第一話:ユーリ
深夜二時。
本来なら夜の帳に支配される時間帯のはずだが、今日はまるで昼のように明るい。
闇は炎に焼かれ、ランプの光に追い出され、ここではないどこかに行ってしまったらしい。
ついでに闇の友達の静寂さんも、ついて行ってしまったようだ。
革命を終えた大衆は、そのまま家に帰ろうとはせず、当然のようにお祭り騒ぎをはじめた。
貧困に喘ぐ大衆が、飲めや歌えやしているのは、今も城の倉庫から酒や食料を輸送し続ける革命兵士のおかげだろう。
久々のごちそうに、大衆は大はしゃぎだ。
現実は、来るべきのための備蓄を食い荒らしているだけなのに。
「革命バンザーイ」
「民主主義人民共和国万歳」
繰り返される革命賛美の声。
その度、吐き気がこみ上げてくる。
もう限界だ。
早く家に戻って、ベッドに転がり込みたい。
どうせ眠れはしないだろうから、頭からふとんをかぶって、音だけでも締め出してやりたい。
「へい。そこの君。暇かい? 僕と一緒に遠くへ行かないか。そう、君を知るものが誰もいないほど遠くへ」
どこかの馬鹿が浮かれているのか、妙に時代錯誤な台詞が陽気な声で響きわたっている。
「一生幸せにするよー。今しかないよー。死んだら後悔することもできないよー」
どうやら苦戦しているらしい。
言っていることがどんどん不吉になっている。
それで振り向く女性がいるなら見てみたい。
その後も彼は、声を張り上げているが、まったく反応がもらえていないようだ。
「ふ~んだ。無視しちゃってつまらないな。まさか、マテウスがこんなにも冷たい人だったなんて」
背筋が凍った。
あの巫山戯た台詞が俺宛だったなんて些細なことだ。
どうして……
「俺の本名を知っている? その名前を知っている奴は、この国にはごく一部しか存在しないはずだ。おまえのような子供が知っているはずがない」
「いいじゃない。そんな些細なこと。それより……やっと、振り向いてくれたねマテウス」
そこにいた少年は、蒼い瞳を輝かせ心底嬉しそうに呟いた。
縁のない帽子を被った綺麗な少年だった。
年齢は十代半ばぐらいで身長は百五十センチ前後。
コートに隠されていて体型まではわからないが、首元の透き通るように白い肌に視線が吸い寄せられた。
「些細なことだと? ふざけるなよ。いいから俺の質問に答えろ」
「本当に僕のことがわからないの? 君はずいぶん薄情になったね。こんなところじゃなんだし君の借りているアパートが近くにあるしさ、そこで話そうよ」
「……構わない」
何もかもお見通しのようだ。
素性はおろか、住所まで知られてしまっていればお手上げだ。
こいつを締め上げたとしてもなんの意味もない。また別の誰かが現れるだけだ。
なら、素直に従ったほうがいいだろう。相手の部屋を指定するぐらいだから実力行使は考えにくい。
「君の部屋楽しみだな~」
「あくまでレンツの部屋だ。マテウスとしてのもてなしはできない」
「ちょっと残念。僕はレンツじゃなくて、マテウスに会いにきたのに」
知ったふうな口を。
その言葉を飲み込んで、俺は歩き出した。
薄汚れた三階立ての借家の一室。そこが俺の根城だった。
選んだ基準は三つ、一兵士の収入で違和感がないこと、管理人及び住人の干渉が少ないこと、……そして防音が優れること。
「へぇ、ここが君の部屋。すごく殺風景で生活感がないよ。本と机、それにベッドしか見当たらない」
招かねざる客人は、何が嬉しいのか、やたら上機嫌で部屋を観察している。見られて困るものは存在しないが、それでも落ち着かなくなる。
「なんのようがあって俺に近づいた? まさか、俺を殺しに来たのか?」
「いきなり物騒なことを言うね君は」
そう言うと、少年はくすくす笑う。そして、しばらく経ってから話を再開した。
「最初に言ったじゃない。君を知るものが誰もいないほど遠くへ行こう。もちろん二人きりで」
俺は面を食らう。確かに自分の立場なら、今すぐにでも逃げ出すべきだ。だがわからないのは、この少年になんのメリットがあるかだ。
「悪いが、信じられない。正直なところ、詐欺か、俺のことをからかっているとしか思えない」
「本気だよ。僕は、本気でマテウスを連れて逃げようと思っている。だって、このままだと君はあの世で死神さんとランデブーしちゃうもん。さすがに僕も、あの世までは付き合いきれない。
君は自分の立場がわかっている? 今は亡きヴォルデ王国の王子様。国王はもちろん、君のお兄さんも今日殺されたよ。街で君を見たときに正気を疑ったよ。あっ、逆なのか、父さんと、兄さんが死んだからもう自分は大丈夫と思っているんだ。王族を名乗る資格がない自分は」
その一言は、俺にとって致命的だった。周囲から音が消えた。妙に頭が冷たくなる。
そして、視界から一度全てのものが消え、再び視界が戻ると、少年だけしか見えなくなっていた。
空気が変わったことに気が付いたのか、少年は身を小さくして、怯えた視線をこちらに向けてくる。
「えっ、なに、そんな怖い顔しないで、ねえ、落ち着いて」
俺が一歩距離を詰める度に少年は一歩づつ交代する。
狭い部屋だ。あっという間に少年の逃げ場はなくなった。
後ろ歩きのまま、ベッドの縁にぶつかった少年は、ベッドに腰をかけるような状態になった。
俺はメアを止められなかった責任、革命を止められる位置にいて何もできなかった自分こそが、死ぬべきだと考えていた。
しかし、父も兄もその必要はないと言った。
そうする意味がないとも。王族として名乗る資格を持ちえない俺の命に価値はない。
「人が一番怒るのは、図星をつかれたときだって言うよね。そんなに怒っちゃうと、僕の言葉を認めているようなものだよ」
その通り図星だよ。
だからこそ許せない。少年の細い首に手を伸ばす。
この後どうなろうと知ったことじゃない。
少年は、頼りない腕で必死に抵抗する。
なんなく振りほどくことができるだろう。あえてそれをせず、ゆっくりといたぶる。少年の華奢な首に手が届いた。
少しずつ、力を入れると俺の指が柔らかい肌に食い込んでいく。簡単には楽にしてやらない。ぎりぎりまで恐怖を味わってもらう。
「なぁ、苦しいか。苦しいだろうな」
口を開いて出た言葉には、自分でも新られないほどの怒りと憎しみが込められていた。
どんどん、少年の首を絞めている手に力が入ってくる。このままだとこいつは死ぬなと、頭のどこか冷静な部分が警告を出した。
その瞬間だった。
「っん! や、はなして」
火事場の馬鹿力という奴だろうか? それとも脳裏に浮かんだ警告で力が緩まったのか、俺の手を少年は振りほどいた。
「まさか逃げられるとは思わなかった」
ぜえぜえと息も絶え絶えになりながら、少年はそれでも、ほんの少しでも俺との距離を取ろうとする。
なにもかも上手くいかない。苛ついて仕方がない。
この少年も、メアも、父も、兄も、そして自分すら。本当に、気が狂いそうだ。
「どうして、こんなにうまくいかないのだろうな?」
「落ち着いて、お願いだから、頭を冷やしてよ。マテウス。僕だよ。なんで、わからないの?本当に僕のことを忘れたの? それとも君もなの?」
「おまえなんか知らない」
淡々と告げると、少年はさきほどとは別種の恐怖を瞳に浮かべた。しかし、それを無視して、こんどこそ逃げられないように馬乗りになり、体を押さえつける。
押さえつけた手に違和感があった。
密着した少年の体は妙に熱く、そして柔らかかった。さらには、彼の体臭を心地よく感じてしまっている。ここから考えられることは……
「お前、もしかして女か?」
服装と帽子のせいで気づかなかった、間違いなくこいつは女だ。声も少年だから高いと思い込んで居たが、気づけば少女の声だ。顔も悪くない。というよりも、かなりの上玉だ。
「そうだよ。お願い僕が悪かった。早まらないで、僕を殺してもなんの意味もない。話をしよう」
「そうだな。殺すのはやめよう。女ならもっといい方法がある」
上着からナイフを取り出し、インナーごとコートを切り裂いた。
小振りな胸があらわになる。
わざと痛みを感じるように乱暴に鷲掴みにすると、少年改め、少女は熱い息を漏らし、痛みにその顔を歪めた。
「お前もこっちのほうがいいだろう」
「本当に僕がわからないの? ……でも、そっちならやってもいいよ。相手がマテウスなら」
あまりにも想定外の返答に一瞬思考が止まった。
「お前はなにを」
「まぁ、社会通念上どうかと思うけど。一番大事なのは気持ちだしね」
「自分の立場がわかっているのか? お前はレイプされかけている」
「違うよ。君は僕を犯したい。僕もそうしてほしいと思っている。これが犯罪なら各家庭に自警団が必要になっちゃう」
こいつは気でも狂ってしまったのか?
それとも真性の淫乱というやつなのか?
どちらにしろ俺は、毒気を抜かれてしまっていた。
ため息をつく、高ぶっていた気持ちは急激に冷めてしまっていた。
「もういい。服を着ろ。あと、その鬱陶しい帽子をとれ」
「帽子はいいけどさ、服を着ろと言われても、マテウスがダメにしたばかりだよ」
少女が帽子をとった瞬間。銀色の髪が放射上に広がった。その幻想的な光景に心を奪われる。
そして、ようやく俺は自分が仕出かした過ちに気がついた。
「……ユーリか?」
「ようやく、気が付いた。三年ぶりになるのかな? マテウス」
俺は今になって、暴行を加えようとしていた相手が腹違いの妹であることに気がついた。
彼女は三年の月日でずいぶん印象が変わっていた。