第5話 あの子たちは今、無事なのか
眠れない夜がある。
学園にいた頃は、殴った後の拳が痛くて眠れなかった。今は拳じゃなくて、胸の奥がずっとざわざわして目が冴える。
宿の部屋。窓から差し込む月明かりの中で、あたしは手紙の束を広げていた。
十一通。もう何度読んだか分からない。紙の端がよれてきている。持ち歩きすぎだ。分かってる。でも手放せない。
一通目の手紙を開く。
『カティアさま。ありがとうございました。わたしは今、げんきです』
この子は──リゼッタ。一年生だった。寮の裏口に連れ出されそうになっていた夜。あたしが駆けつけた時、リゼッタは声も出せないくらい震えていた。腕を掴んでいた男の顎を砕いた。リゼッタをそのまま医務室に連れて行った。メイが黙って手当てをしてくれた。
今も元気だろうか。あたしがいなくなった学園で。
五通目。
『先輩のこと、わすれません。わたしもつよくなります』
アンネ。この子は殴る現場を見てしまった。あたしの制服の裾を泣きながら握って、「怖かった」と繰り返した。あの子の手、小さかったな。
七通目。
『だれにも言いません。カティア先輩がしてくれたこと、ぜったいだれにも。でも心の中でずっと感謝しています』
名前がない。筆跡で分かる。エルザだ。四年生。聡い子だった。自分が狙われていることに薄々気づいていて、でもどうすればいいか分からなくて──あたしが「大丈夫、あたしがいる」と言ったら、一度だけ泣いた。
あの子たちは今、大丈夫なのか。
組織の残党が学園にまだいるなら。あたしという「壁」がなくなった今、あの子たちの前に立つ人間はいるのか。
聖女マリアベルが守ってくれる?
──冗談じゃない。
マリアベルはあたしが何を殴っていたか知っていて、知った上で「暴力令嬢」と呼んだ。組織のことを知っていたのか、それとも知らないふりをしていたのか、どちらにしろ結論は同じだ。あの女は守らない。守る気がない。自分の権威にとって邪魔なものを排除するだけの人間だ。
手紙を束ね直して、懐に戻した。
窓の外、グレンツの夜は相変わらず暗い。どこかで犬が吠えている。酔っ払いの歌声がかすかに聞こえる。
(あたしがここにいる間に、あの子たちに何かあったら)
拳を握った。爪が掌に食い込む。
──怖い。
殴ることは怖くない。殴られることも怖くない。あたしが怖いのは、守れないことだ。手が届かない場所で、あの子たちが傷つくこと。それだけが、ずっと怖い。
◇
翌日。
レオンと城壁の上で落ち合った。朝の冷えた空気の中で、二人並んで町を見下ろす。こいつと並ぶのもだいぶ慣れてきた。初日は肩が触れるだけで苛々したが、今は隣にいることに違和感がない。慣れというのは恐ろしい。
「帳簿の分析が進んだ」
レオンが言った。革の手帳を開いて、走り書きのメモを見せてくる。
「この組織は最低でも三カ国にまたがっている。クラウディア、フェーレン、それからルミエール近辺の小国。中継拠点はグレンツを含めて四カ所以上。規模は俺の当初の想定より大きい」
「……子どもは?」
「ターゲットは十歳前後の子女。孤児か、あるいは──」
「貴族の家の子」
レオンが目を上げた。
「学園にいた時もそうだった。組織が狙うのは、いなくなっても騒ぎになりにくい子と、金になる子の二種類。孤児院の子どもと、家の事情で声を上げられない貴族の子女。どっちも『消えても問題にならない』と組織が判断した子だ」
自分の声が硬くなっているのが分かる。事実を並べるだけで、こめかみの血管が痛くなる。
レオンが手帳を閉じた。
「一つ、報告がある」
声のトーンが変わった。いつもの抑揚のない声じゃない。少しだけ、慎重に言葉を選んでいる。
「クラウディアの学園で事件が起きた。生徒が一人、行方不明になっている」
心臓が止まった。
比喩じゃなくて、一拍抜けた。視界が白くなった。
「……誰」
「エルザという名前だ。四年生——」
立ち上がっていた。
いつ立ったか覚えてない。城壁の上で、拳が震えている。爪が掌にめり込んでいるのに痛みを感じない。
エルザ。名前のない手紙を書いた子。聡い子。自分が狙われていることに気づいていて、あたしに一度だけ泣いた子。
「いつ」
「十日ほど前。学園側は家出として処理しようとしている。だが俺の情報筋では——」
「組織だ」
レオンが頷いた。
「——やっぱり」
声が掠れた。
やっぱり。分かってた。分かってたんだ。あたしがいなくなれば、あの子たちは守られない。壁がなくなれば、風が通る。当然のことだ。
当然の。
「くそっ……!」
城壁の石を殴った。拳の皮が破れた。血が滲む。痛い。でも、エルザが今感じている恐怖に比べたら。
「拳を壊すな」
レオンの声。いつもの声に戻っている。冷たいんじゃなくて、意図的に感情を抜いた声。
「壊さない」
「もう壊れてるだろう。見せろ」
「いい。これくらい——」
「見せろ」
拳を掴まれた。乱暴じゃない。でも有無を言わせない力。レオンの手が、あたしの拳を開いた。掌の爪の跡と、拳の裏の擦り傷を見て、水筒の水で洗い流した。
布を裂いて、手際よく巻いてくれた。雑だけど的確。戦場で覚えた手当てなんだろう。
「……ありがと」
「礼は要らない。話を聞け」
レオンが立ち上がった。あたしの隣ではなく、正面に立った。目を合わせてきた。
切れ長の目。頬の古傷。無表情──じゃない。今のこいつの目は、怒っている。あたしと同じように。
「この組織を潰す。根本から」
「……」
「中継拠点を一つ二つ叩いても意味がない。資金源を断ち、上流の人間を特定し、各国の法で裁く。そのためには──お前の協力がいる」
あたしを見ている。まっすぐに。
「お前は学園側の内情を知っている。組織の末端の顔を知っている。俺の情報網ではクラウディア国内の動きが追いきれない。お前が持っている知識は、捜査上の穴を埋める」
正論。いつも通りの正論。
──でも今日の正論は、温かかった。
こいつは「素人は引っ込め」と言った男だ。それが「お前の協力がいる」と言っている。あたしを使えると判断したからだ。感情じゃなくて、実務として。でも、さっきの目は実務じゃなかった。
「条件がある」
あたしの声は、思ったより落ち着いていた。
「何だ」
「助けた子どもたちは、あたしが守る。捜査の過程であの子たちに危険が及ぶなら、あたしはそっちを優先する。それでもいいなら、付き合う」
レオンが黙った。
長い沈黙。城壁の上を朝の風が吹き抜けた。下の町で鍛冶屋の槌音が始まった。日が昇る。
「……了解した」
短い。短すぎる。けれど重い。こいつは軽く了解する男じゃない。
「じゃあ決まりね」
手を差し出した。握手を求めた。
レオンがあたしの手を見た。さっき包帯を巻いたばかりの右手を。
「握ったら傷が開く」
「いいから」
レオンが握った。包帯越しに、固い掌の感触。剣ダコがある。あたしと同じ場所に。
──こいつも、拳で守ってきた人間だ。
「一つ訊いていいか」
握手を離しながらレオンが言った。
「何」
「十三回、殴ったと言ったな。拳だけで」
「そうだけど」
「武器は使わなかったのか」
「学園で刃物を振り回すわけにいかないでしょ。生徒たちが見てるかもしれない。怖がらせたくなかった」
レオンの目がわずかに見開かれた。それから──視線を逸らした。
「そうか」
それだけ言って、城壁の階段を降りていった。背中が見える。広い背中。
あいつ、今何を考えたんだろう。
分からない。でもあの一瞬、レオンの目に浮かんだものが、前に見た義憤とは少し違っていた気がする。もっと柔らかいもの。名前をつけるには早すぎる何か。
──まあいい。考えてる暇はない。
エルザを見つける。組織を潰す。学園の子たちを守る。
やることは山ほどある。今度は一人じゃない。背中を預けられる相手がいる。嫌な奴だけど。正論ばっかり言うけど。
包帯を巻いた右手を握った。開いた。
「──待ってて、エルザ」
声に出した。誰にも聞こえない。城壁の上の風が、言葉を南に攫っていった。




