一章
一章──試練──
城の中に入ると、多くの龍が出迎えに来ており、思わずたじろいだ。これまで色々なことに振り回されるばかりであまり気にしていられなかったが、このように手厚い待遇を受けているノワールを見ると、彼は多くの龍を統べる王なのだと改めて実感した。しかし、さっきの龍が言っていた通り、龍たちはあまり人間を信用していないようで、私に向けられる視線にはどこか冷たさを感じた。
廊下を歩いていると、急にどっと疲れが押し寄せてきた。身体が重くなったように感じ、足取りがふらつく。
「いのり……どうした?」
「い、いや、何でも……」
「随分疲れているようですね、無理もありません。ここに来たのは初めてでしょうし、ましてやノワール様と行動を共にするなど、拷問もいいところですから……」
龍は同情するような口ぶりでそう言った。それを否定できないのか、ノワールは黙って歩みを進める。部屋に着いた時、龍から少し休むかと聞かれたが、ただでさえ世話をかけているのに余計に時間を取るのも忍びないので断った。
「あの、私は大丈夫だから、お話を聞かせてください」
「おや、そうでしたか。では早速……」
「……なあ、いのり。本当に今からこいつの話聞くのか?」
「え?」
ノワールは唐突に口を開いてそう言った。当の龍が目の前にいるからか、何やら言いにくそうな様子だったが、どうやら彼は乗り気ではないらしい。
「まあ必要なことだろうし、止めはしねえが……夜が明けるぜ?」
「それって……」
「ノワール様、何かおっしゃいましたか?」
私の言葉を遮って、龍はノワールに声をかける。ノワールは観念したように、その場で静かに姿勢を崩して身体を休め始めた。
「……いや、何でもねえ……手短にな」
「善処いたします」
龍は軽く微笑むような表情をして、咳払いのような仕草をした後、話を始めた。
「さて……遅くなりましたが、まずは名乗らせていただきましょう。私はテルと申します。幼い頃からノワール様のお側におります。人間でいうところの執事、世話役……その辺りでしょうか」
「長いお付き合いなんですね」
「腐れ縁だがな」
「……ええ。この暴君にものを言える龍は今やほとんどおりませんので、私がしっかりせねばという思いでここまで来てしまいました」
何となく叩いた軽口に対して手厳しい返しを喰らい、ノワールは舌打ちをして黙ってしまった。ここで、さっき抱いていた疑問が再び頭の中に浮かんできた。
「……あ、そうだ! さっきも疑問に思ったんですけど、人間の世界のことって龍の世界に知られているんですか? 城とか砦とか、こう言うとよくないかもしれないですけど、龍っぽくないものもありますし……」
「ええ、以前はしばしばこの世界に迷い込む人間がいたのです。彼らからの伝え聞きで、ある程度のことはわかっています。逆に、人間の世界に戻った者たちによって龍のことが伝えられている、ということもあるようですね。城や砦については……後ほどお話ししましょう」
「そうだったんだ……あれ、でも人間は信用してないって」
私がそう言うと、テルはさっきと同じ暗い顔をした。一体何がきっかけで、人間と龍の間にこれほどの断絶が生まれてしまったのだろうか。
「……それは最近のことなんです。そうですね、そちらからお話ししましょうか」
「……はい」
「ノワール様が手短にと仰ったので端的にお話しすると、このアホ君主が連れてきた人間が裏切り、メルヴィル……敵側についたというだけのことなんですがね」
「手短にしすぎだろ! 俺も考えなしに連れてきちゃいねえよ!」
ノワールはいきなり声を上げて反駁した。テルは全く非礼を詫びるようなことはせず、呆れたように息をつく。
「さて、本当にそうでしょうかね……」
「大体アホ君主って何だよ、俺は……そう、頭が悪いように見せかけて活躍の機会をうかがってんだ! 確か人間にもいただろ、そんな奴!」
「ノワール、それ自分で言ったら意味ないんじゃ……」
ノワールは私の言葉を聞いて、はっとしたようにその場で一瞬固まった。そして、明らかに調子を落とした声で呟く。
「……それは、そうだけどよ」
「……まあ、これでも王様ですから、王を裏切って敵側についたということで、人間を信用するのはやめようと……した途端にこれですよ」
そう言って、テルは深く溜息をついた。世話役にすらここまで愛想を尽かされたような態度を取られている王は、歴史上にもそうはいないだろう。一体ノワールは今まで何をしてきたのだろうか。
「……いのり、何だよその目は」
「いや、何でもないけど……」
ノワールの方を見ていると、彼は私の方をじろりと見つめ返してきた。彼のことは一度放っておいて、テルの話を聞くのに集中することにした。
「……その、そんな話の後に聞きづらいんですけど、争いについて教えてほしくて……」
「ああ、その辺りのことは気にしなくても構いませんよ。メルヴィル側も既に知っているはずですので。争いについては……まず龍の世界の歴史についてお話しする必要があります。我々龍は、元は人とあまり変わらない姿をしていました」
「そうなんですか!?」
いま目の前にいる龍たちは、映像で見るような作り物と比べれば小さく感じるものの、それでも人間よりは遥かに大きい。彼らが人間と同じような姿をしていたとは、到底信じられなかった。
「ええ。一時的に龍の姿になれる力を持つ、龍人という存在だったのです。城や砦はその時代に作られた遺産で、便利なので現在も使っているというわけです」
「へぇ、初耳だな」
「この話、ノワール様にはもう五度目のはずですが?」
「逆にお前は何度目だとかよく覚えてんな」
テルはとうとう痺れを切らし、ノワールに向かってもうあなたは黙っていてください、と言い放った。ノワールは怒ることもなく、その場で目を閉じて眠り始めた。二頭の間ではいつものことなのだろうが、傍で見ていると何だかハラハラする。
「……時の流れの中で、龍人は変わってゆきました。黒い龍になる者と、白い竜になる者で対立が起こったのです。どちらが優れているのかという、至極単純なことで……」
「それが、スタンダールとメルヴィル……?」
「ええ。各々が特殊な能力を持つ黒龍スタンダールと、能力を持たぬかわりに身体能力に優れる白竜メルヴィル。この二勢力の争いが激化するにつれ、龍人は戦いに向く龍の姿でいる時間が長くなり、ついには人としての側面を失い、常に龍の姿でいられるように進化したのです……本当にそれが進化なのかどうかは、私にはわかりかねますが」
「……」
スタンダールは特殊な能力を持つという。恐らく、ノワールの『身体強化』は彼の能力なのだろう。私の「願いを叶える力」も、彼らならば受け入れてくれるのだろうか。
「そのまま争いは続き、現在はどちらの王も五百十二代目です。メルヴィルの先王ヴァームルクが倒れ、ヴァイス……彼とは既に一度会ったそうですね。その竜が王位を継いだのです。これが、争いの大まかな経緯と現状です」
「なるほど……」
五百十二代、争いが続いている。龍の寿命は分からないが、もし人間と同じぐらいだったとしても果てしなく長い時間だ。ヴァイスが禍根を残さないように争いを終わらせようとしていたのも頷ける。
話が一段落したところで、ふと疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ところで……ミドナ様って何ですか?」
「え?」
「さっきメルヴィル達とノワールの話を聞いていた時、そんな名前が出て……」
「ミドナ様はこの龍の世界と二種の龍人を創ったとされる、伝説上の龍です。はじまりの龍とも呼ばれています。現在も生きておられて、死後の龍を救う、あるいは罰する役割を果たしているとか」
「それは……すごいですね」
私のイメージよりも龍の世界は発展しているようで、驚いた。かなり原始的な世界を想像していたが、王位や数の概念に加えて宗教的な観念もあるらしく、中世から近世あたりの人間の世界に近いと言った方がより正確な気さえした。
「ま、あんま真に受けんなよ。こんなの迷信だぜ、迷信」
「またそんなことを……あなたが信じないにしろ、多くの龍が信じていることを迷信だと言い張るのが王として良くないことだとなぜわからないのですか……」
いつの間にか目を開けていたノワールが、また口を挟む。彼の一言がテルに火をつけてしまったらしく、彼らはまた口論を始めてしまった。
「大体、勇敢に戦って死んだら救われるだとか、根拠もねえことが浸透しちまってるからどいつもこいつも死に急ぐんだよ! 俺からしちゃ邪魔で仕方ねえ!」
「仮に事実でなかったとしても、この信仰は士気の向上に役立っています! 王として、戦局を優位にするためにミドナ様の信仰は重視すべきでしょう!」
ノワールの言うことにも一理あるとは思ったが、とにかく言い争いを止めねばならないと思い、今度ははっきりと遮る。
「あの! だ……大体わかりました。ありがとうございました」
「……見苦しいところをお見せして申し訳ない。わからないことがあったらまたお聞きください。それでは、私はイチカ殿にお伝えすることがありますので」
「イチカに? 何かあったか?」
「ええ、少々頼み事をする必要が生じまして。私だけで結構ですので、お部屋でお休みください」
「……そうか、わかった。いのりの部屋はあるか?」
テルは私の方をじっと見て、何か考え事をしているような様子でしばらく黙った後、まあいいでしょう、と呟いてから答えた。
「生憎、現在空いているお部屋はありません」
「はあ!?」
「それぐらいノワール様も把握しておいてくださいよ……まあ、いくら人間とはいえ、来客を地べたに寝かせるわけにもいきません。イノリ、あなたさえよければ、ノワール様のお部屋で休んでいただこうかと思うのですが」
「そうしてもらえるならありがたいけど……」
人間を信用していないと言われていたのに、ノワール自身の意見を聞かずに彼の部屋にあっさりと通されたことに驚き、かえって彼のことが心配になった。もはや寝首をかかれる心配すらされていないのか、はたまた何があってもノワールならば大丈夫だろう、と信頼されているのか。困惑する私をよそに、ではそのように、と言葉を残し、テルは去っていった。
「……いのり、大丈夫か?」
「え? うん……それよりノワールは私が部屋にいてもいいの? 勝手に決められちゃってたけど……」
「まあ他に考えがあるわけでもねえし、別に構わねえよ。疲れたから俺はもう寝るぜ」
「そう、なら私もそうしようかな」
誰かと一緒に寝るのは久しぶりのことだった。姉が行方不明になる少し前までは、二段ベッドで姉と寝ていたが、それも随分昔の話だ。ふとそんなことを思い浮かべたせいで、考えないようにしていたことをつい考えてしまった。
捜索は打ち切られてしまったし、ましてや私は人間の世界の外に出てきてしまった。私はもう、恐らく姉とは会えないのだ。そう思うと、急に寂しさが溢れてきて、目から頬の辺りまで駆けていったような感じがした。
「……お姉ちゃん……」
「……」
いつの間にか、強い眠気を感じていた。先ほどまでは何ともないようだったが、やはり疲れていたのだろう。少しずつ目が閉じてゆく。その最後の瞬間、外へと飛び立ってゆく龍の姿が見えた気がしたが、もう一度目を開いて確認する気は起きなかった。
翌朝、目を覚ますとノワールの姿がなかった。慌てて部屋から出ると、入り口のすぐそばに彼は立っていた。
「お、おはよう……」
「ああ、起きたか。テルから話があるらしいぜ。呼んでくるから、ちょっと待っててくれ」
「え……」
私に向けた話とはいったい何なのだろう。少し不安に思いながらも、支度を済ませてしばらく待った。足音が聞こえてきたので扉を開けると、ノワールがテルを連れて来ていた。
「朝早くから申し訳ありませんが、少々大事なお話を」
「……それは?」
「昨夜もお話ししましたが、多くの龍は人間を信用していないため、あなたをこのまま城に置いておくのは難しいのです」
「まあ……それはそうですよね」
むしろ一日泊めてもらえたことの方が意外だったので、自分が城から出なければならないと言われても特に驚きはしなかった。荷物を何も持って来ていないため、途方に暮れることになってしまうが、ノワールの助けを借りられればどうにかなるだろう。
「つまり、城に留まるためにはあなたが信用できる人間であることを証明する必要があります」
「え……? えっと、その、どうやって?」
私が出ていくという話になると思っていたが、城に留まるための話が始まり、つい困惑してしまった。それに、自分が信用に足ることを証明するといっても、そんな方法は全く思いつかない。
直後、一頭の龍がこちらに向かって来ているのが見えた。眼を閉じているようにも見えるが、まだ遠くてはっきりと見えない。
「あ、いらっしゃいましたね」
「あ……? あれは、イチカか?」
「はい。私が協力を依頼しました」
「一体何するつもりだ、お前」
どうやらノワールもよく事情を知らないらしい。テルに問いかけた彼は、どこかいつもより真剣な様子だった。
「簡単なことです、力試しをするんですよ。イチカ殿に見極めていただけば間違いないはずです。彼の眼は本物ですから」
「まあそうかもしれねえが……あいつも、見たこともねえ奴のためによく協力したな」
「恐らく、また面倒ごとになるよりはいいと思ったのでしょう」
イチカと呼ばれたその龍はこちらの近くまで飛んできて、降り立った後にこちらを向いた。先ほど見えていた通り、やはり彼は眼を閉じていた。しかし、問題なく周りが見えているかのような自然な振る舞いをしている。
「お前か? ここに来た人間……イノリという者は」
「は、はい」
「俺はイチカ。特に俺から語ることはないが……詳しい話を聞きたければ、そこに立ってる奴らに聞いてくれ」
イチカと名乗った龍には、他のスタンダールやメルヴィルにはない独特の雰囲気があった。物静かで無愛想だが、不思議と怖くはない。彼の言葉を聞いて、テルが一歩前に出た。
「では、私から簡単にご紹介を。彼はイチカ殿。先王クロガネ様の盟友にして、"朧"という部隊の将を務めています。龍の世界には人間の世界ほど確かな序列の概念はありませんが、彼のことは多くのスタンダールが慕っています」
「そ、そんなにすごい龍……!?」
「……テル、紹介を任せた俺が悪かったが、あまりそういうことは言わないでくれ」
「これは、失礼いたしました」
説明を終えたテルが引き下がると、今度はノワールがイチカに声をかけた。先王の友だったようなので、彼とも親しいのだろう。
「よう、イチカ。”朧”の方はいいのか?」
「構わん。ちょうど本城まで帰投していたところだ」
そうか、とノワールが軽く返事をした後、テルが改めてイチカに声をかけた。
ノワールやテルが特に配慮しているようには見えなかったが、イチカは話している相手の方を正確に向いていて、身振り手振りも見えているようだった。どうやって判断しているのだろうか。
「イチカ殿、貴重な休息の中、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「……まあ、また面倒ごとになるよりはいいだろう」
「やっぱり……」
「どうかしたか?」
「いえ、何も。それでは試練の内容については私からお話しします。イノリ……あなたには今日、日が天頂まで昇った時から日が沈む時まで、イチカ殿から逃げてもらいます」
話を聞いてもあまりピンと来なかったが、厳しい条件であることは何となく理解した。しかし、私が了承するよりも先にノワールが声をあげる。
「はあ!? おいテル、そりゃいくら何でも無茶だぜ! それに逃げる力があるかどうかなんて信用には関係ねえだろ!」
「これはイチカ殿の提案です。まず龍と人間の体格差を考慮して、怪我をさせない手段を取る必要があること。次に自力で逃げることもできないのであれば、足手まといになるためまず城に置く意味がないこと。そして、信用に足ることの見極めに関しては……私には伝えられていませんが、お考えがあるようです」
「……まあ、イチカが言うなら間違いはねえんだろうけどよ……」
テルの言葉を聞いたノワールは、それ以上何も言わずに引き下がった。どうやら、本当にイチカに対する龍たちの信頼は絶大らしい。
「つまりは、イノリ……お前が城に、スタンダールにとって有益であるか、あるいは少なくとも害にならぬかどうかを見るというわけだ」
「わ……わかりました。じゃあ、私は準備してきます」
「健闘を祈ります。それでは、私は龍を集めて参りますので」
部屋に戻り、外の日を眺めた。昨夜と同じように、空がわずかに歪んでいるように見える。しかしそれは一旦気にしないようにして、開始まである程度時間があることだけ確認した。
◆
「なあ、イチカ……あいつにやれると思うか?」
いのりの準備を待っている間に、イチカに声をかけた。さっきは引き下がったが、やっぱり人間が龍から日が沈むまで逃げ続けるというのは不可能だと思ったのだ。しかも、追いかけるのはイチカだ。どうしても、不安がつきまとう。
「何を馬鹿なことを。最後まで信じてやるのが、イノリを連れて来たお前の責任だ。それに、俺にはよく分からんが……お前はこんな試練など生ぬるいほどの重荷をあの人間に背負わせようとしているように見える」
「はは……相変わらず鋭いな、お前は」
イチカは俺の心を見通しているかのように、俺の考えをぴたりと言い当てた。俺は、今度こそ失敗するわけにはいかない。いのりには、相当なものを背負わせてしまうことになるだろう。
「まあ、そう構えずに見ているがいい。俺は能力も使わん」
「そりゃそうだ。もしお前が能力を使ったら試練どころじゃねえ」
「違いないな」
そう言って、イチカは笑みをこぼす。こいつが能力を使わなければ、それはそれで別の困難が生まれることになるのだが、わざわざ言わなかった。
「……ところで、何でまた追いかけっこなんかであいつを試そうとしたんだ?」
「理由の説明はしたはずだが」
「……何か、他に理由がありそうな気がしてな」
そうだな、とイチカは呟き、少しだけ考えるような仕草をした。その間からして、今この場で他の理由を考えたというよりは、俺に説明するかどうかを判断していたようだ。
「……あの人間は、龍の世界を知らん。自分だけで見て回ることで得るものもあるだろう」
「……どうだかな。まあ、怪我だけはさせんじゃねえぞ」
「当然だ。そろそろ頃合いか……外に出るぞ」
◆
準備を済ませて外で待っていると、やがてノワールたちがやってきた。ちょうど城の中にいた龍たちも集まってきたところで、太陽が天頂に至る。真昼だがさほど暑さはなく、体を動かすのにはちょうど良い環境だ。龍が集まったのを見て、テルは声を上げて説明を始めた。
「改めてご説明いたします。これより行われるのはノワール様によって城に連れてこられた人間、イノリが城に置いておくべき者か否かを見極める試練です。日が沈むか、イチカ殿がイノリに触れればそこで終了です。観覧は自由ですが、妨害は行わないようにしてください。禁止事項は特にありませんが、イチカ殿は能力を使わないとご自身から事前の申し出がありました。イチカ殿、以上でよろしいですか」
「ああ、問題ない」
イチカの言葉を聞いて、テルは深く息を吸った。とうとう試練が始まる。静寂の中、緊張と高揚感が、私の中でどんどん膨らんでゆく。テルが声を上げて合図を出した時、それらが一気に弾けて身体の力に変わってゆくのを感じた。
「それでは、始め!」
合図とともに、まずは地を蹴って勢いよく駆け出す。イチカは眼を閉じたまま、しばらく動き出さなかった。人間の追いかけっこと同じで、追いかける方は少し待ってから動き始めるのだろう。力いっぱい走り、できる限りイチカと距離を取る。
走っていると、突如後ろから強い風が吹きだしたのを感じた。イチカが接近している。立ち止まって振り返ると、彼は既に目の前まで飛んで来ていた。
「おおおおッッ!!」
「わあっ!?」
イチカは私めがけて一気に降下する。咄嗟に転倒するように前に飛び込んで、何とか回避した。速い。昨日見たメルヴィルの軍勢を遥かに上回る速さだった。息をつく間もなく、今にも地面に触れそうな低空飛行で再びイチカは飛んで来る。
この試練を切り抜けるには、願いを叶える力に何度も頼るしかない。この一瞬で、私はそれを痛感した。
「もう終わりか!」
「……はああッ!!」
声を上げながら、近づいてくるイチカの前に手をかざし、彼が起こす風を強めて風向きを変えた。突然の強風に、彼の動きがほんの少し鈍る。
この力は、対象の可能性をある程度まで引き出すことができる。青天の霹靂は起こせないが、既に吹いている風の強さや向きを変えるぐらいのことはできるというわけだ。イチカが風に慣れてきた時、今度はその風を私自身に向ける。
「ッッッ!」
「何!? 風が……!」
私は自分で生み出した突風に吹き飛ばされ、イチカの進路からうまく外れることができた。さらに、風は私を放り出した後に無数の砂塵を巻き込んで砂嵐となり、目眩しの役割も果たした。
「く……!」
「……はあ」
忌々しい。こんな力があるせいで、私は人間の世界に溶け込めなかった。この力は私から姉を奪い、優しかった両親を奪い、普通の人間として生きていくはずだった私自身も奪った。この力のせいで、私は異常な人間とされたのだ。
「……は、大した幸運だ。だが、この程度では俺の眼は眩まんぞ……!」
「!」
イチカは再び動きを止めた。距離をとってその様子を見ると、まるで坐禅を組む武士のように、凄まじい集中力を働かせているように見えた。それを見たことで、今まで疑問に感じていながらも口に出せなかったことについて何となく察しがついた。
彼は眼で世界を見ているのではなく、他の感覚で感じ取ったものから世界を読み取っているのだ。優れた武人が持っていたと言われる”心眼”のように、彼は眼を使わずに心で世界を見ている。わざわざそうする理由は分からないが、とにかくこの見立てが正しければ、彼に目眩しは通じない。
ひとまず近くの森に身を隠した。風で木々が揺れる音や草花の匂いなど、イチカにとっての目眩しがここには多く、時間を稼ぐのには最適だと思ったからだ。しかし、呼吸も整わないうちに、黒く大きな龍の身体が一直線にこちらに近づいてくるのが見えた。辺りの枝葉を吹き飛ばしながら、彼は強引に接近する。
「甘いッ!!」
「どうして……!?」
眼を開けずとも私の位置をほぼ正確に把握できるほど鋭い感覚と、障害物をものともしない剛力。彼は、その両方を持ち合わせている。私の目の前で停止して立ちはだかる姿は、まさしく大きな壁のようだった。
もう少しで触れられる距離まで迫っているのに、彼はそのまま進まず一度止まって様子を見た。恐らく、風を起こしたのは私だということも見抜かれているのだろう。非常に手強い相手だ。ノワールが一目置くのも頷ける。
「……俺の見立てでは、お前には策を使う戦い方は向かん。楽をしようとすれば、かえって苦しむことになろう」
「……」
イチカの言葉は正しい。私は、日が沈むまでの間を楽に過ごそうとしていた。なるべく見知らぬ土地を走り回らなくていいように。なるべく、力を使わなくていいように。だが、ここは龍の世界だ。今この時のように、私より遥かに身体が強い龍を相手にしなければならない機会がいくらでもやって来るだろう。その差を策で覆すほどの能力は、私にはないのだ。
「だが、そんなものに頼るまでもない……それほどの何かを、お前は持っている」
「……でも」
返答に詰まる。私は、この力を使うのが怖い。この力を使うことで、自分が何かを失うのが怖いのだ。人間の世界ならまだしも、龍の世界で居場所を失ってしまえば、生きていくことさえままならないだろう。
イチカは顎を引きながら息をついて、眼を閉じたまま改めて私を見た。心の奥まで見透かされているような不思議な感覚を覚え、思わず息を呑む。
「俺にはその全容までは見えんが……確かに言えることはある。それは、惜しまず使うべきだ。たとえ、それが忌むべき力であったとしても……今、それを忌むスタンダールは一頭としていない」
「……!」
「話はここまでだ、お前の中の全てを使ってみせろ! そうでなければ、この試練は切り抜けられぬと思え!」
イチカが駆け出し、腕を伸ばす。横にとびのいてこれを避け、近くにあった木にぶつかった。木はぎしりと音を立てた後、ゆっくりと倒れた。
驚いて周りを見てみると、近くにある木はほとんど腐っていた。木々を倒しながら、イチカはさらに近づいてくる。その倒れゆく木々に向けて、私は願いをかけた。
倒れた木が隣の木を倒し、その木はさらに隣の木を倒す。そのようにして、イチカの眼前に倒木が並び、行く手を阻んだ。
「……あの人間を、見誤ったか。日暮れも近い……急がねば」
倒木の山がイチカを食い止めている間に、息を切らして走りながら森を抜ける。その先は崖で、辺りには隠れられそうな場所さえなかった。空を見ると、傾いている太陽と一緒に、何か黒いものが遠くで飛んでいるのが見えた。
行き止まりだが引き返すことはできないので、残りの時間をここで凌がなければならない。それは、ほとんど不可能だった。間もなくイチカも森を抜け、いよいよ追い詰められてしまった。
「そんな……」
「……これで試練は終わりとしよう。そこは危険だ、動かずに待っていろ」
徐々に距離を詰めるイチカの頭上に、大きな黒雲が出てきているのが見えた。あつらえたようにちょうど姿を現したその雲のおかげで、私に一点の希望が生まれた。崖の先端にできる限り走って近づき、鋭く手を挙げる。
「まだ、終わりじゃない!」
「ほう……どう抗うつもりだ!」
「落とすのよ……雷を!」
私は青天の霹靂を起こせない。しかし、雲一つあれば話は変わる。
雲は急速に大きくなって形を変え、積乱雲となった。挙げた手を振り下ろすと、真上の雲から耳をつんざく轟音とともに目の前で落雷が起こる。イチカは直前に躱したが、その勢いで崖が崩れて私は海へと落ちてゆく。私を追って、イチカも崖から飛び出した。私は海の方を向き、さっき見えた黒いものに向かって叫ぶ。
「ノワール────私を拾って!」
「!」
それがノワールであると私は信じていた。直後、遠くにいた黒いものは急速に目の前まで飛んできて、私を掴んでその場を去った。崩れた崖が激しい音を立てるのを、彼の腕の中で聞いた。ついでに、彼の怒号も耳に飛び込んでくる。
「何やってんだ馬鹿野郎! 死ぬ気か!」
「だって、これ以外の方法が思いつかなくて……」
「だっても何もあるか! 俺がいなかったらどうしてたんだよ!」
「ノワールがいたから、こうしたんだよ」
「……チッ、まあ無事だったならそれでいい。まだ日は沈んでねえから、気を抜くなよ!」
ノワールがそう言って近くの陸に私を降ろそうとした時、イチカが再び風を切って近づいてきた。やはり眼を閉じたままだが、少し高揚しているように見えた。
「降ろす必要はない……ノワール、イノリを背中に乗せて俺から逃げろ」
「え……」
「……わかった。じゃあいのり、ちゃんと掴まってろよ! あと少しの辛抱だ!」
ノワールは私を腕から背中に移し、呼吸もままならないほどの速さで空を駆ける。必死に背中にしがみつきながら後ろを振り返ると、イチカはすぐ目の前まで来ていた。二頭の間に速さの差はほとんどない。イチカはノワールに引き離されることはなかったが、追いつくこともできなかった。
そして日が沈む寸前、その光が一層強く私たちを照らしたその瞬間、ほんの一瞬だけイチカは眼を開いた。
「!!」
威圧感のためか、全く身体が動かなかった。瞬きほどの短い時間だったが、身体が凍りつくような感覚を覚え、冷や汗が流れる。それがノワールにも伝わってしまったのか、彼の動きが止まる。同時に、イチカが伸ばした手が私のかかとの辺りに触れた。
「あ……!」
「……」
イチカはただ黙っていた。地上から私たちの様子を見ていたテルが試練の終了を叫ぶ。それを見届けてから去ってゆくように、斜陽は山の陰に隠れて見えなくなった。
私は、使えるものを全て使った上で逃げ切ることができなかった。失意の中、ノワールの背に乗ったまま城に戻る。彼はどこか不満げだったが、私と話すことはなかった。
城には既にテルや他の龍たちが待機しており、中に迎え入れられた。そこには神妙な面持ちでたたずむイチカの姿もあった。
「さて、まずはお疲れ様でした。評価はイチカ殿から直接話したいとのことです。我々も同時にお聞きしましょう」
「はい……」
「……来たか。では、評価を下すとしよう」
「……」
結果は、既に見えている。この後のことに対する覚悟もしている。だが、それを直接叩きつけられるのは、少しだけ苦しい。
イチカは一度ゆっくりと息をついてから、私に結果を言い渡した。
「……少なくとも、俺の眼には信用ならない者には映らなかった。すなわち、合格だ」
「……え?」
残りの時間はわずかであったとはいえ、私はイチカから逃げきれなかった。それにもかかわらず、合格を言い渡された。予想外だったため、思わず聞き返さずにはいられなかった。
「あの……本当にいいんですか?」
「不満か?」
「いや、その……私は逃げ切れなかったのに、合格でいいのかなって……」
「……はは、テルの説明をよく思い返してみろ。『逃げ切れなければ不合格』などとは一度も言っていなかったはずだ」
「でも……」
だからといって合格として良いのか、と私が言おうとしたのを、イチカは咳払いのような仕草をして制止する。
「まあ話は最後まで聞け。ノワールも言っていたように、逃げる力があったところで裏切らないとも限らん。俺がこの試練を通して本当に見たかったのは、窮地に立たされた時、何に頼るかということだ」
「……」
「ノワールには事前に案ずるなと言っておいたのだが……案の定、見ているだけではいられなかったようだ。そして、お前も追い詰められた時にノワールを頼った。それほどの関係が既に築けているならば、当面の間は十分だろう。当然、色々と懸念はあるが……まあ、そういうわけだ。皆も、異議はないか?」
イチカの呼びかけに対し、龍たちは納得したような表情を浮かべながら沈黙する。どうやら、私以外は結果に全く疑問がなかったらしい。
イチカとの話が一段落したところで、ノワールが割って入ってきた。
「いのり、これで納得いったか?」
「うん……ノワールも、ありがとう」
「ったく、城にいても良いって言われたんなら素直に喜べばいいのに、生真面目な奴だな」
そう言われて、思わず笑みがこぼれた。ここにいても良いと言われることに、私はあまりにも慣れていなかったのだ。周りの様子を見て、テルは柔らかく微笑みながら解散の指示を出す。
「……それでは、試練はこれにて終了とします。イノリ、あなたから何か言うことはありますか?」
「あ、それじゃあ一言だけ……これからお世話になります、いのりです。その……よろしくお願いします!」
私の拙い挨拶に、龍たちは歓声で応えてくれた。テルに今日はもう休むようにと言われたので、ノワールの部屋に戻ることにした。城にいることが認められても、依然として空いている部屋はないので、結局ノワールの部屋で寝泊りすることとなったのだ。
「じゃあ、私は部屋に戻ります……ありがとうございました!」
「俺の方こそ、おかげで面白いものを見られた。では……ノワールを頼む」
「え?」
私が聞き返したところで、見知らぬ一頭の龍がイチカの方に近づいてきた。身体はやや小さく、雌龍のように見える。
「やっと見つけた、隊長! そろそろ部屋に戻ってくださいよ!」
「ああ、悪いな。すぐ戻る」
「あ、その子さっきの人間? イノリっていうんだよね、はじめまして! 私はミク、よろしく!」
「は、はじめまして。よろしく……」
かなりの勢いで距離を詰められ、上手く返事ができなかった。その様子を見かねたのか、イチカはミクと名乗った龍を制止する。
「おい、もう少し距離感というものを考えろ……」
「あっ、驚かせちゃった? ごめんねー!」
「い、いや……大丈夫だよ」
「じゃ、私たちは部屋に戻るから! ほら隊長、みんな待ってるんですから、行きますよ!」
その台風のような龍に、イチカは半ば強引に部屋に連れられていった。それから部屋に戻ると、既にノワールが待っていた。彼は寝ようとしていたが、少し聞きたいことがあったので、急いで支度を済ませて声をかけた。
「ねえ、ノワール……前の王ってどんな龍だったの?」
「あ? 前の王……か」
「うん。イチカは先王と親しかったって話をしていたじゃない? 先王ってことは……ノワールの親?」
「……違う。奴は、クロガネは俺の兄貴だ。親父はもう一つ前の代。まあ、あんまり言いたかねえが……いわゆる名君って奴だ。あいつは」
そう話すノワールは、少しだけ苦い顔をしているように見えた。もしかしたら、ノワールにとっては話しづらいことだったのかもしれない。
「そうだったんだ……」
「ああ、また今度詳しく話してやるよ。じゃあ俺は寝るぜ」
そう言って目を閉じたノワールを見ると、腕に傷があることに気がついた。今日のことで無理をさせてしまったのかもしれない。
「待って、その腕の傷……」
「ああ、これか? これは古傷だ。別に痛かねえよ。そもそも寝て起きたらできてた傷で、何でできたのかもわかんねえんだよな」
今度こそ寝ると言って、彼は再び目を閉じた。月明かりが部屋の中まで差し込み、今日はいやに寝づらい。
龍たちの話によると、明日ノワールは戦いに出るらしい。私は彼の補佐の名目で城にいることになったから、当然戦地に赴かなければならない。でも、私に何ができるのだろう。そのようなことを考え込んでいるうちに、いつの間にか寝入ってしまっていた。夜中に妙な寒さを感じたが、起きずにそのまま次の日を迎えた。
◇
ノワールへの怒りと、奴の連れていた人間に対する疑問を抱えながら城に帰ってくると、ミカエルがいち早く出迎えてくれた。
「あ、おかえり! どうだった?」
「すまない……逃がしてしまった」
また、争いの終わりが遠のいた。無力な自分に対する怒りが収まらず、拳を握る。そんな私を見て、ミカエルは笑いながら慰めてくれた。
「いいのさいいのさ! ヴァイスが無事ならいくらでも機会はあるよ!」
「……ありがとう」
「うん、だから元気出しな!」
彼女の優しさに、つい甘えてしまいそうになる。だが、それは今すべきことではない。それこそ、無事に争いが終わればいくらでも機会はあるのだから。
「ああ……そうだ、ミカエル。リアン達を呼んできてくれ」
「へ? どうして?」
「少し、伝えたいことがある」
「……わかった!」
間もなくして、ミカエルは呼びつけた竜と人間と一緒に戻ってきた。初めに口を開いたのはリアンだ。彼女の白い身体は、少しだけくすんでいる。
「ヴァイス様、伝えたいこととは?」
「些細なことで呼んですまないが……ノワールが人間を連れていた。恐らくこの世界に新たに来た人間だ」
それを聞き、ミカエルは驚きと期待の混じったような声を上げ、呼んできた竜たちの方を向く。人間が姿を現す前に城に戻ったから、彼女もこのことを知らなかったのだ。
「へぇ、人間! それじゃあキミの探している人間かもね?」
「……そうね、根拠はないけれど……そんな気がするわ」
リアンの傍にいた人間が、静かにそう答える。彼女は微笑し、リアンとともに部屋に戻っていった。
一章──試練── 完