第4話 私の交渉術の秘密を教えましょう
人には癖がある。
嘘をつく前に鼻を触る人。怒りを隠す時に瞬きが増える人。そして──譲歩する直前に、靴先が内側を向く人。
前夜。宿屋の部屋で、私は前回の交渉記録を広げていた。
自分で書いた記録だ。ルーカス・エーレンフェストの交渉中の挙動。発言のタイミング。反論の間合い。左手の人差し指でテーブルを叩くリズム。
そして──足元。
交渉の中盤、関税率の議論で少し間が空いた瞬間があった。あの時、ルーカスは答えを考えているふりをしていた。でもテーブルの下で、靴先がわずかに内側を向いていた。
前の人生で学んだ技術だ。ノンバーバル・コミュニケーション。言語以外の身体信号から、相手の本意を読む。国連の交渉研修で叩き込まれた。靴先の方向は無意識の中でも最も制御しにくい部位の一つで、心理的な「退却」を示す場合が多い。
あの瞬間、ルーカスは六パーセントの提案を受け入れる余地があった。テーブルの上の言葉は「持ち帰って精査」だったけれど、体は「悪くない数字だ」と言っていた。
(……あの人は優秀だ。表情も声もほとんど隙がない。でも足元までは意識が回っていない)
紙に書き出す。明日の交渉で詰めるべきポイント。関税の段階的引き下げ。寄港手続きの簡素化。漁業区域の暫定合意。
この三つのうち、ルーカスが最も譲りやすいのはどれか。
靴先が教えてくれるだろう。
ペンを置いた時、ふと、古い記憶がよぎった。
──夢だ。
いつだったか。学園にいた頃。妙にはっきりした夢を見た。小さな港町で、外国の大使と交渉している夢。テーブルの上に焼き菓子が置いてあった。なぜか「この条約が大事だ」という確信だけが残って、目が覚めた。
誰かに言われたような気もする。でも誰に?
(……ただの夢だ。意味はない)
紙をまとめて、灯りを消した。明日に備えて眠る。
窓の外で波の音がしていた。
◇
二度目の交渉は、前回より空気が硬かった。
ルーカスは前回の焼き菓子の件を覚えているのか、開口一番こう言った。
「本日は菓子の持ち込みはありますか」
「ございません。今日はお菓子なしで勝負いたします」
「勝負」
「交渉と申し上げるべきでしたね」
ルーカスの口元がわずかに動いた。笑みではない。でも、前回の氷のような無表情とは違う。
交渉が始まった。
ルーカスは攻勢を強めてきた。前回持ち帰った六パーセントの試算を「甘い」と切り、フェーレン側の対案を並べた。九パーセント。寄港手続きはフェーレンの規格に統一。漁業区域はフェーレン船優先。
(……押してきた。前回の私の力量を見て、本腰を入れてきたということだ。油断したら一気に持っていかれる)
ヴェーバーがまた青い顔をしている。頼むから顔に出さないでほしい。
「大使閣下。九パーセントの根拠を伺えますか」
「フェーレン港の標準関税率が九パーセントです。ルミエールが同等の利便性を提供するなら、同率が妥当でしょう」
「同等の利便性、ですか。フェーレン港には常設の検疫所と税関がありますが、ルミエールにはまだございません。同率を適用するなら、インフラも同等にする必要がありますね。その整備費用はどちらが持ちますか」
ルーカスの左手が止まった。テーブルを叩くリズムが途切れた。
(──来た)
「……整備費用は別途協議とする」
「別途協議にすると、条約が発効しても港のインフラが追いつかず、結局フェーレン船は寄港しません。九パーセントの関税だけが残って、誰も得をしない。それでよろしいですか」
沈黙。
ルーカスが組んだ足を解いた。
靴先を見た。テーブルの下、ほんの一瞬。
──内側を向いている。
(譲る気がある。ここだ)
「提案があります。関税は七パーセント。ただしルミエール側が二年以内に検疫所を整備することを条件にする。整備費用の三割をフェーレンの商業組合が融資する形にすれば、フェーレンにとっても港湾投資としてのリターンが見込めます」
書類を差し出した。昨夜まとめた融資スキームの試算。数字の裏付けはブリジットに紹介してもらった港の古参商人たちから聞いた建設コストだ。
ルーカスが試算を読む。速い。数字を追う目の動きが、前回より少し遅い。
(慎重に読んでいる。つまり、真剣に検討している)
「……七パーセント」
「はい」
「検疫所の整備期限は二年」
「はい」
「フェーレンの商業組合に融資を求める。交渉相手に金を出させるのか」
「投資です。港が復活すればフェーレンの商船が最も恩恵を受けます。これは支出ではなく、先行投資ですわ」
ルーカスが書類から目を上げた。
また、あの目だ。前回の「聞く価値がある」から一段階進んだ目。何と言えばいいのだろう。獲物を見る目、とは違う。対局の相手を認める目。碁盤の向こう側に、ようやく座るべき人間が来た──そういう目。
「……継続審議にする必要はない」
ルーカスがペンを取った。
「七パーセント。検疫所整備二年。融資スキームは商業組合と別途詰める。この条件で暫定合意とする」
ヴェーバーが椅子から転げ落ちそうになった。
◇
交渉が終わった。
ヴェーバーは「信じられん」を七回ほど繰り返してから、上機嫌で領主邸に戻っていった。応接室には私とルーカスだけが残されている。随行員は先に馬車の準備に行った。
片づけをしていると、ルーカスが椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
「一つ、訊きたい」
「どうぞ」
「なぜ俺の譲歩のタイミングが分かる」
ああ、やっぱり訊くか。
「二回とも、こちらが攻勢に出るべきポイントを正確に突いてきた。偶然ではない。俺の何を読んでいる」
ペンを置いた。少し考えた。教えるべきか、手の内を隠すべきか。
(……教えよう。この人には正直でいたほうがいい。理由は──交渉が長くなるからだ。それだけだ)
「大使閣下の靴を見ています」
ルーカスの目が、初めて本当に意外そうに見開かれた。
「靴」
「ええ。譲歩を検討なさっている時、靴先がわずかに内側を向くんです。無意識だと思いますが」
沈黙。
ルーカスが自分の足元を見た。それから私を見た。
「……馬鹿な」
「前回の交渉で確認しました。関税率の議論で間が空いた時、大使閣下の右足の靴先が二度、内側に動きました。あの時点で六パーセントを検討なさっていたはずです」
ルーカスの口が開きかけて、閉じた。もう一度開いた。
それから──笑った。
声を出して。
低い笑い声だった。腹の底から出るような、驚きと呆れと、それからもう一つ、名前をつけにくい感情が混じった笑い。あの氷のような顔が崩れて、目尻に皺が寄って、眼鏡が少しずれた。
「靴」
まだ笑っている。
「交渉相手の靴先を見ている外交官は初めてだ」
「外交官ではなく、無職の顧問ですわ」
「ああ。そうだった」
笑いが収まった。でも目元にまだ柔らかさが残っている。さっきまでの冷たい目とは別人みたいだった。
「──次は靴を変えて来る」
「どうぞ」
立ち上がって、窓辺の書類をまとめながら答えた。
「靴が変わっても分かりますから」
背中にルーカスの視線を感じた。振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、あの人がどんな顔をしているか見てしまう。見たら何かが変わりそうで、それが交渉に差し障る。
「……リーリエ殿」
「はい」
「面白い人だ」
足音が遠ざかっていく。扉が開いて、閉まる。
一人になった応接室で、息を吐いた。
窓の外で海鳥が鳴いている。午後の陽が傾いて、港の水面がオレンジ色に光っていた。
(面白い人、と言われた。交渉相手にそう言われるのは──良いことなのか、悪いことなのか)
テーブルの上に、ルーカスが書類を忘れていた。いや、忘れたのではない。暫定合意の副本だ。わざと置いていった。
副本の余白に、小さく走り書きがあった。ルーカスの筆跡。几帳面で、少し右に傾いた文字。
『次回の交渉日程は、そちらの都合に合わせる。──菓子は持ち込み可とする』
……笑ってしまった。
交渉の副本に冗談を書く人を、私は前世を含めて初めて見た。
菓子は持ち込み可。了解した。次はもう少し上手に焼いてもらおう。
書類をまとめて鞄に入れる。副本は──少し迷って、鞄の一番上に入れた。
帰り道、港の坂道を歩きながら、あの笑い声を思い出していた。低くて、少し掠れていて、本人も驚いているような笑い方。
(──交渉相手の笑い方を覚えているのは、職業上の習慣だ。それ以上の意味はない)
ない。当然。
坂の途中で、ブリジットの宿が見えた。煙突から煙が出ている。夕飯の支度だろう。今夜は何のスープだろうか。
足取りが軽い。七パーセント。暫定合意。上出来だ。
──あの人の笑い方を、もう一度見たいと思ったのは、気のせいということにしておく。




