第1話「砕けた夢、折れた翼」
果たして面白くなるのか
鼓動が耳に響く。呼吸を整え、相手の動きを見極める。
全国高校レスリング選手権、決勝戦。橘さくら(17)は、今まさに人生の頂点に立とうとしていた。
(ここまで来た。絶対に勝つ!)
レフェリーのホイッスルが鳴り、試合開始。さくらと対戦相手がぶつかり合う。力と技の激しいせめぎ合いが始まった。
観客の歓声が遠のいていく。さくらの世界には、ただマット上の相手だけが存在していた。
幼い頃から父に教わったレスリング。才能を見出され、名門・青嶺学園に特待生として入学。寮生活、厳しい練習、プレッシャー。全てを乗り越え、ついに全国の舞台にまで上り詰めた。
(ここで終わらせる!)
相手の隙を突き、さくらが得意の技を繰り出す瞬間だった。
「ガクッ」
激痛が右手首を襲った。
「くっ…」
歯を食いしばるさくらの耳に、周囲の歓声が再び押し寄せてくる。
(嘘だ…こんなところで…)
目の前で揺れる相手の足が、恐ろしいほどクリアに見える。
「さくら、大丈夫か!?」
コーチの声。だが、さくらの脳裏には、これまでの努力が走馬灯のように駆け巡るばかり。
幼い頃、父と交わした約束。「必ず日の丸を背負って立つ」。その夢が、今まさに砕け散ろうとしていた。
「タイム!」
レフェリーの声と共に、試合が中断される。
さくらは、右手首の激痛に耐えながら立ち上がった。医務班が駆け寄ってくる。
「橘選手、これ以上は危険です。棄権を…」
「いえ、大丈夫です。最後まで…」
しかし、その言葉とは裏腹に、さくらの顔は蒼白になっていた。冷や汗が額を伝い落ちる。
コーチが近づいてきて、さくらの肩に手を置いた。
「さくら、無理するな。お前の将来のほうが大事だ」
「でも、コーチ…皆の期待に…」
さくらは涙をこらえながら、コーチを見上げた。その目には、決意と共に深い絶望の色が滲んでいた。
「悔しいです…こんなところで…夢が…」
コーチは深くため息をつき、さくらの背中をそっと押した。
「分かっている。だが、これが終わりじゃない。必ず次がある」
その言葉に、さくらはかすかに頷いた。しかし、心の奥底では、何かが音を立てて崩れ始めていた。
「棄権します」
レフェリーに告げると、会場に衝撃が走った。
優勝候補と目されていたさくらの棄権。誰もが予想だにしなかった結末だった。
さくらは、うつむきながらマットを降りた。
観客席からは、惜しむ声と励ましの拍手が沸き起こる。
だが、さくらの耳には、それすら遠い雑音にしか聞こえなかった。
診断の結果は、右手首の靭帯損傷。完治まで半年以上かかると言われた。
「さくら、焦るな。じっくり治療して、また戻ってこい」
コーチの言葉に、さくらは無言で頷いた。
しかし、彼女の心の中では、既に夢という名の砂の城が、音を立てて崩れ落ちていた。
あれから3ヶ月。
さくらは自室のベッドに横たわり、右手首を見つめていた。
包帯は外れ、腫れも引いている。リハビリは順調だと医者は言う。
だが、さくらの心は日に日に暗くなっていった。
(もう、戻れないかもしれない)
その思いが、少しずつさくらの心を蝕んでいく。
かつての輝かしい未来が、今は遠い幻のようだった。レスリングへの情熱も、勝利への渇望も、全てが色あせていく。
(私には、もう何も残っていない)
ふと、枕元に置いてあったスマートフォンが光った。
何気なく手に取ると、見知らぬアプリがインストールされていた。
「NEW WORLD」
そのアイコンに、さくらは首を傾げた。
(こんなの入れた覚えないけど…でも、)
さくらの心に、小さな好奇心が芽生えた。久しぶりの感情だった。
(今の私に、失うものなんてない)
そう思い、さくらはそのアプリを起動した。
すると突然、部屋全体が眩い光に包まれる。
「え? なに!?」
驚きの声を上げる間もなく、さくらの体が宙に浮かび始めた。
そして次の瞬間、光は消え、さくらの姿も消えていた。
後には、静かな部屋と、床に落ちたスマートフォンだけが残されていた。
画面には、こう表示されていた。
「異世界へようこそ」
さくらの新たな物語が、今まさに幕を開けようとしていた。