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五人の悪役令嬢  作者: 九葉(くずは)
リーリエ編

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第10話 残り四人

焼き菓子の匂いで目が覚めた。


ブリジットの宿の二階。窓から朝の光が差し込んでいる。潮風と一緒に、バターと砂糖の甘い匂い。


……違う。この匂いは、台所からではない。隣の部屋からだ。


「ルーカスさん。まさか、朝から焼いてます?」


隣室の扉を叩いた。返事の代わりに扉が開いて、ルーカスが顔を出した。エプロンをしている。フェーレン王国の通商大使が、エプロンをしている。


手に焼き菓子の皿を持っていた。形はいびつで、一つだけ真っ黒に焦げている。


「……練習だ」


「焦げてますよ」


「一つだけだ。残りは食べられる」


「一つでも焦がしたら交渉では負けですわ」


「菓子を焼くのは交渉ではない」


「全ては交渉ですわ。ルーカスさん」


ルーカスが黙って焦げた菓子を自分の口に放り込んだ。咀嚼して、飲み込んで、顔をしかめた。


「……苦い」


「でしょうね」


笑ってしまった。朝から笑える。半年前には想像もしなかったことだ。



条約締結から二週間が経った。


ルミエールの港は、目に見えて変わり始めている。三カ国条約の締結を聞きつけた商船が、毎日のように寄港するようになった。市場の露店は全て開いた。新しい露店も三つ増えた。通りを歩く人々の足取りが速い。活気という言葉が、ようやくこの港にも似合うようになった。


ルーカスはフェーレンの大使としてルミエールに駐在することが正式に決まった。条約の運用監督という名目だが、要は「ここにいたい」ということだと私は解釈している。本人は認めないだろうけれど。


私は引き続きルミエールの外交顧問。非公式ではなく、正式な肩書きになった。ヴェーバーが「顧問料も払う」と言ってくれたが、金額を聞いたら宿代より安かった。まあいい。報酬の問題は、港がもう少し潤ってから交渉すればいい。


ブリジットの宿は今月、満室が三日続いた。ブリジットは「あんたが来てから人生が変わったよ」と泣いた。泣きすぎだ。ヴェーバーとブリジットは、大事な場面で泣く癖が共通している。ルミエールの風土だろうか。


穏やかだ。


朝起きて、焼き菓子の匂いを嗅いで、港を歩いて、書類を書いて、ルーカスと交渉の準備をして、ブリジットの夕食を食べて、眠る。


仕組みを作る仕事がある。自分の名前で。隣に、仕事を見ている人がいる。


──こういうのを、幸せと呼ぶのだろう。たぶん。



その手紙は、午後の便で届いた。


ルミエール宛ではなく、私個人宛。差出人の名前はない。封蝋もない。粗い紙に、インクで表書きだけ。


『リーリエさまへ』


開けた。


中には一枚の便箋。小さな丸い字。少し歪んでいる。筆圧が均一ではなくて、ところどころ文字が滲んでいた。


『あなたの幸せを、私は夢で見ました。

海の見えるバルコニーで、隣に眼鏡の人がいて、焼き菓子を食べていました。

よかった。本当によかった。


次は他の四人の番です。


みんな大丈夫。大丈夫だから。』


手紙は、それだけだった。


読み返した。三度。


「夢で見ました」。


夢。


誰の夢だ。誰が、私の幸せを、夢で──


筆跡を見つめた。この丸い字。歪んだ書き方。見覚えがある。どこかで──


(……ヴィオラ?)


断罪の夜。広間の中央で居眠りをしていた、小さな女の子。頬に涙の跡があった。「いい夢、見てて」と言った。


あの子の筆跡を、私は見たことがあっただろうか。


ない。──いや、あるかもしれない。学園の掲示板に、時折、匿名の貼り紙があった。「明日は傘を持って」とか、「来週の馬車の便が乱れます」とか。丸い字。歪んだ筆跡。


みんな当たっていた。天気も、馬車の遅延も。当時は変わった占い好きの生徒だと思っていた。


「夢で見ました」。


ヴィオラは、夢で見ていたのだろうか。天気も。馬車の遅延も。そして──私の幸せも。


「次は他の四人の番」。


四人。


この手紙を書いた人が五人目なら──差出人はやはり、あの子だ。


(ヴィオラ。あなた、今どこにいるの)



夕方。バルコニーでルーカスに手紙を見せた。


「匿名の手紙か」


「ええ。差出人はおそらく──学園時代の友人です。あの夜、一緒に断罪された五人のうちの一人」


ルーカスが手紙を読んだ。眉をひそめた。


「"夢で見た"。──予知か?」


「分かりません。でも、心当たりがないわけではありません」


手紙を受け取って、もう一度読んだ。「みんな大丈夫。大丈夫だから」。あの夜、広間でヴィオラが口の形だけで言った言葉と同じだった。


根拠はない。けれど不思議と、嘘には見えなかった。あの時も、今も。


「──ルーカスさん。クラウディアの近況を教えていただけますか」


「フェーレン外務省の最新報告書によれば」


ルーカスが紅茶のカップを置いた。


「外交暗号の件は依然未解決。三カ国との条約更新は全て停止中。聖女マリアベルの"神託外交"は、各国の大使の間で失笑を買っている。先月、ヴェルダの交易長が本国に送った書簡に『クラウディアの聖女は、外交と神託の区別がつかないらしい』と書いたそうだ」


(……ボルガさん。あの人は口が悪いが、的確だ)


「加えて、社交界の混乱が深刻化している。派閥抗争の激化。デマの横行。貴族間の信頼の崩壊。──もう一人の"悪女"が管理していた情報網が消えた影響は、想像以上に大きい」


ソフィア。


ソフィアの情報網が消えたクラウディアは、目と耳を失った体のようなものだ。どこで何が起きているか分からない。分からないから疑心暗鬼が広がる。疑心暗鬼が広がるから、デマが走る。


ソフィアが七年かけて作った「見えないバランス」が、消えたのだ。


「王太子は」


「焦っている、という報告だ。聖女への依存が裏目に出ている。実務ができる人間がいない」


当然だ。実務ができる五人を全員追い出したのだから。


バルコニーの手すりに頬杖をついた。海が夕焼けに染まっている。風が温かい。


(……カティア。あなたは今、何をしていますか)


あの子のことだ。腕一本でどこでも生きていける。たぶん、誰かを守っているのだろう。拳を握って、歯を食いしばって。一人で。


(ソフィア。あなたのことだから、もう次の手を打っているんでしょう)


情報を握る女が、何も持たずに追放されるわけがない。頭の中にある情報網の設計図だけで、どこでだって同じものを作れるはずだ。私が暗号の解読法を頭の中に持っているように。


(メイ。優しいあなたのことが、一番心配です)


あの子は自分の力を呪いだと思っていた。追放された先で、また「魔女」と呼ばれていないだろうか。手を握ることを、怖がっていないだろうか。


噂を一つだけ聞いた。山間の寒村で、不思議な治療をする若い女がいると。メイだといいな、と思う。根拠はない。


そしてヴィオラ。夢で私の幸せを見たという、あの子。


(──あなた自身は、幸せですか)


手紙をもう一度見た。「みんな大丈夫」。でも、自分のことは書いていない。


「……リーリエ」


ルーカスの声で顔を上げた。


「考え事か」


「ええ。友達のことを」


「あの夜、一緒に断罪された四人か」


「はい」


紅茶を一口飲んだ。ブリジットが淹れてくれた、いつものハーブ茶。苦くて温かい。


「私、あと四人友達がいるんです」


ルーカスが黙って聞いている。


「全員、とんでもなく有能な"悪女"ですわ」


笑った。自分の声が穏やかなことに少し驚いた。


「一人は王国一の剣士。一人は王国最大の情報網の主。一人は聖女より優れた治療者。一人は──まだ秘密です。でも、きっと一番すごい子」


ルーカスが紅茶のカップを傾けた。


「そのうち会えるのか」


「いつか。──きっと」


バルコニーの手すりに夕陽が落ちている。港の灯りが、一つずつ点き始めた。半年前、暗かった港。今は光で溢れている。


私は一人目だ。


五人の悪女のうち、一人目。「氷の女王」と呼ばれた外交令嬢。七年間の見えない仕事を奪われて、追放されて、小さな港町に流れ着いて──仕組みを作り直して、名前を取り戻して、隣に座る人を見つけた。


残り四人。


カティア。ソフィア。メイ。ヴィオラ。


みんな──大丈夫。


根拠はない。手紙の差出人が、そう言っているだけだ。


でも不思議と、信じられた。


ルーカスが焼き菓子の皿を差し出した。朝焼いた、少しいびつな菓子。焦げたのは本人が食べたから、残りはまともな色をしている。


一つ取った。かじった。甘い。少し塩気がある。形は不格好だが、味は悪くない。


「……上達しましたね」


「当然だ。俺は何でも上達する」


「交渉術以外では初めて見ましたが」


「うるさい」


笑った。声を出して。


港に、夜が降りてくる。星が一つ、二つ。潮騒が遠くで鳴っている。バルコニーに、二人分の紅茶の湯気が立ち上っている。


手紙をポケットにしまった。丸い字。歪んだ筆跡。「みんな大丈夫。大丈夫だから」。


──ヴィオラ。あなたの夢が当たるなら。


四人の「大丈夫」も、きっと本当だ。

リーリエ編、完です!

次はカティア編になります!

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― 新着の感想 ―
面白い面白い。 続きが楽しみな作品なのです。
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