ペリドットの瞳
よく晴れた祝日だというのに、淡雪の機嫌は悪かった。
両親はそろって朝から「急に呼び出されたから」と勤め先に出かけてしまった。おかげで淡雪は、もうすぐ二歳になる弟・真白の面倒を一人で見なければいけない。真白は普段無口で大人しい子なのだが、一度泣き出すとなかなか静かにならない。そのため面倒を見るのはひどく手を焼く。
「今日は友達と一緒に遊びに行こうと思っていたのに」
淡雪はすっかり憂鬱な気分になった。
案の定、淡雪が部屋でグリム童話の『なでしこ』を読んでいるとすぐにリビングから真白の泣き声が響いてきた。無視して読書を続けようかとも思ったが、それほど薄くない壁を通してもよく聞こえる騒音は読書の邪魔になる。本を放り出し、リビングへ急ぎ、真白の気に入っているテディベアを片手にあやしても泣き止む気配すらない。
「ああ、もう。……ナッツ!」
ナッツは飼い猫の名前だ。オシキャットの雄で、よく淡雪の読書を邪魔したり彼女の部屋にある本棚から本を落として散らかすことがある。しかし真白は必ずと言っていいほど、ナッツを抱きしめると泣き止んでいた。元々外交的かつ友好的な品種で、ナッツの性格も人懐っこいためかいつも嫌がることなく真白に抱きしめられていた。家族の中ではナッツが一番真白を上手に泣き止ませることができる。
「ナッツ、どこ? 真白を泣き止ませてよ。おやつ多めにあげるから」
家の中を歩き回る淡雪。隠れられそうな場所を一通り探し回った――念を入れて洗濯機や段ボール箱の中まで確認した――が、結局ナッツは見つからなかった。勝手に家の外に出たのだろう。よくあることだが、今回はタイミングが悪い。淡雪は深く溜め息をついた。
「わたし、このまま家の中にいたら真白の泣き声で頭がおかしくなるんじゃないかな」
皮肉を言ってみたが、真白がそれを理解できる年頃であるはずがない。淡雪はお気に入りの空色のニットジャケットを羽織り、玄関まで出たところで二分間ほど悩んだ後、泣き続けている真白にも赤いパーカーを着せて外へ連れ出した。
澄み渡った青空はまるで上等なターコイズを伸して天蓋にしたかのようだった。その中で煌々と輝く太陽の日差しは暖かい。けれども今では十月の半分が過ぎ、時折吹いてくる風はもう秋のそれよりも冬に近づいていることがわかる。こんな祝日はやっぱり学校の友達と一緒に街へ遊びに行きたかったな、と淡雪は思った。
「真白。いい加減泣き止んでよ」
淡雪に背負われている真白はまだ大きな声で泣いている。周囲を行き交う人々からの視線をちらちらと感じ、再び溜め息をついた淡雪はとにかくナッツを探そうと住宅街を歩き始めた。
しばらく歩いていると淡雪の進む道の右側――薄暗い路地から誰かが飛び出してきた。その相手は彼女とぶつかりそうになったが、ひらっと身軽にかわした。驚いた淡雪は思わず足を止め、相手を見つめた。
本繻子のように艶やかなチョコレート色をした短髪と、黄緑色の瞳がペリドットを想わせる大きなアーモンドアイ。琥珀色の生地に黒い水玉模様のパーカーを着て、真っ直ぐ伸びた脚は黒い半ズボンとスニーカーを履いている。どこか人懐っこそうで快活そうな表情を浮かべたその顔は西洋人のようで彫りが深く、背が高い。年齢は淡雪と同じ十二歳くらいだ。
少年はすぐに立ち去ろうとはせず、淡雪と同様足を止めて彼女を見下ろしている。無言でいることがなんとなく気まずくなった淡雪は少年に訊ねた。
「あの。猫、見てない?」
「猫?」
「うちで飼ってるオシキャットがいなくなって、探してるんだけど」
「いいや、見てないよ」
「そう……。ありがとう」
軽く頭を下げて踵を返そうとした淡雪だったが、少年が「待って」と言った。
「ぼくも手伝うよ」
「いいの?」
「何もすることがないからね。それにしてもその子、弟? よく泣いてるね」
「うん。もう一時間近く泣き続けてるよ。耳が麻痺しそう」
「よかったらぼくに抱かせてくれる? そういう小さな子の抱き方はわかるから」
「…………いいよ」
初対面であるにも関わらず、淡雪は何故かこの少年を信頼できるような気がした。実際に、彼は上手に真白を正面から抱いた。淡雪が見つめる中、少年が右手で優しく背中を撫でていると真白の泣き声は徐々に静かになり、一分もしないうちに止んだ。
「すごい……。どうしてすぐに泣き止ませられるの?」
少年は照れ臭そうに笑った。
「きっと偶然だよ。ちょうど泣き疲れたんじゃないかな」
真白の涙に濡れた顔を取り出したハンカチで丁寧に拭きながら少年は答える。偶然かもしれないとは言え、姉である自分よりも初対面で真白をすぐに泣き止ませることができた彼に対し、淡雪は驚きとわずかな悔しさを感じた。
「この子、しばらくぼくが抱いていてもいい?」
すっかり静かになった真白は眠ってはいないものの、少年に抱かれたまま落ち着いている。
「好きにして。腕が疲れたら適当に下ろして歩かせればいいから」
「わかった。じゃあ行こうか」
微笑んだ少年は、出てきたばかりの薄暗く狭い路地に再び足を踏み入れた。
「どこに行くの?」
「きみの猫を探すんだろう」
「そ――う、だけど」
真白が泣き止んだ今、ナッツを探す必要はそれほど重要ではない。けれどもそれを言う気がなんとなく引けてしまった淡雪は小さく頷いた。
「なら猫が行きそうな場所を歩くのが一番だよ。こういう狭い道とか」
「ああ、なるほど」
この路地は淡雪も何度か通ったことがあった。朝寝坊をして、学校に遅刻しそうになったときは路地の小路を真っ直ぐ走る。そうすればすぐ学校に着くことができた。しかし最近の淡雪は朝寝坊をすることがなくなったため、この路地に入る機会も滅多にない。
取り囲む鼠色の壁は自分の身長の倍ほど高く、枯れかけた植物の蔓がそこら中に蔓延っている。ふと気づけば前を歩く少年が右に折れ、さらに狭い道へと進んでいくところだった。
「そんなところまで行くの?」
「いいから、ついてきてよ」
「いこう、いこう」
普段訪れない場所が珍しいのか、顔を綻ばせた真白は両足をぱたぱたと動かした。その様子を見た淡雪は肩を竦めるも、黙って少年の後ろを歩いた。好奇心がないわけではない。
少年はすたすたと軽い足取りで進んでいった。何度か角を曲がり、石段を上り、まるで迷路を歩いているようだ。
「知ってるかい。ここよりももっと狭くて、それこそ猫しか通れないような道のことをキャットウォークと呼ぶんだよ」
「へえ。知らなかった」
やがてようやく再び日の当たる外へと出ることができ、これまで薄暗い道に慣れていた淡雪の目は一瞬眩んだ。
「あっ」
思わず声が出た。
目の前には、淡雪の住んでいる町では一度も見たことのない光景が広がっていた。
赤い玉のローズヒップをいくつも実らせた野ばらの垣根に囲まれて、喫茶店がぽつんと存在している。黒い屋根と白い塗料が塗られた木製の壁。黒曜石のような看板には金の文字で『喫茶ネンネン』と店名が書かれている。その喫茶店以外、周囲を見回しても他の店舗や民家は何もない。こんな場所があったのだろうかと淡雪は小首を傾げた。
「ちょうどいい。ここで休憩しようよ」
「きゅーけー、する」
真白を地面に下ろし、仲良く手を繋いで喫茶店へ向かっていく少年に淡雪は慌てた。
「ちょっと待って。わたしお金持ってない」
「大丈夫だよ。ぼくがご馳走してあげる。なんて言ったって、ぼくはここのお得意様だからね」
「おとくいさまぁ」
にこにこと笑い合う少年と弟に手招きされ、淡雪は半ば流されるような形で『喫茶ネンネン』に入った。
「わぁ……」
外観は殺風景だが、店内は西洋アンティークの趣向を凝らした綺麗な造りとなっていた。高い天井からは小さいながらも豪奢なシャンデリアがいくつかぶら下がり、白い壁にはロココ風のタペストリーがかかり、可愛らしいビスクドールが窓際に座っている。席はほとんど満席だったが、少年がちょうど二人分の椅子と乳幼児用の背が高い椅子のある席を見つけた。
「いつものね。この人数に合わせて」
ウェイトレスにそれだけ言った彼は本当にお得意様なのかもしれない、と淡雪は驚いた。こんな洒落た喫茶店のお得意様になるような垢抜けた男の子は彼女のクラスメイトには一人として存在しないだろう。
「ねえ、きみは読書好き?」
ウェイトレスが去り、不意に向かい合った少年が質問してきた。
「うん。すごく好き」
「じゃあグリム童話は?」
その名前を聞いて淡雪は思わず目を輝かせた。
「大好きだよ。もしかしてあなたも?」
「そう、ぼくも好きなんだ。本当に面白い話がたくさんあるよね」
「嬉しい。グリム童話の話に盛り上がることができる友達って、今までにいなかったから。『赤ずきんとかシンデレラが好きなんて子供っぽい』って言われたこともあった。原版は全然子供っぽくないんだけどね……」
「それを言った人はグリム童話の魅力が理解できていないんだろう」
「きっとそうだよ」
くすくすと二人は笑った。
「ぼくは『熊の皮を着た男』と『長靴をはいた猫』の話が特に好きだよ」
「わたしは『兄と妹』、『青ひげ』、『雪白と薔薇紅』かな。何度も読み返してるよ。……でも、わたしが部屋で読書をしてるといつも猫が邪魔するの」
「ふうん?」
「本を読んでると膝の上に乗ってきたり、寝転がって読んでるとわざとページの上を歩いてそのまま止まったりね。他にも本棚からグリム童話の本を落とすこともあるんだから」
嘆息する淡雪に、少年は苦笑して言った。
「……ぼくも似たようなものだよ。グリム童話を読もうとするたび、邪魔される」
「そうなんだ」
「お待たせ致しました」
誰に、と訊ねようとしたとき先ほどのウェイトレスが銀の盆を手に現れた。テーブルの中央にケーキスタンドが置かれる。一段目にはクラッカー、二段目にはプチフール、三段目には色とりどりのマカロンが、それぞれぎりぎりの量まで入っていた。そしてケーキスタンドの隣にはティーポットが人数分のティーカップ、皿と並ぶ。最後にルビーのような色をした二種類のジャムを入れたガラスの猫脚つき器が置かれた。
「では、ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスが再び去り、真白はケーキスタンドの洋菓子にさっそく手を伸ばした。しかしクラッカーをそのまま食べようとした真白に少年が「待った」と止める。
「そのままよりもこのジャムをつけた方が美味しいよ」
「いちごあじ?」
「いや、これはどちらも苺ジャムじゃない。こっちが薔薇のジャムで、こっちは鶯神楽のジャム」
「わたしが塗ってあげるよ。どっちがいい?」
このままだとクラッカーにジャムを塗ることも少年が引き受けてしまいそうだと焦った淡雪は真白に訊ねる。
「えっとね……ばら」
恐らく鶯神楽が聞き取れなかったのだろうなと思いつつ、淡雪は薔薇のジャムをスプーンですくった。それを真白の持つクラッカーに塗る。薔薇のいい香りがするそれを真白はぱくりと一口齧り、不思議そうに目を瞬かせた。
「おはななのに、おいしい」
淡雪は鶯神楽のジャムを塗ってクラッカーを食べた。ほんのりと酸っぱさを感じる甘い味が口に広がった。
「美味しい」
「よかった」
少年は嬉しそうに頷くと、三人分の紅茶を注いだ。そして薔薇のジャムをすくって口に含むと、そのまま紅茶を飲んだ。
「ロシアンティーって言うんだっけ、その飲み方」
「そう。でも実際のロシアではあまりこの飲み方はされないらしいけどね」
淡雪は真白のため、備えつけられていた角砂糖とミルクをやや多めに入れ、十分に冷ましてから紅茶を渡した。紅茶を飲むことは初めてのはずだが、意外にも真白は美味しそうに飲んだ。それからクラッカーとマカロン、プチフールを一つずつ時間をかけて食べると満腹になったらしく、椅子の上でうとうとと舟を漕ぎ始めた。
「さっき話していた猫のことだけど」
「ん」
淡雪が最後のプチフールを食べていると、マカロンをつまんでいた少年が話しかけてきた。
「読書の邪魔をするって言ってたよね。もしかしてきみは、その猫のことが嫌いなのかい」
「……ううん。嫌いじゃないよ。邪魔されるのは嫌だから、甘えてきても無視したことがあったけど――あいつは弟を泣き止ませるのが誰より上手で、芸だってクラスメイトが飼ってるシャムとは比べ物にならないくらい多く覚えてる。何より、可愛いからね」
「そっか」
そう返した少年の表情は、俯いていたため淡雪にはわからなかった。
「ぼくもだよ」
「えっ」
「ぼくも同じ。読書の邪魔をされても、その相手を嫌いにはなれないんだ」
「なんだか似た者同士だね、わたし達」
ケーキスタンドとティーポットが空になる頃には、真白は小さな寝息を立てていた。それを見た二人は顔を見合わせ、微笑む。
「今日は美味しいものをご馳走してくれてありがとう。そろそろ帰らないと。猫も多分、先に家にいるかもしれない」
「うん。きっとそうだろうね」
「なんか、探すのを手伝ってもらったのに申し訳ないけど」
「そんなことないよ。ぼくだって今日はとても楽しかったからね」
少年が支払いを済ませている間に、淡雪は真白を起こさないようにそっと背負って店を出た。今度は淡雪を先頭に、迷路のような薄暗く狭い路地の小路を歩き回る。やがて住宅街に出ると、空はいつの間にかターコイズからカーネリアンの天蓋に変わっていた。
「じゃあ、ここでさよならだね」
そう言って淡雪が振り返ると、さっきまで後ろにいたはずの少年がいなくなっていた。
少年の名前を呼ぼうとして淡雪はあることに気づき、そしてそのことを少しだけ後悔した。お互い名乗り合っていなかったということに。
姉弟が帰宅すると、やはりナッツは家にいた。淡雪の部屋で、出しっぱなしだったグリム童話の開いたままのページに座っている。真白をベッドに寝かせた淡雪は『なでしこ』の続きを読もうとナッツの下から本を取り返した。読み始めると同時に、案の定ナッツは彼女の膝に乗る。
「――もしかしてナッツ、グリム童話が好きなの?」
ふと思いついた淡雪が訊ねると、ナッツはちらっと彼女を振り返って一瞥した。ペリドットを想わせる黄緑色の瞳を持つクーガーフェイスはすぐに本へと戻ったが、淡雪にとってはそれだけで十分だった。自然と口元が弧を描く。
「そうか。……そういうことだったんだ」
本繻子のように艶やかで、水玉のようにも見えるスポットがついた毛並みを優しく撫でた。その淡雪の右手に、ナッツの長い尾がくるんと絡んでくる。
「今までごめんね。読書の邪魔してて」
その後淡雪は何度かあの路地を訪れたが、あれ以来『喫茶ネンネン』に辿り着けてはいない。
初めての短編《ペリドットの瞳》を書き終えました!
《猫窟島のケット・シー》をすでに読まれた方は、この作品がどことなく似ていると感じられたのではないでしょうか。
最初、ナッツは犬でもいいかなとか雌の猫でもいいかなとか考えていたのですが却下しました。私の中ではやっぱり人間の姿になれるのは犬よりも猫のイメージで、あと雌にしたら「少女」と表現することになって「彼女」という単語がやたら多くなるかなと思ったからです。淡雪も女の子なので、「彼女」がどっちなのかわからなくなりそうだと思いました。
たまに動画で見かける人間の赤ちゃんの面倒を見たり、一緒に眠っていたりする犬や猫がとにかく可愛くて、今回の小説はそれを意識しました。
あとは猫も本を読めたら面白いかも、と思ったので。
余談ですがオシキャットは「犬の魂が猫の身体に入っている」だとか「猫の皮をかぶった犬」だとか言われるほど犬の性格に近いそうです。
最後に、本作を読んでくださった方に両手いっぱいの感謝を捧げます。ありがとうございました!