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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
リーリエ編

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第8話 元婚約者の王太子殿下が使者を寄越してきました

「王太子殿下の命令である。外交暗号の解読法を開示せよ」


朝食の干し魚に手を伸ばしたところだった。


ブリジットの宿の一階。テーブルの上には焼きたてのパンと、昨日の残りのスープと、干し魚。朝の穏やかな光が窓から差し込んでいる。そこに、クラウディア王国の紋章入りの外套を纏った男が一人、宿の入り口に立っていた。


干し魚を皿に戻した。


「……おはようございます。遠路お疲れでしょう。お茶でもいかがですか」


使者の男は四十がらみ。無精ひげを生やしていて、目の下に隈がある。急いで来たのだろう。馬を乗り潰す勢いで。


「茶など要らぬ。命令書だ」


羊皮紙を差し出された。受け取った。封蝋は──王太子の紋章。見覚えがある。七年間、何十回も見た紋章だ。


封を切って、読んだ。


『ヴァイスフェルト嬢へ。外交暗号の解読法に関する引き継ぎが不完全である。国家機密の管理義務に基づき、速やかに解読法を書面にて提出されたし。王太子アレクシス』


丁寧な命令文だった。けれど行間に焦りが滲み出ている。「速やかに」の文字が他より太い。筆圧が強い。書いている間に苛立っていたのだろう。


(……殿下。「ヴァイスフェルト嬢」と書いていらっしゃいますが、婚約破棄の際に爵位は剥奪されたはずですわよね。もう「嬢」ではございませんのに)


命令書を丁寧に折り畳んだ。


「お返事を申し上げます」


使者が身を乗り出した。


「お断りいたします」


使者が固まった。


「──何?」


「お断りいたします、と申し上げました。暗号の解読法は引き継ぎの義務に含まれておりません。暗号鍵は正式に返却済みです。それ以上の義務は負いかねます」


にこやかに言った。朝のいい気分を壊されたことへの苛立ちは、笑顔の奥にしまっておく。


使者の顔が赤くなった。


「貴様──何を。殿下の命令だぞ」


「殿下の命令は、クラウディア王国の臣民に対して効力を持ちます。私はすでにクラウディアを追放された身です。殿下がご自身で追放なさったのですから、ご存じかと思いますが」


我ながら綺麗な皮肉だった。使者が言葉に詰まる。頬が痙攣している。


「それに」


紅茶を一口飲んだ。ブリジットが朝淹れてくれたハーブ茶。少し苦い。


「暗号の解読法は私の頭の中にしかございません。書面にしたところで、運用できる人間がいなければ意味がない。殿下はまず、暗号を扱える人材を育成なさるべきでは」


「ふ、ふざけるな! これは国家の安全に関わる機密だ!」


「ええ。ですから、機密を扱う人間を追放なさったのは殿下のご判断です。その結果が機密の喪失であるなら、それは殿下の──」


「反逆罪だ!」


使者が叫んだ。テーブルの上のスープの椀が震えた。


「国家機密の持ち出しは反逆罪に該当する! 引き渡しを拒否するなら、法に基づいて──」


「法に基づいて、何をなさるおつもりですか」


声が変わった。使者の背後から。


振り返らなくても分かった。この声は知っている。低くて、冷たくて、交渉のテーブルで何度も聞いた声だ。


ルーカスが宿の入り口に立っていた。


今朝の交渉準備の打ち合わせで来る予定だった。少し早い。偶然か、あるいは──使者がルミエールに入ったことを事前に知っていたか。


(……この人、情報が早い)


ルーカスが使者の前に立った。使者より頭半分高い。外套の襟にフェーレン王国の通商大使の紋章が光っている。


「フェーレン王国通商大使、ルーカス・エーレンフェストだ」


使者の顔色が変わった。フェーレンの大使が、なぜこんな小国の宿屋にいるのか理解できないのだろう。


「ルミエール港は先日締結された通商条約により、フェーレンとルミエールの共同管轄区域に含まれている。同区域内における外国の法的権限の行使には、両国の事前合意が必要だ」


淡々と。一語一語を区切るように。交渉のテーブルで関税率を読み上げる時と同じ、正確な口調。


「クラウディア王国の反逆罪を、この場で適用する法的根拠はない。フェーレンは合意していない」


使者の口が開いて、閉じた。


「だ、大使殿。これはクラウディアの内政問題であり──」


「内政問題をフェーレンの管轄区域内で執行するなら、外交問題になる。クラウディア王国は、フェーレンとの外交問題を増やしたいのか」


使者が一歩下がった。


ルーカスの目が冷たい。交渉の時の鋭さとは違う冷たさだ。氷のような、というのはこういう目を言うのだろう。


(……ああ。この人が「氷」の名前で呼ばれていた理由が分かった)


私のことを「氷の女王」と呼んだ人たちがいた。でも本物の氷はこちらだ。この人が本気で冷たくなった時の空気は、舞踏会の断罪の夜より寒い。


使者が命令書をひったくるように回収して、宿を出ていった。馬の嘶きと蹄の音が遠ざかっていく。


宿の中に沈黙が戻った。


ブリジットが台所の奥から顔を出した。「……行った?」


「行きました」


「あんた、すごいねえ。王様の使いを追い返したよ」


「王太子の使いです。それと、追い返したのは私ではなく──」


ルーカスを見た。


ルーカスは使者が出ていった扉をまだ見ていた。眼鏡の奥の目に、さっきの氷がまだ残っている。


「……大使閣下」


「何だ」


「お茶、冷めてしまいました。淹れ直していただけますか、ブリジットさん」


「あいよ」


ブリジットが台所に消えた。


ルーカスの表情が、ゆっくりと戻っていく。氷が解けるように。肩の力が抜けて、いつもの交渉者の顔になった。


「……座りませんか。朝食がまだなら、スープがありますよ」


「朝食は済ませた」


「では、お茶だけ。焼き菓子もあります。ブリジットさんが今朝焼いたものですが」


「ブリジット殿の菓子は──」


「大使閣下のお口に合うかどうかは保証しませんが、前回よりは焦げが少ないですわ」


ルーカスが、ようやく椅子に座った。



二人分の紅茶が出てきた。それから焼き菓子の皿。ブリジットは「ごゆっくり」と言って二階に上がっていった。気を遣ったのだろう。余計なことを。


しばらく、黙ってお茶を飲んだ。さっきの緊張が嘘みたいに、穏やかな朝の光が戻ってきている。


「……助けていただきました」


「助けてはいない。法的事実を述べただけだ」


「法的事実を、絶妙なタイミングで述べてくださいましたわね」


ルーカスが紅茶のカップに視線を落とした。


「使者がルミエールに入った報せは昨夜の時点で受けていた。クラウディアの紋章入りの外套が国境を越えたと、フェーレンの国境警備から連絡があった」


やはり偶然ではなかった。


「今朝早く来たのは──」


「打ち合わせだ。予定通りの」


嘘だ。打ち合わせは午後の予定だった。でも追及しないでおく。


「お礼をさせてください」


「不要だ」


「では、次の交渉で一項目だけ譲歩いたします」


「いらない」


ルーカスが焼き菓子を一つ取った。一口かじって、咀嚼する。飲み込む。


「お礼なら──」


言葉が途切れた。


ルーカスの視線が一瞬だけ私に向いて、逸れた。紅茶のカップに戻った。


「……いや。何でもない」


二度目だ。


あの夜の港でも、今日も。ルーカスはいつも途中で言葉を呑み込む。何を言おうとしているのか。何を止めているのか。


(──訊きたい。「何でもない」の先に何があるのか)


訊けなかった。訊いたら、答えが返ってくるかもしれない。答えが返ってきたら、交渉のテーブルに戻れなくなるかもしれない。


「……焼き菓子、いかがですか」


「悪くない」


「前回より焦げが少ないでしょう」


「ああ。改善が著しい」


「菓子の評価ですか」


「菓子の評価だ」


いつもの調子が戻ってきた。交渉者同士の、知的な応酬。心地よい距離。安全な距離。


でも──さっきルーカスが使者の前に立った時の、あの背中を思い出す。冷たい声で法を盾にして、私を守った。「フェーレンは合意していない」の一言で、王太子の使者を退けた。


あの条約を作ったのは私だ。航路使用権。関税率。共同管轄区域の規定。全部、私が草案を書いた。


私が作った仕組みが、私を守った。


そして──その仕組みを盾にして立ったのは、ルーカスだった。


(……七年間、仕組みを作り続けてきた。名前は出なかった。成果は奪われた。でも今日──自分が作った仕組みに、自分が守られた。こんなことが、あるんだ)


紅茶が温かい。焼き菓子が甘い。窓から入る朝の光が、テーブルの上に落ちている。


穏やかだ。


「大使閣下」


「何だ」


「副本の署名欄、ありがとうございます。まだ破り捨てていませんよ」


ルーカスの手が一瞬止まった。それから、カップを口に運んだ。


「そうか」


短い返事。でも口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。


焼き菓子の皿が空になる頃、窓の外で海鳥が鳴いた。使者の馬はとうに港を出ただろう。クラウディアに戻って、王太子に報告する。「暗号は手に入りませんでした」と。


(殿下。あなたが追放した女は、あなたが破壊しようとした条約の向こう側で、新しい条約を作っていますよ)


言うことはない。伝えることもない。あの国のことは、もう私の問題ではない。


でも──一つだけ思った。


あの使者の目の下の隈。あれは寝不足だけのものではなかった。宮廷が追い詰められている人間の目だ。暗号が解けない。条約が更新できない。外交が崩壊する。その焦りが、使者の瞳の奥に見えた。


壊れ始めている。私がいなくなったクラウディアが。


「──大使閣下」


「まだ何かあるのか」


「今日の打ち合わせ、午後でよろしいんですよね」


「ああ」


「では午前中は、ブリジットさんに焼き菓子の特訓をしてきます。次回の交渉にも持ち込みますので」


「……好きにしろ」


焼き菓子の皿を下げに来たブリジットが、二人の顔を交互に見て、にやにやしていた。


何も言わないでほしい。何もないのだから。


──何もないはずなのだから。

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