独楽 第0号(2013年3月) ※まとめて読みたい人用
『独楽』
目次
宝石 はじめ四篇 梅野 りつ
コタツ・ミカン・アイスクリーム Y作
神さまを探していた 末村 夕季
墓守の子守唄 灰白湯
九想図
ぼくのかんがえたさいきょうのプリキュア 浦木 英智
宝石
梅野 りつ
頭の中の宝石が
差し込む細い光にきらめき
その光がまた別の石を輝かせ
ちかちかぎらぎらと眩く反射しあうので
どんなささいな物音も
あなたのすてきな告白も
おんなじように響くのです
いらいら、と
この頭が割れるまで
輝きの大合唱は止みません
ですから黙っているのです
差し込む細い光にはじまる
焼けつくほどのきらめきを
堪えているのでわたしは精いっぱいです
くず
ぼろぼろの
すかすかの
くずには
月が親しげに話しかけ
街灯はそっと頭を撫でる
よれよれの
ぼさぼさの
くずにも
気づかないときも
そうでないときも
今も
きっと今も
海
海は手を伸ばし大地を削る
こいねがう潮騒の音
一つだったものが二つに分かれ
届かない空ばかり見るので
もう一度
もう一度と
柔らかな砂に
険しい岩壁に
鮮やかな珊瑚に
人の足に
打ち寄せては引いてゆく
空はあおく
海もあおく
潮騒の音はまだ止まない
この星
日の光がべたべたと触れてくる
顔を背けても
青色が空から滴り落ちて
目の中へ入り込もうとする
月はこちらへ駆けてくるし
見上げた空はまんまるで
引力は頭の方をぐいと引っ張る
雲は溶けて、ぼろぼろはがれ
雪のひろびろに落ちていく
私という持ち物を落っことさないよう
引っつかんでいる間にも
辺りは
ぐるりと
コタツ・ミカン・アイスクリーム
Y作
コタツには魔物が棲んでいる。それはおそらく真実だ。特に今日のような日には。
分厚いカーテンに隠れた窓の外は、雪で真っ白に覆われていた。耳を澄ますと、猛烈に吹きつける氷雪が窓枠をカタカタと震わせている。一度外に出れば、たちまちの内に体温を奪われ鼻から一筋の涙を流すことになるだろう。
既に卒論の提出も終わり、わざわざ大学へ行く用事もない。食料の備蓄も十分にある。今日一日を六畳一間の自宅で過ごす決心を改めて固め、俺はコタツの上にたんまりと用意したミカンに手を伸ばした。
「あ、ミカン私にも剥いて」
コタツを挟んだ反対側、こんもりと盛り上がった布団から声が聞こえた。声の主は、寝そべって肩まで潜った姿勢で雑誌をめくっているらしい。しかし、わざわざ剥いてやる義理はない。
「自分で剥け」
「ぶー、ケチ」
抗議を軽く無視する。ミカンの真ん中に親指を差し込み、皮をヒトデ状に広げていく。そうして皮と分離した中身を房ごとに分けようとしていると、コタツの中からごそごそ物音がした。
どうやら、先の声の主が中を通ってこちら側に出ようとしているらしい。伸ばした足の上に重量がかかり、その間から黒い頭が出てくる。中に籠っていた熱気がむわっと顔に押し寄せ、俺は反射的に顔をしかめた。
「おい、狭いだろうが」
効果はないだろうが、一応そう抗議してみる。重くて苦しいということはないが、このコタツは一辺に二人入れるようには出来ていないのだ。
「別にいいでしょ、減るもんじゃなし。それより、あーん」
俺に寄り掛かった彼女――倉田凛は抗議を軽く受け流すと、小鳥が親鳥にするように口を開けた。どうやら抵抗は無意味らしい。俺は諦めてミカンを一房取り分けると、丁寧に白い筋を取り除いて口に入れてやる。
数回口をもごもごとさせ、しばらくして細い喉が小さく上下する。そして、凛は満足げに頷くと、再度口を開けた。
「ん、おいしい。もう一個」
「はいはい」
倉田凛は、俺のいわゆる幼馴染だ。同い年だが、中学の頃から変化の無い外見のせいで随分年が離れて見える。確実に機嫌を損ねるので聞いたことはないが、身長はおそらく一五〇センチに届くかどうかというところだろう。今も、彼女の体は俺の膝の上にすっぽり収まっている。傍から見たら、年の離れた兄妹にしか見えないだろう。
いくつかの偶然と必然により、俺と凛は小・中・高・大と同じ学校に進んだ。大学に入って一人暮らしを始めてからは、すぐ隣に部屋を借りているにもかかわらず俺の部屋にいることの方が多かった。特に、今日のような寒い日には必ずと言っていいほど俺の部屋でごろごろしている。本人曰く
「どうせ暖房付けるなら、二人で居た方が安上がりでしょ」
とのことだ。だったら光熱費を払ってくれてもいいと思うのだが、今の所その気配はない。
俺が剥いたミカンをほぼ全て食べると、凛は俺の膝の上で雑誌を読み始めた。動くに動けず、俺は積み上げていた新刊の山から一冊手に取り、ページを開いた。
部屋の中から音が消える。例外は、窓が風でカタカタと鳴り、たまにページをめくる音がするぐらいだ。時間の流れが曖昧になっていく、不思議な感覚。
どれくらいそうしていただろうか。ふと本から目を上げると、テレビの上に置かれた時計の針は六時一五分を指していた。どうやら、既に日は暮れたらしい。栞になるようなものはないかと周囲を見渡したが見つからず、仕方なく読んだ所までのページに折り目を付けて本を閉じた。
いつの間にか冷たくなった部屋の空気に肌寒さを感じ、無意識に手をこすり合わせた。
(そろそろ晩飯にするか……)
そう思い膝の上の住人に声を掛けたが、返事がない。顔を横から覗きこむと、かすかに開いた口から寝息が洩れているのが分かった。いつの間にか眠っていたらしい。
一瞬起こそうかとも思ったが、気持ち良さげな寝顔を見るとそれは憚られた。それに、実際の所さほど腹が空いている訳でもない。少し考え、俺も一眠りすることにした。起こさないよう注意しながら凛の体を横にし、その脇の隙間に潜り込む。さらに、天井から垂れ下がった紐を引いて電気を消し、座布団を二つ折りにして頭の下に置いた。時折身じろぎする幼馴染の体温を感じながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
§
コタツには魔物が棲んでいる。それはおそらく真実だ。特に、今日のような日には。
現代文明というものは実に偉大だと思う。外で猛烈な吹雪が吹き荒れる最中でも、室内が快適な温度に保たれるのだから。そんな益体のないことを考えながら、俺は手の上の紙製容器から白い塊を掬い、口に含む。それは、口の中で一気に溶け、舌にミルク味の甘みを提供した。
この六畳間にはエアコンのような最新の機器はないが、電気コタツと石油ストーブは俺達に十分すぎるほどの温もりを与えてくれている。そして、コタツとアイスという組み合わせが至高の贅沢であることは、論を待たないことであろう。今俺達は、その贅沢を堪能していた。
「ね、それ一口頂戴」
対面に座った凛が甘えた口調でそう言ってくる。見ると、彼女が選んだチョコアイスは綺麗に空になっていた。どうやら、物々交換ではなく一方的な割譲を要求しているらしい。無論、そのような不当な要求に屈する気はない。
「やなこった。それ一個で我慢しとけ」
そう言って空の容器を指差すと、凛はむっとした感じで頬を膨らませた。元より子供っぽい容貌をしているのが、なおさら幼げになる。その様子を無視して視線を手元に戻し、俺は再度ミルクアイスを掬って口に運んだ。
「隙ありっ」
「あ、この野郎」
ミルクアイスの載ったスプーンが俺の口に到達する一瞬前、凛はいきなり身を乗り出しスプーンをパクリと咥えた。勢いよく手を突いた衝撃でアイスの空容器が跳ね、コタツの上から転がり落ちる。
「にひひ、ご馳走様」
俺が思わず発した抗議の言葉もどこ吹く風で、凛は満足げに笑っていた。
その後、更に数口分強奪されたアイスの空容器を捨てて戻ってくると、凛がテレビとゲームの電源を入れていた。公共の電波を受信できなくなって久しい年代物のブラウン管テレビが低くブーンという音を立てて点灯し、ゲーム機が冷気を取り込もうと健気にファンを回し始める。
「ね、対戦しよ」
そう言って凛は手に持った格ゲーのケースをかざし、俺が返事をする前にディスクをゲーム機の中に入れた。
(俺の意志関係ないじゃねえか……)
そう心の中で突っ込みを入れる。とはいえ、特に断る理由もない。俺は2pのコントローラーを手にとってコタツに入った。メニュー画面からキャラを適当に選択し、凛が選択するのを待つ。
「あのさ」
ボーっと画面を眺めていると、凛がそう切り出してきた。
声の方へ振り向く。凛は落ち着きなく目線をあちこちにやり、口を開いては閉じるということを何度か繰り返していた。聞きたいことは決まっているのにどうやって聞いたらいいか分からない、そんな様子だった。
「えっと、さ。あんた、最近楽しい?」
しばらくウンウン唸っていたかと思うと、凛はやけに歯切れ悪く質問を発した。
俺は思わずきょとんとしてしまった。楽しいか、とはずいぶん漠然とした問いかけだ。何を聞きたいのか、いまいちピンとこない。
「それってどういう――」
「ごめん、やっぱ今の無し。聞かなかったことにして」
――意味だ、そう聞き返そうとするのを遮り、凛は誤魔化すような笑みを浮かべた。そのままボタンを入力し、対戦を開始させる。正直、どうにも釈然としなかったが、本人がそう言うなら大したことではないのだろうと考え、俺は画面内で跳び回るキャラクターへと意識を移した。
俺がゲームの持ち主としての威厳を見せつけて快勝すると、凛は何度も再戦を要求した。そうして何時間かプレイを続けると、さすがに目が疲労を訴えてくる。どちらからともなくコントローラーを置き、電源を付けたまま仰向けに寝転がった。ほどなく心地よい睡魔が襲ってきて、俺は意識を手放した。
§
コタツには魔物が棲んでいる。それはおそらく真実だ。特に、今日のような日には。
外は吹雪で、何も用事はなくて、部屋には凛が来ていた。対局開始二十分ほどでほぼ丸裸になった王将を前に凛がトイレ休憩という名の敵前逃亡を図ったため、俺はその内戻ってくるだろうと思い、何かして時間を潰そうと周辺を見渡した。
コタツに半分埋もれた雑誌を見つけ、引き寄せる。すると、その下に一緒になって何かが付いてきた。手にとって確認する。チョコアイスの空容器だった。
どうということのない物だった。コタツから落としたカップがそのまま忘れられた、それだけのことだ。しかし、それは俺にかすかな違和感を覚えさせた。何かを忘れている、そんな気がした。
頭を左右に振り、違和感を吹き飛ばす。気分を変えようと、俺は手近に積んであった新刊本の山に手を伸ばした。一番上に載った一冊を手に取り、ページをめくろうとする。
勝手に一つのページが開かれる。端の折られたそのページにはしかし、見覚えがなかった。そもそも、この本は買ってからまだ一度も開いていないのだ。
薄気味が悪くなり、本をそのまま放りだす。気分を変えようと周囲を見渡し、俺は目に付いたゲーム機に手を伸ばした。ブラウン管が青白い光を発して点灯し、鈍い音を立ててゲーム機のファンが回転する。
先ほどのカップアイスは、まだ冷蔵庫に入れてあるはずだった。だが、食べた後でカップを捨てるのを忘れ、さらに食べたことも忘れていたのかも知れない。あるいは、知らぬ間に凛に食べられていた可能性もある。
まだ開いていない新刊本に折り目が付いていた。しかし、積み上げておく内に折り目が付いてしまったのかもしれないし、最初から折り目のついた不良品である可能性も否定できない。
どちらかだけなら見逃していただろう違和感。それは、ブラウン管に表示された画像によってさらに強まる。
「どうなってんだよ、これ」
ブラウン管に格ゲーの派手なタイトル文字が映し出される。そのゲームを入れた覚えは無かったが、俺の意識はそこではなく、画面上の一部に釘付けになっていた。ゲームのロード画面、そこには“最終セーブ時刻:1/24 20:15”と表示されていた。途端に自分の記憶が信用できなくなり、俺は背後のカレンダーを確認し、さらにテレビの上の時計を凝視する。だが、それらの数字は俺の認識が正しいであろうと示していた。
「このデータ、未来を指してやがる」
時計には“1/24 14:30”と表示されていた。
一つの仮説が浮かぶ。食べた覚えのないアイスの空容器、読んでいないはずの本の折り目、そして普通ならあり得ないセーブデータ。これらを一挙に説明できる現象を、俺は知っていた。
「ループしている、のか?」
タイムリープ。決まった期間を何度も繰り返す現象。
有り得ない、そう理性が反論する。そんなことはフィクションの中でしか起こらないと。だが、状況証拠が十分すぎる今、理性の反論はあっさり俺の脳内を通り過ぎた。
「気付いちゃったんだ」
不意にかけられた言葉に、反射的に体が硬直する。聞き慣れた声、聞き慣れた口調のはずなのに、どうしてもそれが良く知るあいつのものだと認識できなかった。
「……お前は、知ってたんだな」
やっとのことでそんな言葉を絞り出した。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗がにじむ。油が切れたように言うことを聞かない体を動かし、俺は彼女の顔を見上げた。
「うん、私は知ってたよ。ずっと前から」
『今日の天気は?』と聞かれて答えるようにあっさりと、凛は俺の問いに答えた。台所へ繋がる扉に寄りかかり、両手を後ろに回して見下ろしている。その顔には、いつも通りの笑みが浮かんでいた。
「この部屋の中はね、今日一日をぐるぐると繰り返してるの。朝この部屋の玄関に立ってる所から始まって、夜日付を跨ぐ時に次の“今日”に送られる。それを、これまで何回も、何十回もやってきたの。あんたは全然気付いて無かったけどね」
こちらへゆっくりと歩いてきながら、凛はそう事も無げに言った。同じ日を、記憶を保ったまま繰り返す。それは並大抵のことではないはずなのに。
それが癪に障った。俺は凛のことを一番気心の知れた相手だと思っていた。それなのに、こいつはこんな重大なことを俺に黙っていたのだ。それが納得できず、つい言葉尻が荒くなる。
「なんで教えてくれなかったんだ。二人で話し合えば解決策だって見つかるかも知れないだろうが」
それまで浮かべていた笑みが消える。すぐには答えず、凛は俺の後ろに廻ると、背中合わせに座った。大きく深呼吸をしたのが聞こえる。
「このままでね、いいかもって思ったんだ」
ポツリと、呟くような口調だった。
「多分、この部屋を出れば“今日”は終わる。自分でもよく分かんないけど、私はそれを知ってるんだ」
一度言葉を切り、俺の手を握る。その小さな手は、なぜかひどく冷たかった。
「でも、ここにいれば明日は来ない。そうすれば、卒業式の日も来ないし、あんたと離れ離れにもならない」
手にかかる力が一際強くなる。
そう、俺達はもうすぐ別々の道を行くことになる。さすがに、就職先まで同じという訳にはいかなかったのだ。今のように毎日一緒にいることは出来なくなるだろう。だから――
――だから? その続きは、なんだっただろうか。記憶に霧がかかったように思い出せない。
「私ね、あんたとずっと一緒にいたいよ。その為なら、他に何もいらない、他に誰もいらない」
彼女の言葉は、俺の背筋に衝撃を走らせた。情けない話だが、緊張で身動きが取れなくなった。俺の脳みその大部分がその言葉への対処に追われる。俺の頭は彼女の発言の意図を理解しようとする振りをしていたが、その実理解できた内容を呑み込めていないだけだった。
「ね、いいでしょ。ずっとここに居ようよ」
俺の背中に寄りかかりながら、耳元で凛が囁く。そのねだる様な提案に、一も二もなく同意しそうになる。小さく、穏やかで、それなりに楽しい世界。それは、中々に魅力的だった。
だが、頭の中のどこかが、それに待ったを掛けていた。一つ重要なことを忘れていると、そう警告していた。
目を閉じ、先ほど思い出せなかった部分から、錆付いた記憶の扉を開けていく。
そうだ、昨日俺は何かを計画していたはずだ。何を?
いや違う、計画していたのは明日だ。その準備を昨日していた。そして、準備した物を、俺はどこかにしまった。
突然、霧が晴れる。そうだ、今日は一月二十四日だ。そして一月二十五日は――
凛の誕生日だ。
全て思い出した。足を滑らせそうになりながら部屋の隅の机に駆け寄り、引き出しを開ける。そこには記憶通り、赤い包装紙に包まれた箱が入っていた。安堵のため息を漏らし、俺は両手を机についた。
「もう、どうしたのよ」
いきなり背もたれが無くなって頭を打ったらしく、後頭部を抑えつつ凛が尋ねてくる。だが、それには直接答えず、俺は後ろに振り返った。まっすぐ凛の顔を見据える。
「凛、俺は“明日”が来て欲しい」
華奢な肩がビクリと震えた。
「……私と一緒じゃ、嫌なんだ」
明らかに気落ちした様子で、目を伏せ俯く。
違う、俺はこいつにこんな顔をさせたい訳じゃない。
「明日、何の日か覚えてるか」
「私の誕生日でしょ。でも、そんなのどうだって――」
「どうだって良くない。それじゃあ、俺が困るんだよ」
下を向いたまま投げやりに答える凛の言葉を遮る。心臓が早鐘を打ち始め、ジワリと手に汗が滲む。目を閉じて大きく深呼吸をする。
やめておけ、もっと慎重になれと頭のどこかが叫ぶ。それを振り切り、俺は言葉を絞り出した。
「明日、俺はお前に告白するんだからな」
言ってすぐ、後悔した。なんちゅうことを言ってるんだ俺は。穴を掘って飛び込みたい衝動に駆られる。だが、今更後には引けなかった。
「ちょっとは雰囲気のある場所でプレゼント渡してさ。それで、好きだ、付き合ってくれって言うんだ。幼なじみとしてじゃなく、恋人として、ずっと一緒にいたいから。だから、明日が来なきゃ駄目なんだよ」
言いながら、顔に血が上っていくのが分かった。まともに顔を合わせられず、自分のつま先をひたすら凝視する。頭の中がぐちゃぐちゃになる。
もうあれだ、やっぱり頭かち割って死んだ方がいいな俺。そうだ、そうしよう。
「本当に、告白するの」
蚊の鳴くように小さな声が聞こえた。俺は机の角に頭を打ち付けるのを中止し、恐る恐る顔を上げる。いつの間にか、凛はコタツの中に頭まで潜りこんでいた。布団の端を少しだけ上げ、そこから声を出している。
「ああもちろんだ。絶対に、何があってもする。お前が嫌がったって、無理やりしてやる」
半ばヤケクソになりながら言葉を紡ぐ。既に、自分でも何を言っているのかよく分からなかった。凛が中で頷いているのか、コタツの布団が何度か上下した。
しばらくして、凛が布団から頭だけ出した。立ったままの俺を見上げる。耳まで真っ赤になったその顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「分かった。じゃあ、また明日ね」
思わず吹き出してしまう。人の家のコタツに潜りながら言うセリフではない。
「ここ、俺の部屋なんだが」
「だって寒いもん」
いつも通りのやり取りが心地よい。
「告白しに行くんでしょ、明日の私に。早く行きなさいよ。やっぱりやめたとか言ったら、許さないから」
俺は肩をすくめ、苦笑する。これも、いつも通りのやり取りだった。
プレゼントの入った箱を手に持ち、壁のコートを羽織る。台所を抜けて玄関へ行き、身震いしながら靴を履いた。外ではまだ風と雪が吹き付けている。今日は、一日中吹雪だった。
明日は晴れるだろうか。そう思いながらドアノブを握ると、奥から声が聞こえた。
「行ってらっしゃーい」
「行ってきます」
そして、俺は扉を開けた。
おわり
神さまを探していた
末村 夕季
学校から配られた薄っぺらい進路希望のアンケートには、私立高校への進学を希望すると書いた。理由の欄には、寮生活か一人暮らしをしたいから、と。これが先月の話である。ついに母にこの話をしなければならないのだと考えると、今から気分がふさいで仕方がない。きっとひどく怒られるだろう。私は廊下の椅子の上、緊張で手を強く握り締める。教室の中から、私と母を呼ぶ先生の声が聞こえた。
それにしても、ああ、私はどうしてこんなにも束縛されなければならないのだろうか。朝は起きる時間から朝食の時間まで決まっている。当然、夕食も、寝る時間も両親によって管理されている。休日は家族で過ごすことを半ば強制されているため、友人と遊ぶ時間は少ない。平日も授業が終われば、部活に行く間もなく学校を出なければならない。ただでさえ友達と呼べる人が少ないというのに、部活もサークルも満足にできない状況で、新たに交友関係を築くのは至難の業である。これが高校になっても続くのかと考えると、いよいよこの先に暗闇しかないように思われてくるのである。
私には自由が無い。決して大袈裟なことを言っているつもりはない。父も母も、私を家に縛り付けようとしているのだ。両親は私のためだと言う。それは確かにそうなのだろう、彼らの基準では。一方的な価値観を押し付けられて黙っていられるのは、小学校に上がるくらいの幼い頃に限られるものだ。
「さて、叶恵さんの進路なんですが」
椅子に座ってすぐにその話は始まった。
「一人暮らしを希望するとのことで」
母は一瞬きょとんとしたような表情を見せ、それから戸惑ったような目を私に向けた。
「そうなの?」
「勉強したいから。外にも出ないと、一人じゃ何もできなくなっちゃう」
「でも中学を卒業してすぐ一人暮らしだなんて……」
「叶恵さんご自身も書いているんですが、寮という手もありますから。お母さんがどうしても心配で。それでも叶恵さんが譲れないと言うのならそちらの方がいいでしょう。寮なら生徒の生活管理も徹底していますから」
「はあ……」
「叶恵さんは成績もいいですし、もしその気があるなら高専という選択肢もあります。でも寮だと多少遠くへ行かないと入寮許可が出ないのが普通ですし、私立は負担も大きいですから、何にせよお家の方でもよく話し合ってみてください」
先生は母の心中を察しきれていない様子で、わかりきったことを得意げに言って私たちの顔を見た。母は私の書いたアンケート用紙に目を落としたままだった。
「一人暮らしがしたいって? 叶恵が言ったのか。自分で?」
父の反応は私が想像していたそれそのものだった。「まだ早いに決まってるだろう、駄目だよ」
「でも私だって一人でいたいこともあるんだよ。したいことだってあるんだからこんなに縛り付けなくたっていいでしょ。門限とか早すぎるよ。高校生になってもこれじゃ私独りぼっちになっちゃう」
「部活なんかに入れ込んでる子から見れば少し過保護にかもしれないけどな、うちは普通なんだよ叶恵。お前は反抗期だからそう感じるんだ。生活を管理して教え込むのは親の役割だし、友達と遊ぶ暇だって無いわけじゃないだろう。勉強だってしなきゃいけない。お前に教えたいことはお父さんにもお母さんにもまだ山ほど残ってるんだよ」
「私はこの家にいるのが嫌なの。私だって他の子と同じように過ごしたいの。わからない? 休みの日に必ず家にいなきゃいけないなんて変だよ」
「今はそう言っててもな、お前だっていつか家を出なきゃいけなくなるんだよ。そうなったら叶恵がどんなに嫌がっても家を出てもらう。それまでは家にいるんだ」
私は閉口した。やはり私は両親に縛られて生きなければならないのだ。この二人は高校どころか、大学、果ては結婚にまで口を出してくるだろう。この親ある限り、娘の私に自由は無いのだ。返す言葉はない。何を言っても無駄なのだから。
私は苛立ちを隠すよう、静かに居間のドアを閉めた。見ると向かいある引き戸が少し開いていて、そこから兄が顔を覗かせていた。
「何の話?」
「私の進路」
ああ、と納得したように兄が頷いた。「父さんも母さんもうるさいだろ」
「すごく」
「大変だな、お前は」
歳の離れた兄は、私とは違った自堕落な生活を許されている。暇さえあれば寝たり、本を読んだり、パソコンを見たりと自由気侭もいいところだ。私のような徹底した生活管理がなかったためか、所謂生活リズムというものも備わっていないらしい。昨晩も深夜にコンビニへ行ってきたのだろう、昨日までなかったスナック菓子の袋や、空のペットボトルなどが散乱している。
「お兄ちゃんは楽でいいね。お母さんもお父さんも文句言わないもんね」
「まあね。でもたまに家の外に出ないと窮屈で駄目だ」
「私ももう少し甘やかされたかったな。お兄ちゃんと私、多分足して二で割って調度いいんだよ」
「叶恵はそう言うけど、俺だってこれで考え事ばっかりなんだよ。なにをすればどれがよくなる、これをすればあれが悪くなる。それが理想で終わらないようにするために俺自身が何をすべきか。父さんや母さんが、叶恵が、みんなが幸せになるために何ができるのかってさ」
「お兄ちゃんの考えること全部はわからないけど、すごいなって思うことあるよ。でも私は私で、自分のこともちゃんと考えたいんだもの」
「だから俺や父さんや母さんがいるんじゃないか。お前もちょっと自分以外のこと考えろよ」
私は表しがたい気持ちに襲われた。兄は兄のやりたいようにやっているのではないのか。それなのに私は私のやりたいようにやってはいけないと言う。
「俺はここでこうして考えているだけで家族に貢献してるんだよ叶恵。お前も自分の役割をそろそろ自覚しなきゃいけない。それがないから父さんも母さんもお前を家から出したがらないんじゃないのか?」
目眩がする思いだった。そうだ、私は家族のことをしっかりと考えていない。家族の描く理想のために、私は働いていない。両親から解放されるには、やはり両親の思い描く私にならなければならないのだ。
――本当に?
――本当に私は何も考えていないんだろうか?
――本当に私の両親は私のことを考えているんだろうか?
――本当に私の家族は正しいんだろうか?
貴方の家って特殊よね、と言われたことがある。祈乃は何か言う時に遠慮しない。放って置いてほしいところまでずかずかと踏み込んでくる。
「やっぱり反対されたんだ、一人暮らし」
「お父さんが言うには、生活を管理するのは親の責務なんだってさ」
「そうかもしれないけど、高校に行ってもそのまんまの門限っていうのはないんじゃないの?」
「このままだと思う……このままだよ絶対」
私はこの時溜め息をついたのだったろうか。飽きれたような祈乃の顔を思い出す。
「貴方って文句言うだけで反抗しないのね」
「親に反抗しきれる子供なんてそうそういないでしょ。お金を出すのはみんな親だよ?」
「でもね、親の駒にされると思うなら、そこから抜け出す努力はしなきゃいけないと思うの」
祈乃は「貴方の家って特殊でしょ?」ともう一度言った。
「お父さんとお兄さんの掲げる教義にも、貴方は納得できてないんじゃないの?」
私は言葉を詰まらせた。そうなのだ。私は家族に賛成しきれていない。それどころか、間違っていると思うことさえある。
私が物心つく前、つまり兄が小学校を出る頃、彼は事故で生死の境を彷徨った。しかし片目の視力と片耳の聴力がそれぞれ少し衰えた程度で、大した後遺症も無くこちらに戻ってきた。その時に父と兄は同じ声を聞いたのだという。
曰くそれは神の声であり、間違った方向へ進みつつある人を救えという啓示だった。兄はその目的のために一命を取り留めた「カミノヨリシロ」なのだと、幼い頃から私は父によく聞かされたものだ。小さいながらも集会は毎週土日に行われ、何がいいのか信者も以前より増えている。
みんな、口達者な兄の言葉に惑わされているのだ。弱っている人は、何の力もない人に幻想を見出してしまう。兄はその弱ったところに入り込むことで、そうした人から崇められるようになったに違いない。それが人を騙すに等しい行為なのではないか、しかも私がそれに荷担しているのではないかと思い悩む反面、本当にそれで幸せになれる人がいるのならそれでいいと思っている自分もいる。
「あのね祈乃、私、将来支部を作るんだよって言い聞かされてるんだ」
「うん、そうなんだろうと思ってた」
「だからもっと知らなきゃいけないことが沢山あって、そうしたらお父さんとかお兄ちゃんのことも全部信じられるかなって思ってたんだ」
「うん」
「でも最近本当にわからなくなるんだよ、あの人たちは何でお兄ちゃんのためにお金を置いていくんだろう。何で病気を治してくれだとか、生活が楽になるようにだとか、お兄ちゃんに言うんだろう。何でお兄ちゃんがそんなことできると思ってるんだろう。もっと他に頼むべき人がいるのに」
「うん」
「私このままあの家にいて、お母さんとか、お父さんとか、お兄ちゃんとかの考え方に合わせながら、みんなのこと考えて過ごせるのか不安なんだ。今でも食い違ってる考えを無理に捻じ曲げて、あの家に集まってくる人を見ているのに耐えられるのかわからないんだ」
祈乃は一つ一つ頷きながら聞いてくれた。そして私がそれ以上言うことを無くすと、笑顔で言った。
「ねえ、今いくらある?」
「三百円くらいかな」
「叶恵のお母さんには進路相談しに行ったことにしてさ、ちょっと気晴らしに行かない?」
気晴らし。今の私に一番必要なものだ。祈乃との会話も勿論気晴らしの一環ではある。しかしそれよりももっと確実に、私を癒してくれるもの――
学校を出てすぐ近くの小さな商店街にそれはある。小奇麗な洋服屋さんや学生御用達の書店、少し場違いな魚屋、そしてお洒落な喫茶店。可愛らしいケーキやパフェの見本を横目に、その二階へ続く階段を上る。ノックをしてドアノブを回すと、金属の擦れる音が響いた。
私と祈乃はいつものように、入り口の小さな箱に百円玉を二枚入れる。募金箱のようなものだ。
「あら、久しぶり」
「お久しぶりです」奥のカーテンから顔を覗かせた若い女性に、私たちは深々と頭を下げた。「いつもありがとうございます」
「叶恵ちゃん、ご家族はどう?」
「前からあまり変わりありません……でも、私も自分で考えるようになりました。加夜さまのおかげです」
「そう。もっとご両親とお話ができるようになって、貴方の言葉も受け入れてもらえるようになればいいわね。……大丈夫よ、何も心配すること無いんだから。貴方もちゃんと自力で道を開くことができるのよ。分かったでしょう? 私はちょっと背中を押してあげただけだもの、貴方が頑張ったに違いないのよ」
ああ、今の私にとって、この方の言葉のどんなに頼もしいことか。
「集会の日だから、奥にみんな揃っているのよ。調度いいわ、始めましょうか」
そう言って彼女は微笑む。私たちは揃って頷いた。この薄いカーテンのむこう側に、私たちと同じように何かに悩んでここに辿り着いた人たちがいる。彼女を慕って集まった仲間がいる。
そうだ。兄も父も、そして母も間違っている。加夜さまこそ、この方こそ、この暗澹たる世界から私を救い出してくださる――――
墓守の子守唄
灰白湯
1
その唄を初めて聴いたのは、ノクトがまだ幼い頃だった。
幼なじみのクレイの母が、広場で子供たちみんなに聴かせていた唄。小さな村だったからか、その広場には村中の子供が遊びに来ていた。
どこか切なく、どこか甘く、静かな調子。
透き通るように響く旋律。当時の彼にでもわかるほど繊細で、同時に人の心を動かす唄。
彼女の唄は、聴く人みんなを惹きつけてやまなかった。
「どうして唄を唄うの?」
ノクトは子供ながらに訊いたことがある。
「みんなが幸せな気持ちになれたらいいな、って思うからよ」
綺麗な柘榴色の瞳をした彼女は恥ずかしげもなく、むしろ誇るように胸を張った。
それ以来、ノクトにとって彼女の唄は憧れだった。
こんな素敵な唄ならきっとみんなを幸せにできる。それはノクトを含め、広場に集まった子供たちみんなが思ったことだった。
しかし、
その村にノクトが予想もしなかった終幕が訪れた。
村の大人たちが彼女を殺害し、幼なじみの少女、クレイを村から追放するという、あまりにも唐突で残酷な形で――
2
春風は冬を忘れさせてくれる暖かい風だ。
ノクトはそう思っていたのだが、この春の夕暮を吹き抜ける風には未だ冷たい冬の残滓が混ざっていた。もう春も深まって、自分の住んでいる町では夕方もそれなりに暖かいというのに、ここは少し厚着をしてきたにもかかわらず寒いくらいだった。
茶色がかった髪を夕暮れの春風が梳く。
「やっぱり、ここは変わらないな」
ほんの少しの哀愁を含んだノクトの独り言は、茜の滲んだ薄青い空に吸い込まれていった。視界の開けた懐かしい田舎道が、暗く苦い記憶がノクトに再会の挨拶を告げていた。
この先は昔、彼の暮らしていた場所だった。
あの惨劇からもう七年が経つ。
今でも、鮮明に覚えている赤い――火と血の色をした記憶。
村の大人たちの憎悪と怨嗟の塊、『忌々しい魔女が!』という叫び声。磔にされ、火刑にされた幼なじみの母親。燃え落ちる彼女の家。追放された幼なじみ。
村ぐるみで隠したあの悲劇。
もちろん、ノクトはクレイの母が悪事をしていたのかなどわからない。けれど、「唄が人を幸せにする」とあれほど純朴に語っていた彼女がそんなことをしているとは思えなかった。
本当にあまりにも理不尽で、狂気に満ちた村人たちの魔手。あれはもう、悪夢の具現そのものだった。
その事件が起こってからすぐに、ノクトの両親はノクトを連れてこの村から立ち去った。当たり前だ。親友だった彼女を村人たちに殺されて、それなのにまだ村で暮らせる図太い神経があるはずない。もちろんノクトもそうだった。
ただ、殺害に加担した村人の子供たちはそんな感情すらも殺されているようだったが。
クレイもどこに行ったのかわからない。
追いかけることは村中が許さなかった。
「今更、だけどな」
もう二度とここへ戻ってくるつもりなどなかった。深い罅と傷だらけのガラクタのような記憶を思い起こすこの場所に、あんなことをした人間が平然と生きているこの村には。
しかし、ノクトは唯一できることをしようと思ったのだ。
子供時代の記憶を歪ませ、絶望を与えた忌まわしい悲劇の中に残った、たった一つの希望。
幼なじみのクレイを探すこと。
ノクトは自分が馬鹿で、どれだけ無謀なことをしようとしているのかを理解している。
精神的な落ち着きを取り戻し、自分の力でどこへでも行けるほどの資金を貯めるのに七年もかかった。時間の経過による周囲の環境の変化と記憶の風化は人にどうこうできるものではない。クレイの手掛かりを掴むには時間が経ち過ぎている。
それに彼女の母をこの村の人間が殺したのだ。こんなところに手掛かりを探しに来るのはお門違いもいいところだ。当時の村人に見つかったら、最悪な結果が待っているかもしれない。
それでもここは確かにクレイと一緒に遊んで、宝石のような思い出を作った場所なのだ。
「何か……あればいいな」
誰とも会わないまま村の入口へ到着する。先程まで夕方だったのに、いつの間にか辺りは暗くなっていた。
村の木々が春の夜風にざわめき、ノクトを歓迎する。暖かそうな家々の明かりにどこか懐かしく感じるが、同時に黒く汚れた思いも心の淵から湧き上がってきた。
冷たい夜空の下でもはっきりと自覚できる煮え滾った憎悪。
殺してしまえばいい。
村人たちを殺して、クレイの母の仇を取ればいい。今の自分になら、その力があるじゃないか。
「違う、俺はそんなことしにきたんじゃない」
脳裏をよぎる悪魔の囁きを消し去る。
クレイの手掛かりを、微かな希望の欠片を探しにきたんだ。俺は、そのために戻ってきたんだ。
溢れ出る黒い感情を抑え、まずは焼け落ちた彼女の家に行こうと思い、足を進めようとした。
その時――
夜の静寂に、かすかな唄声が混じった。
「――――!」
木々のざわめきに負けるほどの小さな音だった。けれどそれは、聞き間違えることのないあの唄の旋律だった。
優しく、切ない音階が作りだす、哀愁を誘うリズム。
風に乗って響く彼女の唄。
どこから聞こえる?
ノクトは必死にその音の出所を探ろうと村の中を走ったが、行けば行くほど聞こえなくなる。村外れの方か? そう思って村の外周を回ってみるがやはり聞こえない。
ざあっ、と周りの木々がうるさく囃し立てる。焦りが増してくる。自分の荒い呼吸すら、耳に残る唄をかき消す不協和音に聞こえた。
「うるさい!」
あの唄を唄っている誰かがこの近くにいるのだ。
見失うわけにはいかない。とは言っても、耳に残響した小さな音だけを頼りに見つけ出すなどあまりにも無謀な行為だ。
入口に戻ると、まだかすかな唄は続いていた。
息を殺して耳を澄ます。その唄の音だけに意識を集中させる。
村の入り口でしか聞こえないなら、外にいるのだ。歩きながら必死に声を辿ろうとするが、やがてその唄は夜の闇に呑まれていく。
「クレイ……っ!」
思わず握った拳が痛い。確かにあった手掛かりを失った歯痒さと悔しさが胸を締め付ける。夜風のざわめきが嘲笑のようにうるさく木霊している。無駄なことだ、と嗤っている。
「くそ……っ!」
ノクトは闇雲に走り出した。
道の周りには何も見えない。無駄に広い野原が拡がっているだけ。夜の闇の中に全てが呑まれている。空に浮かぶ白い月は道標にはならなかった。
それでも駆けていかなければ押しつぶされそうだった。見えない希望に縋りつくように、あてもなく彷徨う。
気付けば村のはずれにある墓地まで来ていた。
この先は山道、もう行き止まりだ。
「はあ、はあ……くっ!」
荒い息遣いが空しく闇に溶けていく。早鐘を打つ心臓がまるで別の生き物のようだった。疲労が足を蝕み、体が鉛のように重い。辺りに並ぶ影の深い、終わりを示す十字架の群れが、ノクトを深く絶望に沈めた。
どこにもない。また失ってしまった。見えなくても確かに聞こえた希望が、ここでまた潰えた。
力の抜けた、抜け殻のような体を墓土の上に横たえる。このままここで眠ってしまおうか。
動く気力もなくなったノクトが目を閉じようとしたとき、
「あ、あの、どうしたんですか? 風邪引いちゃいますよ?」
ざりっ、と土を踏む音が聞こえた。夜を裂く火色の灯りが澄んだ声と共に横から届いた。驚いたノクトの視界に映ったのは、白銀の長髪、闇に染まったような黒いローブ、そして――
クレイとその母親と同じ綺麗な柘榴色の瞳の少女だった。
†
「どうぞ……狭いところですが」
錆びついた音を立てて玄関の扉が開き、彼女の小屋の中に促される。クレイの話を聞いたらすぐに村へ戻ろうかと思っていたノクトだったが、「立ち話もなんですから」と彼女にここまで連れてこられてしまった。
天井に付いた小さなガスランプの黄色い明りが唯一の光源だ。中には一人分の小さなベッドと端の朽ちた小さなテーブル、錆びついたスコップがあるだけだった。ベッドとテーブルだけでもう部屋の三分の一を占めている。
墓守の小屋、とはあまりに粗末で小さかった。
「す、すみません。まさか人が来るなんて思ってなかったので……」
「構わないでくれ。こっちこそ、こんな夜中に」
「い、いえ、初めてのお客様ですから……ごゆっくり。お、お水汲んできますね」
少しだけ嬉しそうにそう言うと彼女は綺麗な銀の髪を揺らしながら、外の水桶にとてとてと走って行った。
彼女はこの村の墓守で、メルと名乗った。
その瞳のせいで村人に疎まれ、こんな場所で暮らしているという。村人が疎む理由はメル自身わかっていないらしいが、クレイたちと同じ瞳の色が原因なのは明らかだった。
メルがクレイの家族と同じ目の色をしているのは偶然のようだった。開口一番、ノクトはクレイの事を訊いたが、「わかりません」と言われてしまった。あの柘榴色の宝石のような瞳を見たときの衝撃が未だに覚めないが、どうやらクレイとの関係はなさそうだった。
そう思っているうちにメルが戻ってきた。
「お待たせしました。あと、この先の山で捕れた葡萄です。よかったら……」
「ありがとう。気を使わせてしまったかな」
「い、いえ、好きでやっているので……そ、その、どういたしまして」
端々にどこかつっかえる口調のメル。そのどこか人見知りなところも、クレイに似ていた。ゆっくり話してあげた方がよさそうだった。
クレイのことは質問したが、まだ一つ訊いていない事がある。
あの唄の事だ。
椅子をノクトに譲って、メルはベッドに腰掛けた。
「メルさん、訊きたいことがあるんだけど」
「は、はい。ど、どうぞ」
「この村に、唄を唄える人っている?」
「え……?」
「何というか、子守唄みたいな」
「子守唄なら、子供がいる母親なら誰でも……唄えるような気がしますけど」
「うーん、普通の唄じゃないんだ。特別な人しか唄えない曲調で、とても綺麗な旋律なんだ」
あの唄を思い出すことはできる。ただ、ノクトには唄えないのだ。どんな旋律で、どんなリズムかも知っている。
それなのにあの唄を唄おうとすると、途端に口が回らなくなる。昔も今も、あの唄を唄えたのはクレイの家族だけだった。
「特別な唄、ですか。……聴いてみないことにはわからないですけど、ノクトさんはその唄、好きなんですか?」
「ああ。それにクレイの手掛かりでもあるんだ」
「クレイ……さんの……」
だからこそ、この唄はクレイに直結する。
メルは今まで以上に深く考え込んで、
「ごめんなさい。やっぱり、わからないです」
と、申し訳なさそうに首を横に振った。
「そっか」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。メルさんが悪いわけじゃない」
「で、でも……ノクトさん、悲しそう、です」
「メルさんを責めても何もならないよ。この村に必ず手掛かりがあるはずなんだ。だから、きっと探しだして見せるさ」
ノクトはどこか自分に言い聞かせるように言う。もとより見つけ出すまでは帰るつもりもない。
「どうして、わかるんです?」
「その特別な唄をついさっき聴いたんだ。風に乗って流れた小さい音だったけど、確かに誰かが唄ってたんだよ」
「えっ……私には、聞こえませんでしたけど」
「幻聴なんかじゃない、きっと」
「そう、ですか。あ、あの……か、影ながら応援させてもらいますっ」
「ああ。ありがとう」
「あ、そうだ」
メルは何かを思いついたような表情をしたかと思うと、ベッドの奥に見える押入れをあけ、その中から薄い布団を取りだした。そのままこちらに手渡す。
「これしかありませんが……よろしければ、使ってください。今日はもう遅いし、村の宿もやってないでしょうから」
「泊っていいのか? こんな初対面の男が一緒でも?」
「そ、その、私はいいんです。ノクトさんさえ、いいのなら。ただ……その、変なこと……しないでください、ね」
恥ずかしさで耳まで真っ赤に染めながら、小さな声でメルは言う。きっと全て、下心も何もない親切心で彼女は言っているのだろう。メルが何故か自分を信用しているように、ノクトも会ったばかりだというのに何故か彼女を信用できていた。
もしかしたら、覚えていないだけで昔会ったことがあるのかもしれない。
「約束するよ。じゃあ、ありがたく」
「何かしたら……こ、このスコップで殴っちゃいますから」
物騒なことを言っているが、小さな声だからか威圧感がまるでない。明日から本格的に情報収集をしよう。布団を残り少ないスペースに敷きながら、ノクトはそんなことを考えていた。
「じゃあ、電気……消しますね」
明日も早い、とメルが言うので消灯することになった。ガスランプの灯りを消すと、月明かりだけが窓から差し込んでいるだけで、小屋に夜が降りてくる。
「クレイさんは……ノクトさんの恋人、ですか?」
「いや……幼なじみだよ、とても大切な」
「…………見つかると、いいですね」
「ああ」
メルと少しだけそんな会話をして、ノクトは眠りに就いた。
3
翌朝起きると、小屋にメルの姿はなかった。ただ、テーブルの上に『薬草を摘みに行ってきます』と書き置きがしてあった。
「俺も動くか……」
ノクトはその色の褪せた紙の余白に短く、
「昨日はありがとう。いってきます」
とだけ書いて小屋を後にした。
村に着くころには朝の冷たい空気が、昼の陽気に変わっていた。その陽気に誘われて、広場では何人かの子供が遊んでいる。
そんな彼らを横目に、ノクトはまっすぐあの場所を目指す。昨日のうちに向かうつもりだったクレイの家。
自分の家があった場所や広場を抜けて、ずんずん進んでいく。途中何度も溢れてくる懐かしさとそれに引きずられるようについてくる黒い記憶に、立ち止まりたくなった。しかし感傷に浸ってしまえばその泥濘から抜け出せなくなると言い聞かせ、目的だけを頭に留めて足を運んだ。
村から少し離れた丘の上、クレイの家があったところに辿りつく。その光景は最後に見たときと変わっていなかった。
焼け落ちた木造の家の残骸。炭化した家の骨だったものが辺りに散らばっている。地面には残骸の周りを避けるように草が生えていない。クレイの家の死体。まるでここだけ時間を忘れられたようだった。
「まあ、あるわけない……か」
ここにあるのは、灰に埋もれた思い出だけ。
全ては焼けてしまって、ここに何か残っているなんて期待は元からしていなかった。それでも、その無残に砕かれた遺物の跡に大きな喪失感が湧き上がってくる。
「……」
沈黙する。
ノクトは立ち止まるつもりなどなかったが、この襲いくる喪失感に今はこうして立ちつくすことでしか耐えることができなかった。取り戻すことのできない忘れ物、そんな言葉が彼の頭の中を埋め、胸に黒いシミを生む。
「……ここに、いても」
意味がないだろう。
昨日聞こえた唄は希望だったが、ここにあるのは希望を幻想だと一蹴ずる現実だけだ。自分のしている事の愚かさをこれ以上囁かれる前に、他の場所を探すことにした。
しかし、ノクトが踵を返すと、
丘の入口に、彼の行く手を塞ぐように四人の大人たちが立っていた。
「――――っ!」
見たことのある顔だった。
忘れるはずがない。忘れられるはずがない。
気色の悪い蒼白の顔。虚ろで、狂気じみた瞳がこちらを見ている。
あの惨劇の首謀者たち。
どうしてこんなタイミングで現れる? よりにもよってこんなときに。彼らに会わずに一人で探るつもりだったというのに。
最悪な展開が脳裏をよぎる。
それは村人全員を敵に回すこと。村ぐるみで隠蔽した過去に抵触しようとする自分など、邪魔者にしか映らないだろうから。
どうやってここにいることを誤魔化そうか、と考えていると四人のうちの一人がうわごとのように何か呟きはじめた。
「あの魔女はもういない」
「…………!」
その発言に頭に血が上り、先程までの悲しみが一気に真っ黒な怒りに変わる。奥歯がぎり、と音を立てて擦れ、思わず握った拳が痛い。
同調するように周りの三人も同じ意思もこもっていないような言葉で言う。
「わたしたちは助かったのだよ」
「自由になったのだ」
「あの魔女の娘もいない」
ノクトは握った拳に爪が食い込むのを感じながら、一つ一つの単語を咀嚼していく。
助かった? 自由?
それは恐らく自分が知らなかった事件の裏事情だろう。
突然語られた、自分たちの行為を正当化するための理由。
「魔女の呪いは解かれた。わたしたちがやったことは全て村の為なのだ」
意味がわからないのは言うまでもなかった。
そんなオカルトじみた答えがお前たちの動機なのか? そんな思い込みでしか生まれない敵視のせいで、クレイは、クレイたちはいなくならなきゃいけなかったのか?
その不快な音階をなぞっていくだけで怒りが燻ぶる。どうして彼らが今更そんな言い訳を並べ始めたのかなんて知りたくもなかった。
「ふざけるなよ……!」
そんな話を俺にするな。
「おまえたちこそ……」
まるでこの朽ち果てた思い出の残骸を自分たちの成果だとでも言うように、自慢するようにここに来るんじゃない。
「人の皮を被った悪魔だろうが!」
赤黒い殺意が頭の中を支配する。こんな狂気じみた生気の欠片もない目をした連中が、自分たちの勝手な理由でクレイを奪ったのかと思うと許せなかった。
「殺してやる!」
憎悪が粘着質の泥のように感情を汚していく。目の前にいる悪意の塊に復讐することしか考えられなかった。
足元に転がっている黒ずんだ残骸を手に取る。
四人は動じもせず、ただこちらを見つめているだけだった。ノクトは殺意だけを彼らに向け、一歩ずつゆっくりと進む。動かないならそれでいい。一人ずつ、殴り殺すだけだ。
しかし、クレイが一人に凶器の先を向けたとき、
「なのに……どうして唄は止まない?」
衰弱しきった声で、そう呟いた。
それと同時に辺りにあの旋律が響いた。
昨日聞いたのと同じ、彼女の唄。
「…………!」
まさか、こんなところではっきりと聴くことになるとは思わず耳を疑う。透き通るように響く旋律。
どこから聞こえてくる?
「ああ、また聞こえる……聞こえてくる」
怯えた声に彼らの方を向くと、全員耳を塞いで震えていた。かちかち、と歯が嫌な音を立てている。今まで虚ろだった瞳に急に恐怖の色が浮かんでいた。歪んだ顔はまるで唄を聞いたら破滅してしまうと言わんばかりだった。
「ああ、ああ、どうして……!」
「やめてくれ……もうこんな呪いは沢山だ!」
いったいどうしたというのだろうか。呪い? また意味のわからないことばかり話して、何なんだ。この唄のどこにそんな恐怖する理由がある?
風に流されるように唄声は少しずつ小さくなっていった。
「広場だ。広場でまた魔女が……!」
「くそっ、とにかく……!」
広場という単語に、ノクトは殺意すら投げ捨てて走り出した。あんな奴らを殺すことなんかより、クレイの手掛かりをつかむのが先だ。
広場へ向かうために丘を降りる。そして、村の中へ入った瞬間ノクトは目を疑った。
「やめて!」
「呪いが……!」
「もう聞きたくない!」
「また、まだ続くのか!」
「魔女め!」
「頭が……ワレ……る」
彼らと同じように蹲り、怯え、唄を恐怖する大人たちの悲鳴。
「なんだ……これ……」
村の中を走っていると、同じような呻きがいたるところから聞こえてきた。慟哭する者、激昂する者、阿鼻叫喚が家の中からも湧いてくる。
どういうことだ?
どうしてこんなにこいつらは彼女の唄を恐怖する?
この「幸せを願う唄」は彼らにとって一体何なんだ?
ノクトは自分のイメージと目の前の惨状に混乱する。これは一体――――
そして、ノクトの思考を中断させるように、まだ途中だというのに唄が止んだ。
「なっ……!」
再度襲ってきたクレイを見失った感覚。
残ったのは残響をかき消すように響く村人のコエと自分の地面を蹴る空しい足音。
「待て、待ってくれクレイ!」
広場に入ると、そこにいたのは元気よく遊ぶ子供たちだけだった。
†
「それは……残念でしたね」
小屋に戻るなり愚痴を溢したノクトを、メルは水を差しだして慰めてくれた。
あの後、広場の子供たちに訊いてみたものの稚拙な情報しか得られなかった。
つまり、唄い手は「きれいなおねえさん」である。
黒いローブを纏って顔も見えないらしいが、声でわかるのだろう。そして、どうやらあの唄は子供たちにはノクトと同じように綺麗な唄に聞こえるらしい。だが、どれもクレイに直接関係する情報ではなかった。
今日あの村で起こったことをメルに話しながら、どこかに手掛かりがないか思考する。
「黒いローブ……そういえばメルさんも」
「え? あ、あの……私は違いますよ? このローブ、顔まで隠せませんから」
メルはそう言いながら、実際にやって見せてくれた。
なるほど、印象的な白銀の髪は見えなくなるが、顔は隠せていなかった。
「そうだよな」
「そ、それに、私がクレイさんなら、きっとノクトさんに抱きついてしまいますよ?」
「どうして?」
「あ、あの……だ、だってクレイさんはノクトさんにとって大切な人だったんですよね? だったらそれはクレイさんにだって同じだろうし、そんな人が自分を探しに来てくれたら、喜んで抱きつきますよ、きっと」
「そっか」
慣れないことを言ったせいか、メルは恥ずかしさで耳まで茜色に染めている。
昨日会ったばかりのノクトに、そこまでして励ましてくれる彼女には感謝せざるをえない。メルは困っている人を放っておけない性格なのだろうと思った。
「それに……」
暫く黙っていると、メルが静かに口を開いた。
「それに、私その、クレイさんの唄一度も聞いたことないので……」
「今日も?」
村の中ではあんなにはっきりと聞こえたのに? メルは村に来ていなかったのだろうか。
「山にいたので……日中は墓守の仕事よりも、山菜とか食料確保を優先していますから」
「それなら……やっぱり違うんだな」
「はい……」
メルは村人から疎まれてここにいるのだ。わざわざ嫌な顔されにあそこに入ろうなんて思わないだろう。
結局、クレイの手掛かりはない、それが現状の結論だった。
しかし、他にも気になることはある。
村人たちの唄に対する反応。あれは一体何なのだろう。子供にとっては素敵な唄で、大人にとっては恐怖の唄。
聞こえ方が違う唄なんて訊いたこともない。とすると、考えられるのはあの唄に込められた意味だ。
その意味を知っているからこそ、大人たちは恐怖している。
しかし、ノクトはそんな怯えるほどの意味なんて聞いたこともなかった。大体、唄の意味だけであそこまで嫌悪するなど信心深いもいいところだった。
「あ、あの……今日、ノクトさんが村で聴いた唄……本当に、探しているクレイさんの唄なんですか?」
「どうして?」
聴き間違えるはずがない。そんな可能性は元からない。あの唄だけは色褪せるような記憶ではないのだ。
無意識に口調を強めてしまったようで、メルはびくっ、と怯えた表情を見せた。
「ご、ごめんなさい。でも、ノクトさんが言うように素敵な唄なら、村の人たちが呪いの唄なんていいませんよ」
確かに彼らは「呪い」と言っていた。自分のイメージとはかけ離れては、いる。しかし、どう頭の中で反芻しても、あれはクレイの唄だった。
気まずい沈黙が二人の間に降りてくる。
「そ、そろそろ灯り消しますね」
メルはどこかばつの悪そうに、控え目な口調でそう言った。
布団は今日の朝出ていったときと同じで、片付けられていなかった。ノクトはおとなしく横になる。視界の色が黄色から黒へ変わった。
思考の整理ができない。メルの客観的な小さい否定が自分の知る唄に罅を入れていく。その記憶も、クレイも、唄も幻ではないというのに……。
「ノクトさん」
月のない暗闇の中で、メルが悲しそうに呟いた。
「幸せを願う唄が人を呪うわけ……ないんですよ」
「メルさん……?」
ちょっと待て。どうして、メルがそれを知っている?
4
メルは何か知っていて隠している。
それも、絶対に口に出せない重要なことを。
全ては単なるノクト自身の妄想かもしれない。それでも、やはり彼女が何かを知っている確信があった。
メルは夜が深くなった頃に出ていった。
ノクトはその様子を見ながら、音を立てずに小屋を出た。
膨らんだ疑念はとどまることを知らなかった。
最初に思ったのは、たかが見てくれの情報、つまり同じ黒いローブ。こんなのはほとんど共通点としか見ていなかった。
しかし、今日、唄の話をしたときのメルのようすは昨日と比べればおかしいと感じていた。村から疎外され、コミュニケーションに乏しいはずのメルが、あんなに唄のことに関しては必死に否定してくるのだ。聴いたことがない、わからない、と。ノクト自身そこまで深く攻めたわけでもない。だから、一回違うと言えば、質問はそれで終わりだったのだ。
それなのに。
昨日の最後の会話、
「幸せを願う唄が人を呪うわけがない」
メルにクレイの唄が幸せを願う唄だとは言ってなかった。
メルはきっとあの唄を知っている。
外は暗く、何も見えなかった。拝借したランタンの明かりをつけると、辺りに灰色の墓標が見えた。気付かれないようにメルが出ていくのを待っていたため、すでに黒のローブを身に纏ったメルは夜に隠されてしまっていた。
「メルさん……」
どうして隠しているかなんてわからない。ただ、どんな理由があるにせよノクトはここにクレイを探しに来たのだ。教えてくれないなら、自分で見つけるまでだ。メルは恐らくあの広場にいる。彼女が何かしら唄に関係あるなら、必ず。
ノクトは村の入り口まで来ると、灯りを消した。
じっ、とその時が来るのを待つ。
夜の闇が一層濃く辺りを埋め尽くし、音さえもかき消している。静寂がノクトを包み、冷たい春の夜風が肌を薄らと撫でた。
そして、唄が始まった。
一直線に広場へと駆ける。
灯りのない村の中、自分の足音だけが響く。あの旋律に、クレイを見つけ出す希望に導かれるまま走る。
広場が見えた。
先程まで月を隠していた雲が晴れ、闇を裂く月の光が舞台のように広場を彩る。その中心に立つ、喪に服した漆黒のローブを纏う少女。あの唄を唄う少女。
「メルさん!」
唄が止んだ。
ゆっくりとこちらを向いた少女は黙ったままだ。ローブのせいで、口許しか見えない。
ノクトはランタンの火をつけ、彼女に近づく。少女は逃げようとしなかった。緊張を嚥下して一歩ずつ、しっかりと。
彼女に手が届く位置まで来た。
ノクトは全てを隠すように彼女を覆うフードを外そうと、震える手を伸ばす。
「どうして……来たんですか」
ノクトの動きを制するように、震えた小さな声が耳に届いた。それは確かに彼女の声。どこか恨みがましく、そのくせ申し訳ないという矛盾した感情のこもった言葉。それでもそれ以上の抵抗をしようとはしなかった。
フードをとりさると、夜にくっきりと浮かび上がる白銀の髪があらわになる。
メルの頬には透明な涙が一筋伝っていた。
「あなたには、知られたくなかったのに……」
「全部、話してくれ、メルさんの知っていること、全部」
沈黙が降りる。ノクトはもう待つしかない。
メルは何を思っているのだろう。隠したかった秘密を話してくれるだろうか。ノクトを責めるばかりで、何も言わないだろうか。
しかし、ノクトも譲るわけにはいかなかった。
やがて、小さな声でメルはうつむきながら語り始めた。
「ノクトさん。クレイは、お姉ちゃんはここにはいません」
「お姉……ちゃん?」
クレイに妹? それがメル? 確かに同じ赤い瞳の説明はできるが、昔遊んでいた頃の記憶には妹なんていなかった。
「私は元々、この村の人間ではなかったんです。お母さんが殺されて、お姉ちゃんも追い出されたと聞いて、それからここに来たんです。だから、お姉ちゃんのことは……」
メルは、その続きを口にはしなかった。
「そうか……クレイは」
音も立てずに絶望が押し寄せる。残っていた最後の希望が目の前で消えた。底のない深い闇に沈んでいく感情が、掴んだのはやるせなさと、怒りだった。
「ノクトさん、私はずっとこの村のことを恨んでいます。お母さんを殺して、お姉ちゃんを追い出したこの村を」
ノクトは黙ってうなずく。
「クレイお姉ちゃんとお母さんのために村の大人たちを恨みながら、ずっと生きてきたんです」
家族を奪われたメルの憎しみは計り知れない。その華奢な体にどれだけの絶望を抱えながら生きてきたのだろう。孤独に押しつぶされながらあの墓地の小屋で。
ノクトは慰めようにも、言葉が見つからなかった。
しかし、メルは少し間をおいて、
「けど、わたしは間違ってるんです。お姉ちゃんはこんなこと絶対望んでないんです」
予想もできなかった否定の言葉をかすれた声で、口にした。
「ど、どうして……どうしてそんなことが言える? 母親を殺されて、クレイを追い出して、全て壊した村の連中を恨まないで生きていくことなんてできないだろ!」
ノクトは困惑した。
自分がそうだったから、メルの抱く負の感情は当たり前なのに、どうして間違っているなんて言うのか。
あの残酷な惨劇に、憎悪しないなんてできるわけがない。
思わずメルの肩を掴む。顔を上げた彼女の目には大粒の涙が溜まっていた。
「だって……だって! お母さんがあんな唄、唄ったのが悪いんだもん! あんな唄なければ、お姉ちゃんも、追い出されずに済んだんだもん!」
悲しみとやるせなさに表情を歪ませたメルは大声で嘆く。彼女の口から出た言葉に、昼間の出来事の記憶が蘇る。
「また、唄なのか? 一体どういうことなんだ、メル。あの唄は、幸せを願う唄じゃなかったのか?」
整理が追いつかずに、ただ混乱するばかり。
呪いが唄の意味だとでも? そんな馬鹿馬鹿しいオカルトが、クレイたちの悲劇を招いたとでも言いたいのか?
「ノクトさん、あれは幸せを願う唄なんかじゃないんです! みんなの幸せなんかじゃない! 『誰も死ななければいい、いつまでも変わらないでいてほしい』っていうお母さんだけの幸せ! あれは、あの唄は……!」
感情と言葉が追いついていないメルが泣きながら叫んだ悲痛な言葉は、
「蘇りの呪い唄」
いつの間にか集まっていた村人たちの憎悪にかき消された。
†
まるで亡者のように生気のない蒼白い顔をした村人たちが広場の入口に並んでいた。
昼間見かけた人数よりも沢山の人、人、人。恐らく家の中から出てこなかった者たちもそこにいるのだ。
ある者は眼球が零れおち、異臭を漂わせていた。首のない者も混じっていた。墓土で汚れたローブを纏った者はどこか得体のしれない液体を滴らせていた。
明らかに生者としてはありえない残酷なまでの姿。地獄のような光景。
「その唄は死んだはずの我らを蘇らせる」
「毎夜毎夜、苦しみながら死に続けているわたしたちを」
「永劫に縛り付ける」
「ねえ、魔女の娘」
「なぜ唄い続ける、なぜ苦しませ続ける」
「お前は……いなくなったはずなのに!」
口々に囁かれる呪詛。あの唄の意味。
死者を蘇らせる唄。
屍が蘇るというあまりにも狂気じみた理解できない現実に、ノクトはもうその場に立ちすくむしかなかった。
「これが、あの唄の……」
こんなのが、あの思い出の唄?
悪夢の中にいるような、目の前の事実を肯定したくなかった。
「ノクトさん、私の知ってること、これで全部です。全部お母さんの唄が招いた悲劇なんです」
メルがどこか悲しげに、静かに告げた。
これがメルの隠したかったこと。「綺麗な唄だ」と言ったノクトの幻想を壊さないように、秘密にしていたこと。
ノクトは何も言えなかった。頭の中を、いくつもの真実と言う残酷な黒い渦がかきまわしていた。
村人たちが、ノクトとメルに向かってゆっくりと歩みを進めてくる。その手にあるのはクレイの母を奪った赤い魔女狩りの篝火。
「そして、これが……私がこの村にずっとしていた復讐です」
ノクトに背を向けて、死者へ届くように、
メルは唄った。
あの旋律を、悲しく切ない、子守唄のような唄を。
母と姉の復讐のために、唄い続けたのだ。
「魔女め……! 魔女め!」
唄が始まったと同時に、死者の波が押し寄せる。魔女を殺す赤い篝火を持ちながら、メルを殺しに。あの日のように、悪意の塊が唄う彼女に迫る。
しかし、迫りくる彼らを見てもメルは逃げようとしなかった。
「メル!」
ノクトは彼女の腕を掴んで、こちらに引き寄せる。彼女はどこか悲しそうで、諦めたような表情を見せた。
「ノクトさん、私はずっと間違ってきたんです。あの時のことを恨みながらも、必死にお姉ちゃんを探そうとしてるノクトさんを見て、思い知ったんです。お姉ちゃんなら、こんなことしない。絶望の中にも希望を見出して生きていく。ノクトさんみたいに」
だから、とメルは続けて、
「できなかった私を放っておいてください! 呪われた唄しか唄えない私を置いていってください!」
そう叫んだ。彼女の目には涙が浮かんでいた。
全て自分が弱くて、間違ったのがいけないのだから、ここで死んでしまおうと、そうメルは言うのだ。
「ふざけんな……」
迫りくる死者の波に、足元のランタンを投げ付ける。放物線を描いて彼らの先頭に当たったそれは、黄色い火種を蒔きながら砕け散った。
炎が屍を焼いた。苦悶の声を上げながら倒れた仲間を見て、押し寄せる狂気の波が止まる。
メルはその様子を信じられない目で見ていた。
「メル、間違ったって構わないんだ」
「え……?」
「間違ったら、やり直せばいい」
「やり直せないんです、こんなの! わたしが村の人たちにしたことは……」
「やり直せばいいんだ。お前なら、違う唄もきっと唄える。誰かを呪う唄じゃなく、誰かを幸せに出来る唄を、唄える」
「な、何を言って……」
「お前は絶対死なせない」
恨むことは弱さなんかじゃない、人間はそんなに機械的じゃない。当たり前のことなのだ。恨んでいい、そしてそれは間違いじゃない。それでもまだ間違いだと言うのなら、間違った分だけ何かを返せばいい。たとえそれが大きい間違いでも、生きていれば償いもお返しもできる。たったそれだけのことなのだ。
全ての事実を知った上でも、メルを見殺しにすることなんてできなかった。
ノクトがここに来たのは、希望を掴むためだ。
あの忌まわしい記憶の中に残った唯一の希望を。
その希望は、今、目の前にある。
ノクトはメルを、助けようと決めたのだ。
「邪魔を……するな!」
再び屍の群れが迫る。
ノクトはメルを抱えて、走り出した。あんな人数をまともに相手にしても逃げきれるかはわからない。しかし、それでもここからメルを助けなければならなかった。
腕の中に抱えた彼女が涙声で言う。
「ノクトさん、駄目です! 私なんか放っておいてください! 追いつかれたら、ノクトさんまで……!」
「俺は諦めたくないからさ」
「そういう問題じゃ……!」
「思い出の唄がすべての元凶だった。そんな話を聞かされて、本当に絶望したさ」
「…………」
「けどな、メル、お前は希望なんだよ。この悲劇の中で残っていた最後の希望なんだ。だから、必ず守ってみせる」
メルはおとなしくなり、ノクトの腕にしっかりとつかまった。
気付くと、クレイの家の丘まで来ていた。
少し白みかけた空の下、見えたのは無造作に散らばった家の残骸。
「そうか……!」
これで、あの迫りくる屍を動けなくしてやればいい。
一番大きな家の残骸を押す。しかし、太い丸太のようなそれは重く、少しずつしか動かない。その間にも彼らは赤い篝火と共にこちらへ近づいてくる
「くそっ……!」
このままでは追いつかれてしまう。やはりこのまま森の中に逃げ込むべきか? いや、このまま森に入れば奴らはそこに火を放つ。そうすれば助からない。どうすればいい。
「ノクトさん!」
もうひとつの角材をメルが手渡す。それを丸太の下に刺し、渾身の力を込めて押す。
メルと共に、二人で助かるために。
「落ちろ!」
斜面の重力に引かれて、それはゆっくりと下へ落ちていった。
屍の群れを押しつぶす。怨嗟の呻きと苦悶の叫びが木霊した。後に残ったのは、肉の焼ける嫌な臭いと赤い炎に彩られた朝焼け。
「ノクトさん、……わ、私、私……!」
「いいんだよ、メル。メルは生きて、ここにいていいんだ」
泣きじゃくるメルを、ノクトはそっと抱き寄せた。
5
墓守の小屋に帰るなり眠ってしまったノクトが目を覚ますと、もう夕方になっていた。
窓から差し込む夕日は穏やかで、暖かかった。どこか希望のように眩しく、落ち着いてくるように感じた。
寝ぼけた意識に唄が聞こえた。聞いたことのない唄。どこかやさしく、暖かい旋律。呪いの唄とは違う、純粋な印象の唄。
それは外から聞こえてくるようだった。
「メル……」
「あ、すみません……起こしてしまいましたか?」
夕焼けに映える白銀の髪がそよ風になびく。彼女の頬は少しばかり茜色に染まっていた。恥ずかしそうに目をそらす。
「その唄……」
「下手……ですかね? 即興で創ってしまいましたから」
「いや、とっても綺麗な唄だよ」
「クレイさん、私、この村で、レクイエムを唄おうと思うんです。墓守として、お母さんと村の人たちの鎮魂を」
「それは……」
恐らく、彼女なりのこの悲劇へのけじめ。自分がしてきたことを背負って生きようとする決心の証。そうノクトは感じた。メルの決心を無駄にはしたくないと思った。
「そしていつか、ノクトさんから言われたように、唄を唄いたい。誰かを幸せにできる唄を」
「そっか」
「ノクトさんは……これから……」
「俺はクレイを探すよ。何年かかっても、必ずここにクレイを連れて、帰ってくる」
「はい……!」
希望の唄を唄うメルのところに。
「……墓守の子守唄、かな」
「え?」
「曲の名前」
「ノクトさん……!」
ノクトはそっとメルを抱きしめる。
絶対にこの温もりのあるところに戻ってくる。そう心の中で誓い、
「行ってくる」
「いってらっしゃい、ノクトさん」
ノクトは希望の唄の響く故郷を後にした。
終
九想図
灰白湯
ねえ、おとうさま。
わたしは彼のことが好きです。
わたしは彼のことが、大好きです。
まだあどけなさの残る高く透き通った声も、わたしより少し低めな体格も、線の細い顔も。彼は病弱で、とてもはかなくて、そのくせ瑞々しい生をわたしに魅せてきて。ほんとうにどうしようもないほど彼に惹かれてしまったのです。
彼のそばにいたい。
とりとめもないことでもいいから、ずっとお話ししたい。その蠱惑的な声をずっと聞いていたい。彼に触れたい。息も触れ合うくらいに近くで、どきどきするくらいに彼を感じたい。とけあうようなぬくもりを、息遣いを、心臓の音を感じながら、彼を抱きしめたい。
けれども、わたしには勇気がなくて。彼を思うと切なくて、苦しくて、汚らわしい欲望に溺れてしまうというのに、彼を好きだと言えなくて。
だから、わたしは彼に『あなたを描かせてください』とお願いしたんです。
お願いしたとき、わたしは胸がどきどきして、不安でした。
断られるかもしれない、気持ち悪い女だと思われるかもしれない、嫌われるかもしれない。色々な不安感が渦巻いていました。でも彼は、
「別に、いいよ」
と頷いてくれました。少し蒼い顔に微笑みを浮かべて。
嬉しくて、仕方がありませんでした。思わず泣いてしまいました。
それからわたしは毎日毎日彼のところへ行って、彼を描き続けました。
幸せでした。彼の整った顔を見て、彼の身体をなぞるように描いて、終わった後には彼とお話をして――――彼と一緒に過ごす時間がとても楽しかった。お世辞にも私の絵は上手いとは言えない出来栄えでしたが、いつも彼に「ありがとう」と頭を撫でてもらいました。
そうですよ、おとうさま。
わたしは彼のもとにずっと通っていたんです。
ところが数週間が経ったころから、彼はずっと寝たきりになってしまっていました。前にもまして蒼白くなってしまった彼。布団越しにしか話せなくなった彼。もうあの笑顔も見られない。もうわたしを撫でてくれない。
わたしは怖くなりました。このまま彼のそばにいられなくなるのはいやだ。離れたくない。わたしなんかのわがままを許してくれた彼のそばにずっといたい。
だからわたしはこれからも彼をずっと描こうと思ったのです。
どうしてですか、おとうさま。
それの何がいけないことだったんですか?
落ちくぼんだ眼、痩せこけた頬、皮と骨だけのような彼は日に日に黒ずんで脹らんでいきました。
髪は脂にまみれ、抜けおちてしまいました。皮膚がだんだんとはがれていって、赤黒色と濃い黄色の混ざった液体がにじみでてきました。
異臭の中で、彼は膿んでとけていきます。肉と血と体液と脂の塊になっていきます。眼窩から白く濁った眼球がおちて、脳漿が口からあふれて、破れてしまったお腹からとけくずれた内臓だったものがこぼれて、粘ついた体液にまみれた骨がさらけだされて――――どこからか涌いて出てきた蛆を払っても、肉も一緒にそいでしまいました。
それでも、彼は彼なんです。
どんなかたちをしていても、彼は彼なんです。だから彼を描くのは止めませんでした。彼の匂いの中で、彼を近くに感じながら、ずっと、ずっとずっと――――
だから……ねえ、おとうさま。
弟はどこですか。わたしの大好きな弟はどこにいるんですか。
終
ぼくのかんがえたさいきょうのプリキュア
浦木 英智
あのときの光景を思い出すだけで、まだ体がぶるっと震える。私はただ、膝を抱えて薄暗い部屋を眺めていた。それが私の、不安と恐怖から心を守るための方法だった。
「メイ、大丈夫ですか? とっても元気がないように見えるのです」
スピカが不安そうに私の顔を覗き込む。私は、ぎこちなく笑顔を作って「うん、大丈夫だよ」と答えた。我ながら虚勢がにじみ出ていると思う。
「まさか、敵があんなパワーアップをしてくるなんて、思わなかったのです。でも、プリキュアは伝説の戦士だから、きっと大丈夫だと思うのです」
吸血鬼が作り出す悪意の塊、「メイワーク」。ただでさえ凶暴な怪物なのに、「サイヤーク」という更に強い怪物に進化することが分かった。その圧倒的な力に、私たちは手も足も出なかった。
「でも、『ミライ』取られちゃったね。ごめんね」
人々の夢見る力、希望を信じる力が結晶化したものが「ミライ」だ。奇跡を起こす力があるといわれている。
「それは確かに残念だったですけど、それより、メイとリオが無事だったのが何よりなのです」
吸血鬼に破壊された妖精の世界、「エトワール」を復活させるためには、「ミライ」の奇跡の力が必要で、スピカは「ミライ」を集めるために一人で人間界へやってきた。しかし今まで集めた「ミライ」も敵の吸血鬼に奪われてしまった。
「優しいね、スピカは」
小さな体に、勇気も優しさも併せ持っている。スピカはなんて強い子なんだ、と思う。
そのとき、階段を騒がしく登る音が聞こえたかと思うと、私の部屋の扉が騒がしく開き、騒がしい友人が姿を現した。
「メイ! 起きてるかいっ?」
「……チャイムくらい鳴らしなよ、リオ」
今日もリオのおかげで、落ち込んでる暇なんてなさそうだ。
第十四話「変身できない? プリキュア最大の危機です!」
南条瞭は、私こと早乙女明の幼馴染だ。いや正確には、五年程丸々会っていなかったから、ブランク付き幼馴染だ。小学生のとき別の町に引っ越して、再びの引っ越しでこの町に戻って来ることができた。リオとは久し振りの再開だったけれど、お互いにすぐ分かった。そして私たちは、以前よりももっと仲良しになった。
「……なぜ、こんなことに」
リオの持参したDVDを見ていた。「劇場版だよ!」とは彼女の談だ。「落ち込んだときは、もっときちんと落ち込んでおきたいんだけど」と言おうとしたが、楽しそうに目を輝かせて画面を見つめるリオを見ると、そんな言葉は出てこないのだった。
「変身! ガッシィーン!」
画面の中では、魔物の力をその身に宿すヒーローが、世界の滅亡を企む悪の軍団と戦っていた。魔物の力を使うことで、ヒーローは絶大な力を引き出し、人々を守る。しかしそうすることで、ヒーロー自身の体は魔物の力に侵食されていく。やがてヒーローも人ならざるものになる。魔物とそう変わらない存在になる。それが分かっていても、ヒーローは戦うことをやめない。今日も人々を守り続けるのだ。
「『愛がこの身にある限り、恐いものなど何も無い!』」
私には男の子みたいな趣味はないけれど、嬉しそうなリオと、その解説付きで見れば、悪くないと感じられる程度には、楽しかった。
物語はやがて終末に向かう。ひとまず危機は去ったが、ヒーローの戦いの日々はまだ終わったわけではない。ヒーローの孤独な戦いは……いや、ヒーローの傍らには、いつのまにか仲間がいた。魔物の力は無くても、ヒーローを支え助けようとする仲間がいた。そしてヒーローは気付く、仲間がいるから自分は戦っていけるのだと。
「ああ、楽しかった。メイもそうでしょ?」
「うん……どうだろう」
「じゃあもう一回見る? また解説するよ」
「いい、いいよ! 一回で十分だよ!」
慌てて言うと、リオは笑った。
「なんだ、元気みたいで、安心した」
「だから別に、落ち込んでたわけじゃないってば」
そう言って私はまた、ぎこちなく笑うのだった。
「リオ、ありがとうなのです」
嵐のように去ろうとするリオの背中に、スピカはそう言った。
「なんとなく、リオの気持ちは伝わったと思うです。なんとなくですけど」
リオは、少しだけ笑って「メイをよろしくね、スピカ」と言った。それから私の方を見て、今度はポーズを決めながら言った。
「男はいつ死ぬか分からない。パンツだけは一張羅を履いておけっ!」
そのとき、確かに時間は停止したのだと思う。しかしリオは気にした様子もなく、「また来るよ」と言って去っていった。
「……男じゃないし、意味分かんないし」
「リオの言いたいこと、分かった気がするです」
「本当に? すごいね」
「よく分からないけど、分かったのです」
それからスピカは私に向かって言った。
「メイ、どこかに出かけようなのです。星は、太陽の光に当たらないと、輝けないのですよ!」
高台から見る景色が好きだった。町が見渡せて、私の家もリオの家も見えて、学校も見えて、大きな川が見えて、地平線の端っこには海が見える。あるいは、この景色を守るために、私は戦っているのかもしれない。
「もっと高くて遠くにあると思ってたんだけどな」
「ここは、十分高いと思うのです」
スピカが不思議そうな顔をする。
「そういう意味じゃないよ。……小さい頃にね、リオと一緒に二人だけで、ここまで来たんだ。大冒険だった。とっても疲れたし、とっても大変だった。でも、そのときここから見た景色は、きっと今まで見た景色の中で一番キレイだったと思う」
風が吹き抜けて、汗に濡れた体を冷やした。自分たちは、凄いことをやり遂げたのだと思った。ここは空に手が届く場所なのだと思った。あの日見た景色は、きっときらきらしていた。
今、この景色がきらきらしていないのは、きっと私自身に原因がある、と思う。
「スピカ、『メイワーク』がもっと強くなったのは、どうしてか分かる?」
だから今は、ともかく前に進むしかない、と思う。
「……きっと、『ミライ』の力を使っていると思うのです。大いなる奇跡の力を悪いことに使うなんて、許せないのです」
「吸血鬼の人が『ミライ』を集めてるのは、『サイヤーク』を生み出すためなの?」
「スピカが思うには、敵にはもっと別の目的があるように思えるです。奇跡の力を使えば、もっと大きなこともできるのです」
「じゃあ、私たちが『サイヤーク』に勝つためには、どうしたらいいの?」
「簡単です。プリキュアもパワーアップすればいいです」
「パワーアップするためには、どうしたらいいの?」
「体を強くすればいいと思うです」
「体を強くするには?」
「たくさん食べて、よく寝るといいです」
「スピカ」
「何です?」
「今すぐにパワーアップする方法はないってこと?」
「その通りです」
私は、ため息をつく。現状を打破することはできなそうだ。
空が急に曇ってきた。黒い雲が町を中心に広がっている。
「なんだか、おかしな天気だね」
雲はやがて渦を巻き、町の中心を目指すように沈んでいく。
「あの雲、とっても嫌な感じがするのです。……きっと、吸血鬼の雲です!」
どきっとした。そして同時に、今の状態の私に、果たして戦うことができるだろうかと、不安になる。
「メイ、すぐに行こうなのです!」
「う……うん、わかった!」
私が自転車に乗ると、スピカがかごに飛び込んだ。
「しっかりつかまっててね、スピカ」
腰を浮かせて、強くペダルを踏む。来るときは自転車を押して上った坂を、今度は滑るように一気に下る。自転車はどんどん加速して、後ろに景色が流れていく。
ハンドルを握りながら、私は思う。あの日、高台から町を見下ろしていた私たちは、その後どうやって家に帰ったのだったか。体力を使い切って、二人でうとうととしてしまって、気が付くともう日は沈んでいて、きっと二人とも泣き出す寸前で、どんどん辺りは暗くなっていって……。
思い返している時間は一分程度だっただろうか。長い下り坂は、町に繋がる大通りと合流した。黒い雲がさっきよりもずっと近くに見える。
「急ごうなのです! メイ」
「うん!」
私はもう一度、ペダルを踏む足に力を込めた。
吸血鬼が空中で高笑いしているのが見えた。
「さあ、メイワーク! 破壊の限りを尽くせ! 人間どもに迷惑をかけるのだ!」
怪物は地面が震えるような低い声で鳴き、あたりの街路樹をなぎ倒し、信号や道路標識も壊し始めた。
「やめるのです!」
「や、やめなさいっ!」
吸血鬼はこちらを向いて、嬉しそうに笑った。
「来たな、プリキュア。今日こそはお前にとどめをさしてやる! この、より強くなったサイヤークでな!」
吸血鬼が右手を上げる。その手には、奪われた「ミライ」があった。
「悪に染まった闇の力に目覚めろ!」
怪物がもう一度鳴く。怪物の体は一回り更に大きくなり、見た目もより禍々しいものに変貌した。
「ひっ」
思わず息を飲んだ。ぞくぞくと全身が総毛立つような感覚があった。大きくて凶暴で……怖い。
「ごめん、遅くなった!」
「……リオ」
リオの登場に、吸血鬼は、もう一度嬉しそうに笑った。
「丁度いい、二人まとめて始末してくれる! 行け、サイヤーク!」
怪物がこちらに向かって歩を進める。
「メイ、リオ、変身するです!」
「わかった!」
「う、うん」
変身することにどこか躊躇している自分に気付いた。でも、私がやらなくちゃ。変身しなきゃ。戦って、みんなを守らなきゃ。大丈夫、きっとできる。だから……。
「プリキュア・リインカネーション!」
「戦場に響く乙女の歌、キュアワルキューレ!」
リオは白く輝く戦士に変身していた。しかし、私は……。
「メイ……どうして、変身してないんだ?」
リオが信じられないものを見るような目で、こちらを見ていた。
「どうしよう、変身……できないよ」
膝はがくがくと震えていた。奥歯がかちかちと音を立てていた。
「そんな! どうしてですか?」
「わかんないよ……こんなこと、今までなかったのに」
変身アイテムの「ウィッシュコネクト」を強く握りしめる。しかし手元のそれからは何の返答もない。
「メイ、逃げるんだ」
「え……」
リオの目は、サイヤークを見ていた。一人では敵わない相手だということぐらい、彼女も理解しているはずだ。
「でも……」
「大丈夫」
私の言葉を遮るようにリオは言った。そして次の瞬間、地面を蹴って跳んだ。
光の尾を引きながら、真っ直ぐにサイヤークに向かって飛んでいく。それはまるで、流れ星のようだった。
「だあああああっ! ヒーローパンチ!」
大きな衝撃音のあと、サイヤークの体が大きく傾く。
「やったです!」
「……すごい」
リオはすかさずサイヤークの体を蹴って上に跳んだ。
「逃がさない! ヒーローキック!」
しかしサイヤークはそのまま体をひねると、触手のように伸びる腕を振った。
「だめ! リオっ!」
空中で身動きが取れないリオにサイヤークの腕が直撃する。リオの体は木の葉のように舞い、地面に叩きつけられる。
私は、その光景をただ茫然と見ていた。
「よくやったぞ、サイヤーク!」
吸血鬼が高笑いする。怪物はまた、低く鳴いた。
「そのまま、もう一人も片付けてしまえ」
はっとする。次の標的は私。少し考えれば分かることだった。逃げなきゃ。でも、リオを放っておくことなんてできない。どうしよう。どうすればいい。
「メイ、早く逃げるです!」
足が動かない。体が熱い。心臓の鼓動が全身を揺らす。
「だめです! 逃げなきゃ、メイ!」
「撃て!」
サイヤークが口から黒い光弾を吐いた。しかし私は、どうすることもできず、立ち尽くしていた。
白い光が私の前に立ちはだかって、黒い光弾を受け止めていた。
「ワルキューレ!」
「……!」
「何! まだ動ける、だと?」
ぼろぼろになりながら、それでもリオは立っていた。私を守るために。
「メイに手出しはさせない!」
光弾が辺りに四散し、消滅する。リオは、右手を胸に構えて叫んだ。
「ヒーローの条件……それは、振り向かないこと、躊躇わないことだ!」
それが、自分を奮い立たせるための虚勢だと、私はすぐに分かった。
「何だそれは……下らない! 撃て、サイヤーク!」
怪物が低く鳴き、立て続けに光弾が飛んでくる。
「メイ、絶対に私の後ろから動いちゃだめだ」
「そんな……リオ!」
リオは、両手を前に伸ばした。全て受け止める気だ。
私は願った。リオが光弾を全て避けてくれるように。リオが無事でいられるように。私は叫んだ。私の願いも、リオへの思いも、自分自身の弱さへの絶望も、全て込めて叫んだ。
リオは、一歩も退かなかった。私の無事と引き換えに。
「そんな、馬鹿な……! ええい、潰せ!」
怪物の体が大きく傾いた。自身の体で私たちを押し潰す気だ。
「プリキュア……」
「もうやめて! リオ!」
怪物の体がもうすぐそこまで迫っている。
「……プリキュア・ワルキューレライトニング!」
突き出したリオの右手から閃光がほとばしる。辺りがまばゆい光に包まれると同時に、怪物の悲鳴が聞こえた。大きな音と共に、怪物の体は、私たちとは反対側に倒れた。
次の瞬間、リオは操り人形の糸が切れたように、膝から崩れ落ちた。
「リオ!」
私は、リオの正面に回り込んだ。全身ぼろぼろで、顔は泥だらけだった。
「えへへ……体、動かなくなっちゃった」
リオは笑顔を作って、私の顔を覗き込んだ。そのとき、私はどんな顔をしていたのだろう。
「メイは、私が守るから。だから、そんな顔しないでよ」
「……もういいよ。もう、いいから。お願い、もう立たないで」
「そういうわけにはいかないな」
「どうして、そんなに頑張れるの?」
リオは、「難しい質問だね」と言って笑った。それから、少しだけ真面目な顔になって、「私が」と言った。
「……私が、プリキュアだから、かな。誰かを助けるのに、誰かを守るのに、それ以外の理由はいらない、そう思うんだ」
私は、息を飲んだ。同時に、私の体の中にあった何かもやもやしたものが消えていくような感覚があった。
「……間違ってるよ」
「え?」
「『私』じゃなくて『私たち』。リオと私と、ふたりでプリキュア。そうでしょ?」
「メイ……」
私は、精一杯の笑顔を作って言った。
「ひとつ、今まで嘘を吐いてたことがあるの。……本当はね、戦うの、凄く怖いんだ。誰かを助けるのも、守るのも、怖い。傷つけられるのも怖いし、傷つけるのはもっともっと怖い」
「メイは、変わってない。昔のメイのままだね」
「うん。……だから、お願い。弱い私を」
「メイを、守るよ。助けるし、守ってみせる」
私は、「ありがとう」と言って、立ち上がった。振り向くと、吸血鬼と怪物がそこにいた。大きくて凶暴で……やっぱり、怖い。
「リオ、見ていて!」
弱虫で臆病な私は、きっといなくならない。私は私のまま、弱い自分でいるしかない。でもきっと、大丈夫。私にはリオがいるから。
「プリキュア……」
ウィッシュコネクトから、今まで見たことがないような強い光が発生して、私たちを包んだ。
「わっ、何……これ」
「……痛みが消えてく。体が、動くよ」
リオは、驚きと感動が混ざったような顔をしていた。
「メイ! メイはやっぱり、すごいです!」
「スピカ、これ、何が起こってるの?」
「メイの思いが、ミライの奇跡の力と共鳴して、プリキュアの新たな力を引き出したです! メイは、更に強いプリキュアに生まれ変わるです!」
どこか、夢心地のようなふわふわした感覚があった。それは、奇跡の力によるものだけではないだろう。きっと私は、嬉しいのだ。
「プリキュア・リインカネーション!」
そのとき、私は唐突に思い出していた。あの日、リオは私に手を差し出して、言ったのだ。
「二人なら、怖くない。大丈夫」
刻々と暗くなる空。黒くその姿を染めて、ざわざわと風に揺れる木々。どこか寒々しい景色の中で、握った手が温かかった。
「だから、泣いちゃだめだ。もしも、二人で家に帰るまでメイが泣かなかったら、これからもずっと、私がメイを守ってあげる。約束」
「闇を照らす星の光、キュアトゥインクル!」
力が溢れてくる。今までの変身とは明らかに何かが違う。それが私には分かった。
「おおっ、パワーアップフォームだ!」
「かっこいいです!」
よく見ると、プリキュアの衣装が以前と少し違ったものになっていた。しかし変化がそれだけではないことは、変身した私自身が不思議と理解していた。
光が薄くなり、吸血鬼と怪物がもう一度姿を現す。
「なんだ、その姿は」
「生まれ変わったの。あなたに、勝つために」
「笑わせるな。……行け、サイヤーク!」
怪物が怒ったように吠えて、突進してくる。私は、右手を前に伸ばして、叫んだ。
「プリキュア・トゥインクルイグニッション!」
閃光が真っ直ぐに伸びて、怪物の体を貫く。怪物の足が止まり、光が貫いたあたりからひびのようなものが入る。やがてひびが怪物の全身にまわり、怪物は苦しんだように悲鳴を上げる。
「リオ、狙って!」
「……わかった!」
リオは地面を蹴って跳んだ。
「プリキュア・ワルキューレライトニング!」
それはまるで、流れ星が怪物の体を貫くように見えた。
「……『二人なら、怖くない。大丈夫』って。『二人で家に帰るまでメイが泣かなかったら、これからもずっと、私がメイを守ってあげる』って」
夕焼けに照らされたリオの顔が、一層赤くなるのが分かった。
「な……な、なにそれ? 全然覚えてない」
覚えてない、割には反応が大げさな気がする。「本当に?」と言ってリオの顔を覗き込んだ。
「本当に、全然、これっぽっちも覚えてない!」
「ほんとにほんとに、本当?」
顔をもっと近付けると、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……よくそんな、恥ずかしい約束、覚えてられるよね」
約束、という言葉遣いはまだしていなかったはずだ。でもまあ、リオで遊ぶのもこのくらいにしておこう。
「じゃあ、新しく約束して」
そう言って私は、リオに手を差し出した。
「これからもずっと、私の傍にいて。私を守って」
リオは、笑って私の手を握った。
「うん。……約束するよ」
「スピカも、一緒にいるですよ!」
二人の手の上にスピカがちょこんと乗った。
「そうだね、みんな一緒だね」
私は、笑った。握ったリオの手はやっぱり温かかった。
END