六章
六章──衝突──
それから、私はひたすら走り続けた。不可能を実現させるために強い力を使ったせいか、身体はひどく疲れていて、歩くことさえ満足にできそうにない。しかし、少しでも遠くへ逃げてしまいたいという思いが疲れに勝り、それに突き動かされて身体を引きずるように走っていた。
ぬかるみに足をとられそうになりながら坂を駆け上がり、周囲を見回すと、北の方に焼け焦げて倒れている木々が見えた。そちらとは反対の方向に再び駆け出そうとするが、力がうまく入らず転んでしまった。
「ッ!!」
その場に倒れ込んだまま、起き上がることができなかった。動かすことのできない私の身体を、降りしきる雨が打つ。愚かしくて、情けない。そんな非難を受けているような感覚を覚えた。しばらくしてようやく立ち上がると、目の前に洞穴のようなものが見えた。
ふらふらと入口に近づくと、火のパチパチと燃える音と、話し声が微かに聞こえてくる。必死に走っているうちに、スタンダールの拠点にたどり着いたのだろうか。こちらに気が付いたのか、奥の方で翼がはためくような音がした。
「あ……!」
目の前に現れたのはスタンダールではなく、見覚えのない三頭のメルヴィルだった。彼らはこちらを見て、一瞬驚いた後ににやりと笑みを浮かべた。
「なぁ、この人間、この前"死神"の傍にいた奴じゃねえか?」
「ああ、言われてみれば確かにそうだな」
「……ヴァイス様のもとに連れて行くか?」
「こんな泥まみれの人間、わざわざ連れて行く必要もねえだろ」
「そうだよな、だがここで見逃して、この拠点が見つかっても困るし──────死んでもらおうぜ」
三頭の竜が、じりじりとこちらに近づいてくる。洞穴の外まで追いやられ、再び雨の雫が身を伝う。
「……」
ああ、この世界にもはや味方はいない。きっと、もう誰も助けてくれはしない。それでも、私の命を狙う竜がいる。今、目の前に横たわるその事実が恐ろしくて、けれど無性に腹立たしくて、気付けば私は必死に叫んでいた。
「……こんな奴ら、めちゃくちゃになれッッ!!」
私の声と同時に、彼らのうちの一頭が私に飛びかかる。その爪が私の身を引き裂かんとするその刹那、私の前で風が起こり、竜の身体はそれに切り刻まれ、塵ほどまで細切れになりながら血煙となって消えた。
今起こったことを、私も信じられなかった。間違いなく、私が起こしたことなのに。
直後、残っているうちの一頭の竜の身体に花が咲き始めた。まずは尻尾に、その次には足に、どんどん花が咲いてゆく。胴に、腕に、翼に、喉に、そして目に花が咲いた時、彼は狂いだして大きな声をあげた。
「ギ、ガガガガガギギギギ!!」
彼は痛みに耐えかねているような声で叫び、喉の辺りを鋭い爪で掻きむしった。その様子を見ていたもう一頭の竜が、慄きながらも声をかける。
「お、おい!どうしちまったんだ!?」
「……があぁぁぁァァッッ!!」
「!」
全身が花でいっぱいになったその竜は、花の隙間から出した爪で仲間の首を切り裂いた。それで、彼は一つの智慧を得たらしい。彼は先ほど仲間にしたのと同じように、爪で自身の首を裂いた。
「……いや……」
ほんのわずかな間、呆然と立ち尽くしているうちに、惨たらしい光景が出来上がっていた。そこから目を背けたくて空を見上げると、いつもは歪みのある場所に穴があいていて、そこから大きな目がじっとこちらを覗いていた。
しかし、私はそれに驚くことも、それを恐れることもなかった。
「……私、竜を……殺した」
今までずっと、ノワールが私の代わりにしてくれていたこと。自分の身を守るために、他のものを傷つけ、殺すということ。この瞬間、私はそれを初めて、そしてそうとは思えないほど惨たらしいやり方で、自分の手で行ってしまったのだ。今はただ、その事実だけが私に重くのしかかっていた。
突如、左腕を何かに殴られたような激痛が襲い、私の身体は右に吹っ飛んで木に打ちつけられる。
「ぅぁ……!」
私を殴ったのは、死んでいった彼らの仲間だろうか。私は、これからどうなってしまうのだろうか。心配する私を見捨てるように、そこで意識は途絶えてしまった。
◆
身体の痛みに耐えきれずに地に膝をつき、ただ目の前を走り去ってゆくいのりを見つめていることしかできずに、降りしきる雨に打たれる。カナエに裏切られた日も、こんな雨が降っていた。
━━━━━━━━━━━━━━━
カナエとの出会いは、本当に偶然だった。どこから来たのか、ミドナの森で行き倒れていたあいつを俺は城に連れて帰った。気の遠くなるほど長い間続いているこの争いを終わらせるためには、竜の世界の外にあるものの力に頼るしかない。その時から、俺はそう考えていた。
「……おい、もう身体は大丈夫なのか?」
「▁▂▃▅▆▇█▇▆、▁▂▃▅▇▃▂▁▅▁▂▃▅。▆▇▆▅▃▂▃▂▁」
「……」
何を言っているのかわからなかった。龍の言葉と人間の言葉は違う。使う言葉はほとんど同じだが、声の質が違うせいで互いに伝わらないのだ。そんなことを語るメルヴィルがいるというのを、随分前に聞いたことがある。信じがたい話だが、少なくともお互いに言葉が伝わらないことは間違いなかった。
だから、かつて人間が龍の世界を行き来していた頃は、お互いの身体の動きを見て交流をはかったという。人間の持つ技術を取り入れるには、それで十分だったのだ。
しかし、スタンダールに協力する人間として戦いに出すとなると、それでは足りない。互いを理解し合い、心を通わせる必要があった。
「……っと!よし、焼けたぜ。この川の魚は結構美味いんだ。昔ここに来た人間も気に入ってたみてえだしな」
「▁▂▇██▅▃▂、▁▂▃▅▇██▅▃▂▁!」
「どうだ?なかなかのもんだろ!」
言葉が伝わらなくても、心を通わせることはきっとできる。俺はそう信じて疑わなかった。必死に交流をはかるうちに、カナエが笑顔を見せることも増えていった。
「……あっ、ノワール様……またあの人間とあんなところに」
「クロガネ様の行方が分からなくなったというのに、何をしているんだか。それに、あんな人間がいたところで、ねえ」
「▂▇██▅▃……?」
「……気にするなよ。魚が不味くなっちまうだろ」
新しい王となったばかりの俺が、人間と行動を共にすることを良く思わない龍も当然少なくはなかった。しかし、そんな奴らの言葉は聞かなかった。この人間と心を通わせれば、戦況が大きく変わるかもしれない。終わらない争いを終わらせる力を、この人間は持っているかもしれない。
人間が龍の世界に来なくなってもう何年も経つ。俺は、ようやく手にした可能性に賭けないわけにはいかなかった。
俺はカナエにいくつかの部隊の指揮を任せようと考えた。龍よりも進んだ文化を持つ人間の力を活かすならば、ここしかないと思ったからだ。身振り手振りで何とか提案すると、カナエはゆっくりと頷いた。
「……悪いな、急にこんなことを任せちまって」
「▁▂▃▅▆▇██▇▆▅……▁▂▃██▇▆▂▁▁▇▆▅▃▂▁!」
カナエが指揮を執る部隊は、あいつを悪く思っていない龍で構成した。指示が伝わりさえすれば、それに従ってくれるはずだ。あいつは地面に石で絵を描き、作戦を伝えていた。
その実力は、俺はもちろんクロガネやイチカをも遥かに凌いでいた。天候からそれぞれのスタンダールの能力まで、あらゆる要素を見落とさず、作戦に組み込んでいた。
俺も部隊に加わり、カナエに危険が及んだら守ることができるようにはしていたが、実際にはその必要はほとんどなかった。
突如龍の世界に現れ、凄まじい勢いで戦果をあげたカナエが、全てのスタンダールから信頼されるまでにはそれほど時間はかからなかった。
俺はこの時、カナエというあいつの名前さえ全く知らなかった。だが、それでもあの人間こそが俺の探し求めていた存在だと信じて疑わなかった。
その信頼は、あの雨の日に一瞬にして崩れ去った。今と同じように、勝利に勢いづいたスタンダールがミドナの森の中心へと軍を進めようとしている頃だった。
俺たちは森の中で、どこか淋しそうな目をして辺りを彷徨う一頭のメルヴィルを見つけた。奇妙にも、周りに他の竜はいない。
「……なんだ、あの竜?軍からはぐれたのか?」
「▁▂▃▅▇▆▅▃▁▆▇██▇▆▁▁▂▃▇██▇▆▅▃▁!」
カナエはその竜を目にした途端に声を上げ、俺の背から飛び降りた。そして、僅かな間見つめ合った後、その竜のそばに立って俺と向かい合った。
裏切られた。その事実を察するのに、言葉は要らなかった。隣の竜を睨むと、竜の方は当惑しているようだった。
一瞬の沈黙の後、竜がこちらに声をかけてきた。
「スタンダールの王、ノワール……ですね?」
「……てめえ、そいつとどういう関係だ?」
「さあ、わかりません。それより……その……私、あなたをずっと待っていました」
「……はあ?」
その竜……リアンは、少し苦い顔をしてそう言うと、急にこちらに迫ってきた。慌てて退がり、逃げるようにその場から離れてしまった。
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「……」
ふと顔を上げると、いつの間にか目の前にテルが立っていた。元から堅苦しい奴だが、いつになく真剣な眼差しでこちらをじっと見つめている。
「何だよ、お前には城の留守を任せたはずだぜ。仕事をほっぽり出すなんてらしくもねえ」
「……何か随分と悩まれているようでしたが」
「……別に悩んじゃいねえよ。昔のことを思い出してただけだ」
テルは辺りを軽く見回している。いるはずの人間がいないことに、気付いたのだろう。
「なぜ、イノリはここにいないのです?」
「……」
黙って、カナエたちの亡骸の方を翼で示した。そこに眠っている人間を一目見ると、テルは驚いて声をあげた。
「あれは、我々を裏切った人間……!」
「……あいつはいのりの姉らしい。いのりを守るためとはいえ、あいつがずっと探し続けていた人間を俺は殺しちまったわけだ」
「それは……」
テルはかける言葉もない、という様子だった。確かに、どうしようもないことだと言ってしまえばそれまでだ。俺にできることは全てやってきたのだから。
「……俺は、この争いを終わらせるものはこの世界の外にあると信じてる。それは今も変わらねえ」
「……ええ」
「それを手に入れるために、どんな手段も厭わなかった。禁忌だって犯して、龍の世界の外に出た」
「……はい」
「いのりと初めて出会った時、俺の言葉があいつに通じた。それで、俺は今度こそ争いを終わらせられると思った。それでも……人間は、また俺から離れていった」
「……」
「ミドナを信じてる奴らは、禁忌を犯した罰だって言うだろうな。だが……はじめから。人と龍がわかりあうことなんて……不可能だったのかもな」
そんな言葉が、つい口をついて出た。それを聞いたテルは黙ったまま、少し俯いた。こいつも、俺に失望しただろうか。それなら本望だ。俺が本当に探し求めていたのは、争いに勝つ方法なんかじゃなく、誰にも悔やまれずに死ねる機会なのだから。
「……この、底抜けの愚か者ッ!!」
テルはそう叫んで、俺の身体を殴りつけた。鋭く力強い動きに反して、ぽすり、と弱々しい音がした。テルは身体が弱いから、痛みは全くなかった。
「……急に何すんだよ」
「あなたは……あなたは、これまで歩んできた道を無駄だったと断ずるのか!このまま、後悔を抱いたまま散ってゆくのか!そんな主君に……友に……!私は仕えた覚えはない!」
「……」
テルは、息を切らしながら俺に向かって怒鳴りつける。それは、ただの理想の押し付けにすぎない。無駄足を後悔する自由ぐらいは俺にもあるはずだ。しかし、これまでにないほど必死に声を上げるテルを前に、わざわざそれを言い返そうとは思えなかった。
「いかなる犠牲を払ってでも!その行く末が、自らを滅ぼすものであったとしても!全ての龍を引きずりながら、己が信じた道をどこまでも突き進む!そのような暴君に、私は希望を見出した!そのような暴君にこそ、私は仕えると誓ったのだ!私の……そして、あなたを慕う全てのスタンダールの希望を、他ならぬあなたが絶つことは許さない!」
あぁ、きっとこいつも底抜けの愚か者なんだ。俺の行く道を、どこまででもついて来るつもりなんだ。そして、俺はずっとこいつを振りほどけないまま、もう引き返せないところまで連れて来ちまったんだ。こいつがいる限り、俺は満足に死ぬこともできない。俺が、暴君である限り────
「……黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって」
「……」
「いのりを探す。さっさと城に戻れ」
「!」
テルは俺の言葉を聞いて、晴れやかな表情をして城の方へ飛び去っていった。勝手な奴だ。忠臣の助言による王の再起────そう言えば聞こえはいいが、実際はあいつが俺に王であり続けることを強いたにすぎない。しかし、それは確かに俺のやるべきことだ。見せるつもりもない希望をあいつに見せてしまった、俺の……受けるべき罰だ。
地を蹴り、勢いよく飛翔する。カナエ達が倒れてから今までの間にいのりの足で移動できる距離までは上から見えたが、やはりどこにもその姿は見当たらない。
戦いの疲れが多少残っている上に、雨のせいで翼が重く、そう高くは飛べない。上から探すのは諦めた方が良さそうだ。
「……だったら、やることは二つだ」
いのりを探し、途中で見つけたメルヴィルの拠点を潰す。どうあってもいのりを探すのは時間がかかるから、一度敵対したカナエを受け入れたようにメルヴィルが動いてくれるのを期待する他になかった。
いのりが走っていった方へ向かっていると、二頭の竜が惨たらしく死んでいるのを見つけた。二頭とも首が切り裂かれ、そのうちの一頭は全身が花に覆われている。こんな殺し方は最も多彩な能力を持つクロガネでも不可能だ。
「これは……!」
奇妙だったが、それを気にしている余裕はない。亡骸を越えた先に竜の拠点を見つけたので、まずは入り口にいた竜にいのりの行方を尋ねることにした。
「な……し……"死神"……!!」
「『死神』だと!?おい、お前!至急応援を要請しろ!」
俺の姿を見た途端、竜たちは騒ぎ始め、逃げ出した奴もいた。鬱陶しかったので、手近な竜を言葉通り叩き潰して黙らせた。
「ひっ……!」
「……さっきここに人間が来なかったか?誰でもいいから答えろ」
「は……はは、知らないな。知っていたとしてもお前に教えることなどない!」
「……そうか」
俺は、敵に対してはどこまでも平等だ。生かす時は全員を逃がし、殺す時は残さず殺す。それが、メルヴィルの奴らに"死神"と呼ばれた理由だった。
砦から砦へ、何度も移動を重ねる。上から探しても見つからなかった以上、メルヴィルに捕らえられているはずだ。しかし、いくつ拠点を潰してもいのりは見つからない。
「チッ……あいつ、一体どこに行きやがったんだ……!」
◆
「ぅ……!」
目を覚ますと、私はベッドの上にいた。そこは先ほどまでとは、いや、龍の世界そのものからかけ離れたような見た目の場所だった。端的に言えば、実験室のようだった。拘束されているようで、身動きはあまり取れない。
「おや、お目覚めになりましたか」
「!?」
声が聞こえ、慌てて首を小さく起こして周りを見ると、そこには一頭の竜の姿があった。メルヴィルにしては身体が細く、小さいが、鱗は真っ白で、疑いようもなくメルヴィルのものだった。
その竜は私を見るとにこりと笑うように口角を上げて一歩下がり、礼をするように頭を下げた。
「え……」
「おっと、人間は初めて会った相手にはこうするとずいぶん前に聞いたんですがね、記憶違いでしょうか。まあよろしいでしょう、私はメルヴィルきっての研究者、クレーダと申します。ごきげんよう」
「え?そ、その……」
その竜はこれまでに出会ったどの竜、あるいは龍よりも饒舌で、思わず戸惑ってしまった。激しくまくし立てるようではなく、つらつらとよく口が回るという様子だ。
「いえ失敬。私としたことが、目覚めたばかりの人間に一気に話しすぎてしまいました。いやはや、悪い癖ですねえ」
「はあ……」
「では改めまして、必要なことだけ端的に。私はクレーダ。人間の研究をもういつからだったかも思い出せぬほど昔からしておりますので、この通り、人間の話し方や言葉遣いで話すことができます。そしてあなたはそんな私の実験の対象となった。そういうわけでございます」
「……実験……」
別段驚きはなかった。この状況からして、私がメルヴィルに捕らえられていることは明らかだ。最近龍の世界にあまり来ていないという人間が手に入れば、研究の材料にされるのも不思議な話ではない。もちろん、怖いのは間違いないが。
「ええ、それはもう素晴らしい実験です。あ、既に成功済みなので多分死んだりはしませんよ。むしろあなたにも悪い話ではありません。あなたには────竜になってもらおうかな、と」
「……え?」
竜は微笑むような表情を崩さないまま、恐ろしいことを述べた。ノワールのもとを離れてからずっと不思議に思っていたことの答えを、最悪な形で手に入れてしまった。人間の研究で、既に成功済み。そしてそれは、人を竜にする実験だという。
「……まさか、お姉ちゃんは……!」
「お姉ちゃん……?ああ、カナエはあなたの姉だったんですか!いやあ、これは期待できますねえ、何しろ彼女はたった一つの成功例。お友達の結果も悪くはなかったんですがね、人間の姿を維持できたのは彼女ただ一人でしたから」
思わぬ収穫だ、と呟いてクレーダは小躍りしている。その目の前で、私は拳を握りしめて恨み言を吐くことしかできなかった。
「……許せない……!」
「おや、心外ですねぇ。彼女もお友達も、望んで私の実験に協力してくださったんですよ。ええと、なんだったかな……お友達は『私を探す人から隠れたい』とか、カナエは『妹を倒せる力が欲しい』とか言ってましたかね。詳しくは私も分かりませんが。あ、そういえばあなた生きてますね。もしかして彼女、失敗しましたか?いやはや、残念でなりませんねえ」
「────────」
その一言で、私は完全に黙ってしまった。かなえが竜になったのも、やはり元は私のせいだったのだ。人間の世界だけでなく、龍の世界でさえも、私がいたせいで彼女は狂ったのだ。それを知ってしまった以上、私に怒る資格はない。むしろ、実験に巻き込まれるのも然るべき罰であるように思えた。握った拳が緩み、全身から力が抜けていった。
「おお、協力してくださるので?」
「……」
「ま、抵抗されても勝手にやっちゃいますが。方法は簡単、この"竜の因子"を……これ、人間には見えるんですかね?まあいっか、お身体に合わせてうまい具合に調整したこれを注射すれば、晴れてメルヴィルデビューってわけです。簡単でしょ?ほら、準備もバッチリできています」
「……」
「なんだか急に無愛想ですねえ。まあ事情があるんでしょうが、長くなりそうですからわざわざ聞きませんよ。それじゃあ、ちょっとチクッとしまーす!」
クレーダは私に見せた注射器をそのまま私に向けた。思わず目を背けようとした時、ドアが開く音がしてクレーダの手が止まる。
「待て、クレーダ。そこで何をしている」
「おや、これは珍しい。一体どうしたのです、ヴァイス様」
「……!」
目の前に現れたのは、確かにメルヴィルの王、ヴァイスだった。彼は半ば呆れた様子でクレーダから注射器を取り上げ、机の上に置いた。
「お前は相変わらずその訳の分からない研究を続けてるのか」
「訳のわからない研究、ですか。まあ部外者からそう思われるのは研究の常ですから、否定はいたしませんよ。私としましては、メルヴィルの王として人間の築いた文明に目を向けるべきだとは思いますが」
「ブンメイ……?まあいい、その人間を離せ。彼女に用がある」
「はいはい、後で返してくださいね。わざわざ戦場に出向いて捕らえたのは私なんですから」
クレーダはそう言うとベッドの拘束具を外し、私を解放した。身を起こすと、ヴァイスは真正面に立っていた。ノワールと初めて出会った時のように、じっと私を見つめている。
「……伝令で、カナエのことを聞いた。彼女とリアンの命が、他でもないノワールの手によって絶たれたことも」
「!」
「言葉もない……信じていた味方にかけがえのない姉を殺された君の痛みは、私には推し量ることすら到底できないだろう」
「……」
「だが、私にも君のためにできることはある。そう思って、ここまで来た」
「それは……」
ヴァイスが何を言うかは、何となく想像がついていた。以前に会った時よりも、重く冷たい空気を纏っていた彼は、一呼吸置いて話を続けた。
「イノリ……私とともに来てくれないか。君がノワールのもとに現れてから、戦況は一変した。君には、何か不思議な力があるのだろう。どうか、君の力を私に貸してほしい。私は必ず奴を倒してこの長く続く争いを終わらせる。争いの中で散っていった、全ての命のために……そして、もちろん君のためにも」
「……」
彼の言葉から、彼が私のことを心から思ってくれていることがわかった。彼も、ミカエルを……ずっと離れることなく傍にいた大切な友を失っている。彼は、無責任に同情するのではなく、私に共感し、目的を共にして戦おうとしてくれているのだ。しかし、私はその提案を受け入れようとは思えなかった。
「……ごめんなさい。私は、あなたと一緒には行けない。ノワールがお姉ちゃんを殺したのも、私の命を守るためだから」
「……」
「ここに捕らえられる前、私の命を狙ってきた竜を殺した。その時、私は初めて命を奪う感触を知った。知ったからこそ、私のためにこんな思いをしてくれた彼を裏切れない」
「……そうか。それが、君の答えか」
ヴァイスは大きく息をついて、静かにそう返した。それからさっきよりもずっと冷たい目で、あるいは敵意のこもった目で、私をじろりと見た。
「ノワール……奴が君の大事なものを奪っても、それでも君が奴と共にあると言うのなら……私も、過去の幻想に君を重ねるのをやめよう」
私はこの瞬間、彼に敵だと認められてしまったことを察した。それ以上何も言わず、部屋から出て行こうとした彼にクレーダが声をかける。
「あ、終わりました?それでは実験に移らせてもらいますが、よろしいので?」
「……好きにしろ」
ヴァイスはクレーダの方を見向きもせず、そのまま部屋を去った。クレーダは今にも踊り出しそうなほど嬉々として、私に再び拘束具をつける。そして、ヴァイスに取り上げられた注射器を再び手に取り、私の方にゆっくりと近づいてくる。
「さて、お待たせしました。いや、待っていたのはむしろ私の方ですが。いよいよ実験に参りましょう!」
「……どうして、こんなこと……!」
「どうして……さあ、考えたこともありませんでした。面白いことを言いますね、あなた」
「……!」
「ふむ……強いて言うなら、これが私の使命だから、でしょうか。いやこれは大袈裟な話ですがね、ある日の朝、『そなたは人間の研究をし、竜の世界と人間の世界を繋ぐのだ』って言われて目が覚めたんですよ!嘘みたいでしょ?ところがこれは本当なんですねえ!いつだったかは忘れましたが、そのことだけははっきりと覚えていますよ!」
クレーダはそれを本当に誇りに思っているらしく、嬉しそうに語る。準備の手を休めることはなく、話すと同時に私の服の袖を器用に捲っていたが、何もしないよりはマシだと思って話を続ける。
「それは、誰に言われたの?」
「さあ……それは分かりません。もしかしたらミドナ様のお告げかもしれませんねえ、人間の世界でもそういうことって時々あるんでしょ?」
「ミドナ……」
この龍の世界で広く信じられている、世界を創ったスタンダールとメルヴィルの祖。その信仰はスタンダールだけでなく、メルヴィルの方にも広がっているらしい。
「ま、そういうわけです。じゃあそろそろ行きますよ、えい」
「!」
「はい、終わりです。結構手際良いでしょ?私も根気強く練習しましたからねえ」
抵抗もむなしく、一瞬のうちに竜の因子とやらを打ち込まれてしまった。これから私の身に何が起こるのか、全く見当がつかない。恐怖で身体が少しだけ震えた。
「大丈夫ですよ、もう少し経ったら一旦竜の身体になって、またすぐ人間に戻ります。これは成功しても失敗しても共通の反応なので、まず身体の変化を待ちましょうか」
「……ノワール、助けて……!」
彼の前から逃げ出した以上、その力を頼る資格は私にはないのに、それはあまりに身勝手なのに、彼の名がつい口からこぼれてしまった。
瞬間、建物のすぐ近くに雷が落ち、その衝撃で木々が倒れる音が辺りに響く。クレーダはわずかに驚いた様子を見せたものの、それ以上の反応を示すことはなかった。
◆
テルと別れてから、いくつ拠点を潰したか分からない。何頭のメルヴィルを蹂躙したかわからない。それでも、いのりは一向に見つからなかった。
メルヴィルの城の方に向かって、一頭の竜が飛び去って行くのを見た。遠くて姿はよく見えなかったものの、人間を抱えている様子はなかった。だから無視したが、もしかしたらそいつが連れ去っていたのかもしれない。
そんなことを考えていると、突如黒い雲が空を覆い、雷が木々の中に撃ち下ろされた。
周囲の木々が燃え上がり、すぐに雨に火を消し止められながら倒れる。そして、その奥に隠れていた一つの建物が見えた。これまで潰してきた拠点より、一際大きな建物だ。
「!」
驚いているうちに、雷がもう一発落ちる。いのりが、俺を呼んでいるのかもしれない。いずれにせよ他に探すあてもない俺は、その建物を無視するわけには行かなかった。
建物に近づくと、かすかに声が聞こえた。
「おや、変ですねえ。そろそろ完全に竜の姿になっていてもおかしくないのですが」
「……ノワール……!」
メルヴィルらしくない調子の、ややおどけたような声の後に、力のない人間の声がした。俺の名前を確かに呼んだその声を聞いて、そこにいのりがいると確信した。
「ようやく見つけたぜ、いのり……!」
◇
竜の因子を注射されてしばらく経つが、身体に全く変化がない。しかし、いつ私が私でなくなってしまうか分からない。その恐怖から何とか逃れるために、私はノワールの名をしきりに呼んだ。
「まあそんなに怖がらないでくださいよ。成功すれば人間の姿は残るわけですし、損はないでしょう。しかし……こうも変化がないものですかね、今までの失敗は変化しすぎるものばかりだったのですが」
「……」
「あなたは竜の因子の影響を受けにくい体質なのかもしれませんね、追加でいっときましょうか」
クレーダはそう言うと、すぐに別の注射器を取り出した。その時、建物中に大きな音が響く。直後、一頭の竜が部屋に駆け込んできた。
「で、伝令!」
「何ですか、騒がしい。せっかく今良い所だというのに」
「や、奴が!ノワールが!"死神"が──────」
最後まで言い終わらないうちに、突如現れた黒い影が一瞬にしてその身体を圧し潰し、竜の命を呑み込んだ。衝撃で起こった煙が消えると同時に、黒い影はゆらりと立ち上がる。
「"死神"……!」
「よう……また随分変な場所に隠れやがって。おかげで見つけるのにかなり時間をかけちまった。だが……てめえの負けだ」
ノワールはじっとクレーダを睨んでいたが、クレーダは余裕を失った様子はない。そして、彼は高笑いしながらそばにある棚を横にずらした。
「くく……はっはっは!あなたのような龍を、人間の言葉では火に飛び込む虫、と言うんでしたかねえ!」
「あ?」
「行け!なりそこないども!」
クレーダが声を上げると、棚の奥にあったらしい隠し部屋から大量の生物が押し寄せた。その形は奇妙で、率直に言えば気味が悪かった。顔だけ竜に変異しているもの、人間のような身体の至る所を鱗が覆っているもの、背中に小さな羽が突き刺さったように歪に生えているもの……クレーダが"なりそこない"と呼んだ通り、彼らは全て、それぞれの形を持った"失敗作"なのだろう。人の叫びとも竜の咆哮とも取れぬ声を上げながら、彼らはノワールに一斉に襲いかかる。
「▁▂▃▇██▇▂▃▅▆▇██▂▃▇██▃▂▁!」
「何だこいつら!」
ノワールが爪で一体を切り裂くと、その歪められた命は儚くも崩れ去る。頑丈ではないらしいが、とにかく数が多い。
「ア、ギア、ゴ……!」
なりそこないは、死ぬ間際にそう呻いた。その声は、襲いかかる時の声とは違ってはっきりと聞こえ、「ありがとう」と言いたいことがわかった。
ノワールはそれを聞いて、静かに笑みを浮かべた。
「……なるほどな」
「ふむ、やはり一撃で沈んでしまいますか。まあよろしい、この数ならば押し切れましょう」
「はっ、てめえはもう終わりだぜ」
ノワールがそう言うと、彼の身体の黒色が深くなる。『身体強化』を使ったのだ。彼はまず、クレーダがずらした棚を破壊しながら隠し部屋に押し込み、新たになりそこないが現れるのを防いだ。そして、彼らが痛みを感じるより迅く、ノワールはなりそこないの命を次々に奪ってゆく。クレーダがその驚異的な身体能力に驚き、二度瞬きするうちに、彼は全てのなりそこないを解放した。
「な……!」
「行き着くところまで行った奴を殺すのに、俺が躊躇う理由はねえ。こいつらも……そして、てめえもな」
再び、ノワールはクレーダをじっと睨む。今度はクレーダの表情に焦りが見えた。しかし、彼はわずかに身震いした後、ノワールに向かって怒鳴るように声を上げる。
「しかし!ここでは貴様は私を殺せない!私の命はこの研究所と繋がっているからなあ!」
「……?」
「私が死ねば、この研究所は二秒後に爆発する!そこの人間を守りたければ私をみすみす見逃すしかないのだ!」
「ニビョウ……?何だそりゃ」
ノワールは全く動じず、クレーダにあっけない最期が訪れる。そして、ベッドから拘束具を引きちぎって私を抱え、部屋の壁を破壊しながら建物の外に出る。その直後、クレーダの言葉が嘘ではなかったことがわかった。
「危ねえ、思ったよりすぐ爆発したな」
「……」
ひやりとしたが、ノワールにも私にも怪我はない。奥の部屋に残されていたなりそこない達も、苦しみから解き放たれただろう。
ノワールは私を降ろし、拘束具を完全に外した後、急に黙りこくってしまった。その理由は私にもわかっていた。
彼は不器用で、頑固だ。私の方から気持ちを伝えないと、きっと苦しい思いをし続けるだろう。だから、私は彼に声をかけた。
「……ノワール」
「……」
「お姉ちゃんのことなら、もう平気だよ」
「!」
振り返ったノワールは哀しそうな、あるいは苦しそうな目をしていた。それを見て、足がすくみ、肩が震えた。
「本当だよ……本当、だよ……!」
「……いのり」
「……」
目の前に立っているノワールが、滲んで見える。幸い彼の背が私より高いおかげで、ずっと上を向いていても不自然ではない。
「……俺のことは、許さなくていい。だが、できることなら、俺自身の行いに向き合わせてくれ。償わせてくれ。お前のために……戦わせてくれ」
「……そんなの、ずるいよ……!」
ノワールのその言葉を聞いて、思わず俯いた。ノワールが誰かのために戦うことは、彼の本当の望みから遠ざかることに繋がる。彼が誰かのために戦えば、彼が傷つき倒れることで悲しむ者が増えるからだ。彼は、自らの望みを捨ててでも、自分の行いに向き合いたいと言っているのだ。そんなの、私の方が受け止めきれない。
ノワールも、私にとってはもうかなえと同じくらいかけがえのない存在だ。けれど、ノワールはそう言っても譲らないだろう。私は、また自分のせいで大切な存在の運命を狂わせてしまうのだ。その避けようのない宿命を再び思い出した時、抑えていた涙が雨に混じって地面に落ちた。
「うう……!うあああああっ……!」
「……いのり、帰ろう」
ノワールはそう言って私を抱え、ゆっくりと飛び立った。拠点が近づくにつれて雨は弱まり、帰ってきた時には既に止んでいた。
六章──衝突── 完