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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
リーリエ編

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第9話 最終交渉

三カ国の代表が、一つのテーブルに着いた。


ルミエール領主邸。普段の応接室ではなく、大広間の中央に長いテーブルが据えてある。北にフェーレン王国通商大使ルーカス・エーレンフェスト。南にヴェルダ商業連合の交易長ボルガ。東にルミエール領主ヴェーバー。


そして──テーブルの中央に、私。


全員の顔が見える位置。全員に書類を配れる位置。全員の靴先が見える位置。


「では、多国間通商条約の最終交渉を始めます」


声を出した。三ヶ月前、この港に着いた時は宿屋で干し魚を食べていた女が、三カ国の交渉をまとめている。人生は分からない。前世を含めても、一番分からない。


条約の草案は私が書いた。三カ国全ての利害を盛り込んで、誰も大損をしない、でも全員が少しずつ得をする構造。二十三条。附則四項。作成に三週間かかった。


「第一条から順に確認いたします」



交渉は、最初の二時間は順調だった。


第一条から第五条。港湾使用の基本規定。関税率の三カ国共通枠組み。ここまではフェーレンとの二国間条約を下敷きにしてあるから、ルーカスは異論なし。ヴェルダのボルガも、商人の国らしく数字が合理的なら文句を言わない。


問題は第六条から始まった。


「航路の排他的使用権は認められない」


ボルガが太い指でテーブルを叩いた。五十過ぎ。赤ら顔。声が大きい。


「ヴェルダの商船は南方航路を百年使ってきた。フェーレンの船が入ってくるのは──」


「百年の慣行に法的拘束力はない」


ルーカスが切り返した。冷たい声。交渉モードの氷の大使。


「法的拘束力がないと言うなら、フェーレンが北方航路で同じことを──」


「北方航路の使用権はラーゼン協定の後継条項で──」


「そのラーゼン協定が失効しているから今ここにいるんだろうが!」


テーブルが揺れた。水差しの水が波打つ。ヴェーバーが青い顔をしている。いつものことだ。


(……来た。ここが一番の山だと分かっていた)


航路の使用権。三カ国の利害が最も衝突するポイント。フェーレンは北方航路の優先権を主張。ヴェルダは南方航路の排他権を主張。どちらかを立てればどちらかが降りる。


前世のジュネーブ会議で学んだことがある。二項対立に見える交渉は、第三の選択肢を作ると解ける。


「ボルガ交易長」


「なんだ」


「フェーレン大使閣下」


「何だ」


「航路の使用権を、排他的ではなく共同管理にする案を提案いたします」


二人の視線が同時にこちらに向いた。


「北方航路と南方航路を、それぞれ一国が独占するのではなく、ルミエールを中継港として双方に開放する。ただし──寄港税を二段階制にします。中継利用は低率、直行利用は標準率。中継港としてのルミエールを経由するほうが安くなる構造です」


書類を配った。昨夜書き上げた修正案。数字の裏付けは一ヶ月分の寄港実績データ。


「フェーレンにとっては南方への航路が開く。ヴェルダにとっては北方市場へのアクセスが安くなる。ルミエールは中継手数料で収入を得る。三方良しです」


ボルガが書類を読んだ。唸った。


ルーカスも読んだ。靴先を──見た。


内側に向いていない。まだ検討中だ。


「寄港税の二段階制。具体的な税率は」


「中継利用は四パーセント。直行は八パーセント。差分の四パーセントが中継のインセンティブになります」


ルーカスの左手が人差し指でテーブルを叩いた。三回。間隔が均等。計算している。


靴先が──動いた。わずかに内側。


(来た)


「……合理的だ」


ルーカスが言った。


ボルガが腕を組んだ。まだ渋い顔をしている。


「ヴェルダの商船が百年守ってきた南方航路の優先権が──」


「ボルガ交易長。優先権は残します。南方航路の中継枠の六割をヴェルダに優先配分する条項を入れます。百年の実績に敬意を表して」


ボルガの眉が動いた。「敬意」という言葉が効いた。商人は利益で動くが、老商人は名誉でも動く。前世で学んだ。


「……六割か」


「六割です。残り四割をフェーレンとルミエールで二割ずつ」


ボルガがルーカスを見た。ルーカスが一つ頷いた。


「──よかろう」


ボルガの太い指が書類を叩いた。今度は、承認の音だった。



全二十三条の確認が終わった時、窓の外は夕焼けだった。


朝から八時間。水差しが三回空になった。焼き菓子の皿も空だ──今日は大量に持ち込んだ。ボルガが「うまい菓子だ」と五つ食べた。ルーカスは二つ。


「ルミエール=フェーレン=ヴェルダ三カ国通商条約。全条項の合意を確認いたしました」


署名が始まった。ボルガの豪快な筆跡。ルーカスの几帳面な字。ヴェーバーの少し震えた署名。


私は署名しない。今回も──署名欄に私の名前はない。


でも、条約の全文は私が書いた。二十三条の一語一語に、三ヶ月の仕事が詰まっている。


署名が終わった瞬間、ヴェーバーが涙ぐんだ。また泣いている。この人は大事な場面でいつも泣く。嫌いじゃない。


広間に拍手が広がった。条約締結の報せは既に港に伝わっていたらしく、窓の外から歓声が聞こえてきた。



祝賀の席は、領主邸の庭で開かれた。


篝火が焚かれて、港の方から楽隊が来て、ブリジットが宿の常連を総動員して料理を並べた。ボルガはワインを片手に漁師たちと意気投合している。ヴェーバーは領民に囲まれて、まだ泣いている。


私は庭の隅にいた。篝火の灯りがぎりぎり届く場所。壁際の石段に座って、紅茶を飲んでいる。


賑やかだ。港が笑っている。三ヶ月前、閉まった露店と錆びた桟橋しかなかった町が。


「ここにいたのか」


ルーカスが来た。外套を脱いで腕にかけている。篝火の灯りで眼鏡がオレンジ色に光っていた。


「人混みは少し疲れますので」


「同感だ」


隣に座った。石段は二人分には少し狭くて、肩が触れそうな距離になった。触れてはいない。


しばらく、黙って篝火を見ていた。楽隊がルミエールの古い港歌を演奏している。ボルガの笑い声が聞こえる。いい夜だ。


「リーリエ殿」


「はい」


「一つ──提案がある」


交渉の切り出し方だった。でも声の温度が違う。交渉の声より低い。少し掠れている。港の夜に歩いた時の声に似ていた。


「フェーレンの外交顧問にならないか」


(──来た。仕事の話だ。いや、待て。なぜ祝賀の席で)


「大使閣下の国の外交顧問、ですか。光栄ですが──」


「いや」


ルーカスが言い直した。


「違う。そうじゃない」


篝火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がった。


ルーカスが私を見た。眼鏡を外していた。いつ外したのだろう。眼鏡のないルーカスの目を、初めて見た。交渉の鋭さも、氷の冷たさもない。もっと──剥き出しの目。


「俺の隣にいてほしい。外交官としてではなく」


心臓が止まった。


一拍。二拍。


再び動き出した時、鼓動がうるさかった。


「……それは、交渉ですか」


「交渉ではない」


「では何ですか」


「何だろうな。──俺にも初めてのことで、適切な用語が分からない」


(……この人は。こんな時まで「適切な用語」とか言う)


笑ってしまった。笑うつもりはなかったのに。目の奥が熱い。


「……大使閣下」


「ルーカスでいい」


「では──ルーカスさん」


名前を呼んだ。初めて。舌の上で転がる響きが、「大使閣下」とは全然違った。


「私の答えは──」


鞄から条約書を取り出した。今日締結された多国間条約の正本の写し。


ルーカスの目が少し戸惑った。告白の返事に条約書を出す人間を、この人は想定していなかったのだろう。


ページを開いた。第七条。


「両締約国は、通商関係にとどまらず、永続的友好関係の構築に向けて誠実に努力する」


条文を読み上げた。そして、欄外を指さした。


小さな走り書きがある。私の筆跡。草案を書いている時に、余白に書き加えた一語。


「"永続的"は──私が入れた文言ですわ」


ルーカスが走り書きを見た。それから私を見た。


「……条約に、入れていたのか」


「ええ。起草の段階で。三カ国の友好関係を"永続的"と定義する外交上の意義はもちろんありますが──」


声が震えそうになった。押さえた。


「──もう一つ、個人的な意味も込めました」


篝火の灯りが、ルーカスの顔を照らしていた。眼鏡のない目が、揺れている。


「外交用語で愛を伝えるなんて、我ながらどうかと思いますけれど」


「……いや」


ルーカスの声が、低く掠れた。


「俺たちには──それが一番正しいだろう」


条約書を持つ私の手に、ルーカスの手が重なった。大きい手だった。交渉のテーブルでペンを握り、副本に私の名前を書いた手。


篝火が爆ぜた。歓声が遠くに聞こえる。楽隊が新しい曲を始めた。


「ルーカスさん」


「何だ」


「第七条の"永続的"は、本当に外交上も重要な文言ですから。個人的な意味だけで入れたわけではありませんからね」


「分かっている」


「あと、次の交渉では手加減しませんからね。恋人になったからといって──」


「するわけがないだろう。俺も手加減しない」


「よろしい」


手を握り返した。ルーカスの指先が温かかった。


条約書が二人の膝の上に開いたまま載っている。第七条。永続的友好関係。


(──名前。そうだ。この条約には、まだ私の名前がない)


「ルーカスさん」


「何だ」


「次に条約を書く時は──署名欄に、私の名前を入れます」


ルーカスの手が、少し強く握り返された。


「最初から、そうしてほしかった」


夜の風が吹いた。篝火の煙が空に昇っていく。港の灯りが眼下に広がっている。三ヶ月前は暗かった海辺が、今は光で埋まっている。


この光は、仕組みが作った光だ。条約が、交渉が、関税の数字が、一つ一つの地味な仕事が積み重なって──港を灯した。


その仕組みを作ったのは、私だ。


名前を出せなかった。奪われるのが怖かった。でも──隣にいる人が、副本に名前を書いてくれた。「消す気はない」と言ってくれた。


だから、次は自分で書く。


自分の名前を。自分の条約に。


石段に並んで座ったまま、二人で港の灯りを見ていた。手はまだ繋いだまま。


「……リーリエ」


初めて、姓も敬称もなく名前を呼ばれた。


「何ですか」


「焼き菓子の件だが」


「……今その話ですか」


「今後は──俺にも焼き方を教えてくれ」


「大使閣下が焼き菓子を」


「もう大使閣下ではないと言ったはずだが」


「──ルーカスさんが、焼き菓子を」


「お前が忙しい時に、俺が焼けたほうがいいだろう」


(……この人は。告白の直後に、焼き菓子の分業体制の話をしている)


笑った。声を出して笑った。目の奥が熱い。泣きそうだ。泣いてはいない。


「──ええ。教えます。明日から」


篝火が、ゆっくりと燃え落ちていく。星が出ていた。

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