベッドから降りて、ふたりの親子に続いて階段を下りる。