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終章(下)

 終章──帰投(下)──

 相変わらず何もない空間を、ヴァイスとともに進んでゆく。少しは慣れたが、ここはやはり気味が悪い。足場もないのに足をつくことができるし、明かりもないのに辺りの様子はやけにはっきりと見える。色々な感覚が狂いそうだ。


「ノワール、この先に……竜の気配を感じる」

「ミドナか?」

「……分からない。何にせよ、気をつけてくれ」


 ああ、と頷いて歩み始めた瞬間、聞き慣れた声が突然聞こえてきた。だが、その声の調子は俺が知っているものとは全く違っていた。鋭く冷たい氷のような声が、辺りに重く響く。


「────『止まれ』」

「!!」


 直後、何もなかったはずの空間から無数の物体が現れる。植物の蔓のようにしなやかに俺に向かって伸びてきているのに妙に硬く、力任せでは壊せない。理解が追いつかないまま、俺は何もできずに捕らえられた。


「うおおおおおおお!?」

「ノワール!!」

「ぐ……駄目だ、全く動けねえ!」


 力を込めて暴れようとしても身動きが全く取れず、俺の動きを止めているものを振りほどくことはできなかった。何とかしようともがいているうちに、さっき声がした方から翼がはためく音が少しずつ近づいてきた。音とともに目の前まで迫ってきたのは、さっき龍に姿を変えたいのりだった。


「いのり……!!」

「……あなたたちが、スタンダールとメルヴィルの王……ミドナ様の望みを妨げる、身の程知らずの劣等種なのね」

「……」


 記憶を失っているのか、俺たちのことはわからないらしい。ヴァイスは何も言わず、いのりにゆっくりと近づいていった。そして、ただ一つだけ問いかけた。


「君は、あの時の……エレイア、なのか?」

「……確かに、私の名前はエレイアよ。でも……あなたのことは、知らないわ」

「……そうか」


 知らないと言われたのに、ヴァイスは少し安心したような表情を浮かべていた。そして、奴はいのりに向かってきっぱりと一言だけ言い放った。


「君が私のことを知らないのならば……私の勝ちだ」


 ◇

「……くだらない。妄言を吐くのは勝ってからにすれば?」

「……そうだな。早くノワールと……イノリを、返してもらおう」


 地を蹴って飛翔し、エレイアの元へ真っ直ぐに飛び込む。エレイアは右後ろに退がりながら飛び、手を前に向けて私を強く睨みながら叫んだ。


「『加速』!!」

「無駄だ、龍の能力は私には効かない!」

「……そうかしら。ミクの能力は、防げなかったようだけれど」


 そう言って駆け出したエレイアは、私が瞬きするより速く、私の身体を拳の一撃で容易く吹っ飛ばした。さっきとは速さがまるで違う。反応することすらままならなかった。


「ぐ……!」

「あなたのことは知らない。けれど、あなたの弱点は既に分かっているわ」

「……まだだ!」


 今度は攻勢に出ず、エレイアの動きを見ることに集中した。ノワールの拘束と、自身の加速。既にエレイアは能力らしいものを二つ使っている。彼女の能力の得体が知れない以上、距離を詰めたところからその場で上手く躱すのは難しい。

 怖気づいたように見えたのか、エレイアは嘲笑のような笑みを私に向ける。彼女が私のことを甘く見るほど、私は勝利に近づいてゆく。わざわざ彼女の挑発に乗って、それをやめさせる必要はない。


「ヴァイス……一つ、あなたには見落としがある」

「……!」


 エレイアはいきなりそう言った。私の動揺を誘うための言葉かもしれないが、もし彼女の言葉が本当であれば、それは間違いなく致命的だ。ノワールが動けない以上、私が彼女に敗れれば終わりだ。静かに顎を引き、思考を整える。

 私の見落としを探すよりも前に、まずはエレイアの能力を探る必要がある。彼女は既に能力を二度使っている。一度目でノワールを拘束し、そして二度目で『加速』の一撃を私に叩き込んだ。恐らく、クロガネのように一つの能力が複数の形を取っているのだろう。そうだとすると、私を死から救ったあの雷も彼女が落としたものかもしれない。

 だが、龍の能力は『見切り』の力で防ぐことができる。エレイアの言う私の弱点も、彼女自身に使う能力だけは防げないということだろう。いずれにせよ、この戦いの中心は接近戦に────────


「!!」

「……気付いたかしら。思いの外、勘が良いのね」

「まさか、君は……!」

「『祈祷』!!」


 エレイアは微笑して目を閉じ、手を前に向けながら能力を使う。何か起こったようには見えなかったが、これが私と彼女の戦いを決定的に変えたという確信はある。

 恐らく、今使った『祈祷』がエレイアの本当の能力だろう。雷も、ノワールの拘束も、加速も、そして、スタンダールの形成逆転も────全て彼女が願いながら能力を使ったことによるものだとしたら、説明がつく。とてつもない能力だが、今はそう仮定するより他にない。だが、そんな能力も『見切り』の前には無力だ。私がエレイアならば、まずはこの防壁をすり抜けようと考えるだろう。

『見切り』は龍の能力、あるいはそれに並ぶ絶技を防ぐ。つまり、それらでないものは防ぐことができないのだ。私が見落としていたのは、きっとこれだ。恐らく、エレイアは今『祈祷』を使って自らの能力を”龍の能力ではないもの”としたのだ。それは”技”かもしれないし、他の形かもしれないが、それは重要ではない。とにかく、『見切り』に頼るべきでなくなったことは明らかだ。


「"止まれ”」

「……!!」


 ノワールを捕らえた物体が、今度は私の方に飛んでくる。一度見た攻撃なので、回避は可能だ。エレイアから視線を逸らさないまま、飛んでくる物体を避け続ける。


「あら、能力は効かないんじゃなかったの?」

「……ああ。だが、君のそれはもはや能力ではないのだろう?」

「……見落としがあるなんて言わなければ良かったかしら。砂粒のように小さなきっかけから、意地汚く手がかりをかき集める……あなたたちがそういう生き物だったのを、忘れていたわ」


 エレイアはため息をついて、蔑むように私を睨む。これでようやく戦いの形がはっきりと見えた。彼女が”祈祷”で私を圧倒するか、私が彼女の喉元を押さえつけて能力を封じるか、あるいは────────彼女が私の肉を喰らうか。それで、決着がつく。


「”光芒”ッッ!!」

「……!」


 エレイアが力を使う前に、一気に詰め寄る。ミカエルの逆鱗の力こそなくなってしまったが、それでもエレイアが反応できないほどの速さで動くことはできる。だが、彼女が速さに慣れる前に無力化しなければ、私の勝ち目はかなり薄くなってしまうだろう。至近距離から一撃を加えようとした瞬間、エレイアの手が視界に入ってきた。


「”消えろ”!!」


 彼女の叫びが聞こえると同時に、エレイアの姿が消えた。ディンのように姿を消しているだけかもしれないから、本当に消えたのかどうかは分からない。辺りを注意深く見回すと、遠くにエレイアの姿が見えた。


「な……!」

「……そこにいるのね」


 エレイアの目が、確かに私を捉えたのが見えた。どうやら、彼女が私の前から消えたのではなく、私の方が彼女の前から消えていたようだ。未だに信じがたいが、これでは攻撃もままならない。エレイアの方から攻撃してくるのを待って反撃するか、彼女に気付かれないように接近するしかないだろう。だが、あんな力がある以上、エレイアが近づいてくるとは思えない。私が取れる策は一つしかないようだ。


「”千鳥”……!」

「……さっきより随分遅いわね」


 私はあえて速さを落とし、エレイアの攻撃を誘った。だが、攻撃が当たる直前まで彼女は全く動かず、力も使わなかった。彼女が身を躱した隙に追撃を叩き込むために一歩踏み込みながら急加速したところで、再び彼女は力を使った。


「────”動くな”!」

「!」


 エレイアが叫ぶと、私の身体が急に重くなったように感じた。引き下がろうとしたが、それもうまくいかない。エレイアの方はさっきまでと変わらないようで、私の攻撃を易々と回避した。その直後、何事もなかったかのように身体が動くようになった。エレイアを欺くはずが、逆に私の方が身体の軽さに惑わされて少し姿勢を崩してしまった。


「く……!」

「……はあっ……はあっ……!」


 私はまだ一度もエレイアに攻撃を当てていないのに、エレイアは息を切らしている。私が動きを遅らせている間に彼女が全く動かなかったことを考えると、”祈祷”には大きな負担があるのだろう。それならば、”祈祷”を防ぐことはできなくても、彼女の体力が尽きるまで耐え続ければ接近戦に持ち込めるはずだ。


「……その様子を見る限り、”祈祷”には限りがあるようだな」

「……」

「それに今の二回の”祈祷”は、初めにノワールを拘束した時よりも激しく体力を消耗したように見える」

「……」


 エレイアは、黙って呼吸を整えている。これ以上、私に手がかりを与えるつもりはないのだろう。


「”祈祷”!!」

「……!!」


 エレイアの叫びに応えるように、彼女の手の前に大きな光の玉が現れた。攻撃に備えて身構えていると、そこから一筋の光が放たれた。避ける間もなく光が翼に当たり、翼膜の一部を跡形もなく消し飛ばした。


「────────え?」


 それを認識した瞬間、翼の辺りに激痛が走る。その場で姿勢を崩し、痛みに耐えながら大きく息を吸った。光の玉は消えずに残っている。すぐに次の一撃が来るだろう。


「……この光の玉に、残っている”祈祷”の力を全て込めた。これで……終わらせるわ!」

「……そうか。これが……最後か」


 エレイアの言葉を聞いて、私は微かに笑みを浮かべた。彼女は怪訝そうな表情をしながら私を睨む。


「……まだ笑う余裕があるのね」

「笑顔にもなるだろう。”祈祷”の力が無くなれば……君を止められる」

「何を言い出すのかと思えば……今の痛みをもう忘れたの?」


 再び、光の線がこちらに向かって飛んでくる。私はそれを避けず、正面から受け止めた。灼けるような熱が身体に襲いかかり、光の当たった先が少し黒く焦げた、


「……!」

「避けることもできないのに、随分強がったものね」

「避ける必要はない……全て、受け止める!」


 エレイアは立て続けに光の一撃を放つ。もはや痛みすらも熱に灼かれて、何も感じない。黒い傷跡は瞬く間に増え、身体に白と黒が入り混じる。その様子は、どこかイチカの身体に似ていた。

 息を切らし、膝をつき、それでもエレイアをじっと見据える。雨のように降り注ぐ光は、未だ止まない。だが、彼女の方も意識が薄れているのか、時折頭を押さえながらふらついていた。


「なんで、倒れないの……!?」

「私には、まだ……なすべきことがある……!!」


 私のなすべきことは、スタンダールとメルヴィルの争いの終結だと思っていた。私がノワールに敗れて死の淵に立った時にミカエルが言っていたのも、そのことだと思っていた。だが、ここまで来たことで、それは違うと確信した。私のなすべきことは、自分の過去との決着だ。遠い昔、孤独だった私を救ってくれた竜を、今度は私が救うのだ。そのために、ここで倒れるわけにはいかない。


「く……う……!!」

「……エレイア、もう少しだ……!」


 光の玉がだんだん小さくなってゆく。”祈祷”の力の底が、近づいてきている。それに伴って、光も少しずつ弱まっている。絞り出すように放たれた一筋の光が私の左目を灼き潰したのを最後に、光の玉は消えてなくなった。


「そん、な……!」

「────終わりにしよう、エレイア」


 残された全ての力を捻り出して一歩踏み出し、飛翔する。左目は潰れ、右目もほとんど見えない。真っ白な光の中でぼやけたエレイアの影を追い、微かにその姿を捉える。彼女から見て右後ろ。最後の一歩を踏み出す先を、私は迷わず決めた。

 エレイアが退がり、予想した通りに私の目の前に現れた。腕を前に突き出し、彼女の喉元めがけて掴みかかる。しっかりと彼女の喉を掴み、そのまま落下して押さえつけた。


「目もほとんど見えないはずなのに、どうして……!」

「……簡単なことだよ。君は、いつも右の方に逃げるからね」

「……そう」


 それを聞いた後、エレイアは身体の力を抜いた。既に私にも彼女にもほとんど力は残っていなかったから、ただ私が身体の重みだけで彼女を押さえつける形になった。

 “祈祷”の力がなくなったことでノワールの拘束も消え、彼は私のもとに駆けつけてきた。


「……ノワール、遅かったな。少しは休めたか?」

「馬鹿野郎、目を離すな!」


 ノワールの叫び声に耳が痛み、ふとエレイアの方に向き直った。彼女は首の力で私の腕を押し退けて身体を起こし、私の胸の辺りの肉を食いちぎった。鮮やかな赤色が、彼女の身体を彩る。


「おい、ヴァイス!!」

「……私の勝ちだ、エレイア────今度こそ、お別れだ」


 私の肉を喰ったエレイアは急速に竜の形を失い、人間の姿に変わってゆく。エレイアは消え、イノリが帰ってくる。私は身体を横たえながら、残った片目でその様子を見届けた。


「……私、は……?」

「……イノリ。よく、戻ってきた……!」

「ヴァイス!」


 イノリは目の前で血を流しながら倒れている私を見て、驚きながら駆け寄ってきた。ノワールは、その場でうなだれている。私と目を合わせるつもりはないらしい。


「そんな、私のせいで……!」

「……君のせいでは、ない。これは……私の、策だ」

「!」


 私は、イノリを取り戻すにはこうするしかないと確信していた。テルが竜の世界の争いについて話す前、その場にいないミドナの指示を受けていたように見えた。恐らく、ミドナには遠くから竜を操る力があるのだ。そしてエレイアの記憶がなかったことから、彼女もまたミドナの能力で操られていたと考えた。私の肉を喰わせて強引に『見切り』の力を与え、それを断ち切らなければ、イノリが帰ってくることはなかったのだ。


「でも……そうだとしても、私がヴァイスを傷つけたことは変わらない……!」

「……気にすることはない。ノワールとの戦いの後に雷が落ちていなければ、既に終わっていた命だ。君を救うことができて……良かった」

「……」


 イノリは頷いたが、まだ気に病んでいるようだった。姿がほとんど見えなくても、息遣いだけでそれが伝わってくる。きっと、私がこれ以上喋らないように気を遣ってくれたのだろう。だが、まだ伝えることが残っている。それがなければ、とっくに私は死んでいる。肉体は、既に限界なのだ。気力だけで口を開き、ノワールに呼びかけた。


「……ノワール」

「……もう、喋るなよ。分かるだろ」

「……私の肉を、喰え」

「……!」


 ノワールは驚いて息を呑んだ。詳しく説明している時間は残されていない。彼ならば、それでも私の考えを理解してくれるだろう。


「ミドナを止めるには、『見切り』が必要だ」

「……ああ、分かった」

「……必ず、ミドナを止めてくれ。竜の、世界を、頼む……!」


 身体から苦しみが消えてゆく。もっと早く終わるはずだった命が、ようやく果てようとしている。生き延びたのはほんの一瞬だが、私には夢のような時間だった。敵だったノワールと力を合わせて戦い、姉さんの無念を晴らし、争いの裏側に潜んでいたものを知り、そして、エレイア……私に全てをくれた竜と、もう一度出会えた。私が願ったものも、願おうとすら思わなかったものも、全て得られたのだ。ああ、本当に、夢のようだった────────


 ◆

 ヴァイスは、事切れた。最期の瞬間、彼は何かに手を引かれるように、左腕を真上に持ち上げていた。身体の傷や今もなお流れている血が全て嘘のように、彼は安らかな表情をしている。


「……」

「……いのり、行くぜ。ミドナを、止めるんだ」

「うん……」


 ノワールはそう言いながらも、ヴァイスの亡骸と対峙しながらその場で悩むように唸った。ヴァイスに言われた通り、肉を食べようとしているのだと思うが、食べ始める様子はない。


「ノワール、どうしたの?」

「悪い、ちょっと……かなえ達のことを思い出してな」

「え?」


 不意に出た名前に驚き、思わず聞き返した。ノワールは一度息をついて、胸の内を明かしてくれた。


「あいつらを殺した時、俺は……もう、いのりと一緒にはいられないと思ってた」

「……うん」

「よく分からねえが、お前はヴァイスとも過去に何かあったらしいからよ……俺がこいつの肉を喰うことで、また同じ過ちを繰り返すことになるんじゃねえかって、な……」


 ノワールはそう言って、情けねえな、と自嘲する。彼は”死神”だ。そう実感する場面が、これまでに何度もあった。そしてそれが自分の近くに降りかかってきた時、私は彼のもとを離れた。でも、今は違う。私も竜を傷つけた。私も、罪を犯したのだ。


「……大丈夫、私はもう逃げない。私もノワールと一緒に……自分の罪に、向き合うよ」

「……ああ」


 ノワールは私の言葉を聞いて、安心したように目を閉じた。そして、ヴァイスの身体に思い切り齧りついた。肉のちぎれる音が聞こえ、ぼたぼたと血が滴る。かなえ達の時と同じ、恐るべき力を持った龍の姿がそこにあった。私はそこから目を背けず、彼のことをじっと見ていた。


「……」

「……チッ。兄貴の奴、嘘つきやがって」


 ノワールはそう呟いて、肩を落とした。血に塗れた牙を剥き出しにしながら、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。


「こんなに不味いもん、初めて喰った」


 彼はすぐに私を背中に乗せ、後ろを振り返らず飛び立った。一切変わることのない景色の中をずっと真っ直ぐに飛び続けていると、巨大な龍の身体が突如視界に飛び込んできた。スタンダールが千頭集まっても、この大きさを超えることはないだろう。世界を統べる龍に相応しい威圧感とともに、私たちの最後の敵が姿を現した。


「ミドナ……!」

「……エレイア」


 ミドナが呟くように声を発すると、軽い地鳴りのような衝撃を起こしながら辺りに響く。他の龍とは何もかもが違う。あれは紛れもなく、この世界における神なのだ。この一瞬で、それを実感した。


「私は、いのりよ。エレイアは……もういないわ」

「……呼び名に、意味はなかろう。我にとって、お前はエレイアである……それだけだ」


 ミドナはそう言った後、ようやく私たちの方を向き、私のことをじっと見ながら何かを考えるように少しの間黙っていた。そして、諦めたように息をついてから沈黙を破った。


「……やはり、分からぬな」

「……?」

「なぜ、そうまでして人間の世界を守ろうとする。あの世界に、何の恩義もないだろうに」


 ミドナに問いかけられ、つい言葉に詰まった。確かに、人間の世界を守る道理は私にはない。私は能力を利用され、周囲の人々は欲望に狂わされ、あるいはその犠牲となった。私にとって、そして彼らにとって、そこには何の幸せもなかった。ミドナの思惑は多くの犠牲を伴う、止めなければならないものだ。しかし、それを止めてまで人間の世界を守る理由が私にはないことも、また事実だった。


「……」

「スタンダールの王……お前も同じだ。お前が禁忌を破って見た人間の世界は、龍の世界の発展を犠牲にしてまで守るに値するものだったか?」


 ミドナはノワールにも同じ問いかけをした。ミドナの行いは、龍の世界だけを思えば正しいことなのだろう。私たちが直感的に止めなければならないと思ってここまで来た以上、どこかに間違っているところがあるはずなのに、私にはそれを見つけられない。

 ノワールは一歩前に出て、ミドナの問いかけに答えた。


「……確かに、俺には人間の世界を守る理由がねえ」

「……」

「だが、守らねえ理由もねえ!」

「!」

「しかも、俺はてめえが気に入らねえ! 理由はそれで十分だろ!!」


 ノワールは、はっきりとそう言い放った。そこに、ミドナのような正しさはないのかもしれない。だが、私たちも同じように、この行動が正しいと信じている。どちらがより正しいかという問題ではないのだ。どちらがより強く、自らの行いを正しいと信じて進み続けることができるのか。きっとそれこそが、この世界の命運を決定づけるのだ。


「……良かろう。小さき龍。小さくあれと我が定めた哀れな龍……その命、我が直々に摘み取ることとしよう」

「……!」

「終わりだ────────『支配』!!」


 ミドナの大きな目が、ノワールをじっと捉える。その目で捉えられた龍は、ミドナに操られてしまうのだろう。だが、その能力がもはや意味をなさないことを私たちは既に知っている。


「『身体強化』ッッ!!」

「……!」

「おおおおおッッ!!」


 ノワールは咆えながら、ミドナのもとに果敢に向かってゆく。そして、全身を大きく動かしながら首筋を狙って一撃を放った。しかし、ミドナは攻撃を受けても目を細めることすらしない。一度の『身体強化』では、威力が全く足りないようだ。

 ミドナはノワールを振り払おうと、ゆっくりと身じろぎをする。ノワールはミドナの身体に直接ぶつかりはしなかったものの、翼の動きによって起こった凄まじい勢いの風に飛ばされ、ミドナのもとから引き離されてしまった。


「ノワール!」

「ぐ……あいつ、本当にめちゃくちゃしやがる……!」

「……この程度で、我を止めに来たなどと申すか」


 ミドナは嘲るでも憐れむでもなく、淡々とそう言った。ノワールの力だけでは、全く足りない。この短い時間で、その事実を叩きつけられた。だが、今ミドナがノワールを振り払ったのは、風を巻き起こしたことによるものだ。それさえ打ち消せれば、ミドナもノワールを引き離すことができなくなるはずだ。


「ノワール、攻撃を続けて!」

「……ああ!」


 ミドナが起こす風に私が願いをかけて追い風に変え、ノワールはそれに乗って立て続けに攻撃した。さっきは叩くように攻撃を加えていたが、今度は確実に傷が残るように、ミドナの肉を抉るように爪を突き刺した。鱗と爪がぶつかり合う音が、ノワールの叫び声とともに辺りの空気を揺るがす。直後、彼の爪がミドナの皮膚に届いた音がした。ノワールが爪を引き抜くと血が溢れ出て、ミドナの身体に赤い線を描いてゆく。


「……!」

「効いた!」


 痛みが走ったのか、ミドナは微かに表情を歪めた。こうして繰り返し傷をつけても、それが致命傷になるかどうかは分からない。だが、龍の世界の神が血を流した。それだけは疑いようのない事実となった。


「……そうか。この身では、汝らを止めることはできぬか」

「……?」

「くだらぬ意地のために機を逃すのは、愚かな者のなすことだ。汝ら……いや、お前たちと、等しき身となろう」


 ミドナがそう言うと、その身体が突如光りだした。白と黒の光を交互に放ちながら、ミドナの身体が徐々に縮んでゆく。そして、ノワールと全く同じ大きさになったところで光が消えた。


「これは……!」

「いのり、気をつけろ……身体は小さくなったが、多分力はそのままだ」

「然り。力を保ったまま、小さき龍の身となった。お前たちを……この世界から消すために」


 身体が小さくなったことで、ミドナの殺気はより鋭くなっていた。その荒々しい雰囲気に、思わず気圧されそうになる。


「……エレイア」

「……」

「お前には、もう一度だけ問おう。我を止める……それが、お前の望みなのだな」


 ミドナに問われ、今度ははっきりと頷いてみせた。願えば叶う、そんな生涯の中で、私は初めて自らの手で叶えなければならない望みを抱いたのだ。何を言われようと、諦めるわけには行かない。


「……ええ。人間の世界のためでも、ノワールのためでもない……私は、私のためにあなたを止める」

「……そうか」


 ミドナは呟いて、腕を軽く横に振るった。さっきと全く変わらない強さの突風が吹く。不意を突かれて願いをかけるのが遅れ、少し後ろに飛ばされてしまった。


「!」

「いのり!」


 すぐに風を止め、その場で足をついて事なきを得た。ミドナの力は、身体を縮める前と同じだ。ノワールはともかく、私は攻撃が一度でも直撃すれば無事では済まないだろう。ミドナはまだ止まらず、今度はノワールを狙って一気に彼に近づいた。さっきまでの鈍重な動きからは考えられないような速さで、ノワールを攻め立てる。


「く……!」

「……『礎』!」


 ミドナが叫ぶと同時に、ノワールの背後に巨大な壁が現れた。後ろに下がりながら攻撃を凌いでいた彼は突然現れた壁に気付かず、強く背中を打った。私はその瞬間、咄嗟に風を起こして彼の身体を動かしたが、ミドナの攻撃を躱しきることはできなかった。直撃は免れたが、それでも掠めた部分の鱗は割れ、血が滲み出ていた。


「ッ……!」

「悪いな、いのり。助かったぜ……!」


 ミドナの能力は、『支配』だけではないようだ。今の瞬間だけを見れば私の力に近いような気がしたが、その全貌は全く明らかになっていない。能力を使わせながら、様子を見る必要がある。だが、実際にはそんなことをしている余裕はない。ノワールは休みなく立て続けに飛んでくる攻撃を避け続けるのに精一杯だし、彼が倒れればこれからの龍の世界を導く者がいなくなってしまう以上、私も彼の補助に徹さなければならないのだ。


「『礎』」

「!」


 ミドナは再び能力を使う。今度は辺りに砂嵐が巻き起こった。砂嵐を止めるまでの少しの間、私の方からノワールの姿が見えなくなった。そして、その僅かな時間でノワールは倒れ伏して動けなくなっていた。彼は瓦礫のようなものの下敷きになっている。恐らく、さっきと同じ壁を複数出して攻撃とともに破壊し、ノワールを強引に拘束したのだろう。

 ミドナの力は、私の想像を絶している。並のスタンダールやメルヴィルが何頭集まっても、あれを打ち破ることはできないだろう。絶対的な、ひとつの力────────それがなければ、神と渡り合うことはできない。そして、ノワールでさえ歯が立たない以上、きっとこの世界にはもうそんな力を持つ者はミドナの他にないのだ。


「ぐ……!!」

「ノワール!」

「……スタンダールの身で、よく逃げ回ったものだ」

「……」

「だが、我も決心がついた。この戦いは、もう終わりだ」


 ミドナは唐突にそう言った後、私の方を向いた。身体が弱い私を先に狙うのは、自然な判断だ。だが、初めからそうせずに、今になって標的を切り替えた理由が分からない。あらゆるものに対して超然とした態度を取っているミドナに、産みの親としての情のようなものがあるとも考えがたい。ミドナをじっと睨みながら思考を巡らせていると、ミドナは私の考えを見透かしているかのように話し始めた。


「……エレイア。我がこれまでお前を狙わなかったのは、いつでも消すことができるからだ」

「……!」

「……だが、それには決心を要する。龍の能力の中でも特に強力な『祈祷』……それを、手放す決心がな」

「『祈祷』を、手放す……?」

「……『礎』は、これまで龍の世界に生まれ、そして死んでいった龍の能力を全て使うことができる能力だ。だが……我が自ら消した龍の能力は使えぬ」


 ミドナは躊躇う様子もなく、淡々と私の質問に答えた。情を一切感じない淡白な口ぶりが、その決心の固さを物語っている。構えは解いていたが、時折ノワールの方にも視線を移しており、仮に彼が立ち上がれたとしても不意打ちを仕掛ける隙はなかった。


「させるかよ、いのりはやっと戦う理由を見つけたんだ……てめえがいのりを消すより早く、俺がてめえを止めてやる……!」

「……愚かな。もはや何をしようと、この結末は変えられぬというのに」


 ミドナはそう呟いて、祈るように目を閉じた。ノワールが攻撃する間もないほど短い間の出来事だった。ミドナが攻撃した様子はない。私の身に何か起こったようにも感じない。奇妙に思って、ふと自分の手を見ると、亡霊のように透けていた。


「……え?」

「……いのり……!?」


 痛みも、苦しみもない。だが、私はもうすぐこの世界から消えてしまうのだと確信した。駆け寄ってきたノワールは、目の前で起こった出来事を理解できない様子だった。ミドナはひどく疲弊したように、その場で姿勢を崩した。一瞬の出来事だったが、私を消すのはそれなりに負担がかかることだったようだ。


「おい、一体どうなってやがる!」

「……エレイアの、龍の世界との縁を断ち切った。これで、エレイアはこの世界に居ることができなくなり……人間の世界に引き戻されることとなろう」

「縁……!?」

「お前たちがこの世界に存在しているのは、龍の世界との縁があるからだ。通常の龍は親族の存在がその証明となるが、この世界に迷い込んだ人間と、我が自ら生み出した龍……それらの者の縁だけは、我が手中にあるのだ」


 考えてみれば、ミドナは私の力を強力なものだと認めた上で、いつでも私を消せると断じていたのは不可解だった。ミドナがそう言っていたのは、ノワールと違って私にはこの手段を取ることができたからだったのだ。ノワールは怒りを剥き出しにして、ミドナに向かって咆えた。


「ふざけるなよ……一方的に断ち切っておいて、何が縁だ……!」

「ノワール……」

「いのり、もうちょっとだけ待っててくれよ。だったらこいつを殺さず、ねじ伏せて言うことを聞かせりゃいいんだ、だから……!」

「……ノワール。もう、いいよ……」

「……!」


 さっきよりさらに色が薄くなった手で、そっとノワールの身体に触れる。今にも怒りに任せて駆け出しそうだった彼は、一度深く息をついてその場に留まった。


「……私の手で、望んだものを掴み取る……それは、もう叶わないみたい」

「……」

「……でも、ずっと戦う理由がなくても、私は……この世界に来て、良かったよ」

「いのり……!」


 私の手には、およそ全てがあって、何もなかった。今、ここにいる野田蔵いのりという人間そのものさえ、どうやら偽りの姿だったらしい。でも、龍の世界に迷い込んだ人間として、この世界で過ごした時間は偽りのものではない。王を見た。強者を見た。敵意を見た。力を見た。喪失を見た。覚悟を見た。疑念を見た。地獄を見た。死闘を見た。そして、この世界の祖を見た。それは、紛れもなく本物だ。そう信じている。だからこそ、私が『支配』から解き放たれた時、自ずと龍ではなく人間の姿に戻ったのだろう。私は、この世界に来たおかげで、本物になれたのだ。


「だから……この世界が、これ以上傷つくのは嫌だ。スタンダールやメルヴィルが、定められた通り戦い続けるのは嫌だ」

「……」

「ノワール……もう一つだけ、私には望みがあるの。託しても、いい?」

「……当たり前だ」

「どうか……この世界の、希望になって!」


 その曖昧な最後の願いを、ノワールはしっかりと聞いた。そして、それが確かに届いたのを見て、私は消え去った。


 ◆

 いのりの姿が消えたのを見て、ミドナの方に向き直る。同時に、奴も身体を起こした。もはや、怒りも恨みもない。いのりがそれを抱いていないことが分かって、俺の心からもそれは消え去った。赤と黒が混じったような色に変わった俺の姿を見て、ミドナは驚いた様子で声を発した。


「……その、姿……!」

「この世界の、希望……また随分とでけえもん背負わせやがって」

「『見切り』とは、孤独の力……お前がエレイアから力を受けることなど、できぬはずだ……!」

「それだろ、てめえが見落としてたのはよ」


 ミドナは意味がないと言って、いのりのことを頑なにエレイアと呼んでいた。俺は、ずっとそれが気になっていた。なぜ、ミドナはここにいない奴の名前を呼び続けていたのか、と。


「いのりは……人間だ。エレイアじゃねえんだよ」

「……!」

「人間……この世界の、外にあるものの力……だからこそ、届いたんだろうが」


 ミドナはそれを聞いて、顎を引いて俺を睨みつけた。どうやら、納得できないようだ。『見切り』は龍の能力を防ぐ能力だ。そこに、人間の力を弾く力はない。それだけの話だというのに。


「ったく、物分かりの悪い神サマだな!」

「……」

「だったら、直接思い知らせてやるよ!」


 五百十二倍。音を置き去りにして、ミドナに向かって駆け出す。少しずつ力を出して、速さに慣れるようなことはしない。一瞬のうちに奴の身体に穴を開けてやる。そのつもりで突っ込んだが、ミドナは俺の軌道を読み、正面から両腕で受け止めた。


「おおおおおおおおッッッッ!!」

「ぐ……!」


 構わず突進を続ける。受け止められたならば、両腕もろとも突き破ってしまえばいい。全身に力を込め、俺はミドナの腕の前で一つの巨大な力の塊となる。


「『礎』!」

「!」


 ミドナが叫ぶと、その姿が消えた。俺は力の行き場を失い、思わず体勢を崩す。その隙に奴は俺の後ろに回り、背後から突き飛ばした。接触と衝突の瞬間、辺りに轟音が響く。


「ぎいッ!」

「甘く見るなよ、我を……そして、この世界を!!」

「それを言いてえのは俺らの方だ! この世界に……もう神は必要ねえ!!」

「……!」

「『身体強化』ァァァァッッ!!!!」


 俺は身体を起こし、力の限り叫んだ。身体が凄まじい熱を発し、腕や足に白色の模様が現れる。

 一〇二四倍。この世界に生まれた王たちの力が、全身に流れ込む。呼吸は乱れ、脈拍は速く、視界は頭が痛くなりそうなほど広がった。スタンダールやメルヴィルを統べる、絶対的な王者の力。それが俺の身体の中に集まって、神をも超えるひとつの力へと変わってゆく。


「これほどの、力……お前が、その器たりえるのか!」

「そんなもんはどうだっていい。今、俺の中に力がある……それだけが事実だ!」

「く……『礎』!」

「!?」


 能力を使ったミドナの前に現れたのは、親父の姿だった。恐らく、これは『蘇生』の力だろう。足を引きずるように前に出て、親父は呻くように声を出した。


「ノワー、ル……ノワール……!」

「……」


 俺は何も言わず、親父の傍で右腕を振るい、それを跡形もなく消し飛ばした。そして、ミドナを強く睨む。


「あれは紛れもなく、お前の父だ……なぜ、何の躊躇いもなく殺せる!」

「あの研究所に行って良かったぜ、俺みてえな馬鹿でも学ぶことができた……こういうのは少しでも早く殺して解放してやるべきだってなあ!!」

「……!」


 ミドナの方に一歩ずつ近づいてゆく。ミドナは懲りずに何度も『蘇生』を使った。イチカ、兄貴、そして、テル。俺のことを置いて行った奴らを次々に解放しながら、ミドナに迫ってゆく。


「……甘く見んなっつってんだろ」

「お前は、一体……!」

「俺は……神をも殺す、”死神”だ。てめえが起こしたくだらねえ争いの中で、これまで何度も竜の命を奪ってきた。誰かの親も、きょうだいも、子どもも、友も、愛した竜も……数えきれないほど、殺してきた」

「……!」

「そんな俺が、こんなもんさえ殺せなかったら……俺はそいつらの”死神”になってやれねえだろうが!!」


 俺はそう叫びながら、ミドナのもとまで一気に迫った。奴は再び正面から受け止める。その衝撃で、辺りの空間が揺れる。二頭の龍の咆哮が響く中、俺の腕は少しずつミドナの腕を貫き始め、やがてその心臓まで届いた。

 死神の爪が、龍の命を刈り取る。それは、新たな龍の世界の誕生の兆しとなった。


「ガアアアアアアアアッッ!!」

「……これで、終わりだ」

「ぐ……何を、言う……これから、始まるのだ……!」


 ミドナの身体が光り、薄くなってゆく。永きにわたってこの世界の希望であり続け、そして多くの犠牲を生み出してきた存在が、失われようとしている。奴は笑みを浮かべながら、最期の一言を発した。


「一つだけ、お前に贈り物をやろう。これは祝福か、あるいは罰か……」

「……?」


 ミドナは、それだけ言って消えた。それと同時に、辺りが崩れ始めた。出口を探して下を見ると、大きな穴が開いている。そこから戻れるという確信はなかったが、そう信じて飛び込んだ。暴風に弄ばれるように俺はあちこちに身体を持って行かれながら、光の見える方に向かって落ち続けた。

 どれだけ時間が経ったか分からなくなった頃、ミドナの森が見えてきた。地上に降り立った瞬間、凄まじい痛みが身体を襲ってきた。『身体強化』の反動が来たのだろう。力を使い果たしていたこともあって、俺は何もできずに意識を失った。

 目を覚ますと、俺は自分の部屋にいた。辺りを見回す前に、城が揺れるほど大きな歓声が耳元で聞こえた。


「ノワール様!!!!!!!!!!」

「!?」

「ノワール様がお目覚めになった!!!!!!!!」

「だーっ、うるせえ!!」


 身体を起こして声を上げ、周りにいた龍たちを黙らせる。そして場所を移し、城の入り口の方で龍たちから話を聞いた。


「──────そういうわけで、ノワール様は行方不明になり、森の中で倒れていらしたのが見つかってからもしばらく意識を失ったままだったのです」

「……そうか」

「何にしても、命が助かって本当に良かった。よろしければ……あの後起こったことを、お話しいただけますか?」

「……ああ。まず、テルについてだが……」


 俺がそう言いかけたところで、その場にいた他の全ての龍が訝しむような表情を浮かべた。名前さえ今初めて聞いたというような様子だったから、思わず笑みがこぼれてしまった。


「おいおい、覚えてねえのかよ。いつも俺の傍にいた……」

「……ノワール様、大変申し上げにくいのですが……」

「あ?」

「テル、とは一体誰のことでしょう?」


 俺は目を見開いて、しばらく何も言えなかった。まさかと思い、いのりやミクの名前を出してみたが、同じ反応が返ってきた。さらには、ほぼ全ての龍が信仰していたミドナさえ、誰も覚えていないようだった。


「それじゃあ、ヴァイスも覚えてねえのか……?」

「いえ、それは分かりますよ。良かった、急に知らない名前を並べられたものだから」

「……」


 どうやら純血種に関する記憶だけが、他の龍の中から抜け落ちているらしい。恐らく、ミドナが言っていた贈り物とはこれのことだろう。世界の混乱が抑えられた一方で、あの場所での出来事を誰に話しても信じてはもらえないようだ。話を聞いてみると、俺とヴァイスは決着をつけるために空の向こうへ飛び立ったことになっているらしい。俺は何とも言い表しがたい虚しさを感じ、この戦いについてそれ以上話さないことにした。

 それから、俺はスタンダールとメルヴィルの両方の王を務めることになった。初めはヴァイスの死を信じられないメルヴィル達によって暴動が起こり、その鎮圧に追われたが、ヴァイスが戻ってこない以上はどうしようもないという考えが少しずつ優勢になり、日が百回ほど沈んだ頃にようやく落ち着いてきた。

 俺は、前に考えていたように後から暴君に戻ろうとは思わなかった。自分の死を誰も悲しまないことが、こんなにも虚しいとは思いもしなかった。


「テル……お前の方が、俺の望みを叶えちまったんだな」


 誰にも話せない複雑な心境を胸にしまい、息をつく。直後、一頭の龍が突然慌てた様子で駆けてきた。


「ノワール様、外をご覧ください!」

「外?」


 そう言われて城の外に目を向けると、空は晴れていたのに、遠くで雷がいくつも落ちているのが見えた。周りの龍たちはその原因がわからず、何をどうすればいいものかと焦りながら必死に考えていた。

 俺は、この雷に呼ばれているように感じた。考えるより先に、身体が動き出していた。周りの龍たちの制止もきかず、雷が落ちている方向へ飛んでゆく。果てしない距離を飛び続け、俺は再び龍の世界の外に出た。城を出た時はまだ昇ったばかりだった日が、もう傾いて沈みかけていた。


 ◆

 辿り着いた先は、人間の世界だった。今度は誰にも見つからないように、場所を選んで地上に降り立った。辺りを見回すと、近くに見慣れた人間の姿があった。


「いのり!」

「……!」


 いのりは俺が周りの人間を気にして動き出せないでいるのを見て、俺の方を一度見てから反対の方向に歩き出した。しばらく上空からついていくと、周りに人間がいない丘の上に着いた。


「ノワール、来てくれたんだね」

「……ああ。無事で良かった。だが……何か別の呼び方をしてくれ。他の奴らが雷に怯えて大変だったぜ」

「ふふ、ごめんね」

「それで……何でいきなり呼んだんだ?」

「……それはね」


 微笑みを浮かべたまま、いのりは目を閉じる。何も起こらないまま、ただ時間だけが過ぎる。何か、言いにくいことを言おうとしているのだろう。何も言わず、いのりが再び話すのを待った。


「……お別れを、言いたかったの」

「……そうか」

「初めて龍の世界に来た時、私がいるべき場所はここだと思った。人間の世界ではとても生きていけないから、皆が特別な力を持っているスタンダールの城は、とても居心地が良かった」


 俺は、黙っていのりの話を聞いた。いのりは、きっと俺のことを心配したからこの話をすることにしたのだろう。何も言わないまま去ってしまっては、俺が人間の世界まで探しに来ると思ったのだ。


「ずっとあそこに居たかったけれど……本当はここにいるべきじゃないとも思ってた。私は……人間だから」

「……ああ」

「だから、私は龍の世界には戻らない。この力も、だんだん使う回数を減らす。一人の、普通の人間として……この世界で、生きていくわ」


 いのりの決意を否定して、引き留めることはできなかった。いのりは人間で、龍ではない。だから、人間の世界で生きていくのが道理だ。


「……本当は、不安もあるわ。まだ学校で使うのをやめただけで、親も説得できてない。でも、少しずつでも、変えていきたいの。自分の力で、望みを叶える……それが人間で、エレイアはその姿に憧れてここに来たんだと思うから」

「……」

「だから、だからね、だから……!」


 いのりの声が、少し震える。拳を握り、歯を食いしばって震えを抑えようとしても、止まらない。この決断が正しいものなのか、今も迷っているのだろう。それを正しくないと断ずることは簡単だ。そして、それを正しいものにするために一歩を踏み出すのは、ずっと難しい。


「……お別れなんて言うからそんなことになんだよ」

「……」

「人か龍か、白か黒か、そんなもんはっきりさせる必要はどこにもねえ。辛くなったら来る、困ってなければ来ねえ、それでいいだろ」


 それは、半分は本心で、もう半分は願望だった。いのりと、人間と龍の間の大きな壁を超えた相手ともう会えないというのは、俺にとっても辛いことだ。


「でも……」

「人間も龍も、そうはっきり一つに決められるもんじゃねえんだ。この戦いで、それがよく分かっただろ」


 いのりは俺の言葉を聞いて、握った拳の力を緩めて息をついた。それから何も言わずにしばらく呼吸を落ち着かせた後、再び口を開いた。


「……うん。お別れを言うのは、やめる」

「……そうしとけ。自分に厳しくすることと、自分を追い詰めることは違うからな」

「うん……ありがとう」


 いのりから真っ直ぐに向けられた感謝の言葉が妙に気恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまった。


「ま、会わないことを願うってのも変な話だけどな」

「ふふ、そうだね」

「……じゃあ、そろそろ俺は帰るぜ」

「……うん。元気でね」


 どうか、もう逢うことがないように。珍妙な願いを同時に口にして、俺たちは別々の方向を向いた。これから龍の世界も、人間の世界も、いのりも、俺も、大きく変わってゆくだろう。だが、この願いだけは、きっと変わらない。そんな確信を抱いて、俺は長い帰路への一歩を踏み出した。


 逢魔が刻に君に逢う 完

裏話とかキャラクターの設定とかをここで説明してると本当にキリがないので、あとがき用のnote記事を公開しました。

ネタバレを多分に含みますので、一通り読んだら覗きに来ていただけると幸いです。

ネタバレを気にしない方であれば、こちらを先に読むのも手かもしれません。

https://note.com/youtoto238/n/n029b638fb1c8

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