三章
三章──救援──
◆
翌朝、急に寒さを感じて目を覚ます。これまではやや暑いぐらいだったが、急に空気が冷え込んできた。涼しいと感じる程度の気温を少し通り過ぎたような具合だ。
恐らく、この世界には季節がない。まるで誰かが世界を動かしているかのように、気候は急に変化する。
「……」
改めて、この世界にはまだわからないことがたくさんある。いつも空が歪んでいることもその一つだ。特にこれについてはじっくり腰を据えて考えてもわからないだろう。
しかし、かなえがここにいる。それだけははっきり分かった。昨日はひどい態度を取られたが、彼女のことを考えれば仕方がない。私は、そのことが分かっただけでも嬉しかった。
間もなくノワールも目を覚まし、身体を起こしながら私に話しかける。
「いのり、もう起きてたのか。今日はまた寒いな」
「うん、おはよう。寒いのは苦手?」
「いや……そういうわけじゃねえが、こうも急に変わると気味が悪い」
ノワールも私と同じような感覚を覚えているのは、少し意外だった。私の予想とは違って、龍の世界でもこうした変化は珍しいことなのかもしれない。
「それより、今日も……というか、これからしばらくは毎日戦場に出ることになる」
「……そうなんだ」
「ああ。俺の作戦上、どうしても長期間の連戦を強いられる」
ノワールはやや言いづらそうに話した。それは作戦として成立しているのかという疑問はあったが、口を挟むことはせずに頷いた。
「悪いな。いきなり連れ出して、負担をかけちまって……」
「今更何言ってるの。それに、戦場に出る理由は私にもあるよ」
「……姉貴のことか」
「この問題は、私が解決しないといけない。……そもそも可能かどうかさえわからないけど」
戦場に出なければ、きっと彼女には会えない。次に会ったときには殺すと言われたが、私はそんなことで優しかった姉を取り戻すのを諦めたくはなかった。
「……じゃあ、急いで準備するぞ。作戦の説明もしなきゃならねえからな」
私の言葉を聞いてやや安心したのか、ノワールはしおらしい様子を見せるのをやめてそう言った。
身支度を済ませて城の外に出ると、今日は昨日とは違い、多くの龍が集まっていた。その中から何とかノワールを見つけ、彼のもとに駆け寄る。
「……いた!やっと見つけた……」
「よし、これで全員揃ったな。テル、お前はどうする?」
ノワールはテルの方を向いて、彼に声をかける。テルは少し考えるような仕草をしてから、彼の問いかけに答えた。
「私は城に残りましょう。"朧"が今夜、城に戻ってくるという話をお聞きしたので、迎える用意をせねばなりません」
「イチカ達が?あいつら、見かけねえと思ったら城を出てたのか……」
相変わらず城内の事情を全く把握していないノワールを見て、テルはため息をつく。
「……それで、作戦の説明は?」
「ああ、そうだな……クロガネが姿を消しやがった後、俺達スタンダールはこれまで幾度となく撤退を重ねてきた」
「……」
話し始めたノワールの声に、全ての龍が耳を傾ける。その場の空気が一瞬で厳かなものに変わった。
「それは、一つには命を守り、戦いの後の世界にできるだけ多くの龍が残るため。そしてもう一つの目的は……数で有利な状況を作るためだ。今、スタンダールの数はメルヴィルの二倍。本当はもう少し様子を見てえ所だが……これ以上の撤退は城を危険にさらしちまうからな」
「……あの、ノワール様」
非常に言いにくそうな様子を見せながら、テルが口を挟む。しかし周りの龍は止めようとはしない。恐らく、彼と感じるところが同じだったのだろう。
「何だ?」
「その……数で押し切るというのが、作戦なのですか?」
「ああ。我ながら大した作戦だぜ」
「……」
そのあまりに単純な作戦に、龍達はみな絶句していた。起死回生の策だと自慢げに語るノワールに対し、テルはため息交じりに指摘する。
「ノワール様……メルヴィルの陣営には強力な竜が複数おります。それこそ数ではどうにもならないような、圧倒的な力の持ち主が。彼らの相手はどうするのです?」
「そうだな、数だけじゃどうにもならねえか……」
「分かっていただけましたか」
「……よし、そいつらは全部俺が倒す。それで文句ねえだろ」
「……はあ……このアホ君主……」
ノワールの一言で、テルは説得を諦め、城に戻ってしまった。
ノワールはいつも以上に横暴だった。しかし、私には彼が無理に暴君を演じているようにしか見えなかった。
親しいテルの意見を一蹴したノワールの、胸の中に抱えているもの。彼がよそ者の私にだけ見せてくれた、葛藤と覚悟。それが彼の一挙手一投足から垣間見えて、胸が締め付けられるような感じがした。
「……じゃあ、まず三部隊に分かれてくれ」
龍は指示を聞き、すぐに三列に並んだ。ぴったり同じ数で分かれており、感心した。ノワールは分かれた部隊の一つに、北の方を指しながらさらに指示を出す。
「そのうちの一つ……お前ら、向こうの山の陰に潜んでろ」
「仰せの通りに」
先頭の龍が返事をし、飛び立って後ろの龍たちを先導しながら北に向かっていった。
ノワールはそれを見た後、残りの仲間の方を向いて、半ば叫ぶように声を張り上げる。
「残りの奴らは俺から離れて、左右から進んでくれ。迫ってくるメルヴィルを包囲する!行くぜ!」
「おおーっ!」
龍王の号令に応え、雄叫びをあげた龍は半分ほどだった。しかし彼にそんなことを一切気にする様子はなく、私に背中に乗るよう促す。
「いのり、待たせて悪いな」
「ううん……行こう!」
私が背中に乗ったことを確かめ、ノワールは飛翔する。瞬間、強い風が正面からぶつかって思わず目を閉じた。
他の龍達の後をついていったはずなのに、気付けばノワールが先頭に出ていた。仲間を先導しながら、先に出発させた部隊の待つ山へと向かってゆく。
しばらくして目を開けると、目的地の山が見えた。ごつごつした岩肌が露出しており、木々が点々と生えているような、やや荒れた山だった。
山に近づいて辺りを眺めると、メルヴィルの軍勢がこちらに向かってきているのが遠くに見えた。竜の白い鱗が集まり、巨大な雲のような形を作っていた。
「……いたぞ、メルヴィルの部隊……」
「ねえ、何だか少なくない?」
多いことに変わりはないのだが、以前襲いかかってきたものに比べて竜の数は減っているような気がした。ノワールはそれを聞いて、少し笑みを浮かべる。
「奴らも余裕が無くなってるんだろうな。反撃には絶好の機会じゃねえか!」
「うん……そうだよね」
メルヴィルの数が減っているのは事実なのだから、ノワールの言う通りなのかもしれない。しかし、それでも私は何か言葉にしがたい違和感のようなものを感じていた。
「あの腕の傷……!間違いない、『死神』だ!」
「チッ……いのり、悪いが少し離れてくれ」
「わ、わかった……」
メルヴィルの方も敵の存在を確認し、ゆっくりと警戒しながら山へと近づいてくる。
ノワールは私を山の上に降ろし、近づいてくるメルヴィル達を睨みながら待ち構える。
その緊張を突き破るように、突如一頭の白竜が飛び出し、通り道の木々をなぎ倒しながらノワールに襲いかかる。
「!」
「ノワール!」
多数のメルヴィルに阻まれ、ぎりぎりの所まで姿が見えにくくなっていたが、ノワールは紙一重でその竜の攻撃を回避した。ノワールが反撃に出ようとする頃には、彼は既に十分な距離を取っており、反撃はかなわなかった。
「……見つけたぞ、ノワール。そして、イノリ……」
「ったく、今回こそ大した奴はいねえと思ってたが、また面倒なのが紛れてやがる……!」
襲いかかってきた竜は、やはりヴァイスだった。何本もの木にぶつかっても身体には傷一つなく、涼しい顔をしている。
彼が姿を現した直後、メルヴィルの軍勢は横に大きく広がり、巨大な壁のようになってノワールの方へ迫ってきた。
「何だ何だ!こいつら何する気だ!」
「……ノワール、今度はミカエルに遮られる心配もない。この争いを終わらせる戦いをしよう」
ノワールは呆れたようにため息をついた。そして、身体を翻してあろうことかヴァイスに背を向ける。
「何のつもりだ?」
「まあ、何というかな……」
ノワールは生返事をして私の方に目配せした。この前のように、合図を出したら乗れということだろうか。
私が小さく頷いたのを見て、ノワールは言葉を続けた。
「ちょっと身体をほぐそうと……今だ!乗れ!」
「!」
話の途中で突然合図を出し、ヴァイスが怯んだ一瞬の隙にノワールは駆け出しながら飛び立つ。
私はそこに飛びかかり、何とか背中に掴まることができた。心の準備ができていた分、以前よりはいくらか楽だった。
後ろをちらりと振り返ってヴァイスの様子を見ると、彼は一切動いていなかった。それを不思議に思いながら前を向くと、その理由がわかった。
先ほど迫ってきたものより大きな龍の壁が、眼前にまで迫ってきていた。
「わあ!」
「……おい、これ……!」
私を背負いながら強引に壁を突破するわけにもいかず、ノワールは仕方なく元の場所に戻る。私たちは、包囲するより先に包囲されていたのだとそこで理解した。
ヴァイスは余裕からか、不敵な笑みを浮かべつつノワールに声をかける。
「貴様の考えていることなど手に取るようにわかる。大方、数の差で押し切ろうとしたのだろう」
「……なあ、今、メルヴィルは全部で何頭いる?」
ノワールは珍しく焦っているようだった。確かに、背後から迫ってきていた竜はかなり大勢だ。このような伏兵がメルヴィルの数に入っていないならば、数で押し切るという作戦そのものが崩壊する。
一方でヴァイスは一切余裕を損なわない様子でノワールの問いかけに答えた。
「勝負はこれから行う王同士の一騎討ちで決する。今となっては数など些細なことだろう」
「答えろ。俺らにとっては重要なことだ」
ヴァイスには既に作戦を見抜かれていると踏んだのか、数が重要であると包み隠す様子はノワールにはなかった。
ヴァイスは少し間を置いて、ノワールの問いかけに応える。
「十万……およそ十万だ」
「……!おい!全員聞こえるか!今すぐ撤退しろ!メルヴィルの数は……俺らとほぼ同じだ!」
無数の竜に阻まれながら、ノワールは輪の外にいる仲間に急いで呼びかける。
多くのスタンダールがその声を聞いて撤退したが、比較的遠くにいる伏兵には声が届いていないようだった。
「撤退か……しかし、貴様は逃がさない」
「んなこたわかってらぁ!チッ……ここまでするかよ……!」
ノワールは呆れるような様子でいながらも、まだ焦りを隠しきれていない様子だった。
ヴァイスは壁になっている竜たちに指示を出し、徐々にこちらに近づかせた。彼らが近寄るたび、辺りを走る緊張がさらに強さを増す。
「いのり……こうなりゃ仕方ねえ。できる限り引きつけて一点突破する」
「で、でも……それにしてもかなりの数だよ」
ノワールは敵に聞こえないくらいの小さな声で私にそう言った。
しかし時間を稼いでいる間に増援まで到着してしまい、竜の壁はかなり高く厚くなっていたため、いくらノワールでも一点突破さえ厳しいように見える。
「でもこうするしかねえだろ!いいか、しっかり掴まってろよ……!」
ノワールは静かに、なるべく相手に感づかれないように、地を蹴って駆け出す用意をした。
ヴァイスの立つ少し上の所を睨んでいる時に、突如その場にいた誰のものでもない声が聞こえてきた。
「……『模倣』」
その微かな声が聞こえたのとほぼ同時に、大きな雷が私とノワールの真横を突っ切り、その進行方向にいた竜を一匹残らず吹っ飛ばした。
わずかに遅れて辺りに轟音が響き渡り、私は驚いて耳を塞いでしまった。ヴァイスもノワールも呆気に取られ、目の前で起こっていることが信じられない様子だった。
「何が起こったんだ……!?」
「『模倣』……!?いや、そんなはずはねえ……!」
竜は一瞬で数多の同胞の命を焼き払ったその雷に怯えながらも、壁に空いた穴を埋めるように隊形を整える。
その直後、再び同じ声が聞こえてきた。
「『模倣』」
今度は炎が真っ直ぐに竜たちに襲いかかり、竜の壁に再び穴が空く。
その後何度か声が聞こえてからは、声は竜の悲鳴にかき消され、聞こえなくなってしまった。
やがて煙の奥から一頭の黒龍が姿を現したときには、何百という単位では収まりきらない数の竜の亡骸が積み上がり、辺りの竜の数はおよそ半分になっていた。
「な、何だ、あの龍……!」
「馬鹿、あの"龍の輪郭を持つ地獄"を知らんのか!」
メルヴィルたちの方から、その龍を恐れる声が次々に上がってくるのが聞こえてきた。
胸に大きな古傷があり、ノワールの蒼白い瞳とは全く違う、緋色の目を持つ彼は、自ら作り出したその凄惨な光景を一切気にすることなく、ノワールに向かってにっと笑って声をかけた。
「……よう。久しいな、ノワール」
「て、てめえ……!今までどこ行ってやがった!」
「え、どこ行ってって……?」
つい口を挟んでしまい、慌てて引っ込んだ。
その様子を見たノワールは一度息をついて私に説明する。ひどく興奮しているようだったが、それが喜びから来ているのか、怒りから来ているのかは分からなかった。
「……こいつはクロガネ。行方不明になってた先代の王だ」
「え……!」
「そう、スタンダールの第五百十一代の王、クロガネとはこの俺のことよ!……だがノワール、積もる話はまた後だ。敵さんは随分お怒りのようだぜ?」
そう言われてヴァイスの方を向くと、確かにその表情には怒りをはらんでいるように見えた。
「クロガネが生きているだと……?そんなこと、あっていいものか!」
「はは、ひでえ言いようだな」
しかしその直後、どういうわけかヴァイスは急に落ち着きを取り戻していた。彼は最後にノワールの方を向き、不服そうな表情をしながら言葉を吐いた。
「……まあいい。ここは一度身を引こう。クロガネが生きていたのならば、こちらも父上を蘇らせるまでだ」
「何……!?」
「姉さん……エイスが、血の滲むような努力の末に『蘇生』の力を身につけた。一度きりのこの力で、父上を蘇らせる」
「な……てめえ、ヴァームルクを蘇らせるってのか!?」
「へえ、『蘇生』でヴァームルクを、か……」
「……だがこの争いの決着は、ノワール……貴様との一騎討ちでつける。それは、決して変わらない……」
それだけ言い残して、ヴァイスは他の竜とともに飛び去った。
クロガネはそれをじっと見つめながら、私を乗せて帰還しようとするノワールを呼び止める。
「なあ……山の向こうの龍、残ってるだろ?」
「あ?ああ、そうだ。あいつらも連れてこねえとな」
仲間を連れ戻しに飛び立とうとするノワールを制止し、クロガネはやはりこちらを向かないで言った。
「いや、俺が行く。お前はそこの嬢ちゃんと一緒に帰ってな」
「おい、一体何するつもりだ?」
「何もしねえよ。ほら……邪魔しちゃ悪いだろ?」
「邪魔……?って!」
ノワールは私とクロガネを何度か交互に見て、それから急に慌てた様子でクロガネに反発した。
「てめえ、いのりはそんなんじゃ……!」
「ノワール、いきなりどうしたの?」
「……何でもねえよ。ほら、行くぞ。さっさと乗れ」
ノワールは普段よりぶっきらぼうにそう言って、それっきり私の方を見なかった。クロガネはそんなノワールの様子を見て、声を立てて笑っていた。
「ははっ!お似合いだと思うんだがな!じゃあ俺は後で戻るぜ!」
「チッ……相変わらず憎たらしい奴だ」
クロガネが飛び去っていったのを見て、ノワールは悪態をつきながらも城に向かって出発する。
今日はノワールは何も言わず、どういうわけか気まずそうにしていた。その空気に耐えられず、私の方から彼に話しかけた。
「ねえ、そういえば……クロガネさんの『模倣』ってどんな能力なの?」
「……『模倣』は、一度見たものを完璧に再現できる能力だ。さっきも、雷とか炎とか、やりたい放題だっただろ」
「うん……」
ノワールの言葉にうなずくと、彼はさらに説明を続けた。どこかうらやましいと思っているような話し方だった。
「それだけじゃねえ。当然、『身体強化』も使えるし、メルヴィルの戦い方や高い身体能力まで再現できちまう。そんな優れものだ……」
「それは……」
改めて聞くまでもなく、『模倣』は群を抜いて優れた能力であると分かった。彼の自信に溢れた豪快な性格は、そうした実力から来ている部分もあるのかもしれない。
話が終わり、再び沈黙が訪れそうだったので、もう一つノワールに質問をした。
「そうだ、それと……ヴァイスのお姉さんはメルヴィルなんだよね?」
「まあ……恐らくそうだろうな」
「『蘇生』の力を身につけたって言ってたけど、メルヴィルもスタンダールみたいに能力を使えるの?」
ノワールは少し考え込んでから、恐らくだが、と前置きをして私の問いに答えた。
「不可能じゃねえはずだ。ヴァイスの奴も言ってたように、血の滲むような努力が必要だがな」
「血の滲むような努力って……」
「さあ、詳しくはわかんねえ。だが、スタンダールにしても同じだぜ。イチカだってそうだしな」
そう言われて、確かに納得がいった。他のスタンダールやメルヴィルの動きを見た今、彼の動きの速さは並外れていると改めて感じていた。
「イチカの場合はやっぱり……戦場での経験だろうな。だがヴァイスの姉貴がそんなに戦場に出て活躍してるとは思えねえ。別方向の努力だろうな」
「その辺りは割と何でもいいんだ……」
「ま、天の気まぐれってやつなんだろ。ミドナサマ、とかいうしょうもねえ迷信と一緒だな!」
ノワールはにやりと笑ってそう言った。私は祈ることでいろいろなことを乗り切ってきたので、信仰を嘲笑うような彼の言い方に少々むっとしたが、わざわざ口に出すほどでもなかった。
あれこれと話しているうちに、城が見えてきた。入り口の近くに立っていたテルに迎えられ、中へと入って行く。
◇
また、争いを終わらせる機会を逃してしまった。仕方なかったとはいえ、敵の前で撤退を選択した自分が情けないように感じた。
「……すまない。先に戻っていてくれ」
「はっ、それでは失礼いたします!」
仲間たちが飛び去っていくのを見届けてから、日の傾いた空を見上げて物思いにふける。
私は、自分が思っているよりも焦っているのかもしれない。なんとしてもこの争いを自分の手で終わらせたいという思いだけが先行しているような気がした。
「……」
やや激しく吹き抜ける風の音を聞いていると、突如目の前に数十頭のスタンダールが姿を現した。
彼らは徐々にこちらに近寄り、私との距離を詰めてきた。私が態勢を整えようとして、後ろに引き下がろうとしたところに、緋色の瞳の黒龍が飛んできたのが見えた。
「クロガネ……!」
「おう、間に合って良かったぜ。さて……これでさっきまでのかわいい我が弟と同じ立場に置かれちまったわけだが」
余裕に満ち溢れた様子で、スタンダールの先王はこちらを見て話す。事実、私は圧倒的に不利だった。
貧弱なスタンダールの単純な包囲であったなら、いくらでも打つ手があった。しかし、クロガネが相手となれば話は全くもって違う。
一点突破で逃げ切ろうとすれば、その間にクロガネの攻撃を受けてしまうだろう。そうなればまず無事ではすまない。
「……まあいい。貴様が蘇った父上と戦えば……貴様を愛している姉さんも悲しむだろう。それを避けるためにも、私が倒しておくべきだ」
「ははっ!気を遣わせちまって悪いな!」
まずはクロガネの注意を引いて一騎討ちに持ち込み、多勢に無勢の状況の解消を目指すことにした。
「……クロガネ。貴様との一騎討ちを所望する」
「断る」
「な……!」
「アホかお前。度胸は褒めてやるが、生憎それで包囲を解いてやるほど俺は甘くはない」
確かに圧倒的に有利なこの状況でわざわざ一騎討ちを受ける理由はないのだが、ノワール以上に好戦的だった彼の性格からして望みは十分にあったはずだった。
目論見がものの一瞬で崩れ去ってしまい、他に打つ手がなくなってしまった。
龍たちはさらにじりじりと距離を詰めてきており、負傷してでも逃げ切らなければならないと覚悟を決めたとき、もうすっかり日の落ちた夜空を一頭のメルヴィルが飛んでいるのが見えた。
「……ァ……ス……!」
「……?」
「何だ、あいつ?」
微かに声が聞こえてきたが、誰のものかは分からない。クロガネも気がついたらしく、その竜のいる方向をじっと見ていた。
直後、その竜はこちらに急接近し、それに伴って声は一気に大きくなって耳に飛び込んできた。
「ヴァイスーッッッッ!!!」
「!」
その声は、最も聴き慣れていた親友のものだと今になってようやく分かった。
その竜────ミカエルは、半ば垂直落下するようにして私の真後ろのスタンダールめがけて突っ込んだ。
「ミカエル!」
「やああーっと見つけた!ほら、城に戻るよ!」
ミカエルが差し出した手を握り、彼女が龍の輪に突っ込んで空いた穴の方向へ飛び立つ。
しかし、クロガネもそう簡単には撤退を許さなかった。
「そうはいくかよ!全軍、攻撃開始だ!」
彼の指示とほぼ同時に、百を優に超える数の龍が突撃を開始する。ノワールの指揮とは違う、己の命を顧みない攻撃で、速さも気迫も段違いだった。
「もう、うっとうしいなあ。ヴァイス、戦える?」
「あ、ああ。もちろん」
「いいねえ!それじゃ……一匹残らず、ブチ殺しちゃおうか」
ミカエルは空中にいるにもかかわらず、地を蹴るようにして駆け出す。
そのまま月の光に照らされる流星のごとく鮮やかに、そして強かに、他の全てのメルヴィルを凌駕する速さで進路上の龍を全て葬り去る。
「……!」
「何ボーッとしてんのさ!……ま、別にもう少しぐらい見惚れてたっていいけどね!」
ずっと一緒にいたが、ミカエルが戦うのを間近で見たのは初めてだった。普段の様子からあまりにかけ離れた彼女の様子に、思わず言葉を失う。
真っ白だった彼女の身体は、いつしかスタンダールの返り血で灼け落ちる星のように赤く染まり、それでもなお彼女は戦場を駆け続ける。
私が動き出せないでいるうちに、ついに残った龍はクロガネ一頭となり、目を見張っている彼の前にミカエルとともに立ちはだかる。
「いや……驚いたな。大したもんだ」
「何、ボクは普通のメルヴィルと違って一発貰えば致命傷だからね。さっきまで油断してたような奴らに、負ける道理なんてどこにもありはしない!……ってわけさ!」
「……はは!こいつは手厳しいな!」
二対一の状況に追い込まれているはずなのに、クロガネからは一切焦りを感じなかった。ミカエルもそれを不思議に思っていたのか、笑顔のまま話を続ける。
「ねえ、あんた今だいぶマズいんじゃないの?」
「そう見えるか?……『模倣』」
「!」
クロガネが能力を使うと、クロガネも、龍たちの亡骸も消えてしまっていた。どうやら逃げられてしまったらしい。
「ちぇー、あれで先代の王サマって……卑怯だなあ」
「ミカエル……ありがとう」
私がそう言うと、ミカエルはこちらを向いてにこっと笑みを浮かべた。先ほどまでの殺気は一切ない、普段の朗らかな親友の姿が戻っていた。
「こんなのどうってことないよ!……そんなことより、どうしてボクを城に残して出て行ったわけ?」
「え、ああ、それは……」
ミカエルに止められることなくノワールと戦うため、などとは口が裂けても言えず、つい答えに詰まってしまった。
たじろぐ私を見て、彼女はやはりにこやかな表情を崩さず話を続ける。
「ま、ヴァイスも無事だったしいいけどね」
「すまない、迷惑をかけた……」
「ただし次の訓練は倍だけどね」
「それは……勘弁してくれないか」
「えっへへー、こっちは許してやんない!」
月が天頂近くまで昇った夜空を、ミカエルに手を引かれるようにして渡り、私たちは城に帰って行く。
◆
城の中でしばらく待っていると、クロガネだけが帰ってきた。
彼は帰ってくるなりノワールの方へ行き、大きな声をあげた。
「ノワール、悪いな!山の向こうの部隊、全滅だ!」
「……は?」
ノワールも流石に驚きを隠せず、唖然としていた。その場にいた誰もが分かっていたことだが、その数秒後には彼の表情は一変し、兄に向かって思い切り怒りをぶつけようとしていた。
「てめえ……話がちげえじゃねえか!」
「いやあ、伏兵と俺とでヴァイスを包囲したまではよかったんだがな!助けに来た奴に壊滅させられちまった!」
一方で、クロガネはかなり楽天的だった。ノワールが目の前で、私が見たこともないような形相をしているにもかかわらず、笑って話を続けていた。
「……助けに来た奴ってのは?」
「雌竜だったな。確かヴァイスはミカエルって呼んでたか」
「!」
実際に戦っている様子を見たことはなかったが、立ち回りの速さや持っている殺気から、彼女が相当な実力の持ち主であることは何となく分かっていた。
しかし、一つの部隊、それもかなりの数のものを壊滅させるほどだとは思っていなかったため、驚いた。
ノワールの方を見ると、呆れてものも言えないというような様子だった。
「……」
「そう怒るなよ、俺はあいつらの力はしっかり見てるし問題ねえ。あいつらは創造主、ミドナのもとへと還っていった。それだけだ……」
「ふざけんじゃねえ!」
とうとう堪忍袋の尾が切れたらしく、ノワールが大声をあげて吠える。流石にクロガネも驚いたのか、わずかに身体をのけぞらせた。
「クロガネ……無茶してえならてめえだけで勝手にやれ。他のスタンダールを巻き込むんじゃねえ!置いていかれた奴の気持ちは……てめえだって知ってるはずだろ」
「……何の話だ?」
クロガネの返答に、ノワールは失望したように深くため息をついた。そして顔を上げ、再びクロガネの方を睨む。
「……もういい。テル、後は頼む」
「……かしこまりました。ごゆっくりお休みください」
「クロガネ……てめえは俺の知ってる兄貴じゃねえ。生きてるってことも、てめえに関する何もかも、俺は信じねえからな!」
捨て台詞を吐き、ノワールはさっさと独りで部屋に戻ってしまった。その場に残された龍たちはしばらく呆然としていたが、すぐにクロガネの帰りを祝う準備に取りかかった。
当のクロガネの方を見るとこちらもやや呆れたように、はあ、と息をついていた
「やれやれ、全くかわいい弟だぜ」
「あの……大丈夫ですか?」
準備を手伝うこともできないので声をかけてみると、クロガネはあんなことがあった直後であるのに笑みを浮かべていた。
「ああ、あん時の嬢ちゃんか。そういや見ねえ顔だな」
「あ、その……私はついこの間、ノワールに連れられて龍の世界に来たんです」
私がそう言うと、クロガネは目の辺りをぴくりと動かし、それからどういうわけか、声を立てて笑った。
「はは!嬢ちゃん、中々面白いこと言うなあ!」
「え……?」
「ま、何でもいいや。そうだな……それならせっかくだし、昔のノワールの話でもしてやるか!」
そういえば、幼少期のノワールの話は聞いたことがなかった。その時から今の彼のような性格だったのか、少し気になったので頷いた。
クロガネはそれを聞いてにやりと笑って話し始めた。
「あいつは昔から無茶しがちな性格でな、いや、俺が言えたことじゃねえんだが……そうだな、独りで山奥に進んでいって、はぐれて次の夜まで帰ってこなかったこともあったな」
「ああ……やんちゃだったんですね」
「はは、そうだな。帰ってきた時にはすげえ熱があって……あれでも王の子だからな。城中大騒ぎだった!懐かしいな!」
そんな話をしばらく聞いていると、イチカがこちらに向かって飛んでくるような勢いで近づいてきた。
彼は眼を閉じたままだったが、珍しく慌てているらしいのが何となくわかった。
「おう、イチカ!久しぶりだな!」
「クロガネ!今まで一体どこに……!」
「ったく、ノワールだけじゃなくてお前までそれかよ。あ、そうだ。もう眼は開けてもいいぜ」
「……そうか、そうだな……!」
イチカは私の知らない何かを噛み締めるように眼を開けた。相変わらず、眼を開けた時の彼には何か言い表しようのない威圧感のようなものがあり、全身がぴたりと固まるような感覚を覚えた。私が硬直したのを見ると、彼は再びゆっくりと眼を閉じてしまった。
「それで、今まで戻ってこなかったのはちょっとした用があったんだ。わざわざ言うようなことじゃねえよ」
「……ならば、これ以上の詮索はしないでおく」
「そうしてくれ。……さて嬢ちゃん、イノリだったか?」
「は、はい」
「……ノワールを、よろしく頼む」
「え?」
クロガネが中々動けないでいる私を呼び、一呼吸置いてから発したその急な言葉に、思わず困惑してしまった。
「俺はどうやらだいぶ嫌われちまったらしいしな。昔は事あるごとに兄貴兄貴って呼ばれて慕われたもんだが、戻ってきてみりゃこの有り様だ」
「あ……あの!」
何だか結婚前の挨拶みたいで気恥ずかしくなり、勇気を出して一歩踏み込み、クロガネの話を遮る。
「だからこんなこと言えるのは嬢ちゃん、あんたしか……って、何だ急に?」
「その、私とノワールは、そんな感じじゃないというか……」
話している最中に、顔が赤くなるのを自分でも感じた。クロガネは私の言葉を聞いてしばらく沈黙した後、ふっと笑って言葉を続けた。
「……まあいいや。何にせよ仲良くしてやってくれ」
「わ……わかりました。あ、そろそろ部屋に戻りますね!」
「……クロガネ、そうイノリを困らせてやるな」
「はは、悪い悪い!って、そうだイチカ、"朧"も日の出には出発だろ?お前も休んどきな!」
そのままイチカとクロガネに別れを告げ、ふらふらとノワールのいる部屋に戻っていった。知らないうちに、身体も心も疲れてしまっていたようだった。
「……いのりか」
「ノワール、大丈夫?」
「ああ。心配かけて悪いな。もう寝るか?」
「うん……今日はもう疲れちゃった」
微かにクロガネの帰還を祝う龍たちの声が聞こえてくる中で、そう言ってすぐに眠りについてしまった。今夜は、ノワールが城の外に出ていくことはなかった。
三章──救援── 完