第2話 国境の砦町は治安最悪です
足の裏が痛い。
革靴は三日前に底が抜けた。途中の村で買い替えた安物の短靴は、もう踵が擦り減っている。あたしの歩き方が荒いせいだろう。リーリエなら同じ靴で一ヶ月は保たせるに違いない。
──まあ、リーリエと比べたら大抵のことは雑になる。
断罪の夜から歩き通しで十日。南に向かった。宛てはなかった。ただ、王都から離れたかった。離れれば離れるほど、あたしを「暴力令嬢」として知っている人間は減る。
そして辿り着いたのが、ここだ。
◇
国境の砦町グレンツ。
第一印象。汚い。
石造りの城壁は半分崩れていて、修復した跡がつぎはぎだらけ。道は泥まみれで、排水溝なんか機能してない。どこかで犬が吠えている。昼間から酔っ払いが壁にもたれて寝ている。
かつての戦場跡に出来た町だと、道すがら商人から聞いた。クラウディアとフェーレンの国境に位置する緩衝地帯。どちらの国にも属さない、半ば自治の無法地帯。荒くれ者、食い詰め者、訳ありの流れ者が集まる場所。
──あたしにぴったりじゃないか。
町の中心にある広場を横切る。物売りの声。鍛冶屋の槌音。子どもたちが泥だらけで走り回っている。乱雑だけど活気はある。どこか、嫌いになれない空気だった。
まずは宿を探す。その前に腹が減った。
酒場の看板が目に入った。『砕けた角杯亭』。名前のセンスは最悪だが、中から肉の焼ける匂いがする。
扉を開けた。
◇
昼過ぎの酒場は思ったより混んでいた。傭兵くずれ、日雇い労働者、商人、得体の知れない連中。空気が煙草の煙と安酒で濁っている。
カウンターに座って、安い定食を頼んだ。財布の中身は心もとない。追放の際に持ち出せたのは、身の回りのものと僅かな路銀だけだ。
焼き肉と黒パンと薄いスープ。味は──まあ、食えなくはない。
三口目を食べたところで、背後から声がかかった。
「おい、姉ちゃん」
無視した。
「聞こえてんだろ。この席、俺たちの場所なんだが」
振り返った。男が三人。体格はいい。顔つきは粗野。傭兵くずれか、あるいはただのチンピラ。真ん中の一人が腕を組んで、あたしを見下ろしている。
「席なら他にもあるでしょ」
「俺たちが座りたいのはここなんだよ。女一人で来る場所じゃねえんだ、ここは」
周囲が見ている。酒場の客たちの視線。面白がっている奴もいれば、目を逸らす奴もいる。カウンターの向こうで、酒場の主人──恰幅のいいおばさんだ──が眉をひそめていた。
「そうですか」
立ち上がった。
真ん中の男がにやりと笑った。素直に退くと思ったのだろう。
あたしは食べかけのパンをカウンターに置いて、両手を空けた。
「──あたしが座りたいのもここなの。悪いけど」
◇
三秒。
一人目。あたしに手を伸ばしてきた瞬間に、手首を掴んで捻り、肘の関節を外側に極めた。痛みで膝が折れる。そのまま床に押さえつけた。
二人目。一人目が倒れたのを見て腰の短剣に手をかけた。抜く前に踏み込んで、鳩尾に掌底を叩き込む。息が詰まって崩れ落ちた。短剣は抜かせない。抜いたら「制圧」じゃなくなる。
三人目。一歩退いた。こいつだけ少し場慣れしている。構えがある。元傭兵か。右の拳を振ってきた。大振り。体を半歩ずらして避け、懐に入り、足を払った。背中から床に落ちたところで首元に拳を突きつける。当ててはいない。
「動かないほうがいい」
三人目の目が、あたしの拳先を凝視して止まった。
酒場が静まり返っていた。
三秒。全部で三秒だった──たぶん。いや、数えてなんかいない。体が勝手に動いた。学園で七年間、体に叩き込んだ剣術と体術。刃物がない場面なら、素手のほうが早い。
あたしは三人目から拳を引いて、カウンターに戻った。
パンの続きを食べた。
酒場の主人が、口を半開きにしてあたしを見ていた。
「……あんた、何者だい」
「通りすがりです。この町で宿と仕事を探してる」
「仕事」
主人がじろりとあたしを見た。それから床に転がっている三人を見た。もう一度あたしを見た。
「うちの用心棒、やらないかい。前の奴は先月逃げたんだ」
「飯付き?」
「三食と寝床つきだ」
「やる」
黒パンの最後の一切れを口に放り込んだ。味は相変わらず、まあまあだった。
◇
用心棒の仕事は単純だった。酒場にいる。絡む奴がいたら止める。それだけ。
問題は、仕事以外の全てだった。
宿は酒場の二階の一室。狭いが寝るには十分。──のはずが、三日で部屋が壊滅した。
脱いだ服がそのまま床に散乱している。剣の手入れに使った油の布が椅子に引っかかっている。窓辺に干した洗濯物は、干し方が悪くて半分が床に落ちた。あたしは拾う前に踏んだ。
「……まあ、いいか」
よくない。自分でも分かっている。
食事はもっとひどい。
酒場の厨房を借りて自分で何か作ろうとしたのが間違いだった。肉を焼いた。焦げた。もう一枚焼いた。また焦げた。火加減という概念が、あたしの手には宿らないらしい。
「あんた……料理、したことないのかい?」
主人のグレタさんが、真っ黒になった肉片を見て絶句していた。
「ある。焦げるだけで」
「それは"したことがない"って言うんだよ」
グレタさんが呆れ顔であたしの分の飯を作ってくれた。煮込みと硬いパンと漬物。簡素だけど美味かった。あたしの焦げた肉よりずっと。
「侯爵家のお嬢様なんだろう? 身のこなしで分かるよ」
ぎくりとした。グレタさんの目は鋭い。
「元、ね。今はただのカティア」
「ふうん。まあ、事情は訊かないさ。この町はそういう場所だからね」
グレタさんが大きな手であたしの頭をぽんと叩いた。乱暴で、温かかった。
◇
用心棒を始めて四日目。
夜。
酒場を閉めた後、あたしは砦壁の上を歩くのが習慣になっていた。高い場所が好きだ。見晴らしがいいと落ち着く。月明かりの下、町の全体が見渡せる。
雑多で、汚くて、でも生きている町。
──悪くない。
壁の上から飛び降りて、宿に戻ろうとした時だった。
裏路地から声が聞こえた。
子どもの声。
「やだ、離して──っ」
足が動いた。考えるより先に。
路地に入った。暗い。月明かりが建物の隙間からわずかに差し込んでいる。
──男が一人。子どもの腕を掴んでいる。十歳くらいの女の子だ。泣いている。男は旅商人風の外套を着ていた。子どもを引きずるようにして、路地の奥に向かっている。
「離せって言ってるだろ」
あたしの声に、男が振り返った。
「……何だ、てめえは」
「この町の用心棒」
一歩踏み出した。
男の目が変わった。逃げるか、戦うかを計算する目。
──あたしはその目を、学園で何度も見た。子どもに手を伸ばす連中は、みんな同じ目をする。値踏みする目。損得を天秤にかける目。
男は子どもを突き飛ばすように手放し、路地の闇に走り去った。追おうかと思った。でも、先に。
「大丈夫か」
しゃがんで、女の子の顔を覗き込んだ。泣きじゃくっている。膝を擦りむいている。
「おうちは?」
「……あっち」
震える手が、路地の向こう側を指した。
女の子を家まで送り届けた。母親が飛び出してきて、泣きながら子どもを抱きしめた。何度もお礼を言われた。
あたしは手を振って、宿に戻った。
◇
部屋に戻って、壁に背中を預けた。
──あの男。
ただの酔っ払いの犯行なら、あんなに冷静な目はしない。旅商人風の外套。子どもの腕を掴む、手慣れた動き。
(まさか、な)
学園で追い続けた連中と、同じ匂いがする。偶然だと思いたい。でもあたしの勘は、大体当たる。当たってほしくないときほど。
窓の外、グレンツの夜は暗い。
拳を開いて、閉じた。
──もしこの町にも、あいつらがいるなら。
手紙の束に触れた。懐に入れたまま、ずっと持ち歩いている。十一通。十一人の子たちの声。
守れる力があるなら、守る。
それが誰で、どこであっても。
あたしの拳は、そのためにある。




