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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
リーリエ編

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第7話 通商条約締結

拍手が聞こえた。


ルミエール領主邸の広間。普段は埃をかぶった大広間に、今日は人が溢れている。港の商人。漁師。市場の露店の主人たち。ブリジットの姿もあった。割烹着のまま来ている。せめて着替えてほしかった。


中央のテーブルにルーカスとヴェーバーが並んで座り、条約書に署名した。


ルミエール=フェーレン通商条約。関税七パーセント。航路使用権の再配分。検疫所の共同建設。漁業区域の暫定合意。


一枚の紙に、この三ヶ月の全てが詰まっている。


署名が終わった瞬間、広間が湧いた。拍手。歓声。誰かが口笛を吹いた。ヴェーバーが涙ぐんでいる。ルーカスは相変わらず表情が薄いが、口元がわずかに──本当にわずかに緩んでいた。


私は広間の隅に立っていた。


壁際。柱の影。式典の進行を見守る位置。署名のテーブルからは十歩以上離れている。


ヴェーバーが立ち上がって挨拶を始めた。


「本日のこの条約は、ルミエールの新しい出発です。フェーレン王国との友好な関係を──」


領主の挨拶。長い。でも、いい挨拶だった。この町を愛している人の声だった。


私の名前は出ない。


出ないようにしてある。ヴェーバーには事前に「私の名前は挨拶に入れないでください」と伝えてあった。ヴェーバーは不満そうだったが、「どうしても、と言うなら」と了承してくれた。


拍手が続いている。港に活気が戻る。商船が来る。仕事が生まれる。この町の人たちの生活が、少しずつ良くなる。


それだけでいい。私の名前は要らない。


(──仕組みは作った。仕組みが動いている。それで十分だ)


広間の反対側で、ルーカスがこちらを見ていた。



式典が終わり、人々が散った後。


応接室に残ったのは二人だけだった。テーブルの上には空になったワインの杯と、条約書の写しが広げてある。


ルーカスが椅子に座ったまま、こちらを見ていた。眼鏡の奥の目が、いつもの交渉モードではない。港の夜に見せたあの色に近い。


「なぜ名前を出さない」


静かな声だった。でも、怒りが滲んでいた。


「……何のことでしょう」


「とぼけないでくれ。この条約を作ったのはあなただ。試算も草案も交渉も、全てあなたがやった。なのに署名は領主で、挨拶に名前も出ない。式典の間、柱の影に立っていた」


見ていたのか。


「外交顧問は裏方ですから。表に出るのは当事者の役目です」


「裏方だから名前を出さないのではなく、出したくないのだろう」


鋭い。この人は、交渉のテーブルだけでなく、私の言い訳も見透かす。


「……ええ」


嘘をつく気力がなかった。式典の高揚が過ぎて、少し疲れていた。


「出したくないんです」


椅子に座った。ルーカスの向かい側。交渉の時と同じ配置だが、テーブルの上に書類はない。


「前の職場で、名前を出した結果がこれですから」


苦笑した。自分でも意外なほど、穏やかな苦笑だった。もう怒りは枯れている。


「七年間、裏方で仕組みを作っていました。最初の三年は名前なしでも気になりませんでした。仕事が回っているならそれでいい。でも途中から、自分の作った条約草案が別の人の名前で発表されるようになった」


ルーカスは黙って聞いている。


「成果が出れば出るほど、名前は出なくなりました。私がやったことは『聖女の奇跡』になった。最初は悔しかった。次に慣れた。最後に──怖くなった」


「怖い?」


「名前を出したら、奪われる。仕事の成果に自分の名前をつけたら、その名前ごと持っていかれる。だったら最初から名前を出さなければ、奪われる痛みもない」


声が平坦になっていく。前の人生でも同じだった。国連のオフィスで、先輩に手柄を取られた時のことを思い出す。あの時は悔し泣きをした。この世界では泣かなくなった。泣く代わりに、名前を隠すようになった。


「……それがリーリエ殿の答えか」


「はい。合理的な判断です」


「合理的ではない」


ルーカスの声が硬くなった。怒っている。私にではない。私を怒らせた何かに。


「奪った側が悪い。名前を隠す必要があるのは、あなたではなく──」


「大使閣下」


遮った。穏やかに、でもはっきりと。


「お気持ちはありがたいですが、済んだことです。今の私には新しい仕事があります。この港を立て直すこと。名前が出るかどうかは、重要ではありません」


ルーカスが何か言いかけて、口を閉じた。


沈黙が落ちた。窓の外では式典帰りの人々の声が遠く聞こえている。


ルーカスが鞄から一冊の冊子を取り出した。革表紙。フェーレンの紋章が箔押しされている。


「条約書の副本だ」


「ええ、存じております。正本と副本で──」


「開いてくれ」


手渡された。革の表紙は新しくて、まだインクの匂いがした。


開いた。条約の本文。前文。第一条から第十二条。附則。最終ページに署名欄。


フェーレン側:ルーカス・エーレンフェスト通商大使。

ルミエール側:ヴェーバー領主。


そして──三つ目の署名欄があった。


『条約起草者:リーリエ』


呼吸が止まった。


「……これは」


「署名欄に、あなたの名前を入れた。条約の起草者として。正本には入れていない。副本にだけ」


顔を上げた。ルーカスが私を見ていた。


「正式な署名欄ではないから、公的な記録には残らない。あなたが望まないなら、誰にも見せなくていい。ただ──」


ルーカスの声が、ほんの少し掠れた。


「この条約を作った人間の名前が、どこにも残らないのは──俺が許せなかった」


副本を持つ指先が震えた。


三つ目の署名欄。ルーカスの几帳面な筆跡で、私の名前が書かれている。「リーリエ」。姓はない。でも名前がある。


「消す気はない。あなたが破り捨てるなら止めないが、俺はもう一部同じものを作ってフェーレンの外務省に保管する」


「……勝手に」


声が掠れた。


「ええ。勝手にです」


ルーカスが目を逸らさなかった。怒りでも正義感でもない、もっと厄介な何かが、眼鏡の奥に見えた。


(──ずるい。公文書で、こんなこと)


副本を閉じた。閉じないと、何か溢れそうだった。


「……ありがとうございます」


精一杯、いつもの声を作った。


「大使閣下。これは交渉術の一種ですか」


「違う」


「では何ですか」


ルーカスが立ち上がった。外套を取る。帰り支度。この人はいつもこうだ。核心を突いた直後に席を立つ。


「さあ。何だろうな」


扉に向かう背中。


「──次は、名前を出してくれると嬉しい」


振り返らずに言って、出ていった。



一人になった応接室で、副本をもう一度開いた。


署名欄。リーリエ。


七年間、どこにも書かれなかった名前。条約草案を何十本書いても、一度も載らなかった名前。


それが今、通商条約の副本に、他でもないルーカス・エーレンフェストの手で書かれている。


(……公文書で愛を、なんて言ったら殴られるか)


愛ではない。たぶん。公正さだ。この人は公正な人で、功績のない署名欄が許せなかっただけ。


たぶん。


副本を鞄にしまった。一番奥の、大事なものを入れる場所に。


宿に帰る坂道で、ふと足を止めた。港に停泊している船の中に、紋章のない大型商船がまだいる。二ヶ月前に気になった、あの船だ。条約締結で寄港数が増えている中で、あの船だけは荷を下ろしている様子がない。


何を運んでいるのだろう。


(……通常の商船なら、寄港数が増えた今こそ荷を動かすはず。なのに何もしないということは、通常の商取引ではないか、あるいは──紛争が続いていたほうが都合が良い荷を扱っているか)


引っかかる。でも今の私には、それを調べる権限も余裕もない。ルミエールの外交顧問であって、治安の担当ではない。


頭の隅に留めておくだけにして、坂道を下った。


ブリジットの宿の扉を開けたら、「おかえり。式典どうだった?」と声がかかった。


「上々です。条約が締結されました」


「知ってるよ。ヴェーバーのおっさんが泣いてたってみんな言ってる。あんたのおかげだろう」


「私は何も。ただの裏方です」


「裏方ねえ」


ブリジットが台所に戻りながら、肩越しに言った。


「あんたが来てから、うちの宿の客が倍になったんだよ。裏方にしちゃ影響がでかいね」


返事をしないまま二階に上がった。


部屋の扉を閉めて、鞄から副本を取り出した。ベッドの上に座って、署名欄のページを開く。


リーリエ。


ルーカスの筆跡。几帳面で、少し右に傾いた文字。前に交渉の副本に冗談を書いた時と、同じ手だ。でも今日の字は冗談ではなかった。一画一画にためらいがなかった。


「消す気はない」と言った。


「次は名前を出してくれると嬉しい」と言った。


(──嬉しい、か)


その一言が、ずっと胸に残っている。交渉の言葉ではなかった。外交官の語彙ではなかった。


ルーカス・エーレンフェストという人間の、個人的な言葉だった。


副本を枕元に置いた。明日の朝、もう一度読むだろう。明後日も。


名前を出すのは、まだ怖い。


でも──この副本があれば、少しだけ。


少しだけ、怖くなくなるかもしれない。


窓の外から、酒場の歌声が聞こえてきた。式典の余韻だろう。港が、笑っている。

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