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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
リーリエ編

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第3話 ルール違反ではありません

交渉というものは、最初の三十秒で勝負が決まる。


前の人生で叩き込まれた鉄則だ。相手が席に着く前に──部屋に入ってくる足音の速さ、書類を置く手の位置、こちらを見る目の角度。それだけで「今日のこの人は譲る気があるかないか」が分かる。


ルミエール領主邸、応接室。


窓から港が見える。今日は天気がいい。海が光っている。こういう日は交渉日和だと前世の上司が言っていた。根拠はない。ただの験担ぎだ。


「リーリエ殿、本当に大丈夫かね」


隣で領主ヴェーバーが額の汗を拭いていた。五十過ぎの恰幅のいい男性。元商人で、帳簿には強いが外交は門外漢。二週間前、私が港の貿易紛争の構造分析を紙三枚にまとめて持っていったら、目を丸くして「うちの外交顧問になってくれ」と言った。


外交顧問。非公式の、肩書きだけの。報酬は宿代と食事。それで十分だった。


「大丈夫ですよ、ヴェーバー殿。交渉は準備が九割です」


「残りの一割は?」


「度胸です」


ヴェーバーが青い顔をした。度胸がないのだろう。無理もない。今日の相手はフェーレン王国の通商大使だ。小国の領主が怖気づくのは当然のこと。


扉が開いた。


足音が二つ。一つは随行員。もう一つは──


(……速い。迷いのない歩幅。書類は左手に一冊だけ。最小限の資料で来た。つまり頭の中に全部入っている。厄介な相手だ)


長身の男が入ってきた。


黒い外套を脱いで椅子にかける動作に無駄がない。眼鏡の奥の目が、一瞬で部屋を走査した。窓の位置、出入り口の数、テーブルの上の書類の厚さ──そして私。


視線がぶつかった。


冷たい目だった。値踏みしている。「この場にいる人間の中で、誰が交渉の決定権を持っているか」を測っている。


「フェーレン王国通商大使、ルーカス・エーレンフェストです」


低い声。事務的な挨拶。ヴェーバーに一礼し、私にも同じ角度で一礼した。


「ルミエール外交顧問、リーリエと申します」


姓は名乗らない。ヴァイスフェルトの名を出せば、クラウディアとの繋がりが露見する。


ルーカスの眉がわずかに動いた。姓を名乗らなかったことに気づいたのだろう。でも追及はしなかった。


席に着く。テーブルを挟んで向かい合う。


さあ──仕事だ。



「本日の議題は、ルミエール港の航路使用権および関税に関する二国間の取り決めについて」


ルーカスが書類を開いた。


「フェーレンの立場を申し上げます。ルミエール港を経由する航路の使用権は、失効したラーゼン協定の条件を基準に更新するのが合理的です。関税率は従来通り一二パーセント」


一二パーセント。


(……高い。ルミエールの現状で一二パーセントの関税を維持したら、商船が寄港するメリットがない。フェーレンはそれを分かっていて言っている。最初に高い球を投げて、こちらの出方を見る──定石通りだ)


ヴェーバーが口を開きかけた。「一二パーセントは少し……」と言いかけて、ルーカスの目を見て萎んだ。


(──ここだ)


「大使閣下」


声を出した。ルーカスの視線がこちらに移る。


「ラーゼン協定の条件を基準に、とのご提案ですが。失効した協定をそのまま復活させるのは法的に不自然ではないでしょうか。失効とは、両者の合意が消滅したことを意味します。基準にすべきは旧協定の数字ではなく、現在の航路利用実績と港湾整備状況です」


ルーカスの目が少し変わった。鋭くなった、というよりも──焦点が合った。「こいつは聞く価値がある」という判断が入った目。


「現在のルミエール港の年間寄港数は、ラーゼン協定時の三分の一以下です。関税一二パーセントの根拠となった交通量がそもそも存在しない以上、同率の適用は不合理です。私どもの試算では、寄港数の回復を前提とした段階的関税──初年度六パーセント、三年後に見直し──が双方にとって利益になると考えます」


書類を差し出した。昨夜まとめた試算表。数字の根拠は、ブリジットから聞いた港の出入り記録と、商人たちの話から集めた取引データ。二週間かけて、自分の足で港を歩いて集めた数字だ。


ルーカスが試算表を受け取り、目を通した。速い。数字を読む目の動きが速い。


「……六パーセント」


「初年度は、です。寄港数が旧水準に回復した時点で再交渉の条項を入れます。フェーレンにとっても、枯れた港に高い関税をかけるより、安い関税で船を呼び戻したほうが長期的な税収は増えるはずです」


沈黙。


ルーカスが試算表から目を上げた。


「この試算、誰が作った」


「私です」


「港の出入り記録をどこで手に入れた」


「自分で歩いて数えました」


また沈黙。ルーカスの視線が、ほんの一瞬、探るように細くなった。


「……あなたはクラウディアの外交官ですか」


心臓が跳ねた。でも顔には出さない。七年間の訓練が効いている。


「元、です。今は無職ですわ」


「無職の外交顧問」


「矛盾していますね」


「ええ。矛盾しています」


ルーカスが私を見ている。冷たい目──だったはずなのに、どこかに好奇心の色が混じっている。


交渉は続いた。航路の使用権。漁業区域の線引き。寄港時の検疫手続き。一つ一つ、ルーカスは正確に、容赦なく切り込んでくる。私も引かなかった。数字で返し、条件で返し、前例で返した。


ヴェーバーは途中から口を挟むのを諦めて、二人の応酬を観戦していた。


二時間が経った。テーブルの上の書類が増えている。水差しが空になった。


空気が煮詰まっていた。


(……ここだ。空気を変える。前世の上司の口癖──「膠着したら、テーブルの上を変えろ」)


「大使閣下」


「何か」


「交渉の合間に、少しお茶をいかがですか」


ルーカスの眉が上がった。


テーブルの下から包みを取り出した。今朝、ブリジットの宿で焼いてもらった菓子だ。港町の素朴なバター菓子。形は不揃いで、少し焦げている。


「……交渉の席に菓子を持ち込むのは、外交儀礼としてどうなのですか」


「ルール違反ではありません。どの国の外交儀礼にも『交渉中に焼き菓子を出してはいけない』とは書かれておりませんので」


ルーカスが一瞬、言葉に詰まった。


包みを開けた。バターの匂いがふわりと広がる。窓から入る海風と混じって、交渉の空気が少しだけ柔らかくなった。


「……どうぞ」


ルーカスは菓子を見つめていた。それから私を見た。


「焼き菓子で交渉の空気を変えようとしている」


「はい」


「それを正直に認めるのか」


「認めたほうが、大使閣下に対して誠実でしょう。私の交渉術の手の内は、お見せしたほうが長い付き合いになりますから」


「長い付き合いになる前提で話しているのか」


「この港を立て直すには、一回の交渉では足りません。何度もお会いすることになります」


ルーカスが菓子を一つ取った。一口。咀嚼する。表情は変わらない。


「……悪くない」


菓子の感想か、交渉の評価か。どちらともつかない声だった。


ヴェーバーが横でぽかんとしている。


「本日の交渉は、継続審議としましょう。六パーセントの試算については持ち帰って精査します」


ルーカスが立ち上がった。書類を手早くまとめる。外套を羽織る動作は来た時と同じく無駄がない。


扉に向かいかけて、足が止まった。振り返らずに。


「リーリエ殿」


「はい」


「次回は、もう少し焦げていない菓子を期待します」


扉が閉まった。


ヴェーバーが大きく息を吐いた。「……あの氷みたいな大使が、菓子の注文をつけたぞ」


私は窓の外を見た。ルーカスの馬車が港の坂道を下っていく。


(──「次回」。次があるということだ。悪くない)


テーブルの上に、焼き菓子が一つだけ残っていた。ルーカスが食べたのは一つ。ヴェーバーが三つ。私は手をつけていない。


あの人が菓子を取った瞬間、口元がほんのわずかに緩んだのを、私は見逃していない。笑ったとは言えない。でも、あの冷たい顔に走った小さな変化を、なんと呼べばいいのだろう。


(……まあいい。次の交渉までに、もう少しましな菓子を調達しよう)


紙を広げた。今日の交渉の記録を書き留める。ルーカスの主張、譲歩の幅、こちらの提示した条件。それから──あの人の癖。


書類を読む時の目の動き。反論する前に一拍置く間。左手の人差し指でテーブルを叩くリズム。


全部、記録した。交渉相手の癖を記録するのは、外交官の基本だ。


──それ以上の意味はない。当然。

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