第10話 あと一人
冬が来た。
ベルクハイムの冬は厳しい。雪が村を覆い、道が閉ざされ、行商のグスタフの来る間隔が月に二度から一度に減った。
でも診療所は温かかった。
暖炉の火をニクラスが朝一番につける。私が薬草茶を淹れる。二人分。砂糖はニクラスが多め。私は少なめ。覚えてしまった。お互いの好みを。
「今日の患者は午前中に二人。南の集落のヨハンさんの腰痛と、ライナの母親の手荒れ」
「ヨハンさんの腰は先月より良くなっていますか」
「お前が先月手を当てた後、かなり楽になったと本人が言っていた。今日は薬の処方を変える」
「分かりました」
いつもの朝。いつもの会話。いつもの診療所。
看板が雪を被っている。『ベルクハイム診療所 ニクラス・ヘルツ メイ・リンドグレーン』。冬の朝日に照らされて、二つの名前が白い雪の中に浮かんでいる。
──「ベルクハイム統合医療院」に名前を変えよう、とニクラスが先週言い出した。
「統合医療院?」
「魔法と医学の統合。ヘルマン先生が認定書に書いた言葉だ。うちの診療所はその実践の場になっている。ただの診療所じゃない」
ニクラスの目が光っていた。あの、治療の可能性が見えた時の少年みたいな目。
「いいですね。──でも看板、彫り直しですよ」
「今度はヨーゼフに最初から頼む」
「先生が彫らないんですか」
「……あの時のことは忘れろ」
忘れない。左右反転した「療」の字を、私は一生覚えている。
◇
午前の診療が終わって、昼食を取っていた時。
グスタフが雪道を越えて荷車で到着した。月に一度の定期便。
「メイさん、荷物だよ。あと手紙」
手紙の束を受け取った。元患者たちからの手紙が、もう三十通を超えている。全部読んでいる。全部返事を書いている。
荷を下ろしながら、グスタフがいつもの調子で噂話を始めた。
「南のルミエールって港町、知ってるかい。三カ国の通商条約が締結されて、ものすごい勢いで復興してるんだとさ。条約をまとめたのは若い女の外交顧問だって。名前は出てないけど、とんでもなく切れ者らしいよ」
(──リーリエ)
あの人だ。冷静で、微笑みの裏に鋼を隠していた人。交渉の場で仕組みを作る天才。追放先で、また新しい仕組みを作っている。
「あとね、国境の砦町グレンツで人身売買組織の拠点が一つ潰されたって話。町の用心棒の女とフェーレンの捜査官が乗り込んで、子どもたちを救出したらしい。まだ全部は片づいてないらしいけど」
(──カティア)
拳を握ったまま黙って追放された人。あの人は変わらない。どこにいても、殴って守って、殴って守る。まだ戦っているのだろう。一人じゃなければいいけど。
「それからメイさん、これ」
グスタフが荷車の底から折り畳んだ紙の束を取り出した。
『マーレブルク通信 第十二号』
ソフィアの新聞だ。グスタフが来るたびに、最新号をまとめて持ってきてくれる。今回の一面には『聖女の奇跡の裏側──連載第三回・不正蓄財の証拠』の見出しが踊っている。
(ソフィア……あなた、止まらないね)
記事を読む。聖女マリアベルの不正蓄財。五人の令嬢の功績の簒奪。証拠を積み上げて、事実だけで聖女を追い詰めている。ソフィアらしい。声を荒げず、感情を排して、紙の上の文字だけで世界を動かす。
三面に小さな記事があった。
『ベルクハイム統合医療院、王立学院より正式認定。"おてて先生"の愛称で知られる薬師メイ・リンドグレーン氏の回復魔法が、希少医療魔法として──』
私の記事だ。いつの間に取材したのだろう。グスタフ経由か。
新聞を膝の上に置いて、四人の顔を思い出した。
リーリエは港で条約を書いている。カティアは砦で子どもを守っている。ソフィアは印刷所で真実を刷っている。
──みんな、やってる。散り散りになって、全員それぞれの場所で。
そして、四人目。
手紙の束の中に、一通だけ違う手紙が混じっていた。
封蝋なし。差出人なし。粗い紙。表書きだけ。
『メイさまへ』
丸い字。少し歪んでいる。筆圧が均一でなくて、文字の端が滲んでいる。
開けた。
『あなたに治してほしい人がいます。
ずっと眠り続けている女の子の話を──
いつか、お会いできたら。
あなたの手が必要です。
みんな大丈夫。大丈夫だから。
おてて先生、がんばって。』
手紙は、それだけだった。
筆跡を見つめた。
この丸い字。歪んだ書き方。どこかで見た。
学園の掲示板に貼ってあった匿名の紙。「来週フリードリヒさんの調子が悪くなるから薬を多めに」。あの紙と同じ筆跡だ。
(ヴィオラちゃん……?)
断罪の夜。居眠りをしていた女の子。「いい夢見てて」と言った子。頬に涙の跡があった子。
「ずっと眠り続けている女の子」。
──それは、ヴィオラ自身のことだろうか。
ヘルマン先生が言っていた。「眠り病」。極端に眠り続ける症状。聖女のヒーリングでも目覚めない。
ヴィオラは、いつも眠っていた。学園でも。断罪の場でも。
あの子の「居眠り」は──怠惰ではなく、病だったのか。
手紙を握りしめた。
(ヴィオラちゃん。あなたは今、どこにいるの。眠り続けているの。誰かが傍にいてくれてるの)
分からない。手紙には場所も書いていない。「いつかお会いできたら」としか。
でも──この手紙の筆跡は、たしかに覚えている。もう一人、この筆跡に心当たりがある人がいるかもしれない。
◇
夕方。ニクラスに手紙を見せた。
「匿名。差出人不明。だがお前の知人だろう」
「たぶん……学園の友人です。五人のうちの一人。一番年下の子」
「"眠り続けている女の子を治してほしい"と書いてある。お前の力で治せるか」
「分かりません。診てみないと。──でもヘルマン先生が言っていた"眠り病"に関係があるかもしれません」
ニクラスが腕を組んだ。考えている顔。
「症例を見たことがない。文献にも当たっていない。──だが、お前の力が深部の病変に届くなら、通常の治療では手の出せない領域にアクセスできる可能性はある」
「はい」
「調べよう。できることは全てやる」
ニクラスの声に迷いがなかった。知らない病。見たことのない症例。普通なら慎重になるはずだ。でもこの人は「調べよう」と言う。治せるかもしれないものを放置しない。
この人の隣にいてよかった。
手紙をもう一度読んだ。
『おてて先生、がんばって』
──おてて先生。
この呼び方を知っているのは、この村の人間だけだ。グスタフが噂を広めたのか。あるいは──「夢で見た」のか。
ヴィオラちゃん。あなたはどこまで見ているの。
◇
夜。
診療所の前。雪が降り止んで、空に星が出ていた。
手袋をしないまま外に出た。冬の空気が指先を刺す。
掌を広げた。月明かりに白い手。
この手で、もう一人救えるかもしれない。
「メイ」
声がした。ニクラスが診療所の扉を開けて出てきた。手にマグカップを一つ。
「手袋もせずに何をしている」
「星を見てました」
「手が冷える。中に入れ」
マグカップを渡された。温かい。薬草茶。ニクラスが淹れてくれた、私好みの配合。
マグを受け取る時に、指が触れた。
ニクラスの手も冷たかった。外に出てきたばかりだから。でも──マグを渡す仕草の中に、指先が一瞬だけ私の指を包んだ。偶然のふりをした、明らかに偶然ではない接触。
「……先生」
「何だ」
「ありがとうございます。お茶」
「毎日のことだ。礼を言うな」
毎日のことだ。毎日、この人が淹れてくれる。毎日、指先が触れる。毎日──
「先生。私、ここに来てよかったです」
声が震えなかった。泣いてもいない。ただ──真っ直ぐに言えた。
ニクラスが空を見上げた。星を見ている。横顔に星の光が落ちている。
「俺もだ」
短い。短すぎる。けれど、この人の一言には帳簿三冊分の重みがある。
「明日も患者が来る」
「はい」
「手紙の件も調べ始める。眠り病の文献を王都から取り寄せる」
「はい」
「それと──」
「はい」
「手袋をしろ。手が凍えたら明日の治療に差し障る」
「……はい」
診療所に戻った。二人で。看板の下をくぐって。
暖炉の火がまだ残っている。部屋が温かい。
手紙を鞄にしまった。七年分の治療記録と、認定書と、十五通の感謝の手紙と、ヴィオラからの一通。
おてて先生は明日も手を握る。
患者の手を。子どもたちの手を。
──そして、隣の先生の手も。こっそりと。
診察室の外では、もう隠さなくなった。手を繋いで、雪道を歩く。子どもたちが「おてて先生とこわい先生、なかよしー!」と囃し立てる。ニクラスが「こわい先生はやめろ」と言って、子どもたちが笑う。
冬のベルクハイムは、雪の中で──笑っている。
メイ編、完です!!
次はヴィオラ編です!




