第6話 ただの散歩です
窓の外が、いつの間にか暗くなっていた。
「──以上が漁業区域の暫定線引き案です。ヴェルダ商業連合との兼ね合いを考慮すると、南西海域の二十海里までをルミエール管轄とし、それ以遠をフェーレンとヴェルダの共同管轄にするのが妥当かと」
言い終えてから、気づいた。応接室の燭台に火が入っている。いつ灯されたのだろう。窓の外に星が出ている。
ヴェーバーはとうに帰った。「わしには難しすぎる。二人に任せた」と白旗を上げたのが二時間前。それからルーカスと二人きりで、漁業区域と検疫所の建設細目を詰め続けていた。
「二十海里」
ルーカスが地図を指でなぞった。
「妥当だ。フェーレンとしても異存はない」
「では暫定合意に追記しましょう。明日、清書して──」
腹が鳴った。
私の腹が。この静かな応接室で。通商大使の目の前で。
(──死にたい)
ルーカスが顔を上げた。私を見た。
「……今、何か」
「何もございません。条約の話を続けましょう」
「いや、聞こえた」
「空耳です」
「腹の虫は空耳とは言わない」
返す言葉がなかった。ルーカスの口元が引きつっている。笑いをこらえている。こらえきれていない。
「──夕食がまだなのでは」
「……交渉に集中しておりまして」
「俺もだ」
ルーカスが書類を閉じた。地図を丸めて鞄にしまう。
「今日はここまでにしましょう。続きは──」
立ち上がりかけて、窓の外を見た。暗い港に漁船の灯りが点々と浮かんでいる。
「……少し、歩きませんか」
予想していない言葉だった。
「歩く、ですか」
「港を見ておきたい。夜のほうが船の出入りが分かる。検疫所の位置を決めるのに、夜間の動線を確認したい」
もっともらしい理由だった。実務的で、合理的で、ルーカスらしい。
でも──検疫所の位置なら、地図で十分議論できる。わざわざ夜の港を歩く必要はない。
「承知しました。ご案内いたします」
断る理由もなかった。
◇
夜の港は、昼とは別の顔をしていた。
潮の匂いが濃い。波が桟橋の杭を叩く音が、暗闇の中でやけに大きく聞こえる。漁船のランプがゆらゆらと揺れて、水面にオレンジ色の筋を落としていた。
「この桟橋の東側が、寄港数の多い区画です。検疫所はここに隣接させるのが効率的ですわ」
「ああ」
「西側は主に漁船の係留区画で──」
「リーリエ殿」
「はい」
「検疫所の話は、もういい」
足が止まった。ルーカスも止まった。二人分の足音が消えて、波の音だけが残った。
「……では何の話を」
「何でもいい。交渉以外の話を」
ルーカスが海を見ていた。眼鏡に港の灯りが映っている。
「あなたとはもう何度も会っているのに、交渉以外の話をしたことがない。それが少し──」
言葉を探しているようだった。ルーカスの口元が動いて、止まって、また動いた。
「──気になった」
気になった。交渉相手のことが「気になった」。外交官の語彙としては、かなり異質な言い回しだ。
「大使閣下。夜の港で交渉の続きはいたしませんが──ただの散歩なら、お付き合いしますわ」
歩き出した。ルーカスが半歩遅れてついてきた。
桟橋沿いの道を歩く。石畳が潮で湿っていて、靴底が滑る。街灯は三本に一本しか点いていない。暗い道を、二人分の足音だけが進んでいく。
「この町はいい」
ルーカスが言った。
「小さいが、港の立地は一級品だ。三カ国の航路が交差する中継点。正しく運営すれば、王都より栄える可能性がある」
「お褒めいただきありがとうございます。私の手柄ではありませんが」
「あなたの手柄だろう。ここに来て二ヶ月で暫定合意を取り付けた。港に船が戻り始めている。それは仕組みを作った人間の功績だ」
仕組みを作った人間の功績。
「……大使閣下はお上手ですね」
「事実を言っている」
「事実をお上手に言える方を、世間ではお上手と呼びます」
ルーカスが横を向いた。暗くてよく見えないが、口元が動いた気がする。
しばらく、黙って歩いた。波の音と足音と、遠くの酒場から漏れる歌声。夜の港は騒がしいのに、二人の間だけ静かだった。
「一つ、訊いてもいいか」
「どうぞ」
「クラウディアで七年間、あれだけの仕事をしていて──なぜ、正当に評価されなかった」
足が、ほんの一瞬だけ遅くなった。すぐに元のリズムに戻した。
「評価されなかったのではありませんわ」
桟橋の端まで来た。柵に手をかけて、海を見た。月が出ている。雲が薄くかかって、水面の光がぼんやりと滲んでいた。
「見えない仕事だっただけです」
波が杭を叩いた。
「暗号を作る仕事は、誰にも見えません。条約の草案を書く仕事も。交渉の下準備をする仕事も。全部、裏方です。表に出るのは署名する人と、成果を発表する人」
「──聖女か」
「ええ」
名前は言わなかった。言う必要もなかった。
「見えない仕事は、奪いやすいんです。成果を出しても出しても、名前は出ない。名前が出ないから、誰が作ったのか誰にも分からない。分からないから、別の誰かが『私がやりました』と言えば、それが通ってしまう」
声が平坦になっていることに気づいた。感情を殺しているのではなく、何度も考えた結論だから、もう感情が乗らないのだ。
「七年間、それが続きました。私が仕組みを作って、別の人が拍手を受ける。最初は悔しかった。途中から慣れた。最後は──どうでもよくなりました」
嘘だ。どうでもよくなんかなっていない。でもそう言わないと、この話を終わらせられない。
ルーカスは黙っていた。海を見ていた。
長い沈黙だった。波の音を何度数えたか分からない。ルーカスが口を開かないから、私も開かなかった。
「……どうでもよくは、なっていないだろう」
低い声だった。
「ここに来て、仕組みを一から作り直している人間が、自分の仕事をどうでもいいと思っているわけがない」
返す言葉がなかった。
「俺には見えていた」
ルーカスが海から視線を外して、こちらを向いた。月明かりの中で、眼鏡の奥の目がいつもと違う色をしていた。冷たくない。鋭くもない。何と呼べばいいのか分からない光。
「交渉の対面で。あなたの手腕は何度も──」
言葉が途切れた。
ルーカスの視線が揺れた。何かを言おうとして、飲み込んだ。喉仏が動いたのが、暗がりの中でも分かった。
「……いや。すまない。続きは──」
また止まった。
柵を掴む私の指先が、少し冷えていた。潮風のせいだ。それだけのはずだ。なのに、胸の奥で心臓が妙な鳴り方をしている。とくん、と一回。普段より大きく。
(──何。今の。何なの)
ルーカスが目を逸らした。海を見る横顔に、さっきまでの交渉者の顔はなかった。
「……帰りましょう」
私が言った。声が少し上ずっていた。上ずっていないふりをした。
「ええ。遅くなった」
帰り道は、来た時より静かだった。桟橋の石畳を並んで歩く。半歩分の距離。交渉のテーブルより近い。でも触れてはいない。
宿の前で足を止めた。ブリジットの宿の窓にはまだ明かりが灯っている。
「本日はありがとうございました。検疫所の──」
「リーリエ殿」
「はい」
「焼き菓子」
「……は?」
「次の交渉に、また持ってきてくれ。あの港町の菓子は──悪くない」
それだけ言って、ルーカスは背を向けた。外套の裾が夜風に揺れた。坂道を上っていく背中が暗闇に溶けていく。
扉を開けた。ブリジットが「おかえり。遅かったね、お二人さん」とにやにやしていたのを無視して、二階に上がった。
部屋の扉を閉めて、ベッドに座った。
心臓がまだ、少しだけおかしい。
(……何だったんだ、あれは。交渉の対面であなたの手腕は何度も──何だ。何を言おうとした。言いかけて、なぜ止めた)
窓を開けた。夜の港に、月が落ちている。さっき二人で見た海と同じ海。なのに、一人で見ると違う景色に見える。
「見えない仕事」と言った。ルーカスは「見えていた」と言った。
前話で聞いた時は、交渉記録を根拠にした実務的な発言だと思った。でも、さっきの声は違った。柵の前で、月明かりの中で、言葉を途切れさせた──あの声は、報告書の分析ではなかった。
(……考えすぎだ。疲れているんだ。交渉が長引いたせいで、判断力が鈍っている。それだけだ)
靴を脱いだ。潮で湿った靴下を干した。夕食を食べていないことを思い出したが、今から台所に行く気力がない。
ベッドに横になった。天井を見る。
あの人の癖は全部記録してある。靴先。テーブルを叩く指。反論の前の一拍の間。焼き菓子を食べる時だけ少し緩む口元。
全部、交渉のための観察だ。外交官の基本だ。
──じゃあ、さっき月明かりで見た目の色まで覚えているのは、何の基本だ。
枕に顔を埋めた。
だめだ。寝よう。明日は清書がある。暫定合意の追記事項。漁業区域の線引き。検疫所の工程確認。仕事。仕事がある。仕事のことを考えよう。
仕事のことを考えるはずが、焼き菓子の注文をする男の声が頭から消えない。
(……あの人のせいで、眠れない)
潮騒が遠くで鳴っている。
今夜は、前世のオフィスの夢ではなく──港の夢を見そうな気がした。




