第1話 殴った相手はクズでした
カティア編スタートです!!
殴った回数なら覚えている。十三回。
全員、クズだった。
◇
舞踏会の広間は、甘ったるい香水と蝋燭の匂いで息が詰まる。あたしはこういう場所が嫌いだ。飾り立てた言葉、取り繕った笑顔、踊る気もないのに差し出される手。
──それでも今夜だけは、逃げ出すわけにいかなかった。
「あなたたちを、聖女を苦しめた五人の悪女として、断罪します」
マリアベルの声が広間に落ちた。
綺麗な声だと思う。震えが混じって、涙が光って、数百人の心を一瞬で掴む声。王太子殿下が隣で頷いている。国王陛下は何も言わない。貴族たちの視線が、あたしたち五人に注がれた。
好奇。蔑み。同情。
──同情が一番むかつく。
◇
「第一の悪女──カティア・ベルンハルト!」
来た。
指が向けられる。白い手袋の指先。あの手であたしの七年間が「暴力」に塗り替えられる。
「暴力令嬢! この女は聖女の取り巻きを脅迫し、暴力を振るいました!」
広間がざわめいた。「やっぱり」「前から」「侯爵家の恥」。
──うるさい。
拳を握った。爪が掌に食い込む。肩が震えているのが自分で分かる。
言いたいことなら山ほどある。
殴った相手は十三人。一人残らず覚えている。名前も、顔も、あいつらが裏で何をしていたかも。
学園の地下で「取引」を持ちかけていた三年生の貴族子息。寮の裏口から年下の女子生徒を外部の連中に引き渡そうとしていた自治委員。社交界では善良な顔をして、学園の裏では──
クズだ。全員、クズだった。
あたしが拳を使ったのは、あいつらが標的にしていた子たちの前に立ったときだけだ。話し合いで済むなら話し合った。けど、子どもを売り飛ばそうとしている奴と話し合う余裕なんかない。
殴った。止めた。守った。
それを「暴力」と呼ぶなら、好きに呼べばいい。
──でも。
弁明はできない。
あたしが口を開けば、守った子たちの名前が出る。「あの子は組織に狙われていた」と言えば、あの子たちが二度目の被害に遭う。組織の残党がまだ学園にいるかもしれない。標的のリストが明るみに出れば、あの子たちの安全は消える。
だから黙る。黙って、全部背負う。
──守れる力があるなら、守る。それだけのことだ。
◇
「第二の悪女──ソフィア・クラインツァール!」
ソフィアは動かなかった。
あたしの隣で、微動だにせずに立っている。穏やかな顔。いつもと変わらない。お茶会で退屈な話を聞いている時と同じ表情。
「毒舌の噂屋! 悪意ある噂で聖女の評判を傷つけた罪!」
噂屋、か。
あたしはソフィアの「噂」に何度か助けられている。「明日の放課後、東棟の裏に近づかないほうがいいわ」。さらりと言われたその助言で、あたしは二度、組織の待ち伏せを回避した。
(あんた、全部知ってたんだろ。あたしが何を殴ってたか)
視線を向けた。
ソフィアが──こちらを見た。
小さく、頷いた。
ほんの一瞬。誰にも気づかれないほど小さな動き。
(あんたの秘密は守る)
そう言っている。たぶん。
──ああ、くそ。泣きそうだ。こんなところで。
歯を食いしばった。目が熱くなるのを力ずくで押し戻す。
◇
「第三の悪女──メイ・リンドグレーン!」
メイの体が小さく揺れた。
「男誑しの魔女!」
──ふざけんな。
拳の中で爪がもう一段食い込む。こめかみに血が上るのが分かった。
メイ。あの子は学園でいちばん優しい奴だ。あたしが殴り合いの後に拳をぶらさげて医務室に行くと、何も訊かずに手当てしてくれた。小さな手で、あたしのぼろぼろの拳を包むように握って。
「カティアさん、また無茶して……」
困った顔で笑って、あたしの傷をそっと治してくれた。あの手が「魔女の手」だと?
言い返せ、と思った。殿下の持病を治してたんだと、ぶちまけてやれと。
でもメイは唇を噛んでうつむいている。あの子は言わない。患者の秘密を、自分の名誉と天秤にかけるような子じゃない。
(……あたしと同じだ。守るものがあるから、黙る)
◇
「第四の悪女──ヴィオラ・ネーベルシュタイン!」
「居眠り令嬢! 怠惰で学業を放棄し──」
返事がない。
寝てる。
あたしは思わず目を瞬いた。この状況で? 断罪の真っ最中に?
ヴィオラの小さな頭がこくりと揺れている。マリアベルの声がもう一度飛んだ。「起きなさい!」
目を開けたヴィオラが、寝ぼけた声で言った。
「……あ。ごめんなさい。いい夢、見てて」
──こいつ、すごいな。
呆れを通り越して、少しだけ肩の力が抜けた。広間の空気が一瞬だけ弛んだ。マリアベルの計算された演出を台無しにする天然の破壊力。
ただ──ヴィオラの頬に涙の跡があるのを、あたしは見た。
泣いてたのか。寝ながら。
あの子のことは正直よく分からない。でも、学園の廊下ですれ違うたび、ヴィオラはあたしにふわっと笑いかけてくれた。他の生徒たちがあたしを避ける中で、あの子だけは平気な顔で隣を歩いた。
(……何考えてるか分かんねぇけど。嫌いじゃない)
◇
「そして第五の悪女──氷の女王、リーリエ・ヴァイスフェルト!」
リーリエの番だ。
公爵令嬢。あたしたち五人の中で最も位が高く、最も感情を見せない人。冷たいと言われているけど、あたしは知っている。リーリエが七年間、この王国のために何をしてきたか──の、断片くらいは。
王太子殿下が婚約破棄を宣言した。
リーリエは動じなかった。「承知いたしました」と一礼して──それから、何かを国王陛下の側近に手渡した。
「七年間お預かりしておりました外交暗号鍵の一式です」
広間の空気が変わった。側近の顔色が変わった。あたしには外交の細かいことは分からない。でも、側近の指先が震えているのは見えた。
「聖女様ならきっと、おできになりますわよね?」
リーリエが微笑んだ。完璧な微笑。完璧な皮肉。
マリアベルの顔がほんの一瞬歪んだ。あたしにはそれがよく見えた。
──ああ。やるじゃないか、リーリエ。
あたしは殴ることしかできない。でもリーリエは、言葉と書類と微笑みで殴り返した。あたしの拳より、たぶんずっと痛いやつを。
リーリエがこちらを見た。
あたしは拳を握ったまま、目だけで笑った。
◇
五人全員の追放が確定した。爵位の剥奪。社交界からの追放。正式な裁判はない。聖女の訴えと王太子の宣言だけで、七年間の全てが消えた。
──法的には穴だらけのはずだ。あたしでも分かる。でも今この場で異を唱える人間はいない。
広間を出た。
背中に視線を感じる。ざわめきを感じる。同情と好奇と安堵。「あの暴力令嬢がやっと消える」という安堵。
振り返らない。
長い回廊を歩く。革靴の音が石の廊下に響いた。月明かりが窓から差し込んで、磨かれた床を白く染めている。
学園棟を抜ける手前で、メイの小さな背中が見えた。医務室の前で立ち止まっている。扉に手を触れて、でも開けずに、また歩き出した。
(──あんたも、置いてきたものがあるんだな)
声はかけなかった。今声をかけたら、あたしが先に泣く。
◇
正門。
門番があたしを見た。目を逸らされた。一ヶ月前まで、こいつは「カティア様、おはようございます」と笑っていた。
どうでもいい。
門を出た。振り返らない。
夜風が吹いた。春なのに冷たい。
三歩、歩いた。
四歩目で、懐に手を入れた。
──手紙の束。
今朝、門の脇の植え込みの下に置かれていた。紐で束ねてあって、一番上に花が一輪載せてあった。野の花だ。花屋では売っていない、学園の裏庭に咲いている白い花。
あたしが守った子たちからだ。
名前は書いていない。お互いのために。でも筆跡で分かる。
一通目。
「カティアさま。ありがとうございました。わたしは今、げんきです」
まだ字の覚えたての子だ。あの子が寮の裏口に連れ出されそうになった夜、あたしは門番役の男の顎を砕いた。拳が三日間動かなかった。
二通目。
「先輩、絶対に忘れません」
この子は殴った現場を見ていた。泣きながらあたしの制服の裾を握って離さなかった。
三通目、四通目、五通目──。
十一通。
殴った回数より少ない。全員が手紙を書けたわけじゃないだろう。書けなかった子もいるだろう。でも十一通。十一人の子たちが、今朝、あたしのために花を摘んで、手紙を書いた。
暗号鍵より外交文書より、この手紙の束のほうがよっぽど重い。
あたしの七年間は、ここにある。
「──後悔はない」
声に出した。
嘘じゃない。
殴った。守った。追い出された。
それでいい。拳が届く範囲は守った。文句なんかない。
──ただ。
ただ、一つだけ。
あの子たちのそばに、もういられない。あたしがいなくなった学園で、あの子たちは大丈夫なのか。組織の残党が、まだどこかに──
拳が震えた。
怒りじゃない。これは。
「……泣くのは一人になってからだ」
誰もいない。月明かりだけの夜道だ。もう、一人だ。
でも。
涙が出る前に、歩き出した。拭うのは嫌だ。一度拭ったら止まらなくなる。
だから歩く。
宛てはない。ただ、南に向かう。国境の方だ。この脚が動く限り、どこへでも行ける。
(守れる力があるなら、守る。それが誰で、どこであっても)
右手にまだ手紙の束を握っている。白い花は夜風に揺れて、少しだけ甘い匂いがした。




