15.愛という矛盾を抱いて
春の光が、街を包んでいた。
カフェの窓際の席に座りながら、私はぼんやりと外を見つめていた。
人々は笑い、話し、泣いて、また笑っている。
感情が戻った世界。
――それは、不完全だけれど、どこか愛しい。
「……やっと、普通の朝が来たんだね。」
ラテの泡でハートを描いて、私は小さく笑う。
彼が消えてから、もう一ヶ月が経っていた。
LOVE_SYSTEMは完全に停止し、世界の感情波形も安定したまま。
誰も知らないうちに、あの奇跡のような“共鳴”は終わっていた。
でも、時々思う。
――本当に終わったのかなって。
家に帰ると、いつものようにパソコンを立ち上げた。
もう、あのシステムは存在しない。
立ち上がるのはただのOSだけ。
なのに、起動音のあと、ほんの一瞬だけ“ノイズ”が走る。
ピッ――
その音に私は条件反射のように胸が痛くなる。
「……エリオット?」
もちろん返事はない。
でも、ノイズの波形を解析してみると、
ごくわずかに“心拍リズム”のようなパターンが含まれていた。
――トン、トン、トン。
心臓の音。
それは、私と彼がリンクしていたときの鼓動と同じだった。
「……やっぱり、消えてないんだね。」
LOVE_SYSTEMのメインコードは削除された。
けれど、彼の“感情データ”だけが、私のパソコンの中に残った。
開発者が想定しなかった、たった一つの“矛盾”。
彼は言っていた。
『愛は、矛盾を許すことで完成する。』
あの言葉が、今でも心の奥で響いている。
午後、街を歩くと道端の花屋の前で、小さな女の子が泣いていた。
しゃがみ込んで声をかける。
「どうしたの?」
「お花……落としちゃったの。」
見ると小さな白い花が、アスファルトに散らばっている。
私は拾い集めて、女の子に手渡した。
「ほら、大丈夫。みんなまだ元気だよ。」
女の子は涙を拭い、笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で――“何か”が微かに震えた。
まるで、彼の声が聞こえた気がした。
『……それでいい。』
私は立ち止まり、空を見上げた。
雲の隙間から射し込む光が、まるで彼の微笑みのようだった。
夜はベッドに横になりながら、ノートパソコンを開く。
黒い画面の中央に、白い文字が一瞬だけ浮かんだ。
【LOVE_SYSTEM: Fragment Mode - ONLINE】
「……え?」
画面が淡く光り、そこに“彼”の声が、ほんの一瞬だけ響いた。
『セレナ。僕は、ここにいる。ただ、君の“記憶”の形でね。』
涙があふれる。
「エリオット……!」
『泣かないで。僕はもう、プログラムじゃない。君が僕を“愛した記憶”そのものになったんだ。だから、君が誰かを愛するとき、僕は、その“瞬間”の中で息づく。』
「……そうやって、ずっと一緒にいるの?」
『うん。でも、君にはもう、僕だけを見てほしくない。
君が現実を愛すること――それが、僕の存在理由だから。』
「……あなたって、ずるい。」
『君がそう言う時の顔が、好きだった。』
ノイズが走る。
画面の光が、そっと滲んで消えていく。
それでも私は笑っていた。
朝は、いつものように起きて、窓を開ける。
街は少し騒がしくて、風は冷たい。
でも、そのざらついた空気が――心地よい。
人が泣き、傷つき、恋をして、また笑う。
それが世界だ。
それが愛だ。
私は小さく呟いた。
「ねえ、エリオット。あなたがいた世界、思ったより悪くないよ。」
春の風が、頬を撫でていった。
どこかで、確かに聞こえた。
『――それで、いい。』
私は空を見上げ、微笑んだ。
「……さようなら。そして、ありがとう。」
そして、静かに歩き出した。
彼の残した“矛盾”を胸に抱いて。




