鬼姫
―やめておきなさい。あの娘に魅入られたらあんた、身を滅ぼすことになるよ。
幽玄という言葉をそのままに写しとったような深い森の真ん中に、その湖は静かに存在している。湖の周りを囲む森では、生き物たちは草木さえも深夜の眠りについているかのようだ。水面は極めて穏やかで、明るい月に照らされたそれはまるで鏡面のように周りの景色を映し返している。その湖のほとりに、一人の少年が佇んでいる。不思議なまでの静けさが支配したこの場所とまるで呼吸を合わせるかのように、少年は微動だにしない。眩しいほどの月の光が湖に降り注いでいる。
少年は名を宗太と言う。宗太の住む明里村は、この森から程ないところにある。周りを山や丘に囲まれていたためか、静かで争いなど起こったことのないような村だ。村の奥には竹林が広がっており、ほとんどの家がその竹を使って竹篭などの日用品を作ることを生業としている。村では米などの作物がほとんど育たないため、村人たちは作った竹製品を隣の村や町で売ることで生計を立てている。宗太は、そんな村の長の家で育てられた。とは言っても、その家の息子というわけではない。宗太を生んだ母親は彼が幼い頃に病で亡くなっている。そのため、父親が男手ひとつで育てていたのだが、その父親は彼が十の齢を迎えないうちにある日突然失踪してしまった。それからもう五年以上経つが、未だに消息不明だ。宗太の父親は大変真面目な男で、しかも息子の宗太をよく可愛がっていた。そんな男が突然失踪してしまったことに村人たちは首をかしげた。宗太はまだ一人では暮らせないため、長が引き取り育てたのである。
明里村には今、宗太の他に若い男がいない。妙齢の男たちは皆、森を越えたところにある東楼町という大きな町へ出稼ぎに出ているからだ。いくら作物が育たなかろうと、税は国に納めなければならない。男たちはこの貧しい村を出て、多くの人が暮らす東楼町で商家の下男などとして働き、生計の助けとしていた。村に残っているのは年寄りと女子供がほとんどだ。長をはじめ、村人たちもたくましい若者に成長しつつある宗太を頼りにしている。その日も、各家で作られた竹篭を宗太がまとめて東楼町まで売りに行くよう頼まれていた。町までは、馬を走らせても朝早く出て昼前に着くほどの距離だ。そこまで時間がかかるのは、村と町の間に横たわる大きな森のためだ。昼間でも薄暗いその森を避けて町へ出ようと思うと、随分遠回りをしなければならない。その日宗太は、町へはいつも通りに辿り着いた。しかしその日に限って肝心の篭の売れ行きが悪く、売り終えた頃には日が暮れかかっていた。いつもより帰りが遅くなってしまったため、少しでも近道になればと、いつもなら通らない森の中を通って帰ることにしたのだ。
鬼姫の棲む湖。それはこの森について最近まことしやかに囁かれている噂だ。森の奥には開けたところがあり、そこに美しい湖がある。鏡のような水面のその湖のほとりには、鬼姫と呼ばれる娘が棲んでいるという。そんな所に娘が棲んでいるというのも奇妙な話なのだが、実際に見たという者も少なくない。肌は透き通るほどに白く、幼さを残した大きな瞳と肩をこえるほどの長さの艶やかな髪は漆黒の闇と同じ色をしている。薄水色の羽衣を身にまとい、乳白色の玉飾りを掛けている。背格好としては幼い娘なのだが、その容姿は美しいという形容のほうが当てはまるようだ。そんな娘が鬼姫などという物騒な名で呼ばれているのには理由がある。その娘は、湖を通る男を引き込み、その魂を喰ってしまうのだ。湖のほとりを男が通りかかると、娘は鈴の声でその男を引き寄せ、魅了してしまう。その娘に心を奪われた男は少しずつ精気を吸い取られ、最後には肉体こそ残るものの、精神が完全に死んでしまうのだという。はじめはよくある怪談の類だろうと誰も相手にしていなかったのだが、そのうちに村からも消息を絶つ者が出始めた。そしてそれは例外なく森の中を通り抜けようとしていた者たちだったのである。それで、噂は本当なのではないかと誰もがこの森を恐れるようになったのだ。噂はより一層の現実味を帯び、村人たちの間に瞬く間に広がった。
宗太も、その噂を聞き知っていた。だが信じてはいなかった。元来、自分の目で見て確かめたものでない限り信じない性分だ。だから、そう迷うこともなくこの森に入ったのだ。他の男たちが恐れおののいて入ろうとしないこの森へ。
夜の森は夜目が利かぬほど暗い。だから本来、噂などなくとも日暮れ後は通らないものなのだが、宗太はとにかく早く帰りたかった。森の中には一応の小道があったが、日が暮れてしまえばどこが道なのかの判別は難しい。よほど方向感覚が冴えていなければ、途中で迷ってしまうだろう。宗太は木々の間を縫うように、ちょうど森の中央を突っ切るように進む。それが村への一番の近道だ。宗太は少しでも明るいうちになんとか森を抜けようと、急いで馬を走らせた。それでも森の中を走っているうちに空は暗くなり、やがて夜になってしまった。ただでさえ暗い森の中がさらに暗く感じる。ほとんど何も見えない真っ暗な夜の中を、宗太はただひたすらに馬を走らせた。もう月さえも見えない。森を抜けるまでにはまだ随分と距離がある。ところがどういうわけかふいに、明るく開けた場所に出た。日が落ちてもう随分経つというのに、そこだけは奇妙なほどに明るい。ぼんやりと辺りを照らす光のもとは月だった。満月に近い月が、もう随分と高く上っていた。
そこは湖だった。風ひとつ吹かない、静かな湖。鏡のように滑らかな水面は、頭上に輝く月をそのままに映し返している。周りの草木は本物の月と湖に映る月の両方に照らされ、湖のふちを青く彩っている。宗太はその情景を目にして、不思議な気持ちに駆られた。その場を離れたくないような、奇妙な感覚。それはその美しさに見とれてしまったようでもあり、どこか薄気味悪くて腰が引けてしまったようでもある。
「誰ぞ」
何処からか、そんな声が聞こえた気がした。鈴の鳴るような、か細い声。宗太は辺りを見回した。だが、そこには誰の姿も気配もしなかった。空耳かと思った次の瞬間、声は再び聞こえた。
「そこにいるのは誰ぞ。妾の棲家に近づくのは」
今度ははっきりとした言葉として聞こえた。しかしやはり姿は見えない。宗太は湖から離れようとしたが、何か得体の知れない力が宗太をここへ引きとめようとして、離れることができない。
「俺は宗太と申す者だ。そちらこそ誰だ?・・・何処におられるのか」
宗太はどこへともなく言った。周りに目を凝らす。しかし、誰の姿もない。ふと、何かが動いた気配を感じ、宗太は湖を覗き込んだ。すると、今まで波ひとつ立っていなかった湖の水面がゆらゆらと揺れた。そしてその後には、また元のように静かになった。しかしそこには今まで映っていなかったものが映りこんでいる。それは一人の少女だった。宗太は後ろを振り返ってみたが、少女の姿はない。ただその水鏡の中に姿が映っているだけである。漆黒の髪、薄水色の羽衣、首にかかった玉飾り。そして、周囲の闇を吸い込んでいるような深い黒色の瞳。それは噂に聞いた鬼姫の姿そのものだった。
辺りはとても静かだ。虫たちさえ眠っているように鳴き声一つあげない。水面はいよいよ穏やかだが、青白い月の光はなおいっそうに明るい。
「妾は杞凰。・・・皆は鬼姫と呼んでおる」
鈴のような声は答えた。その声は、まるでその水鏡の中から聞こえてくるかのようだった。「鬼姫」という言葉は、その存在を信じていなかったはずの宗太の耳に、意外なほどごく自然に響いた。それは何より、少女のこの世のものではないと思えるほどの美しさが、その噂の真実味を語っているからだろう。杞凰と名乗った少女は、その背格好とは不相応なほどの端正な顔立ちをしている。纏っている衣もいかにも上等なもので、立ち居振舞いも随分大人びている。
「そなたはもしや、宗一郎の息子か」
問われて、宗太は我に返った。今の今まで、自分でも気付かぬうちに杞凰の姿に見入ってしまっていた。宗太は薄気味の悪いものを感じた。宗一郎というのは、確かに宗太の父親の名前だ。もう五年以上も前に失踪している。なぜ彼女が、父親の名前を知っているのか。宗太の背に、冷たいものが走る。
「なぜ、それを」
宗太は震えそうな声で問う。しかし少女はどこか嬉しそうに目を細める。
「やはりそうか・・・懐かしい」
杞凰は静かに語り始めた。
杞凰の話によれば、以前宗一郎もここを通ったのだという。鬼姫の噂はその頃には随分広まっていた。杞凰が姿を現すと、大抵の男は恐怖とその美しさで、腰が抜けて動けなくなってしまう。そうでない者も、一刻も早く湖から離れようとする。だが、宗一郎は違った。彼がこの湖を通りかかったとき、杞凰はちょうど今と同じように姿を現した。その姿を目にしたとき、彼は少し驚いた様なそぶりを見せたが、それでも平然としていた。彼は何事も無かったかのようにその湖のほとりで馬を休ませ、自分もその近くに腰を下ろした。
「そなた、妾が怖くはないのか」
思わず杞凰は問うた。しかし宗一郎は困ったような笑みを向けただけだった。杞凰は唖然とした。そんな男は今まで一人もいなかった。ただ立ち尽くしていると、宗一郎は馬に乗り、湖の周りを回って、やはり何事も無かったかのように森を去っていった。
杞凰は遠い昔を語るように、目を細める。漆黒の瞳が、肌が白いせいか、とても儚く見える。
「気が付けば、妾の方が宗一郎に惹かれておった」
ほんのわずかに沈黙した後、杞凰は言った。蒼白と言ってもいいような頬に、少しだけ人間味のある朱がさした気がした。宗太は、ただ呆然としていた。自分の父親に、彼女は恋をしたのだという。
「そのような歳には見えぬ」
それが、宗太の第一の感想だった。水鏡越しに見える少女は、どう見ても齢十二、三といったところだ。宗太の歳だったらまだ近い。
「妾は一度世を去った者。歳などとるわけは無かろう」
杞凰はからからと声をあげて笑う。月の光が、艶やかに差し込んでくる。今この瞬間目覚めているのは、月と彼らだけであるかのような夜だ。
杞凰は、東楼町を治める大名の娘だった。齢十二にして政略結婚のため遠い町へ嫁せられるところだった。しかし杞凰は大名家に仕える下男と恋仲だった。二人は決死の覚悟で駆け落ちを試みる。ところが二人で逃げる途中で追っ手に迫られてしまった。このままでは逃げ切れないと悟った下男は杞凰を一人置いて逃げてしまった。杞凰は一人森の中を逃げまどったが、やがて追っ手の弓によって森の中で命を落とした。それがこの場所だ。当時ここに湖はなく、森が少し開けたただのくぼ地だった。杞凰の魂は体から抜け出し、ただ一人、この地に残った。いつの間にか、頬を涙が伝い始めた。涙はとめどなく流れた。朝夕の区別も無く、ただ静かに泣き続けた。その涙は地を伝い、くぼ地に少しずつ溜まっていく。それはやがて辺りを湖に変えた。それからは、この湖の住人として静かに時を過ごした。そのうち、湖の近くを通る人を杞凰は呼び止めるようになった。その美しさに、男たちはたちまち虜となった。杞凰はその者たちの精気を吸い取りながら、この湖のほとりで「生きて」いた。そんな折に出会ったのが、宗太の父である宗一郎だった。宗一郎は今まで杞凰が惑わせてきたどの男とも似つかない、見るからに実直な青年だった。杞凰の誘いになびくことなく湖のほとりを通り過ぎることができたのは、宗一郎がその誘惑に負けない強い芯を持っていたからだ。杞凰はそんな宗一郎に惹かれたのだ。それは久しく忘れていた感情だった。そして、自らにいつしか禁じていた思いだった。人を思ってはならぬ、恋い慕ってはならぬと。たとえ命をとしてその人を思ったとしても、裏切られるだけ。そのために命を落とした杞凰にとっては、それが真実である。それでも宗一郎を想うことを止められなかったのは、彼が出会ったことのない類の人間だったからだろう。宗一郎の去り際、杞凰はこの湖ができたとき以来の涙を流した。彼ともう二度と会えないかもしれないと思うと、とてつもなく悲しかった。しかし、宗一郎は再びやって来た。それも、杞凰に会うために。それから宗一郎は何度か湖を訪れた。それは杞凰にとってとても幸せな時間だった。
「だが、それは所詮、妾に許されるところのものではなかったのかも知れぬ」
杞凰の表情はまるで、また悲しみの淵に落ちてゆくようであった。水鏡の中で杞凰は顔を伏せる。すると水面が波立ち、杞凰の姿は消えてしまった。宗太はまるで夢から覚めたような気分だった。湖から目を離し、振り返ると森の前に淡く光る影があった。それは、つい先ほどまで水鏡に映っていた少女の姿だった。杞凰は一本の木の根元近くにうずくまっている。そして、何かを大切そうに抱えている。宗太はその腕の中を覗き込み、次の瞬間びくっとのけぞった。背筋を冷や汗が流れる。宗太はそれを見て、直感のようなものを感じた。そこにあったのは、何年も前のもののような白骨―それは、変わり果てた父の姿だった。
―杞凰様、お許しください。私にはそうする他なかったので御座います。
どこからか、杞凰に語りかける声が聞こえてくる。夢でも見ているのだろうか。死んでから眠ってなどいないのだから、白昼夢のようなものに過ぎないが。
―杞凰様。
その声は遠い昔、毎日のように聞いた声だ。そして、今までずっと忘れようとしてきた声。もはや感慨すらない。
―杞凰様。
これが夢であるならば、一体何が見せる夢なのだろうか。あの男が今本当に許しを乞い、杞凰の夢の中へ現れたというのか。それとも、杞凰自身にあの男を許す気持ちが芽生えたからであろうか。
―お許しください。杞凰様。
「もう、よい」
杞凰は独り言のように呟く。
そうせざるを得なかったことぐらい、わかっていた。そもそも駆け落ちなどうまくいくはずがなかったのだ。本当なら、杞凰をそこまで追い詰めた両親をこそ恨むべきだった。しかし杞凰は恨みを持つほど、両親から愛されることを期待してはいなかったのだ。両親が杞凰を愛さなかったように、杞凰も両親を愛してはいなかった。
ただ、悲しかったのだ。生まれて初めて、唯一信じることができると思っていた男に裏切られたことが。
「わかっている・・・わかっているのだ」
杞凰はまた呟くと、その場にうずくまって顔を伏せた。
「宗太。悪いことは言わない。あの娘に執心するのはおやめ。あんたはやっとここまで立派に育ってくれた。幸せなことだ」
「お久さん」
「お願いだから、自分から身を滅ぼすようなことはしてくれるな」
久は明里村の長の妻だ。長と共に宗太を育ててきた。村にある数少ない畑で野菜を作っては、村人たちに分け歩いている。年を感じさせないほど背筋も伸びており、気丈な女性だ。久は宗太と向き合い、厳しい顔をしている。
この家には昔、実の息子がいた。宗太を引き取るずっと前のことだ。その子は、十五の歳までは何事もなく成長した。とても優しい少年で、村人たちからも好かれていた。今の宗太と同じように、村の将来を担っていく若者となるはずだった。しかしある時、鬼姫に魅入られてしまった。彼が消息を絶った当初はそうとわからなかったが、村の男達総出で森を捜索したところ、変わり果てた姿で発見されたのだった。最愛の息子を亡くしたことは、今も長たちの心の傷として残っている。奇しくも宗太は今、当時の息子と同じ年齢である。宗太までも、鬼姫などの餌食にするわけにはいかない。
宗太はあの日から、たまに夜中に家を抜けるようになった。それは他でもなく、杞凰に会うためだ。自分でも不思議だった。普通なら、自分の父親の亡骸などを見たら怖がって近づこうとはしないだろう。それに加えて、宗太の親代わりとなって育ててくれている人たちにも止められているというのに、宗太はいくら止められても、杞凰に会いに行くことをやめることは出来なかった。
魅せられてしまったのだろうか。
最初は杞凰から一刻も早く離れねばと思っていた。思っていたはずだった。それなのに、宗太は東楼町や隣の村へ行く用がある度、気付けばあの森を通っていた。そして、うつろいの様な杞凰に会う。数を重ねるうちに、自ら杞凰に会いに行くようになった。まるで、何かに導かれるように。無意識のうちに足が自然と森の中へ向かっているのだ。そしてそんな日は必ず、闇の空に眩しすぎるくらいの月が輝いているのだった。
宗太が再び湖のほとりを通ると、杞凰は今度は水鏡にではなく、そのほとりに佇んでいた。宗太の姿を認めると、杞凰は嬉しそうに微笑んだ。はじめのうちは宗一郎のことを思い出すためか、沈んだ表情をすることが多かったが、宗太が湖へ通うにつれ、杞凰は笑顔でいる時間が増えていくようだった。宗太にはそれが嬉しかった。会ったところで特に何をするわけでもないのだが、杞凰にとってはただ自分に会いに来てくれるということだけでも十分だった。それだけ、湖のほとりに住む少女は孤独なのだ。
長たちも、他の村人たちもみな静かに眠りについている。空気までもが息を潜めているような、静寂の夜。自室で同じように眠っていた宗太は、いつもと同じ時刻に目覚めた。
今日も、月が明るい。
湖のほとりで、杞凰は何となしに佇んでいた。湖に反射した月は、本物のそれと同じように辺りを明るく照らす。杞凰はその月が映る辺りの水を掬うように手を水の中に入れる。そしてそのまま持ち上げようとするが、水は杞凰の手の中には溜まらない。自身の目から流れた涙でさえも、今となってはその手で掬うことはできない。
ふと、森の奥からざわざわという音が聞こえた。誰かがこちらへやって来る。杞凰はその方向を見た。そこにいたのは、いつか見た青年に他ならなかった。杞凰は夢でも見ているような気分だった。
「なぜ、またここへ?」
杞凰が呟くように尋ねると、青年は優しく微笑んで答えた。
「あなたに会いに」
それが、杞凰が初めて聞いた宗一郎の声だった。
湖のほとりで、杞凰と宗一郎は穏やかに過ごした。杞凰は宗一郎に、初めて会ったときは何も言わずに去ってしまったのに、なぜ会いに来てくれたのか尋ねた。宗一郎はあの日と同じように少し困った顔をして答える。
「あの時は、私は別の用事があったし、何より私がここを通ったこととあなたがここにいたことは、何の関係もないことだったでしょう?」
そう言って宗一郎は笑う。今度は杞凰が困った顔をする番だ。
「それに、あなたの噂も聞いていたし」
宗一郎はこともなげに言う。その口ぶりがあまりに自然で、杞凰は余計に混乱した。さらに宗一郎は続ける。
「私には幼い息子もいます。そんな状況で勝手に野垂れ死にはできません」
「だったらなぜ」
杞凰は思わず責めるように問い詰める。
「会いたかったからですよ。あなたに」
宗一郎は真顔で答える。杞凰はそのまっすぐな瞳を見つめ返す。そのまま、静かに時は流れた。
それは今までのどんな出会いとも違っていた。杞凰はこの宗一郎という青年を誰よりも愛しく思った。しかし、その想いとは裏腹に、宗一郎もまた鬼姫の餌食となっていった。ついには、宗一郎は自らの力で動くことさえできないほど衰弱してしまった。一本の木の根元に横たわる宗一郎の隣で、杞凰は色白の顔をさらに青くさせていた。そんな杞凰を見て、宗一郎は力なく笑う。
「どうやら、私では力不足だったようですね」
「宗一郎?」
杞凰は不安そうにその名を呼ぶ。宗一郎はもはや焦点の合わない目を虚空に向ける。
「でも、あなたが笑ってくれたのが、私には嬉しかったのです」
そう言って宗一郎は首だけを杞凰のほうへ向ける。そして力の入らない腕で杞凰の手をとろうとする。しかしそれは、たとえ宗一郎の手が届いていたとしても叶わないことだ。
「杞凰」
宗一郎は、初めて杞凰の名を呼んだ。そしてそれを最後に、二度と目を覚ますことはなかった。平生と同じ静かな森の中で、宗一郎は杞凰に見守られてまるで眠るようにこの世を去った。
森の夜は、静かで美しい。そこにある闇は、それ自身が艶やかな妖しさを秘めている。その美しい森の底に広がる、静かな湖。一人の少女の涙が長年流れ続け、今の姿となったといわれる。そしてその少女は、今も静かに、湖の主としてこの森に棲み続けている。
生前の杞凰は、大名家の中であまり目立たない少女だった。大名家には女子が三人おり、杞凰はその末娘だった。二人の姉は明るい性格で、両親もこの二人を殊に可愛がった。彼女らも政略結婚のため嫁に出されるのだが、父である大名がそばに置きたがったため、東楼町の近くの有力者に嫁せられた。それなのに杞凰だけが遠い町へと嫁せられることになった。そんな杞凰を励まし、いつも話し相手になっていたのが、駆け落ちしようとした下男だった。彼は杞凰が浮かない顔をしているとわざとふざけて笑わせたり、面白い話を聞かせたりした。年は十近く離れていたが、杞凰はこの青年を慕っていた。そしていつしか、知らない町の知らない男の元へ嫁ぐくらいなら、この青年と共に生きたいと思うようになった。元来子供にしてはませた性格である。それで駆け落ちを思い立つところは幼稚な発想かもしれないが、本人は至って真剣だった。その下男も杞凰との駆け落ちに同意してくれた。だから杞凰は二人の想いは通じあっていると信じて疑わなかった。しかし実際は、身に危険が及ぶと男は一人で逃げてしまった。それは杞凰にとって耐えがたい屈辱だった。男への恋慕は死と共に恨みへと変わった。その恨みのために杞凰は今もこの湖に棲み続けている。
宗太は、この美しい少女に惹かれていた。それと共に、自分がとても無力であるように感じた。
杞凰は、幽霊であった。人そのものの身体に見える彼女の姿は、魂が形作る、いわば幻。誰も杞凰に触れることができない。この世を映す水鏡は、杞凰にはわが身を映し出すための鏡。杞凰の涙は、もうその湖を為す雫とはならない。
宗太は、父の気持ちが少しだけわかるような気がした。大変真面目で、優しい父だった。人のためなら己が犠牲となることも憚らない質で、そのせいで損な役回りになることも多かった。父は、救いたかったのではないだろうか。命を落とすかもしれなくとも、この少女の魂を慰めてやりたかったのではないだろうか。結果本当に命を落としてしまったが、それはそれだけ杞凰に惹かれていたということなのだろう。
「なぜ、このような事をするのか」
彼女の作り出した湖のほとりで、宗太は呟くように尋ねた。
「このような事、と?」
杞凰は宗太を見つめる。杞凰が生きていたのは宗太が生まれるよりも前である。だから生きていればそう頼りもずっと年上ということになるのだが、十二の齢で亡き者となった少女の顔にはあどけなさが残る。
「なぜ、人を惑わすのか」
宗太はその瞳をまっすぐに見つめ、問う。すると杞凰は目を逸らした。遠い昔を思い返すかのように森の奥のほうを見ている。
「さだめなのだ」
杞凰はまるで独り言のように小さく呟いた。
幽霊である杞凰は、その身をこの世につなぎとめるために、人間の精気を必要とした。しかし杞凰は、己の恨みのために成仏することができない。浮遊する己の魂が鎮まる時を、杞凰には待つことしかできない。
宗一郎が湖へ通うようになり、杞凰は嬉しかった反面、己に定められた運命を思うと辛かった。宗一郎がこの場所へ通えば通うほど、杞凰はその精気を吸い取ってしまう。衰えていく宗一郎を、ただ見ていることしかできなかった。やっとまた、人を愛しいと思えたところだったのに。いつまでこの苦行を科すのか。そのさだめは、今隣にいる人をも、いつかは亡者にしてしまうだろう。杞凰の目からは、涙が伝う。まるで気を張っているかのように表情は崩さないが、その両頬を涙は止め処なく流れ落ちていく。
声も立てず、静かに泣き続ける杞凰の隣で、宗太は黙っていた。闇夜の静寂に、二人は儚く座っていた。
「杞凰、俺はそなたのそばにいよう」
長い静寂を、宗太の声が破った。杞凰は驚いたように宗太を見た。
宗太は決意していた。何をおいても、杞凰の傍にいようと。その結果命を落としたとしてもかまわない。杞凰はいまや、宗太にとって大切な存在となっていた。どこまでも孤独な杞凰を、たとえ短い間であっても支えたいと思った。多くの人間の命を奪い、鬼姫と呼ばれた少女。その少女を宗太はいま、誰よりも愛しく思った。
ふいに。杞凰は、嬉しそうに笑った。それは、宗太がはじめて見た杞凰の笑顔であった。まだその漆黒の瞳には涙をためていたが、そこにはもう憂いの色はない。何かから解放されたような、晴れやかな笑み。笑顔の杞凰は、輝くように美しかった。
朝、宗太は鳥のさえずりと共に目覚めた。日が軒先から差し込んでくる。
「宗太、起きたかい。ちょっと朝飯前に頼みたいことがあるんだが」
外から久の声が聞こえる。おそらく裏の畑のほうだろう。長もどこか外で仕事をしているようだ。宗太は着物を替え、布団をしまってから玄関のほうへ向かった。
あの後、杞凰の湖からどうやって帰ってきたのか、杞凰がどうなったのか、まったく覚えていない。長たちはいつもと変わりなく、自分にも別段変わったところなど感じられない。いつもと同じ朝、いつもと同じ村の光景が、目の前に広がっている。鳥がさえずり、子供たちの笑い声が聞こえてくる。村人たちには笑いが溢れている。
ただ一つ、宗太の心の中には、少女を愛しく思う気持ちがが残っていた。そして宗太は、これでよかったのだと感じていた。おそらく、杞凰の魂はようやく成仏することができたのだろう。永い間自らに掛けていた呪を、杞凰はやっと解くことができたのだ。宗太は杞凰に会うにつれ、この少女が幽霊となってあの湖に棲み続けていたのは恨みのためではないと思うようになった。杞凰の周りには、真に心を許せる人がいなかった。杞凰の一番の未練は、誰からも真に愛されず、誰も心から大切に思うことができなかったことなのではないか。生きている間も死んでしまってからも孤独だった少女。そんな杞凰を不憫に思い、宗一郎は命をかけてでもその心を救おうとしたのではないか。もしかしたら杞凰との出会いも、宗一郎が引き合わせたものだったのかもしれない。そして宗太の想いと覚悟が、最後に杞凰の心を救ったのかもしれない。森の湖は姿を消し、以後謎の失踪をとげる者もいなくなるだろう。そうして、鬼姫の噂はいつの間にか忘れられていく。それでいい。杞凰という美しい少女を、宗太が記憶に留めておけば、それでいいのだ。
青空に残っていた白い月は、儚い影のように山々の稜線の向こうへ沈んだ。
読んでいただきありがとうございました。




