百科事典と死なずの身体
月守頼人は、異様に重く感じる身体を引きずって、なんとか家に帰った。
喉が渇く。
だるい、熱もあるかもしれない。
節々が痛む。
耳鳴りがする。
だが、囁きだけは聞こえる。
台所で水道水をがぶ飲みしてひと息吐くと、だるさと痛みで立っていられなくなる。
「ちくしょう……何も、できなかった……何も……」
目の前に『死遊人』が居たというのに、月守は自分の無力感に苛まされる。
いや、実際は何もできなかったのではない。
死にたくなかった。
下手に会話を途切れさせたら、殺されるのではないかと言う恐怖に支配されていた。
できなかったのではなく、やらなかったのだ。
その事実が、余計に月守を刺激していた。
───攻性型・守性型……守性型を選択します───
性格分析による基礎的な魔王因子の発現であった。
「くそっ……囁きでまで……俺を責めるんじゃ、ねぇ……」
やらなかった後悔。
しかし、あの時、机を持ち上げて白龍怪人に殴りかかったとして、どこまでその効果があっただろう。
仇を討ちたいという激情をその瞬間だけ満たして、返り討ちに合うのが自分の求めていたことだろうか。
月守は自問自答する。
答えは否だ。
それならば、あの時、自分にできたことはなんだったのだろうか。
白龍怪人は対話を望んだ。
しかし、月守はその言葉の意味を半分も理解できたかどうか……。
自身の学のなさが恨まれる。
───【百科事典】を獲得しました───
「百科事典?」
───【百科事典】……物事の基本的な情報を知ることができるスキル───
月守はその囁きに頷いた。
だが、同時に少々、嫌な顔をする。
「俺の学がないから、それを補う能力みたいなものが付与されたってところか……余計なお世話だ……」
これも月守の性格分析の賜物だろうか。
だが、これによって、ますますあの白龍怪人が言う、この世がゲームであるという信ぴょう性が増した。
しかし、月守にとって、この能力はありがたかった。
気にいる、気にいらないは別として、この能力があれば、白龍怪人の言葉を吟味することができるかもしれないのだ。
「それじゃあ、そうだな……次元上昇」
───次元上昇……主に肉体を捨て去り、精神体として生きることで寿命を大幅に伸ばす行為───
白龍怪人たちは精神体ということらしい。
この世界が仮想現実でゲームなのだとして、では、ぶん投げた椅子を弾いた手は肉体だった。
アバターということだろうか、と月守は考える。
どうやって、というのは考えるだけ無駄かもしれない。
しかし、こうやって【百科事典】を使っている間は痛みが和らいでいるように感じる。
気を紛らわすという意味でも質問を続けた。
「じゃあ、次だ……魔王因子」
今、月守にとって一番知りたいのが、魔王因子だろう。
『囁き病』の原因だと思われる魔王因子。
この身体のダルさや痛み、それが何に繋がっているのか、自分はどうなってしまうのか、魔王に選ばれるとはどういう意味か、それを知るには魔王因子が何なのかを知る必要がある。
───MPが足りません───
「MPだって!
ゲームじゃあるまいし……」
そこまで言って、月守は口を噤んだ。
認めたくなかった。だが、認めなければ先に進めそうにない。
しかし、認めたところで、MPがどうしたら回復するかなど分かるはずもない。
そもそも、ソレがマジックポイントなのかメンタルポイントなのか、それとも他の何かなのかが分からない。
痛む身体やひたすらに渇く喉などに悩まされながら、台所の片隅に蹲る。
『囁き病』は謎の奇病だ。
病院に行く意味はない。
月守はこれからの不安に押し潰されそうになりながら、朝を迎えるのだった。
朝を迎えて、また喉の渇きが酷くなる。
だるさと痛み、耳鳴りは未だ激しい。
しかし、喉の渇きが堪えきれなくなって、這いずるように台所で水道水の蛇口を捻った。
ジャージャーと水が流れる。
そこに頭を突っ込んで、顔を流れる水を舐めとるように飲む。
身体を動かすのが億劫で仕方がない。
それでもなんとか、身体を動かそうとすると、濡れた床で足が滑った。
その内に頭の重みで、シンクの排水口が塞がった。
水嵩が増していく。
頼るもののない独り身では、辛すぎる。
このまま、台所のシンクに頭を突っ込んだまま死んだりしたら、情けなさ過ぎる。
それくらい酷い状態になっていた。
ああ、死にたくねえなあ……。
月守は本気でそう考えるくらいまで消耗していた。
───【死なずの身体】を獲得しました───
───弱点をひとつ設定します───
───スキャン中───
時間が止まった。
鼻のすぐ手前まで貯まった水がその冷たさを伝えて来るが、確かに時間が止まっていた。
もしかしたら、死の間際の走馬灯のようなものかもしれない。
月守は用務員室でお茶を啜っていた。
目の前では一人の生徒が、用務員室のパソコンを使って、ゲームをしている。
不登校だった加藤優一だ。
加藤はイジメが原因で不登校になった。家では延々とゲームをしていた。
先生の説得で学校に来たものの、やはりクラスには居られず、無断で帰ろうとしたところを月守が見つけて声を掛けたのだ。
「おい、鞄も持たずにどこ行くんだ?」
月守はその様子から、何かが変だと感じたのだ。
無視して歩き去ろうとする加藤の腕を月守は引いた。
「なあ、おっさんのとこで匿ってやるから、寄ってけ……」
多少、強引に加藤を用務員室まで連れて行く。
加藤も観念したのか、素直に着いてきた。
用務員室でお茶を出してやりながら、クラスと名前を聞き出した。
それから、少しだけ事情を聞いた。
「帰りたいんです……」
今にも泣き出しそうな顔で加藤は言った。
「さすがに学校がある間は帰っちゃまずいだろう……じゃあ、担任の先生には俺から言っとくから、ここで学校が終わるまで、好きに過ごすってのはどうだ?」
「…………。」
加藤は答えなかったが、出て行きもしなかった。
最初はお茶を飲みながら、静かに座っているだけだった加藤だが、チラチラとパソコンを気にしだした。
「使いたきゃ使っていいぞ。
どうせ、備品の管理程度にしか使ってないからな」
加藤はパソコンを立ち上げ、適当にネットを巡回していたが、その内に欲が出たのだろう。
「ゲーム、入れてもいいですか?」
「ああ、好きにしていい。
俺はちょっと仕事してくるから……」
そうして、ひと仕事終えて戻って来ると、加藤は静かにゲームをしていた。
月守は、一緒に画面を観ながら聞く。
「これはなんてゲームなんだ?」
すると、加藤はゲームをしながら、あれこれと話し出す。
月守はゲームを中心にあれこれと質問をする。
そうして、無事に学校が終わるまでの時間を過ごして、加藤は帰っていった。
それから、加藤は辛くなると用務員室に来るようになった。
おかげで月守はすっかりゲームについて詳しくなった。
「お、そろそろボス戦か?」
「うん。こいつはギミックタイプのボスだから、知らなきゃ倒せない……」
「ギミックタイプ?」
「そう、普通に戦ってもダメなんだ。
ギミックって言って、特定の行動をしないと、HPがゼロになっても復活しちゃうんだ」
「それは知ってるのか?」
「うん、こいつのギミックは有名だから。
周囲の松明を灯せば倒せるようになるよ」
「へえ、吸血鬼みたいなもんか……」
時の止まった走馬灯の中で記憶が、ぐるぐると巡る。
たしか、加藤は二年生からクラスが替わったとかで、そこからは授業にまともに出られるようになったはずだと、月守は邂逅する。
放課後、何故かよくお茶を飲みに来る生徒になった。
学校のことは話さず、ゲームのことを聞けば、よく喋る、そんな子だった。
加藤が卒業して、七年。
元気にやっているといいな、と月守は懐かしく思う。
そうして、月守は気づいた。
【死なずの身体】はそういう能力なのだ。
弱点を設定すれば、死なない身体になるということかと、理解する。
だが、同時にあまりにも定義が広過ぎるとも思う。
弱点を設定するというのは、自分の死に方を選ぶようなものだ。
こうなれば死んでもいい、そう言えることがあるだろうか。
───スキャン終了───
───次の中から選んで下さい───
───用務員室のやかんの水を全て取り除く───
───天立第一中学校の照明を全て使えるようにする───
───お気に入りの湯呑みを割る───
なんだそれは! と月守は叫びたくなる。
月守の命は途端に安くなった。
【死なずの身体】は死ねる条件を達成されれば、月守は死ぬようになるというものだ。
あまりにも簡単すぎるそのギミックは、全て月守の小さな心残りから来ていた。
やかんに水を入れっぱなしのまま一年経った。
長年使ったやかんだが、今頃、水が腐って、カビでも生えているかもしれない、だとか、三階の女子トイレの蛍光灯を取り替えるよう言われていたのに、結局、やれずに終わった、だとか、お気に入りの湯呑みを用務員室に置きっぱなしのままだな、だとか、どれもこれも、小さな心残りだ。
ある意味、どうでもいいと言えば、どうでもいい。
しかし、月守にとって、用務員であるということが、いかに大きなことだったのかを『囁き』に指摘されたような気がして、何とも渋面になってしまう。
月守はそれでもなんとか知恵を絞ってみることにする。
字面だけで言えば、『天立第一中学校の照明を全て使えるようにする』というのが一番、安全なような気がする。
どれかひとつ、使えなくなっていれば、自分の命は残るのだ。
学校内の照明を壊したり、外したりしてしまうのは、月守にとって非常に心苦しいことだが、なんなら用務員室の電球は外しておけばいいのだ。
そこは自分の空間だという認識があるからかもしれない。
───天立第一中学校の照明を全て使えるようにする、に決定しました───
囁きが聞こえると、途端に止まっていた時が動き出す。
ジャージャーと水道水が流れて、鼻から水が入ってくる。
苦しさに頭を上げると、蛇口でおもいきり頭を引っ掻いた。
「いてえっ!」
ハゲたかもしれないと不安になるくらい、ザリッ! と逝ったのだ。
「げはっ……ぐえっ……げふっ、げふんっ……」
鼻から入った水が、喉を通って、咳込む。
いつのまにか、『囁き』は止まっていて、身体のだるさや痛み、耳鳴りなども収まっている。
蛇口で削った頭の痛みはあるが、それだけだ。
腕を動かして、頭を触る。
濡れているのが水道水か血か分からない。
ゼーハーと荒い息を吐きながら、なんとか頭に触れた指先を見る。
血は付着していない。
ただ、自分の指先が別物のように見える。
もう少し、皺だらけだったような気がする。
何年か前にやってしまった消えない火傷跡も消えている。
良く分からないまま、洗面所にタオルを取りに行く。
全身、びしょ濡れで、体調が良くなったのなら、このまま風呂にでも入りたいところだ。
そう考えて月守は、ふと鏡に視線をやって驚いた。
誰だ、と思う。
もう随分と昔の記憶、それは二十歳の頃の月守自身だった。
『囁き病』が発症すると、声なき声が聞こえ、それに答えると、自分の身体が変異してしまう。
それが月守の場合、若返りという形で出たらしかった。
「はは……肌がピチピチしてやがる……」
白龍怪人の言葉が思い出される。
なるべく、私たちを困らせる魔王になって下さいね……。
なるほど、この変異は怪人たちを困らせるためにあるのか、と月守は思う。
嬉しかった若返りが、途端に苦しくなる。
全ては、怪人を楽しませるためにあると思うと、複雑な心境になる月守だった。
そんな折、月守の携帯が警告音を激しく鳴らす。
それは『Sアラート』と呼ばれる『死遊人』の出没情報を伝えるものだ。
半径十km範囲に通知が行くようになっている。
場所は野浜市の駅近辺だ。
月守の心臓が大きく脈打つ。
何故か、行かなければならない気がする。
嫌だと思いながらも、月守は『囁き』を信じてしまっているようだ。
月守が『死遊人』を困らせる存在になるか、楽しませる存在になるかは、自分次第なのではないかと考えた結果でもある。
月守は慌てて濡れた服を着替えると、台所の包丁をタオルで包み、車の鍵を取る。
車は軽のトラックだ。
そうして、月守は自分から『死遊人』に近づくという決断をしたのだった。