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五章

五章──面影──

━━━━━━━━━━━━━━━

気が付くと、私は家の近くに立っていた。奇妙にも空中に立つことができており、部屋の中にいる私を窓越しに見下ろしていた。そこにいた「私」はかなり幼く、同じ部屋にいたかなえに無邪気に話しかけていた。


「お姉ちゃん、何だか嬉しそうだね。何か良いことあった?」

「……ええ、少し」

「へえ、何があったの?」

「そうね……学校で、面白い友達ができたわ」

「そうなんだ!よかったね!」


人並外れた才覚を持つかなえは、それゆえに同年代の相手からは恐れられ、敬遠されがちだった。そして彼女もまた、そんな周囲の人々を避けていた。

そんな彼女にできた友達は、一体どんな人なのだろうか。私はそれが気になったが、「私」の中ではそれよりも大好きな姉に友達ができた喜びの方が勝ったようで、友達については何も聞かないまま、自分のことのように喜んでいた。

突如、見えていた景色がぼやけ、無数の線となって流星群のように駆け過ぎていった。驚いて思わず目を閉じ、しばらくして再び開けると、目の前には一つの教室があり、私はまたも空中に立っていた。教室の中にいたのは、かなえと一人の女子生徒だけだった。


「……ねえ、美雨」

「あ……かなえちゃん。どうしたの?」

「それを聞きたいのは私の方よ。腕、怪我しているんじゃないの?」


美雨と呼ばれたその少女の腕は服で隠れていたが、かなえは確信を持っているような口ぶりだった。美雨はやや困惑したような表情で返事をした。


「えっと、怪我なんて、してないけど……」

「動きで分かるのよ。掃除の時間、机を運んだ時に右腕に変に力が入っていたわ。恐らく打撲かしら」

「……気のせいだよ。怪我なんて、してない」


美雨は少し俯いてそう答えた。しかし、それが嘘であることは外から見ていた私にも分かった。それを聞いてかなえは呆れたようにため息をつく。


「……はあ。まあ、人前で気丈に振る舞うのは結構だけど、無理はするものじゃないわよ。私と関わっていることが負担の原因なら、距離を置いてもらっても構わないわ」

「え……どうしてそんなこと言うの……?」

「あら、違った?少なくとも腕の怪我の原因は、私のようだけれど」

「それは……」


美雨は言葉に詰まってしまった。どうやらかなえは全てを見通していたらしい。美雨が腕を怪我していることも、彼女が必死に隠そうとしていたその背景も。


「私を欺けると思った?……やっぱり面白い子。でも甘く見ないことね。私は、天才よ?」

「それ、自分で言うんだ……」

「ふふ、こういうところで避けられているのでしょうね」


それは、彼女なりの冗談だったのだろうか。それを聞いた美雨にも、わずかに笑顔が戻ってきた。そして、傍観者である私にもようやく話が見えてきた。かなえは優秀であるが故に一部の同級生から妬まれ、避けられていたのだろう。そして恐らく、そうした負の感情をぶつける標的として、彼女の友人である美雨が狙われたのだ。


「無視している相手と関わっている人に危害を加えて、孤立を加速させる……そんな幼稚な手に乗るのは、面白くないわね」

「……」

「だけど、それで何も悪くないあなたが傷つくのはもっと気分が悪いわ」

「かなえちゃん……ありがとう。でも私……今は大丈夫だから」


また、目の前の光景がいくつもの細い線に変わり、私の周りを駆け抜けてゆく。この記憶は、私のものではなかった。これまでに起こった出来事から、これが夢であることはすぐに分かったが、私の無意識の中にもないはずの光景が私の中で呼び起こされているというのは、これまた奇妙だった。

そのようなことを考えていると、また私は家の近くに浮かんでいた。私とかなえの部屋に、母が受話器を持って入ってきていた。


「……かなえ、電話」

「……」


母の声は、冷たかった。これはきっと、私の力が母に知られてしまった後のことなのだろう。かなえが何も言わずに受話器を受け取ると、母はすぐに部屋を出ていった。受話器から、こちらにも微かに声が聞こえてきた。


「もしもし、かなえちゃん?美雨がどこに行ったか知らない?」

「……美雨のお母さん?知りませんが……家にいないんですか?」

「そうなのよ、昨日の夜からずっと帰ってきてないの」

「!」

「学校にも電話してみたけど、いないみたいだし……心配だわ」

「……私、探してみます。失礼します」


美雨の母から話を聞いたかなえは一度目を見開き、すぐに忙しなく身支度を整え始めながら電話を切った。そして部屋にいた何も知らない「私」に、一言残して家を出た。


「……いのり。ちょっと、いなくなった友達を探しに行くわ」

「え?うん、気をつけてね」


突然のことで、「私」はつい生返事をしてしまった。そして、これが人間の世界での彼女との最後の会話となった。

私の記憶にある穴を埋めてゆくように、この夢は次々と場面を変えている。今度も、家を出るかなえや無言で食事の支度をする母、そして「私」が歪んで、線となって散ってゆく。

私は、家を飛び出して雨が降る中を走るかなえを見ていた。やがて彼女は人気のない駐車場で集まっている数人の少女たちのもとにたどり着いた。彼女たちはかなえを見て、わずかに焦っているような顔をした。


「の、野田蔵さん?」

「……ねえ、あなたたち。美雨を知らない?」

「え、し、知らないけど」

「……そう、彼女をいじめているあなたたちなら何か知っていると思ったのだけれど」

「!」


一人がひどく驚いた顔をした。美雨をいじめていること、そしてそれを通してかなえの孤立を図っていることは、かなえにはバレていないと思っていたのだろう。


「その様子だと気付いてないと思っていたようね?まあ、ついでに言っておこうかしら。私のことは別に避けても構わないけれど、私の周りの人たちにこれ以上危害を加えるようなことをしたら……捻り潰すから」


かなえは鋭い目つきを変えないまま、少女たちにそれだけ言い残して去っていった。つい先ほどまで好きな音楽や新しくできたレストランについて話していた彼女たちは、かなえが去った直後には彼女に気付かれるきっかけを作った犯人探しを始めていた。

かなえは街の中を駆け回ったが、美雨は見つからない。思い切って街の外に出て、森の中へと入ってゆく。


「……美雨?」

「あ……!」


森の入り口には、確かに美雨の姿があった。しかし、かなえの姿を見るやいなや、彼女は森の中へと逃げ出してしまった。かなえは美雨を追って走り出し、今にも姿を見失いそうな彼女に向かって声をかけた。


「待って!どうして逃げるの……!」

「……かなえちゃんにも、見せたくないものがあるから」


かなえは必死に後を追うが、追いつくことができない。街の中を走り回ったことで、彼女の優れた体力にも限界が来つつあった。

この森は、果てしなく長い。まるで、どこか別世界に繋がっているようだった。美雨はとうとうかなえの視界からいなくなってしまった。息を切らし、森をさまよう彼女が、


唐突にこちらを見た。


「ねえ、私をずっと見ているのは、誰?」

━━━━━━━━━━━━━━━

「!!」


急に目が覚め、勢いよく体を起こす。全身が緊張し、鼓動がかなり早まっているのを感じた。辺りを見回すと、ノワールの姿がなかった。城の外へ目を向けると、以前よりも空が激しく歪んでいるのが見えた。それは、何だかとても不吉な予兆のように思えた。

部屋を出ると、ノワールは入り口から少し離れたところでテルと話をしていた。彼はやや驚いたような表情をしていたが、何を話していたのかは聞き取れなかった。

ノワールのもとへ近づくと、彼もこちらに気付いたらしく、テルと一緒に近くまで飛んできた。

「起きたか、いのり」

「うん、おはよう。ねえ、空がかなり歪んでない?」

「おや、本当ですね」

「……空が?そうは見えねえが……まだ寝ぼけてるんじゃねえか?」


城の外をちらりと見たテルが同意した一方、ノワールはしばらく目を凝らして空を見てもあまりそう感じないらしく、怪訝そうな顔をしていた。


「あ、それで……さっきまで何か話してた?」

「ああ、戦況とこれからの作戦についてな。後で他の奴らにも話すつもりだが……」

「……?」


何か私に言いにくいことがあるのか、ノワールは話すのを少し躊躇っている様子だった。しかし、テルに促されて重そうに口を開いた。


「ミカエルが戦死した」

「!」

「あいつと交戦した"朧"の奴らの話を聞く限りでは、イチカの攻撃が致命傷になって"朧"が撤退した後に力尽きたらしい。……まあ、吉報ではあるんだろうが……嬉々として伝えるのも違う気がしてな」


その知らせを聞いて、急に未知の感覚が強烈に襲いかかってきた。つい先日話した相手が、もういない。それは、争いがもたらす死に対する実感だった。敵のことでもこのような気持ちになるのに、争いによって親を失ったノワールは、一体どれほどの思いでここまで来たのだろうか。そして、ミカエルといつも一緒にいたヴァイスは、今────


「……テル、皆を呼んでくれ」

「承知いたしました」


テルはノワールの指示を受け、城内を飛んで回って呼びかけを行った。ノワールは、さっきの続きを話そうとはしなかった。あとは全体の場で聞けということなのだろう。龍たちが彼のもとに続々と集まってくる。当然ながらその中にはイチカやクロガネの姿もあった。彼らは私の姿を認めると、口々に挨拶をした。


「……イノリか」

「あ……おはようございます」

「よう、嬢ちゃん。ノワールの機嫌は直ったか?」

「ええ、まあ……多分?」

「ははっ、はっきりしねえ答えだな!ま、当分近づかねえ方が良さそうか」


ふと周りを見ると、龍が粗方集まったようで、ノワールが話す用意を済ませて辺りを見回しているところだった。直後、やや賑やかだった場が一瞬にして凍ったように静まり返る。ノワールはその様子を見てから話し始めた。


「……さて、急に集めちまって悪いが、二つほど話しておきてえことがある。良い知らせと悪い知らせが一つずつだ。……まずは、良い知らせから」

「……」


龍たちは固唾を飲んで彼の話を聞いていた。良い知らせは、やはりミカエルの打倒についてのことだった。知らせを聞いた彼らの反応は様々だったが、ほぼ全ての龍の中に大きな驚きがあったことは確かだった。

徐々に辺りが騒がしくなってきたところで、テルが龍たちを制止する。そして彼が促しているのを見て、ノワールは話を続けた。


「……ミカエルは強大な敵だが、同時にヴァイスにとって大事な友だ。あいつが死んだことで、ヴァイスも変わっちまうだろう。良い知らせとは言ったが……油断はできねえ」

「ったく、変なところで真面目な奴だ。大々的に発表して、素直に士気を上げる情報として使えばいいのにな」


ノワールの言葉を聞き、クロガネは小さな声でそう言った。与える情報を絞り、より効果的に士気を高める。それが名君の一つの形であるとするならば、それに逆行するノワールは、今も密かに彼の望みに向かって進んでいるということだ。

しかし、やはり私は納得できない。黙ってそのようなことを考えているうちに、ノワールは次の話を始めた。


「……それで、悪い知らせの方だが……俺らはメルヴィルの数を見誤っていた」


先の戦いで、メルヴィルとスタンダールの数はほぼ同じだとノワールは言っていた。数で有利を取る作戦が、伏兵の存在によって潰されてしまったのだ。

作戦の根幹に関わる重大な失敗の報告に、辺りのスタンダールは再びざわつき始めた。しかし、やはりノワールは悪びれる様子を見せなかった。


「……数で優位に立つことはできねえし、これ以上の撤退も許されねえ。だから、ここからはどうあっても全戦力のぶつかり合いになる。メルヴィルの本拠地、太陽の昇る方向へ……可能な限りの大部隊で進軍する!」


ノワールの作戦は、あまりに強引だった。言ってしまえばそれは特攻ではないかと思ったが、彼はいつも通り最後に一言付け加えた。


「だが……これまで通り、死ぬことは許さねえ。危険を感じたらすぐに離脱しろ。以上だ。出撃の準備を進めてくれ」


話を終えて戻ってきたノワールに、イチカが声をかけた。心なしか、彼は苦しそうな様子だった。


「……ノワール」

「あ?イチカか……どうした?」

「つかぬ相談だが……しばらくの間、戦いから身を退かせてもらいたい」

「!」


"朧"を率い、常に前線で戦ってきたという名将の、戦線離脱の申し出。それは、あまりに突然のことだった。彼は相変わらず眼を閉じたままだったが、彼の面持ちは真剣そのものだった。ノワールは少し考えた後、聞き返した。


「……そいつはまた随分急な話だな。なんかあったのか?」

「ああ……少し、戦う理由を見失った」

「……そうか。俺は構わねえが、"朧"はどうするんだ?」

「"朧"についてはミクに一任してある」

「……わかった。事情は分からねえが……無理はさせられねえからな」

「かたじけない……必ず、戻るつもりだ」


離脱を認めたノワールに感謝の意を示し、イチカは飛び去っていった。しかし、その表情は曇ったままだった。

事実上ミカエルを討った張本人である彼もまた、先の戦いで何かを失ったのだろうか。私が考えても仕方のないことを考え込んでしまっていると、唐突にノワールが声をかけた。


「いのり、大丈夫か?」

「えっ?」

「何か悩んでるようだし、もしかしたらお前も戦線から離脱してえのかと思ってな」


ノワールは冗談交じりにそう言った。この戦いから、逃げ出したい。そんな気持ちは確かにあったが、逃げ出したところで行くあても、帰りたいところもない私は、そうしようとは思わなかった。


「……大丈夫、ちょっと考え事をしてただけ。準備はできてるよ」

「そうか、じゃあそろそろ出発するぜ!」


ノワールの背中に乗ると、彼は勢いよく飛び立った。城外へ出る瞬間、風が頬を撫でながら吹き抜ける。普段なら心地よく感じたであろうその風は、どういうわけか妙に重いような気がした。

準備を終えた龍たちから順にノワールの後に続き、太陽の昇る方向、すなわち東へと進軍する。しかし、その数は少し減っているように見えた。

作戦の雲行きが怪しくなっていること、そして、多くの龍から慕われながら「名君」と「暴君」を支えたイチカが戦線を離脱したこと。それらが原因で彼らの士気が下がっているのは明らかだった。

目的地の近くまで来たところで雨が降り始めた。視界が悪くなり、ノワールは軽く舌打ちをする。


「チッ……仕方ねえ、この辺りなら前に制圧した砦がある。そこにしばらく留まるぞ」

「はっ!」


一気に攻勢に転じることに決めた以上、それをメルヴィル側に悟られる前に可能な限り距離を詰めなければならない。そのような状況の中で早速足止めを食らい、ノワールの様子からは焦りが見えていた。


「……なあ、いのり」

「何?」

「雨は止んでねえが、目的地にはもうすぐ着く。向こうにでけえ森が見えるだろ?」


ノワールが目を向けた方を見てみると、確かに森が少し離れた所に見えた。辿り着くまでにそれほど時間はかからないだろう。しかし、大きさはかなりのもので、仮に全く戦闘を起こさずに進めたとしても一日や二日程度でこの森を抜けるのは難しそうだった。


「うん、あそこが目的地?」

「ああ。『ミドナの森』なんて呼ばれてる。こっからはだいぶ遠いが、お前を連れて龍の世界に戻ってきた時、最初に来た森もその一部だ」

「そうなんだ……」


ミドナの森。相争う龍と竜を創り出した祖の名をいただくその森は、長きにわたる戦いの中で一部が荒れ果ててはいたが、それでも未だ多くの木々が立ち並び、雄大な景色を作っていた。


「あの森には、メルヴィルの奴らが作った拠点がある。俺は今から出発して、後から来る奴らのためにいくつかそれを奪っちまおうと思う」

「……また、独りで?」

「……ああ」


そう返事をした時、ノワールはやや言いづらそうな様子だった。彼の望みを納得して受け入れられない私が止めると思ったのだろう。しかし、姉がいなくなった時の自分の気持ちを思い返してみると、たとえ私が納得できなかったとしても、私は彼を止めようとは思えなかった。


「わかった」

「いいのか?てっきり止められるもんだと思ってたぜ」

「……でも、私も行きたい」


意外そうな顔をしていたノワールに、私もわがままを言った。ノワールに万一のことがあれば、スタンダールは敗北する。私がそれを止められる自信はないが、いないよりは良いはずだ。それに、自身の望みのためにノワールが望まぬ孤独の中にいるのだとしたら、私だけでも近くにいたい。それが、龍でない私が彼のためにできる数少ないことだと思うから。


「……わかった。ただ……危険を感じたらすぐに逃げろ」

「うん……そうする」


ノワールは深刻な表情をして、私の願いを聞き入れた。きっと何かしらの理由をつけて彼は断ろうとするだろうと思っていたので、今度は私の方が少し驚いてしまった。ノワールはそれ以上何も言わず、私に背中に乗るよう促した。

他の龍に森の拠点を奪ってくると告げて砦を抜け、森へと飛び立ってゆく。森の中に入ると、雨が木々に防がれてこちらまで降ってくる量が少なくなり、少しだけ速く移動できるようになった。

木々の間から大きな建物がわずかに見えた瞬間、視界の隅にあった一本の木が不自然に揺れた。ノワールは気付いていない様子だったので、咄嗟に声をかけた。


「ノワール、気を付けて!」

「あん?……っと!」


突如、木の揺れた方から二つの影が姿を表し、ノワールめがけて飛びかかる。ノワールは間一髪で回避し、地上に降り立った。そして同じく着地した影を見る。


「あ……!」

「……生意気。そのまま喰らっておけば一思いに死ねたのに」


私たちに奇襲を仕掛けたのは、かなえと、彼女が連れている竜だった。確か、彼女はリアンと呼んでいたような覚えがある。

ノワールの背中から降りて彼の方を見ると、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。一方で、リアンはどこか上の空といった様子で、じっとノワールの顔を見つめていた。


「久しい、というほどでもないかしらね。いのり、そしてノワール……次に会った時は殺すと言ったはずよ」

「……」


相変わらず、かなえの発する殺気は相当なものだった。静かに、しかし強く憎悪を湛えるその目で睨まれると、自然と身が竦む思いがした。

私が怯んでいるうちに、リアンがおもむろにノワールに近づく。そして、そのまま彼に声をかけた。


「……ねぇ、ノワール様。私、ずっとあなたを待ち焦がれていました」

「……そうかよ」

「まぁ、意地の悪い。これ以上は言わずともお分かりのはずなのに」


リアンがそう言うと、ノワールは無言で彼女の頭を叩き割らんばかりの勢いで殴りつけた。ドン、と鈍い音がして、彼女の首が殴られた方向に勢いよく曲がった。流石に驚いてノワールをたしなめようとした。


「ちょ、ちょっと、ノワール……!」

「……チッ、相変わらず悪趣味だな」


リアンの方を見ると、怒ったり苦しんだりする様子は一切なく、ただ恍惚とした表情を浮かべていた。頭の辺りは赤く腫れ、無事ではないことは明らかだったが、それでも何事もなかったかのように彼女は一言だけ呟いた。


「あぁ……たまらない」

「……はあ。相変わらず、理解できないわ。ほら、早く戻ってきなさい」


かなえは半ば呆れたようにそう言って、リアンを数度叩く。はっとしてリアンは表情を戻し、ゆっくりと私の方を向いた。


「あら、失礼。挨拶が遅れました。私はリアンと申します。見ての通り……痛みを感じない……いえ、快感に変えられる体質の竜ですの」

「……」


リアンは私に向けてそのように名乗った。その直前、彼女は礼をするように軽く頭を下げた。その素振りは竜らしくなく、妙な違和感を覚えた。

それに、もし彼女の言葉が事実ならば、彼女の体質はスタンダールの能力に匹敵するほど特異なものだ。

一目見ただけではノワールが警戒するほど戦闘能力に長けているとは到底思えない、穏やかでお淑やかな竜だ。しかし、至る所に不可解な点がある以上、油断はできない。


「さて、リアンの挨拶も済んだことだし……死んでもらおうかしらね」

「……!」


かなえは一度しまっていたナイフを再び取り出し、こちらに向かって駆け出した。彼女が何の迷いもなく私を殺そうとしていることは、私から見ても明らかだった。回避するために身構えると、横にいたノワールが私の方に近寄りながら叫ぶ。


「はっ!させるかよ!」

「それはこっちのセリフよ!リアン!」


かなえがリアンに声をかけると、リアンはノワールに急接近し、そのまま彼を押さえつけた。ノワールは力いっぱいに抵抗するが、彼女が振りほどかれそうな様子はない。


「……『身体強化』!」


ノワールが叫ぶと、彼の身体の黒色が深くなり、蒼白い瞳は微かに赤くなった。彼はリアンの腕を掴み返し、投げ飛ばすようにして振り払う。リアンは起き上がるとすぐに再びノワールの手を取って、彼を組み伏せた。


「まぁ……相変わらず乱暴なこと。でも……無駄です。私にとってはそれが心地良いのですから……何度でも、味わわせて?」

「チッ、鬱陶しい……!いのり、逃げろ!」


私はノワールに気を取られてしまってナイフを避けきれなかった。私の命を奪わんとする刃が僅かに左頬を掠める。突進してきたかなえに押されて私は体勢を崩し、転がるようにして右に退避した。


「痛ッ……!」

「……本当に、往生際が悪いわね」


ノワールが動けない今、私は自分の力でかなえを倒さなければならない。しかし、私にはそれを実行する自信も覚悟もなく、逃げることしか考えられなかった。

ため息をつくかなえに背を向け、一気に駆け出す。かなえから逃げながら彼女とリアンを分断することが、今の私にできる精一杯のことだった。


「あははっ!敵前逃亡なんてみっともないわ!愚鈍なあなたにはお似合いだけれど……出来の悪い妹がこれ以上恥の上塗りをしないように、私がすぐに殺してあげる」


かなえはナイフを握り直して追いかけてきた。当然、単純に逃げるだけではすぐに追いつかれてしまう。どこかで彼女の裏をかき、ノワールがリアンを振り払う時間を稼ぐ必要があった。


「どうして……!」

「どうして?そんなの、あなたが一番わかっているはずよ。私があなたの命を狙う理由も、もう、昔のようには戻れないことも」


必死に走りながら、姉として憧れ、慕ってきた相手をなんとか出し抜こうと思考を巡らせている自分が、心のどこかで嫌になった。

ふと後ろを振り返ると、思っていたよりもずっと近くまでかなえが接近していた。先ほどより雨足が強くなって地面がぬかるんでいたのに、彼女はその悪条件をものともしない速さで迫っていた。


「……!」


私は雨を一瞬だけ強めるよう願い、雨水が滝のごとき勢いで目の前に降ってきた。かなえは怯んで足を止め、舌打ちする。その隙に木の陰に隠れ、やっとの思いで彼女の視界から消えた。

息を殺しながら、乱れた呼吸を整える。額と目から流れてきた水が頬の傷口に沁みて、少し痛んだ。

恐る恐るかなえのいた方を向くと、彼女はその場から動いていなかった。奇妙にも、激しい怒りと憎しみを胸の内に抱えているとは思えないような、優しく穏やかな笑みを浮かべているように見えた。


「……ふふ、いいわ。あなたがそこまで逃げ回るつもりなら……叩き潰してあげる。この、竜の力で!」

「……え?」


かなえはそう言うとナイフを投げ捨てておもむろにしゃがみ、胸の辺りに手を添えた。直後、彼女の肌が急激に白くなり、メルヴィルのものとほとんど変わらない色になった。さらに腕も、足も、竜のものによく似た姿に変わってゆく。数秒の間に、私の記憶の中にあったかなえの姿は目の前から消えてしまった。

これが、私の憧れた姉の末路。親から見放され、憎しみに狂った成れの果て。そして、それは全て私が引き起こした────────


「……そんな」


思わず、声が漏れる。とても処理しきれない感情と事実が、一斉に襲いかかってくる。変貌を遂げたかなえは人の形を留めてこそいたが、そこにかつての面影は全くなかった。


「いのり、聞こえているのでしょう?あなたは過去の私に随分縋っていたようだけれど……もうその時の私はいない。心の拠り所を奪われる気持ちが、最後に少しは分かったかしら?」

「……」

「……じゃあ、行くわ。私に見つかるまでの間、言い遺したいことでも考えていなさい」


かなえはぽつりとそう呟いて駆け出し、視界に入った木々を手当たり次第に薙ぎ倒して進んだ。私はただ、その様子を眺めていることしかできなかった。

十秒も経たないうちに目の前の木が倒され、変わり果てたかなえと向かい合った。


「少し早すぎたかしら……まあいいわ。最後に言い遺すことは?」


かなえは冷たくこちらを睨みつけながら言った。鋭く尖った彼女の爪は、獲物を前に舌なめずりする獣のようにぎらついた殺気を放っている。

これ以上逃げ切る力はない。そして、ノワールも助けに来ることができない。私に打てる手は、もう何もない。


「……私は、まだ……死にたくない」


それでも、私はまだ死にたくない。声に出してから、もう一度強く願った。私の力は、不可能を実現させることはできない。青天の霹靂は起こせない。けれど、私にできるのは祈ることだけだ。


「……死にたくない?ああ、本当に、最後の言葉まで心の底から腹立たしい……!」

「……!」


かなえが真っ直ぐに突進してくる。そのあまりの速さに思わず目を背け、屈んでしまう。次の瞬間、ずしゃ、という音が辺りに響いた。心臓を貫かれたのだろうか。しかし、不思議と痛みを感じない。

瞑っていた目をゆっくりと開けると、四方に巨大な石の壁のようなものがそびえ立っていた。壁の上方を見上げると、雨雲の隙間から歪んだ空が少しだけ見えた。


「え……何、これ……!?」

「……」


地中から、巨大な壁が現れた。それは、私には引き起こせないはずの不可能だった。龍の世界に来てから、明らかに私のこの力は強くなっている。皮肉にも、私が最も嫌い、憎んでいるこの力が。


「今は、この力に頼るしかない……!」

「……今更、何が起ころうが驚かないわ。壁が出てきたなら、壊してあなたを殺す。それだけよ!」


「なんだ、あれ……!?」


いのりの姉が、竜の力を得た。そして、追い込まれたいのりを、突如地中から現れた巨大な壁が覆った。目の前で起こったことの全てが、にわかには信じられないものだった。しかし、驚いてばかりいるわけにもいかない。一刻も早くリアンを振り払っていのりを救い出さなければ、結局いのりは殺されてしまうだろう。


「……かなえちゃん」

「……?」


組み合っているリアンが、いのり達のいる方をちらりと見て、ぽつりと呟いた。あの人間の名前だろうか。

リアンが視線を一瞬外した隙に抜け出そうとしたが、あと一歩のところで押さえ込まれてしまった。


「ぐ……!」

「まぁ、なんて無粋な方。今更あなたがどう足掻いても間に合わないのに、わざわざ隙を突いてでも私から逃れようとするだなんて……」

「……はは、間に合わない、か」


遠慮のない言い方に、思わず苦笑する。しかし、この状況で笑みが浮かんだ理由はそれだけではなかった。

リアンはそんなことを知るよしもなく、こちらに向かって艶やかに微笑みかけて言った。


「はい……ですから、もう少しだけここで楽しんでいましょう?」

「悪いがそれはできねえな!」

「まあ……!また拒まれてしまいました。私を拒んだところで、あの子は救えないのに……」

「アテならあるぜ──────『身体強化』ッ!」

「!」


直後、鼓動が一気に早まり、全身に力が溢れ出しそうなほどみなぎるのを感じた。同時に、腕のあちこちに乱雑についた噛み跡のような古傷が疼き出し、そこに血潮のごとき赤色が浮かび上がる。

二度目の『身体強化』を使う。それは、スタンダールの能力として安全に扱える範疇を大きく超えた行為だ。使用後の反動は避けられないだろう。それでも、いのりを救う望みがあるのなら、使わない手はない。


「傷の色が、変わった……!?」

「もう出し抜く必要もねえ、追いつけるもんなら追いついてみな!」


ほとんど際限がないと感じるほど、とめどなく湧き上がる力に任せて勢いよく飛び立った。風を切り、いのり達の目前まで一気に接近する。『身体強化』を使った自分のさらに倍、普段の四倍の速さで迫り、ちょうどその時穴の開いた壁の代わりになるように着地した。


「ノワール……!」


壁の一面に穴が開いたことで起こった土煙が晴れた時、最初に目に映ったのは、かなえの白い身体ではなく、ノワールの黒い身体だった。

死神のローブを思わせるその漆黒はさらに深みを増し、瞳は先ほどより赤色が濃くなっていた。


「……どうやら、またしても失敗みてえだぜ、かなえ」

「……!」

「はっ……やっぱりそうかよ」


かなえは一瞬驚いたような表情を浮かべた後、ノワールを睨みつける。その一方で、彼はまるで自嘲するように笑っていた。ほどなくして、彼を追いかけてきたらしいリアンがかなえの傍に飛んで来た。


「かなえ様……取り逃してしまい、申し訳ございません」

「……この状況では、撤退もできそうにないわね。仕方ないわ……刺し違えてでも、両方殺す!」


かなえはそう叫ぶと、駆け上がるようにしてリアンの背に乗った。リアンはそれに合わせるように飛び立ち、上空から壁に侵入して私たちの頭上の位置をとると、壁の中を覆い尽くさんばかりの量の炎を吐いた。

ノワールはすかさず私が自身の陰に隠れるように移動し、炎を真正面から受けた。


「ノワール!」

「……ったく、笑っちまうほど効かねえなあ!」


ノワールの身体には、火傷一つなかった。さらに彼はその場で旋回して突風とともに雨水を散らし、炎を全て消し止めた。

ノワールは驚くリアンをよそに壁を思い切り攻撃し、私を連れて外に出た。


「一体何を……?」

「リアン、上!」


かなえがリアンに向かって叫ぶ。私もつられて上を見ると、壁の上部が崩れたことによって、無数の落石が彼女たちに襲いかかろうとしていた。

リアンは急速に降下しながら回避を試みたが、数発だけ命中し、傷を負って地上に戻った。


「く……!」

「上手くいったみてえだな。これで地の利も消えた」


ノワールは、城にいる時と比べて妙に冴えていた。それが彼の隠し持っていた力なのか、『身体強化』による作用なのかは私には分からなかった。


「さて、リアン……覚悟しな!」

「……!」


命を刈り取る凶弾のように、ノワールの身体はリアンに向かって接近する。死神の爪が、その白竜の命に迫るその寸前、彼の目にもう一つ白い影が重なった。


「……え」


かなえは、リアンを庇うようにして彼女の前に駆けつけ、ノワールの攻撃を受けた。ノワールの爪はそれだけでは止まらず、リアンの身体も貫いた。彼女たちの雪のように白い身体が、赤黒く染まってゆく。

ノワールは目を見張りながら、既にほとんど握り潰した二つの命から手を離す。それと同時に、かなえは口から血を吐いて倒れ込み、リアンも彼女を包み込むようにしてその場に倒れた。

私は、その光景を受け入れることが出来なかった。優しかったお姉ちゃんとの記憶が一斉に想起され、一つ一つ、次々と真っ赤に塗り潰されてゆくような思いだった。


「……全く、慣れないことはするものじゃないわね」

「かなえ、様……どうして……!」

「……あなたまで、私の行動に理由を求めるの?」

「……だって……!」

「簡単なことよ。私はこれ以上、自分の拠り所を奪われたくなかったの……どうやら、また守れなかったようだけれど」

「……」


血に塗れたかなえの身体に、リアンの目から溢れ出した涙が一滴だけこぼれ落ちる。その涙は、周りの血から色を吸い上げて赤く滲み、雨水とともに流れ落ちた。

かなえはゆっくりと手を上に差し出し、リアンの目元を拭う。


「……泣いているの?私も、柄にもないことをしたばかりだけれど……らしくないわね」

「……ごめんなさい」

「そういえば、あなたの涙は初めて見たわね、美雨」

「……いつから、気付いて……!」

「……竜の世界で、初めて、あなたに会った時からよ。……わざわざ興味もないノワールに近づいたり、体質だと言って痛みを堪えたり……あなたは私に正体を悟られないように、随分あれこれとやったみたいだけれど……全てお見通しよ」

「……私、ずっと隠していたのに……!」

「今度こそ、私を欺けると思ったのかしら?本当に、面白い、子……」


リアンの顔に手を添えたまま、かなえは眠るように目を閉じた。少し経って、その手はリアンの顔から離れて地についた。それから、彼女たちが言葉を交わすことはもうなかった。

私は、その様子を黙って見ていることしかできなかった。元を辿れば自分が引き起こしたことなのに、受け入れることもできないのに。私のせいで、彼女たちは死んだのに。

彼女たちを殺したのは、ノワールだ。けれど、それも私を守るためで、やはり彼を責めることなどできない。

それでも今だけは、私は彼の顔を見たくなかった。ノワールの方を向くこともせず、森の奥へ向かって駆け出した。


「いのり!」


ノワールに呼び止められ、立ち止まる。しかし、振り返ることはできず、そのまま再び走りだした。


「いのり、待て!ぐっ……!」


後ろの方で、ノワールが地面に膝をつく音が聞こえてきたが、今度は立ち止まらなかった。

少し痛むほど強い雨の中、とめどなくこぼれ落ちる涙を手で拭いながら、何かから逃げるように無我夢中で走り続けた。


五章──面影── 完

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