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―――~~♪
うるさい。数ヵ月前は好きな曲だったのに、最近は聞くとイライラする。アラーム音に設定しなきゃよかった。手を伸ばしてベッドサイドテーブルの上で震えているスマホを取ると、画面にはAM6:30の文字。6時のアラームには気付かなかったみたいだ。
スヌーズではなく解除を選択。また枕に顔を埋める。起きなければならないのはわかっている。わかってるから……
と、ここで違和感。顔が重たい。頭を上げるとマクラカバーにベージュとピンクがうっすら付いている。しまった…昨日の夜、メイクを落としてない……顔が老ける!慌てて飛び起きると、服はスーツのままで、ご丁寧にジャケットまで着ていた。
「ヤバイヤバイヤバイちょっ待って、昨日いつ帰ったっけ……」
頬に手を当て記憶を辿ってみるが、昨日の帰宅後が思い出せない。残業して9時過ぎには会社を出た。そして寄り道もせずに家に帰ったはずだ。
「あっ!」
エノキノコ!手を洗わなきゃ…狐の病気が!昨日狐に肉まんをあげて手を舐められてる。いや、というかお風呂に入らなきゃ。どうしよう、時間がヤバイ。
スマホを見ると6時37分。朝の時間は過ぎるのが速すぎる。纏めていた髪を解き、手櫛を通しながらベッドを降りると、部屋の隅に見慣れないものが鎮座していた。
「ーーっきゃぁっ!?」
思わず叫び声を上げる。狐だ。昨日の?だが昨日とはうって変わり、目を見開き、耳を立てて警戒しているようだ。どちらかと言うと驚いている?尻尾は前足に巻き付けて、寒いときの猫みたいになっていた。
何故部屋の中に狐が入り込んでいるのか。付いてきた?いや、だとしても招き入れた覚えはない。記憶はあやふやだが流石に部屋に入れていないだろう。
「え、何、あなた付いてきちゃったの?どうしよう、ごめんね?帰ってくれない?」
狐の目を見ながら話しかける。通じるとは思わないが他にどうすればいいかもわからない。両脇から抱っこして外に出せばいいのだろうか。できるだろうか。暴れられたらと思うと怖くて近寄れそうにもない。それなら保健所に連絡すべきか?保健所は……可哀想か……。
「ーーイヤ」
………。
「はぇ!?」
狐がもごもごと口を動かした。いや、喋った。喋った?喋ったのだろう。たぶん?はっ?
たまたまそう聞こえただけかもしれない。きっとそうだ。よく動画なんかで猫が「マグロチョーダイ」とおねだりしているように聞こえる、といったものが投稿されている。きっとその類いだ。にしてははっきりとした発音だったように思えるが。
「は…ははっ……えっ…と……」
「ごめんなさい、いきなりで驚くわよね。う…私は荼。化け狐みたいなものよ。」
狐がすっと目を細める。
喋った。喋りました。とても流暢に自己紹介もされました。化け狐?人ならざるもの?そもそも人ではないが。この世のものならざるもの?そんなもの存在するのか?
「……ニガナ?」
たっぷり十秒ほど空けて狐の名前らしきものを繰り返す。喉が詰まって他に言葉が出ない。それにしても、ニガナ?苦菜?菜の花のことか?名前としては聞きなれないものだ。
「そ。あんまり可愛くない名前でしょ」
可愛いものでは無いらしい。響きとしても確かにちょっと……。
「お願いなんだけど、当分面倒見てくれないかしら。今家無いのよね。あ、人の姿にも成れるから家事なんかは手伝うわ。なんならバイトでもして家にお金入れるから。お願い!」
そう言うと狐は床へ伏せた。土下座……のつもりなのだろうか。
「いや、え…でも……」
「ダメ?」
「ダメでは……」
「ホント?ありがとう!よかったー。あ、私獣臭いかしら。お風呂入らしてくれない?人の姿になるから一人で入れるわ。石鹸とタオル貸してくれる?」
そう言うと煙を纏ながら狐が黒い着物の女の人になった。黒い髪を背中まで垂らした、どちらかと言えばつり目の美人だ。しかし近付きがたい雰囲気はない。フェミニン系?ナチュラル系?のような。まつ毛なっがい。
「……石鹸はお風呂場にあります。タオルは後で洗面所の所に出しておきますから。体を洗うのに使うタオルでしたら、っと、これを。」
取り込んで洗濯かごに入れたままのタオルや部屋着の山から薄手のものを一本引っ張り出して渡す。
「そ?ありがとうね。お風呂場は……ここかしら?ここね。じゃ、借りるわー」
何だったんだろう、今のは。嵐みたいな人だった。夢?いや、シャワーの音が聞こえるから現実か……。とりあえず今日は風邪ってことにしよう、うん。
会社に連絡を入れる。できれば午後から出社します。
スマホを置き、暫く考える。あのニガナという人?は本当に妖怪なのだろうか。事実は小説よりも奇なりとは言え、あまりにも現実離れすぎる。風呂に入る妖怪?いや、もしかして幽霊?どちらにせよ奇には代わり無いか。でも、家に住まわせてって言ったってどうすれば――
「ちょっとぉー」
「はいぃっ!」
風呂場から呼ばれた。考え込んでいたので、大袈裟に肩が跳ねる。恐る恐る様子を伺いに行くと、
「ごめんなさいねー、これ、何が何かわかんなくて。」
彼女はボディーソープのボトルを手にし、風呂場から上半身を覗かせていた。あぁ、湿気が…雫が……。
「?……それがボディーソープです。下の段の右からシャンプー、トリートメント、チューブがヘアパックです。」
「トリートメント?ヘアパックって髪の毛のパック?」
……この人は横文字に弱いのか?いや、妖怪と言っていたし着物だったし、昔の人なのか?
「トリートメントはシャンプーの後に髪に付けるものでヘアパックは週1でダメージケア……あー、今はしなくていいです。」
「トリートメントはリンス?」
「あっ、はい、リンスみたいなものです。すごいリンス。化粧落とすなら上段の緑のチューブ、その後ピンクのチューブの洗顔料で顔を洗ってください。」
「何だかめんどくさいのね」
えぇ、めんどくさい。かなりめんどくさい。いちいち説明していかなければならないのか。まだシャンプーやボディーソープくらいは分かるみたいだが。
先が思いやられる。少し頭が痛くなってきた。お風呂入りたかったんだけどなぁ。