酩酊街へ、おいでませ。
-この作品はSCP財団日本支部発、要注意組織「酩酊街」のオマージュ作品です。酩酊街をご存じない方はSCP財団日本支部公式より「酩酊街」のフレーバーテキストをご覧になるとより一層、当作品をお楽しみ頂けるかと存じます-
季節は冬の寒さが残る2月中旬、就活の頃に買った使い古しの鞄を引っ提げて暗い夜道を歩く。
18時には帰る予定だったのに、飛び込みで仕事が舞い込んできて帰りが遅くなってしまった。幸いなことに私には帰りを待つ妻も両親もいない。
「...今日は特に寒いな...」
腕時計を見ると21時を指している。吐く息は白く、手袋をしていない指先は寒さに耐えかねて赤くなっていた。
(次の休みはジャケットと手袋を買いに行かないとな...あと靴下も)
何年も使い続けてきた靴下は今にも穴が開きそうなほど摩耗している。
そんな折、一層強く吹き付ける冷風が革靴を突き抜け、薄くなった靴下と足を蹂躙していった。
寒さを通り越して痛くなってきた足は悲鳴を上げ、私は思わず立ち止まった。
「さすがに寒いわ。指いった....」
誰に言うでもなく独り言を呟く。なんとなく足の指先が心配になったので近くの街路灯の柱に掴まり片方の革靴を脱ぐ。言うまでもなく足先は不健康なほど赤くなっていた。
「...帰ったらすぐ風呂沸かそう...」
すぐに革靴を履きなおそうとしたが寒さで感覚を失った足は思い通りに動かずふらつく。(まずい)と思ったが間に合わず、前に2,3歩ケンケンした後前のめりに盛大にこけてしまった。
こけた直後は痛みはさほど感じなかったが、数秒もするとじわじわと耐えがたい痛みが腕と脚に走る。
「いいぃ....」
あまりの痛さに"痛い"の一言され出せない。ここまで派手にこけたのは数年ぶりだ。
だが私は今や社会人。我が身の状態よりも気になったのは...
「パソコン...どうなった...?」
こけた時に放り投げてしまった鞄はプラスチックが割れる嫌な音と共に地面に落ちた気がしていた。
あの音が中に入っていたノートパソコンの壊れた音でないことを祈るしかない...
ゆっくりと鞄に近づいていき、ファスナーを開ける。取り出したノートパソコンには大きな亀裂が入っていた。
「...マジか」
顔から血の気が引いていく。このノートパソコンには会社の重要な資料や明日の仕事が詰まっているのだ。
すぐにノートパソコンを開き電源を入れる。電源はつかない。
何度電源ボタンを押しても画面は表示されなかった。
もはや寒さや痛さなど感じなかった。今後の自分の人生をも左右するほどの最悪の事態が、今起きているのだから。
結局、ノートパソコンは起動しなかった。
私は絶望に打ちひしがれながら路頭に迷っていた。
「これ...どうしたらいいんだよ...」
半分涙目で今からするべきことを想像する。家に帰るにしても気力が出てこない。会社に連絡?既に業務は終了しているだろう。なんせ私が最後に会社を出たのだから。
そう思うと腹が立ってきた。そもそも会社が残業させなければこんなに寒い空の下帰る必要もなかったのだ。重要なファイルを私一人に任せるからこうして重要データが失われたのだ。
...だがそんな愚痴を心の中で煮えたぎらせてもデータは帰ってこない。むしろこの失態を誰かのせいにしようとしている、どうしようもない自分自身に失望さえ感じた。
「...なんかもう、生きてる意味わかんねぇや...」
ふと口をついて言葉が出てくる。
『...あんた、なんか災難みたいだな』
呆然としていると頭上から声が聞こえてきた。寒さと絶望でぼーっとした思考はとうとう幻聴さえ生み出したらしい。
「...災難だよ。今まで生きてきた中で一番最低の出来事だ...」
『そうかい。俺にはその板切れ一枚割れちまったようにしか見えねぇけどなぁ』
「板切れ一枚って...馬鹿にしてるんか...!?」
なんだか馬鹿にされたような気がして声を少し荒らげる。
『悪い悪い。お前さんにとってはただの板切れじゃねぇのな。俺ぁその辺疎いからよぉ』
「なんだよそれ...」
自分が生み出した幻聴にしてはやけに田舎臭いな...と少し面白く感じた。
『お前さん、今鼻で笑ったなぁ?俺は確かに古臭ぇかもしれんが、お前さんよりずっと年上なんだぜ?年上は敬うもんだ』
「なに言ってんだよ。ただの幻聴のくせに...」
『おい、俺ぁ幻聴じゃねぇぜ?まぁ人間でもねぇけどよ』
「...じゃあ、一体何者なんだ?」
『さぁな。ただお前さんが生まれるずっと前からここにいる。お前さん、前は緑の四角い鞄背負ってたろ?あの鞄の色、この辺の子供にしちゃ珍しいと思ってたんだ』
「ランドセルのことか...?確かに緑だったけど...」
私は今24だ。幻聴の話を信じるなら、彼は少なくとも12年はここにいるらしい。
『まぁ俺の話なんざどぉーでもいいわな。兎も角、お前さん今やべぇんじゃねぇのか?』
「あ...!」
そうだ。幻聴と会話などしている場合ではないのだ。この事態をどうすべきか考えなくては...
『さっきの慌てようだと、人生に関わるような大事をやらかしちまったみてぇだなぁ。大方、仕事をクビになるような大失態か?』
「...よくご存じで。」
少し皮肉交じりに答える。
『ま、俺も伊達に長生きしてないってこったぁな。そういう顔の奴は今まで何人も見てきたさ』
声は少しだけ寂しそうになった。
『仕事をクビになった奴、女房に出て行かれた奴、人を刺しちまった奴。色んな奴がここを通った。そういう奴らは揃ってこう言うんさぁ、もう死にたい、生きてる意味が分かんないってなぁ』
「...!」
『お前さんとおんなじだな。んで、俺はそういう奴を"酩酊街"に送ってやるんさぁ。あそこに行けば、この世の全てを忘れられる。現実がどうしようもなくなった奴は向こうに行った方が幸せなんさ』
「..."酩酊街"...」
高校の頃に勉強した日本地理を思い出すが、そのような観光地は思い当たらない。
『あそこは常世じゃねぇから記憶を辿ったって出てこねぇぞ。俺だけが行き方を知ってる』
「常世って...そんな」
馬鹿な...と言いかけて止める。冷静になって改めて周囲を見渡すが、見えるのは街路灯と誰もいない舗装路だけだ。
『...俺も常世の存在じゃねぇぜ。今分かったとは思うがな』
声は傍から聞こえる。しかし声のする方向には本当に何もないのだ。葉っぱの一つすら。
「....ありえない」
やっと思考が明白になった。今の声は自分自身の幻聴ではなく現実だと分かる。だが理解は追いつかない。
本当に幻聴ではないのか?では一体何が語りかけてきているのか?
『まぁ落ち着け。今分かったみてぇだが、俺はお前さんとは異なる生きもんだ。だからお前さんから俺は見えねぇ。かと言って俺がお前さんに触れられるわけでもねぇんだがな』
「本当に...そこにいるんだな...?」
『おうともよ。俺ぁここにいるぜ』
少し風が強く吹いた気がした。
『んで、お前さんも常世以外の存在は認識できたみたいだしよぉ。改めて聞くぜ』
『"酩酊街"に、行く気はねぇか?』
お元気ですか?こちらは楽しくやっています。
画面越しでは様子は分からないけれど、あなたのことです。きっとうまくやっているのでしょう。
あなたが見て、聞いて、書いた作品が増えていくのを眺めていたら、なんだか少し寂しくなっちゃいました。
ねぇ、今度こちらに遊びに来ませんか。
あなたの元気な顔が見たいのです。よければお土産話も聞かせてください。
おいしいお菓子を用意して、待っています。
酩酊街より 愛を込めて