このミチ ~都会編~
いつもそうだ。
大切なものは失ってから気づく。
わかっているつもりでも、失わなければ決してわからないものなんだ。
『このミチ ~都会編~』
(はぁ、鬼門の火曜か。くっそー帰りたい)
とある体育大学に通っていた元女学生、西海創はそんなことを呟きながら、職場へ行くためのバスを待っていた。
彼女は社会人一年目である。生まれてから大学を卒業するまで、学び舎は県内だったが、就職が決まった場所は都心になった。そして彼女はついに親元を離れ、都心での一人暮らしが始まったのだ。
「なんとかまにあったー!」
「出てくるの遅いだもん、体操着は大丈夫?」
「うん! かんぺき!」
「はいはい、あぁもう。口元ケチャップが残ってるじゃない」
私の後ろで同じバスに乗る女の子とその母親がやってきた。女の子は白い通学帽子を被りセーラー服に似た制服を着ている。恐らく私立の小学校に通っているのだろう。私はスマートフォンでニュースを眺めながら、その親子の会話を聞いていた。そして予定時刻より五分遅れて赤いバスがやってくる。
バスに乗り込み、近くの手すりに掴まる。その後ろを女の子が通る。私の横にある手すりに掴まろうとしたら、窓の向こう側で母親がバスの奥側を指差す。
“危ないから、後ろの席に座らせてもらいなさい”
母親はそう女の子に伝えているのだ。それを無視することはできず女の子は少し膨れ面をして、スーツを着たおじさんがすでに座る二人席に、ちょこんと座っていた。
私はそんな様子を見て、女の子が少し羨ましいなと思った。
一人暮らしを始めてから、どれだけ親に守られていたかを知ったからだ。
大学生の頃に、何度、夜遅くに帰って“しっかり休みなさい”と注意されたかわからない。
正直、いちいち連絡することも面倒くさかった。そして自分の体調は自分が一番把握していると反発さえしていた。あまつには友達の家に泊まることを連絡し忘れて呆れられたことさえあった。
しかし、一人暮らしをしてからそれがどれだけありがたいことだったかわかる。
大学生のときにすでに一人暮らしをしていた友達がよく言っていた“電気のついてない自宅って寂しいよ”、“独り言が増えるよ”という台詞。
私は一人でいる時間が好きだったということもあり、まさか自分があてはまるはずがないと思っていた。思っていたのだが。
スマートフォンでニュースを見つつ、親に送った連絡が返ってきていないかマメに確認する始末だ。正直なところ会いたくてたまらない。だが連絡はこないまま私は画面の上に小さく映し出されている『6:47』の文字を見てため息をつき画面を消す。職場と近いところに住んでいても朝礼が早いため、こんな時間にバスへ乗り込まなければいけないわけである。
そしてふと顔をあげた。私にとっての『ミチ』は都会の大通りになった。四車線もある大きな通りである。その周りにはチェーン店が立ち並ぶ。こんな朝早いのに、人が行き交いする。それがあたりまえなのだろう。それは便利でもあり、その便利のために人は重たい身体をばたつかせていることでもあるのだと感じた。それは働き手にまわったからこそわかる視点なのかもしれない。
都営電車の駅を通るために、バスは高架下へ潜っていく。そこにはぐちゃぐちゃと車がひしめきあっていた。バスは失速する。私は隣の車を窓越しに見つめる。とび職風の兄ちゃんはタバコを吸い、背もたれにもたれかかり両手はハンドルから下ろしていた。
気だるさと不機嫌さがタバコの臭いと共に伝わってきそうな心地がした。気が滅入りそうだ。
そんなことを考えているうちに私の職場のあるバス停のアナウンスが入った。この時間帯のバスで、ここで降りる人は私しかいないようで、私は手すりにあるボタンを押す。
ラーメン屋が近くにあるこのバス停で、周りの視線を若干感じながら降りる。このバス停から大通りを少し歩き脇道に入ると私の職場があるのだ。
私は今、デイサービスで介護職員として仕事をしている。朝にやるべき仕事を頭に浮かべながら、私は職場の扉を開けるのだ。
***
私の職場は、介護職の中では優遇されたほうであるのは間違いないだろう。週休二日は約束されているし、仕事の段取りが良ければ定時に帰れる。だが、私にとっては過酷に感じてしまうものだった。まず職場には私に含めて四人しか職員がいない。そして常勤で女性は私だけである。大学で女子部に所属していた私にとってはそれだけでも大きな変化だった。
衝撃的だったのは、職場のトイレにいわゆる『三角コーナー』が設置されてなかったことだった。私にとっては信じられない光景だ。
また、施設長に言われた最初の言葉は“女性スタッフが入ってきて、雰囲気が変わることを期待している”というものだった。これも私にとって違和感しかないものだ。
私は、性格は至って男っぽい。そして話し言葉もあまりおしとやかではない。元気と気合でこれまでやってきたような人間なのだ。何気ない言葉だったのだろうが、私をひどく不安にさせるものだった。
そしてここの職員は良くも悪くも『真面目』だった。他のチェーン店では指摘のされない場所まで重箱を突くように言われる。私もものぐさなところがあることも要因のひとつだが、それでも細かい。そして指摘をされるときも私の『能力不足』に対して言うのではなく、私の『やる気・想い』に問題があると言われることがきつくて仕方がなかった。
人間性を否定されているように感じてしまうのだった。日に日に寝ても覚めても考えることが、デイサービスに来られるご利用者のことばかりになっていく。当然疲れなんてとれるわけがなく、気づけば夜中に何度も目が醒めるようになっていってしまった。自炊する気力も失せていき、外食も増えていく。そしてそんな生活に拍車をかける出来事が起こる。
***
「うひゃぁ……」
私、西海創は思わず声を漏らした。荒れた息を整えながら何事もなかったようにスマートフォンに目を向ける。画面上には『19:45』の文字。私は視線を帰るべき方向の道路に向ける。赤いバスが遠く彼方へ消えていく。目の前でバスを逃してしまった。
大通りであるため、店舗から家に帰るバスに乗るには歩道橋を渡って反対車線に行かなければならないのだ。流石にバス到着予定時刻の二分前で店舗を出たのはまずかった。
バスを一本逃すと、次のバスが二十分後になる。私は諦めて、欠伸をしながらスマートフォンのゲームアプリを起動するのだった。
そうしながら、私はまだ連絡を返していない友達のことを想った。その友達とは大学での部活、サッカーを共にした同期の子である。田んぼ道を一緒に自転車で走り、恥ずかしながら夢を語った仲の子だ。その子は現在も就職しながらサッカーを続けていた。
しかし、仕事とサッカーを両立することは心身共に負担となったのだろう。無理が祟って脳に疾患ができてしまったのだ。血管が決壊しないように降圧剤を飲んでいるのだという。彼女は今、感情を顕にすることすらままならない状態になってしまった。
私はそんな大変な状況を彼女からあっけらかんとした文章で送られ、なんと送ればいいのかわからなくなってしまったのだ。昨晩その連絡がきたのだが、まだ返すことができていない。
彼女は大学時代から『頑張り屋』であり、誰より『気遣い上手』な人間だった。部活でも些細な変化に気づき、声をかけ部の雰囲気を和らげる存在だった。それは私には持っていない能力であり、とても眩しく見えたものだった。後者に関しては特に感じている。
そんな彼女がどうしてこんな目に遭わなければならないのか。この世界は『頑張り屋』がバカを見るような仕組みになっているのではないか。
連絡ツールの中には、同じく連絡を返していないものがある。それは私の仕事での同期で繋がっているグループでの連絡である。職場には同期はいないが、他の店舗に配属されている同期が何人かいる。
その同期間で開かれたお酒の席で発せられる言葉は“楽勝”という言葉だった。
正直なところ、意味がわからなかった。到底自分と同じ仕事をしている人間の台詞とは思えなかった。『人生の第四コーナー』を走る人間を相手に仕事をしていて何故楽勝だと思うのか。
しっかりと仕事と向き合っていないのだろうと思った。ここでもまた、理不尽だと感じてしまった。
もう私も頑張ることをやめてしまおうか。
そんなこともまで考えてしまう。
……そんなことを考えているうちにバスがやってきた。私は考えることをやめバスから見える景色をぼんやりと見ていた。見慣れたファストフード店。見慣れた灯の群。――しかしその中に、私の意識をごっそり持っていくものに出会ってしまう。いや、表記的には『出遭ってしまう』のほうが正しいだろう。
小さな市民ホールにでかでかと書かれた『故 大泉洋太 葬儀』の文字。それは一ヶ月前に脳卒中でデイサービスの利用を休止していた方の名前に間違いがなかった。私は一瞬の出来事にしばらく頭がフリーズする。
(同姓同名な人だろう。私の知っている方の名前ではないはずだ)
私はすぐにそう思い直そうとする。まるで脳に備わっている防衛機能が発動したかのように。しかし、一方でそうではないと冷静に受け止めている自分もいた。
頭が混乱したまま、あっという間に自宅近くのバス停についてしまった。もう本当に何も考えたくない。コンビニに入り、食べたくもないおにぎりを買って、家へと戻った。
***
そして職場で確認をしたところ、私が見つけたそれは私の知っているご利用者と一致しているということがわかった。施設長は冷静な目で淡々とその事実を伝えていた。経験を積んでいくと動じなくなるものなのか。――麻痺していくようなものなのか。
(私はあの方に何かできたのだろうか)
そう考えるということは、やはり私の『やる気・想い』は足りないのだろうか。
絞りあげた果実を力任せに握りつぶすような心地だった。どうやっても、もう雫が落ちてこない。
私はどろんとした意識の中、バスに乗っている。些細な振動で足もとがふらつきそうになる。注意していないと乗り過ごしてしまいそうだった。だが、そんな中でも今日は帰って後に楽しみがあった。
『腐れ縁の人』が私の家に泊まりにくるからだった。
その人は私の暮らしている場所の近くに、通っている学校とバイト先がある女の子である。朝早くに用事があるときに私のところへくる。
他愛のない話をしながら、ご飯を一緒に食べる。今まではあたりまえのようにしていたことだが、ひとりでいることが増えた今ではそれも非常にありがたいことだった。
家に帰ると、合鍵ですでに家に入っていた彼女が夕飯を用意してくれていた。そのご飯を食べながら、いつもと同じように雑談をする。その中には私が職場で感じている嫌なことも含まれている。謂わば、愚痴だ。しかし不思議と言葉にしてしまえば、些細なことのように感じてしまう。
そして話している途中で、彼女はこんなことを言った。
「というかね。ヒトほど生存本能が働かない生物はいないよ」
「ん、生存本能?」
彼女は動物関係の専門学生である。だからこそ、そんな視点から見ることができるのだろう。
「そう。生存本能。他の生物は『生きること』にもっと貪欲だよ。あの手この手で生きようとしてる。でも人間ってさ食べ物は簡単に手に入るし、天敵も基本的にはいないしさ。生きることがあたりまえになってるから、平気でご飯は抜くし、休むことを怠るじゃない」
私はその言葉が妙にストンと心に落ちたのだった。
人が働くのはなぜかと言えば、突き詰めれば『生活をしていくこと』だ。
自己実現なんてかっこいい言葉があるが、それにより心身を壊してしまったら本末転倒なのだ。
私は『私』を健やかに、幸せにしようとしてもいいのか。
***
それから私は働いてもらったお金、気になるものは迷わず買うようにした。
大好きなコーヒーに、座りやすいクッション、履きやすい靴。そして、どこにでも行けるように自転車を買った。
『働いて得たもの』がやっと見えてくるようになった。お金をはじめ、自由な時間がある。そして私と関わるご利用者の笑顔や感謝の言葉をもらうことが多くなってきた。堅物な男のご利用者の投げキスをもらったときには、照れくささとおかしさ、そして充足感を感じることができた。
怒られることなんて山のように今もあるわけだが、その分、仕事の同期達より良い経験ができていると思うことにした。長いスパンの中で、必ず私が最後に笑ってやる。そんな気持ちを心に秘めておくわけだった。
明日から、通勤で使う大通り、このミチを新品の自転車で通ろう。好きなように走っていこう。
上り坂は歩いて、下り坂は駆け下りて、高架下は車の雑音を楽しもう。
END
全ての頑張り屋さんへ。
頑張り続ける資本(心身)を大事になさってくださいね。