第10話 残り四人
焼き菓子の匂いで目が覚めた。
ブリジットの宿の二階。窓から朝の光が差し込んでいる。潮風と一緒に、バターと砂糖の甘い匂い。
……違う。この匂いは、台所からではない。隣の部屋からだ。
「ルーカスさん。まさか、朝から焼いてます?」
隣室の扉を叩いた。返事の代わりに扉が開いて、ルーカスが顔を出した。エプロンをしている。フェーレン王国の通商大使が、エプロンをしている。
手に焼き菓子の皿を持っていた。形はいびつで、一つだけ真っ黒に焦げている。
「……練習だ」
「焦げてますよ」
「一つだけだ。残りは食べられる」
「一つでも焦がしたら交渉では負けですわ」
「菓子を焼くのは交渉ではない」
「全ては交渉ですわ。ルーカスさん」
ルーカスが黙って焦げた菓子を自分の口に放り込んだ。咀嚼して、飲み込んで、顔をしかめた。
「……苦い」
「でしょうね」
笑ってしまった。朝から笑える。半年前には想像もしなかったことだ。
◇
条約締結から二週間が経った。
ルミエールの港は、目に見えて変わり始めている。三カ国条約の締結を聞きつけた商船が、毎日のように寄港するようになった。市場の露店は全て開いた。新しい露店も三つ増えた。通りを歩く人々の足取りが速い。活気という言葉が、ようやくこの港にも似合うようになった。
ルーカスはフェーレンの大使としてルミエールに駐在することが正式に決まった。条約の運用監督という名目だが、要は「ここにいたい」ということだと私は解釈している。本人は認めないだろうけれど。
私は引き続きルミエールの外交顧問。非公式ではなく、正式な肩書きになった。ヴェーバーが「顧問料も払う」と言ってくれたが、金額を聞いたら宿代より安かった。まあいい。報酬の問題は、港がもう少し潤ってから交渉すればいい。
ブリジットの宿は今月、満室が三日続いた。ブリジットは「あんたが来てから人生が変わったよ」と泣いた。泣きすぎだ。ヴェーバーとブリジットは、大事な場面で泣く癖が共通している。ルミエールの風土だろうか。
穏やかだ。
朝起きて、焼き菓子の匂いを嗅いで、港を歩いて、書類を書いて、ルーカスと交渉の準備をして、ブリジットの夕食を食べて、眠る。
仕組みを作る仕事がある。自分の名前で。隣に、仕事を見ている人がいる。
──こういうのを、幸せと呼ぶのだろう。たぶん。
◇
その手紙は、午後の便で届いた。
ルミエール宛ではなく、私個人宛。差出人の名前はない。封蝋もない。粗い紙に、インクで表書きだけ。
『リーリエさまへ』
開けた。
中には一枚の便箋。小さな丸い字。少し歪んでいる。筆圧が均一ではなくて、ところどころ文字が滲んでいた。
『あなたの幸せを、私は夢で見ました。
海の見えるバルコニーで、隣に眼鏡の人がいて、焼き菓子を食べていました。
よかった。本当によかった。
次は他の四人の番です。
みんな大丈夫。大丈夫だから。』
手紙は、それだけだった。
読み返した。三度。
「夢で見ました」。
夢。
誰の夢だ。誰が、私の幸せを、夢で──
筆跡を見つめた。この丸い字。歪んだ書き方。見覚えがある。どこかで──
(……ヴィオラ?)
断罪の夜。広間の中央で居眠りをしていた、小さな女の子。頬に涙の跡があった。「いい夢、見てて」と言った。
あの子の筆跡を、私は見たことがあっただろうか。
ない。──いや、あるかもしれない。学園の掲示板に、時折、匿名の貼り紙があった。「明日は傘を持って」とか、「来週の馬車の便が乱れます」とか。丸い字。歪んだ筆跡。
みんな当たっていた。天気も、馬車の遅延も。当時は変わった占い好きの生徒だと思っていた。
「夢で見ました」。
ヴィオラは、夢で見ていたのだろうか。天気も。馬車の遅延も。そして──私の幸せも。
「次は他の四人の番」。
四人。
この手紙を書いた人が五人目なら──差出人はやはり、あの子だ。
(ヴィオラ。あなた、今どこにいるの)
◇
夕方。バルコニーでルーカスに手紙を見せた。
「匿名の手紙か」
「ええ。差出人はおそらく──学園時代の友人です。あの夜、一緒に断罪された五人のうちの一人」
ルーカスが手紙を読んだ。眉をひそめた。
「"夢で見た"。──予知か?」
「分かりません。でも、心当たりがないわけではありません」
手紙を受け取って、もう一度読んだ。「みんな大丈夫。大丈夫だから」。あの夜、広間でヴィオラが口の形だけで言った言葉と同じだった。
根拠はない。けれど不思議と、嘘には見えなかった。あの時も、今も。
「──ルーカスさん。クラウディアの近況を教えていただけますか」
「フェーレン外務省の最新報告書によれば」
ルーカスが紅茶のカップを置いた。
「外交暗号の件は依然未解決。三カ国との条約更新は全て停止中。聖女マリアベルの"神託外交"は、各国の大使の間で失笑を買っている。先月、ヴェルダの交易長が本国に送った書簡に『クラウディアの聖女は、外交と神託の区別がつかないらしい』と書いたそうだ」
(……ボルガさん。あの人は口が悪いが、的確だ)
「加えて、社交界の混乱が深刻化している。派閥抗争の激化。デマの横行。貴族間の信頼の崩壊。──もう一人の"悪女"が管理していた情報網が消えた影響は、想像以上に大きい」
ソフィア。
ソフィアの情報網が消えたクラウディアは、目と耳を失った体のようなものだ。どこで何が起きているか分からない。分からないから疑心暗鬼が広がる。疑心暗鬼が広がるから、デマが走る。
ソフィアが七年かけて作った「見えないバランス」が、消えたのだ。
「王太子は」
「焦っている、という報告だ。聖女への依存が裏目に出ている。実務ができる人間がいない」
当然だ。実務ができる五人を全員追い出したのだから。
バルコニーの手すりに頬杖をついた。海が夕焼けに染まっている。風が温かい。
(……カティア。あなたは今、何をしていますか)
あの子のことだ。腕一本でどこでも生きていける。たぶん、誰かを守っているのだろう。拳を握って、歯を食いしばって。一人で。
(ソフィア。あなたのことだから、もう次の手を打っているんでしょう)
情報を握る女が、何も持たずに追放されるわけがない。頭の中にある情報網の設計図だけで、どこでだって同じものを作れるはずだ。私が暗号の解読法を頭の中に持っているように。
(メイ。優しいあなたのことが、一番心配です)
あの子は自分の力を呪いだと思っていた。追放された先で、また「魔女」と呼ばれていないだろうか。手を握ることを、怖がっていないだろうか。
噂を一つだけ聞いた。山間の寒村で、不思議な治療をする若い女がいると。メイだといいな、と思う。根拠はない。
そしてヴィオラ。夢で私の幸せを見たという、あの子。
(──あなた自身は、幸せですか)
手紙をもう一度見た。「みんな大丈夫」。でも、自分のことは書いていない。
「……リーリエ」
ルーカスの声で顔を上げた。
「考え事か」
「ええ。友達のことを」
「あの夜、一緒に断罪された四人か」
「はい」
紅茶を一口飲んだ。ブリジットが淹れてくれた、いつものハーブ茶。苦くて温かい。
「私、あと四人友達がいるんです」
ルーカスが黙って聞いている。
「全員、とんでもなく有能な"悪女"ですわ」
笑った。自分の声が穏やかなことに少し驚いた。
「一人は王国一の剣士。一人は王国最大の情報網の主。一人は聖女より優れた治療者。一人は──まだ秘密です。でも、きっと一番すごい子」
ルーカスが紅茶のカップを傾けた。
「そのうち会えるのか」
「いつか。──きっと」
バルコニーの手すりに夕陽が落ちている。港の灯りが、一つずつ点き始めた。半年前、暗かった港。今は光で溢れている。
私は一人目だ。
五人の悪女のうち、一人目。「氷の女王」と呼ばれた外交令嬢。七年間の見えない仕事を奪われて、追放されて、小さな港町に流れ着いて──仕組みを作り直して、名前を取り戻して、隣に座る人を見つけた。
残り四人。
カティア。ソフィア。メイ。ヴィオラ。
みんな──大丈夫。
根拠はない。手紙の差出人が、そう言っているだけだ。
でも不思議と、信じられた。
ルーカスが焼き菓子の皿を差し出した。朝焼いた、少しいびつな菓子。焦げたのは本人が食べたから、残りはまともな色をしている。
一つ取った。かじった。甘い。少し塩気がある。形は不格好だが、味は悪くない。
「……上達しましたね」
「当然だ。俺は何でも上達する」
「交渉術以外では初めて見ましたが」
「うるさい」
笑った。声を出して。
港に、夜が降りてくる。星が一つ、二つ。潮騒が遠くで鳴っている。バルコニーに、二人分の紅茶の湯気が立ち上っている。
手紙をポケットにしまった。丸い字。歪んだ筆跡。「みんな大丈夫。大丈夫だから」。
──ヴィオラ。あなたの夢が当たるなら。
四人の「大丈夫」も、きっと本当だ。
リーリエ編、完です!
次はカティア編になります!




