八章(下)
八章──眼を見切る(下)──
◇
イチカが叫んだのは、決して奴の父とはなりえぬ竜の名だった。言葉にこそ出さなかったが、確かに父上は母上を愛していた。母上が病に倒れた時、私は初めて父上の涙を見た。今も私の記憶の中に残り続けるその涙が、全てを物語っている。
「……ふざけるな!父上は母上を愛していた!まして、スタンダールと子を成すなど……」
「恐らく、お前の母と出会う前のことだ。若気の至り……きっとそういうものなのだろう。奴が俺のもとを離れてからクロガネに倒されるまで、とうとう俺に会うことはなかったからな」
「そんなこと、あるはずがない!父上が、そんなこと……!」
否定を続ける私を差し置いて、イチカは静かに自身の過去を明かし始める。しかし構えは解かずに警戒を続けており、不意打ちを仕掛ける隙はなかった。
「俺は幼い頃に、母を亡くした。手先の器用な母だった。この歪な身体を持つ俺に、鱗と見分けがつかない、精巧な黒い装いを作ってくれた。スタンダールとメルヴィルがいがみ合うこの世界で、俺がはぐれ者にならないように……」
「……」
静寂の中、イチカは過去を懐かしむようにそう語った。その後、一度息をついてから、憎しみを剥き出しにして話を続ける。
「俺とお前の父……ヴァームルクが、母を殺した。母の持っていた『見切り』の力を手に入れるために……!」
「違う!父上は確かに、長き戦いの果てに『見切り』の力を得た!私とは違う!私とは……!」
私がそう言った瞬間、イチカが激しくこちらを睨む。眼を閉じたままでありながら、奴は今まで見たことのない殺気をその身にはらんでいた。あまりの威圧感に思わず身が竦み、言葉に詰まってしまった。イチカはそれまでよりもずっと低く重い声で、恨むように言葉を発した。
「喰ったんだよ……!それが最も早く力を得る方法だからな!お前がヴァームルクに対してそうしたように、いや、もっと惨い……!奴は生きていた俺の母を殺して喰ったのだ!」
「嘘だ!嘘、だ……!」
私は奴の言葉を信じることができなかった。しかし、いくら嘘だと言い張っても、記憶の中の慕うべき父上の姿が、霞んでゆく。
「……信じたくなければ信じなければいい。それがお前にとっての現実だ。だが……これは事実として、俺の身体に、記憶に、焼きついている……それだけは、変わらない」
「……」
私が『見切り』の力を持っているとわかった途端、イチカはこちらに鋭い殺気を向けた。その心中が、少しだけ理解できた。奴は自分から母を奪った父が、そしてその力の由来も知らずに手にした私が……許せないのだ。
イチカは語るべきことはもうないとでも言うように構え直した。奴の、そして父上の過去を知らない私には、奴を否定することはできない。私にできることは、復讐を果たし、覚悟を示すことの他にないのだ。『見切り』をスタンダールから奪った咎を背負い続ける覚悟を、そして、その力を授けた父上を信じ続ける覚悟を────────
「今!俺の最大の技をもってお前を迎え撃とう!……"鏡花水月”!」
「!」
私が攻勢に出るより早く、イチカは技の名を叫んだ。”千鳥”と同様、あるいはそれ以上に聞き慣れない名前だった。足を止めて後退し、イチカを睨みながら回避に集中する。しかし、奴は全く動き出す気配はない。眼を閉じたまま、外から見てもわかるほど凄まじい集中力を働かせているにもかかわらず、戦況は一切動かなかった。
「……?」
「……」
イチカは、まだ動かない。発動に時間のかかる技なのだろうか。あるいは、最大の技というのは私を退かせるために用意した嘘だったのだろうか。奴は一切動いていないのに、時間が経てば経つほど、私の思考は乱れてゆく。恐らく、それが奴の狙いだろう。ならば、これ以上振り回される前に決着をつける他にない。
駆け出して、攻勢に転じる。イチカの命に向けて腕を伸ばす。爪を立て、それを引き裂こうとした時、私は既に三度、奴によって攻撃されていることに気が付いた。
「……え?」
防御の姿勢を全く取ることができず、いつの間にか我が身に生まれていた大きな切り傷をただ呆然と眺めることしかできなかった。いつ、どのように攻撃されたのか。”キョウカスイゲツ”は、どのような技であったのか。奴の情報は、全く見えなかった。
「”鏡花水月”は……決して手を触れることができないものを指す、人間の言葉だ。水に映る月に手を伸ばした者は、溺れてしまう……もう指一本さえ、お前から俺に触れることはできない」
「何……!」
挑発を目的にしている様子はなく、ただそれが揺るぎない事実であることを伝えるようにイチカはそう語った。それが、私にとっては尚更腹立たしかった。私は、あの日よりも強くなった。『見切り』の力も得た。それでも、奴には届かない。そう言われているように感じた。
再び地を蹴って、攻撃を試みる。先ほどは攻撃に意識を割きすぎていた。私が攻撃するまでイチカは動かなかったから、奴の狙いは私の意識の偏りにあるはずだ。攻勢に転じることで奴の攻撃を誘い、それを受け止めながらこの技の全貌を見切る。それが最善だと思った。
「おおおっ!!」
「……!」
────────違う。奴が視ているのは、私の攻撃だけではない。それに気付いた時、私の身体には四つ目の裂傷が刻まれていた。さらに翼による追撃を受け、木々を薙ぎ倒しながら後方に吹き飛ばされる。
「がっ!!」
私は、イチカが使ったのは反撃の技だと思っていた。奴が反応するのは私の攻撃、あるいは、攻撃の動作に入る前の殺気かもしれない。そこに生じた意識の偏り……あるいは意識の穴につけ込み、攻撃を受ける前に反撃を行っているのだと考えた。しかし、実際はそうではなかった。奴が視ていたのは、攻撃も含めた私の全てだ。攻撃も、防御も、あるいは私がこのような考えに至ることさえも、奴は既に見切っていたのだ。
恐らく、イチカも初めからこの技を使えたわけではない。奴はメルヴィルを相手に手加減はしないと語っていた。もし初めから使えたならば、メルヴィルの王に対して初めからこの技を使わないはずがない。だからこそ、奴が今この技を使ったという事実が恐ろしい。それは、これまでの戦闘や観察、そして対話を通して、奴は私の全てを見切ったという確信を抱いていることを示している。
「……気付いたか」
「……!」
「敵の性格、動きの癖、呼吸の調子……あらゆる情報を掴まなければ、”鏡花水月”は使えない。だが、お前はそれほどの観察を俺に許した。もはや……これまでだ」
慢心しているような口ぶりだったが、イチカの姿勢からは全く驕りが見られなかった。私の息の根を止めるまで、奴は決して気を抜かないだろう。つけ入る隙はどこにもない。
全身から力が抜ける。それを視て、イチカは失望したような様子を見せた。奴の言う通り、私の覚悟は半端だったのかもしれない。私は自分で思っているより、ずっと弱かったのかもしれない。ミカエルが私に望んだのは、きっとこんな結末ではなかったのに。今になって、激しい後悔が襲いかかってくる。
「……その命、貰い受ける!」
それに構うことなく、イチカは私に向かって突進する。一歩、また一歩と、死が迫ってくる。その恐怖に耐えかね、思わず目を閉じた。
『ヴァイス……行けッ!!』
「!」
記憶に焼き付いたあの日の彼女の叫びが、頭の中に響いてくる。突如全身に力がみなぎり、眼前に踊りかかる黒龍の爪牙を受ける直前で躱した。急に疼きを感じた左腕を見ると、ミカエルの残した逆鱗……彼女の力の源が、光を発していた。
────────違う。私は、この復讐を諦めはしない。諦めてはならないのだ。諦めてしまえば、彼女は過去になってしまう。今も私の身体を突き動かし続けている彼女が、時とともに消えていってしまう。たとえ彼女がそれを望んでいたとしても────────私は、彼女を忘れたくはない。
「その光……逆鱗か!」
「ミカエルは……ここにいる!彼女が私を突き動かす限り!ミカエルは……死んでも、生き続ける!!」
「ッ……”千鳥”!」
イチカは技を使って一気に後退し、体勢を立て直す。逆鱗の力が加わったことで、奴の掴んでいた私の情報が変化し、”鏡花水月”はまたしばらく使えなくなったものの、私の動きがほとんど奴に見切られていることに変わりはない。その逆鱗の力も、いつ途切れるかわからない。少しでも早く、決着をつけなければならない。イチカが再び”鏡花水月”を使う前に、奴を殺すのだ。たとえ、奴の亡骸の上に私が倒れることになったとしても。
森林を駆け抜ける黒き閃光の残像を、幾度となく切り裂いた。流星のごとく、その漆黒の身体の中に立ち現れては消える白い鱗を、必死の思いで捉え続けた。
奴が私の殺気を読むよりも、速く────────それは、叶わない。私が奴の胴めがけて飛び込む直前、イチカは地を蹴って後退しながら、反撃に備えて構え始めた。
奴が反撃を繰り出すよりも、疾く────────それも、叶わない。イチカは空中で隙を晒しながら突撃する私に向かって、反撃を加えんと腕を伸ばす。
だが、奴の反撃が当たるよりも、迅く────────私はイチカの身体に渾身の一撃を叩き込んだ。
◆
『『「……があああああああああッッッッッッ!!」』』
その咆哮は、ミカエルと、そしてあの日のモミと重なって、俺は思わず動きを止めた。その瞬間、手の届かぬ水月となった俺の身体に、奴の爪の先端が届く。
ヴァイスの一撃は、回避が遅れた俺の片耳を掠め、そのまま削ぎ落とした。血が首筋を通って布を伝い、爪の先から滴り落ちる。
傷口を潰すように強く握って強引に止血すると、残った片耳に俺の身を案じた仲間のざわめきが聞こえてきた。そして、ヴァイスの声も。
「隊長!!耳が……!」
「……終わりだ。今の貴様は片眼を潰されたようなもの……そのような有様で、私を破ることはできない」
「……」
俺は俯いたまま何も言わず、地面を強く踏みしめた。衝撃に耐えかね、地割れが起こる。そのまま顔を上げ、ヴァイスの方を向くと、奴は驚いたように呼吸を乱した。
「!」
「……俺は!決して復讐の火種にはならん!!」
再び立ち上がり、攻撃を受けて失った力を取り戻すように声を張って叫んだ。それに共鳴するかのように突風が吹き、木々が大きく揺れる。
「言ったはずだ……!俺は、今ここで、この争いを終わらせる!」
「まだ、そのような夢物語を……!王同士の一騎討ちでしか、この争いは終わりえない!」
ヴァイスも声を張り上げ、俺の言葉を否定する。だが、やはり奴は知らないのだ。いや、もはや俺以外に知っているはずもない。ミクに話をした時も、ついに詳しく語ることはしなかったのだから。
俺は、まだもう一つだけ技を隠している。復讐に囚われ、戦乱に身を投じ続けたこの生の中でも、一度も使うことのできなかった技を。
「夢じゃないさ……”朧”ッッ!!」
持てる力の全てを出し切る思いで真下に向かって炎を吐く。瞬間、俺の身体は業火に呑み込まれ、激しい炎熱の苦しみが襲いかかってくる。
たとえ、ひとひらの花の如く儚く、一点の火の中で、この命が灼け落ちても。それでも、俺はこの争いを終わらせる。その一心で敵を視た。
◇
「血迷ったか!いくら龍の身体が熱に強いとはいえ、それほどの威力の炎……!耐えられるはずがない!」
「ッ……おおおおッ!!」
身体に炎を纏ったまま、イチカはこちらに突進する。明らかに、正面から受け止められる威力ではない。だが、奴の命が灼け落ちるまで避け続ければ、私の勝利だ。奴が隠し持っていた最後の技は、実に明快なものだった。
奴の攻撃が当たる直前で回避し、後退しながら体勢を立て直す。奴の身体に触れた木々は一本の枝のように容易くへし折れ、勢いよく燃え上がっていた。次の一撃に備えて立ち上がろうとした時、身体に痛みが走り、思わず姿勢を崩した。
「!?」
さらに後退して自分の身体を見ると、鱗が焼け焦げて剥がれ落ち、腹部から鮮血が流れ出ているのが見えた。疑うまでもない。私が完全に躱したと思い込んでいた奴の攻撃は、僅かに当たっていたのだ。
その時、私はイチカの目的を見誤っていたことに気が付いた。自らの身を炎で焦がしたのは、威嚇のためでも、炎を纏って攻撃を強めるためでもない───────奴の本当の狙いは、その身に宿した熱だ。
熱によって奴の筋肉は急激に膨張し、メルヴィルをも凌駕する速さと威力を得ている。さらに、奴の身体が発する熱によって周りに発生した陽炎が私の視界を歪め、もはや私にとっても致命傷になりうるその攻撃を避けづらくしているのだ。
激しい運動に伴い、さらに身体の熱は上がり続ける。スタンダールとしての限界に差しかかっていた”心眼”も、それによってなおも研ぎ澄まされる。一瞬間のうちに、それまでのイチカとは比べ物にならないほど強くなってゆく。奴はその余生を急速に削りながら、生涯最大の強さを塗り替え続けているのだ。
攻撃を受け止めることはできないが、逃げ続けていれば勝てる。自身の命を削った凄まじい威力の攻撃を見せることで私にそう思い込ませ、その力が私を上回るまで時間を稼ぐ。恐らく、それが奴の考えだ。
奴は私を上回るその時まで、自らの身を焦がす炎熱に耐え続けるつもりでいる。正気じゃない───────奴は、紛れもなく本気だ。本気で、自らの命が燃え尽きるその前に、長きにわたるこの争いを終わらせるつもりでいる。
「そうは……させるかああッッ!!」
意を決し、攻勢に転じる。熱風を起こし、辺りの木々を焼き尽くしながら接近する赫き災厄に向かって、勢いよく地を蹴った。
◆
止まるな、止まるな、動け、動け、動け。止まってしまえばその分だけ、命尽きる最期の瞬間の俺は弱くなる。悔いが残る。復讐の、火種が残る。どれだけ乱雑でも、醜くても、止まることは許されない。
頭から尾の先まで、余すことなく攻撃に使う。木々を薙ぎ倒し、土煙を巻き起こしながら、俺は自分の力が増し続けているのを感じていた。もう少しで、ヴァイスを殺せる。守るべきものを、守ることができる。俺の復讐も、終わらせることができるのだ。
俺が力尽きるのを待ち、逃げ続けていたヴァイスが攻勢に転じた。俺の狙いに気が付いたのだろう。だが、もう既に遅い。今の俺ならば、奴と正面から戦うことができる。
炎の中から奴の爪が現れるのが視えた。それが俺の身体に触れる直前に回避し、反撃を繰り出す。もはや俺の”心眼”は、遠くのものを見通すことはできない。片耳を削がれて聴覚は弱まり、絶え間なく流れる彼我の血や、自らの命が灼かれる匂いで嗅覚も歪んでいる。だが、捉えた世界はより一層鋭くなっていた。ヴァイスのもたらす死を触覚で受け止める直前に、微かな風圧を捉えて躱す。それは、今の俺には十分可能だった。
迫り来る死を払い、眼の前で躍動する生を断たんと、俺も力を込めた腕で死を差し向ける。死合いという極限の状況にあって、スタンダールとメルヴィルに差などない。双方の攻撃が、互いにとって死そのものなのだ。
ヴァイスは天を翔け、方向を変えながら次々に攻撃を仕掛ける。俺と同じように、奴も一切止まらない。どちらかが力尽きるまで、もうこの戦いは動き続けるしかないのだ。あとは、広大なミドナの森を火の海に変えながら音を立てて崩れてゆく自らの命に、全てを委ねる他にない。
死合いが続くにつれ、視える世界が明るくなってゆく。”心眼”が、研ぎ澄まされてゆく。だが、まだ足りない。メルヴィルの王を殺すには、まだ力が足りない。対等な戦いが続いてはならないのだ。あくまでも俺が力尽きるその前に、奴を殺さなければならない。
もう、決着をつける頃合いだ。俺は一度後退してヴァイスから離れ、”心眼”を働かせた。
あと僅かでも遠くから奴の姿を捉えることができれば、俺は奴を殺すことができる。だが、これで奴の姿を捉えることができなければ、次の攻撃の回避は間に合わないだろう。
危険な選択だ。この愚かな決定のせいで、掴み得たかもしれない勝利を逃せば、俺がこれまで守れなかった者たちにも、今守ろうとしている者たちにも、合わせる顔がなくなってしまう。だが、それでも……何としても、世界を描く!
「───────『心眼』!」
「!」
瞬間、ヴァイスの姿が視えなくなった。それまで聴こえていた翼の音も、呼吸の音も、聴こえない。奴に関するものだけを、一切感じることができなくなった。
違う、これは、俺の危惧していた敗北の形ではない。俺は、確かに奴を感知している。だが、捉えることができない。その歪な状況に当惑し、ほんの一瞬、身体の動きが止まった。
「……!」
「あ……」
その異様さに気付いたのか、ミクが声を漏らすのが聴こえてきた。やはり、『心眼』は働いている。そこで、俺は一つの可能性に思い至った。直後、眼を開くと、ヴァイスの翼が風を切る音が間近に聴こえた。視界に奴の姿がないことを確かめると、背後に向かって大きく腕を振り下ろした。
「「うおおおおおおおおおッッッッ!!」」
◆
隊長とヴァイスの姿は、彼らの叫びが重なると同時に炎と土煙に包まれ、見えなくなった。
勝利への期待、敗北の覚悟─────隊長の身体が炎に包まれてから、辺りにいた者たちの中には様々な想いが渦巻いていた。戦いと呼ぶにはあまりに美しいその死闘が、終わりを迎える。周囲を見回すと、敵のメルヴィルさえも、隊長の方を見るその目に涙を浮かべていた。
土煙は、なおも晴れない。戦いの行方は、まだ分からない。私は、隊長の攻撃が届いたと信じている。けれど、最後の瞬間に動きを止めた隊長の姿が、胸に引っかかり続けていた。
燃え上がった木々が倒れ、火の海と化したミドナの森の中で戦いを見ていた全ての者が、じっと勝敗が明らかになる瞬間を待ち続けていた。
突如風が吹き、土煙が晴れる。その瞬間、ここにいるスタンダールとメルヴィルのどちらかは勝利の歓びを、もう一方は喪失の悲哀を手にすることとなる。息を呑み、煙の中から現れた勝者の姿を見た。
そこに立っていたのは、隊長だった。ヴァイスは隊長の爪に腹部を刺し貫かれ、ぐったりとして動かない。逆鱗の光も、失われていた。
「隊長……!」
「……認めよう。お前の力、そして覚悟……決して半端なものではない」
「……」
隊長は今にも倒れそうな身体で、動かないヴァイスに言葉をかけた。
「……俺も、無事では済まん。戦いに出るのはおろか、生きているのがやっとだろう。だが、それでも……お前が犯した罪、そしてお前を止めた俺の罪、俺がミドナのもとに向かうその時まで、ずっと背負ってやる……!」
隊長がそう言い終えた後、ヴァイスの身体が僅かに動いた。まるで地の底から何者かに押し上げられるように立ち上がると、左腕の逆鱗も輝きを取り戻し始めていた。
◇
私は、間違いなく敗れた。イチカの一撃を受け、地に倒れ伏した。だが、それでも、私はまだ復讐も、王としての務めも果たしてはいない。死ぬには、あまりにも早いのだ。
何かが、私の身体を押し上げているのを感じた。逆鱗の力を得た時のように、全身に活力がみなぎってくる。それに呼応するように、逆鱗が再び光を放つ。
「何度でも、太陽は昇る……私は、何度でも立ち上がる!たとえ、その行く末が、誰の望むものでもなかったとしても!」
私は、メルヴィルの今を照らす太陽だ。全てのメルヴィルが、それを望んでいる。私のために、数えきれないほどの竜が命を落としている。それに構わず、成すべきことを成すこともしないまま倒れて死ぬことなど、許されない。
身体に力を込め、イチカが私の身体から腕を引き抜くのを食い止めながら立ち上がる。
「ぐ……腕が……!」
「もう……どこにも逃げられは、しない!」
「……!」
この復讐は、ミカエルの望みではないのかもしれない。それでも彼女を過去にしないために、引き下がるわけにはいかない。それが私の出した答えだ。
腕を振るい、イチカの身体を大きく突き上げる。すかさず地を蹴って天を翔け、空中のイチカに持てる力の全てを使って追撃を加え、叩き落とす。ミカエルが命を落とす直前に教えてくれたこの技で、私は”朧”との因縁に決着をつけた。
◆
一瞬の出来事だった。倒れていたヴァイスが再び立ち上がり、俺に攻撃を加えた。決して、気を抜いていたわけではない。奴の呼吸は完全に止まり、死んでいた。立ち上がったというよりは、蘇ったというべきだろう。事実、今の奴の攻撃は、奴の残している力だけで出せるような威力ではなかった。
天から地へと強く叩きつけられ、俺は倒れたまま一歩も動くことができない。あとはこのまま、間近に迫った死を待つのみだ。
決着がつく最後の瞬間、奴の姿が見えなくなった時……いや、俺の『心眼』が、ヴァイスの『見切り』によって通じなくなった時、俺は嬉しかった。それは、モミと出会ってから磨き続けてきた『心眼』が、生まれ持った龍の能力に匹敵するほどの域にまで達し……”業”となったことを示しているからだ。
俺は、ようやく『拘束』という生来の呪いを解くことができたのだ。モミが与えてくれた力、そして彼女への想いのおかげで、俺は生まれながらに定められたものではない何者かになることができたのだ。それほど、喜ばしいことはない。
「……メルヴィルの王、ヴァイス……!」
「!」
力を振り絞って呼びかける。初めて俺に名を呼ばれた腹違いの弟は、ひどく驚いた顔をしていた。先ほどの攻撃で確実に殺したと思ったのだろう。
本当は、最期の言葉は”朧”の仲間に遺すべきなのかもしれない。だが、そんなことをしてしまえば、俺を過去のものにする妨げになってしまう。だから、俺は生涯憎み続けたメルヴィルたちの慕う王に、言葉を遺すことにした。
「……これ以上、過去に囚われるな……!俺以外の者を、憎むな……!俺のようには、なる、な……!」
「……言われずとも、そのつもりだ」
ヴァイスは顔色一つ変えずにそう言った。タデと手合わせをした時、俺もそう言ったのを思い出した。あの時、俺は自分がその誓いを破ることになるとは露ほども思っていなかったことも。
右腕に巻いていた布を見ると、完全に灼けて黒く焦げ、一部は腕の皮にくっついていた。
俺は結局……どこまでも盲目だった。ずっとモミの望みに気付かずに多くの竜を殺した上、また大切なものを守ることができなかった。俺は、彼女から受けた恩を、何一つ返すことができなかったのだ。
『イチカ』
瞼が重くなり、眼を閉じた瞬間、どこかから声が聞こえてきた。遠い過去に失った、けれど記憶に残り続けている龍の声。
『ありがとう』
「……!」
モミはきっと、此処にいる。ふと、ミクの言葉が脳裏をよぎった。モミはずっと、此処にいたのかもしれない。命尽きるその間際に、出会いの印となったこの布に、想いを託していたのかもしれない。
ああ、それならば、俺はなおさら盲目だ。モミを過去のものにし、断じて此処にはいないと信じた。そして、ミカエルが此処にいると言い切ったヴァイスが、勝利を手にした。長きにわたる死闘だったが、ただそれだけの話だったのかもしれない。
辺りが徐々に暗くなる。死の闇が、俺の描いた世界を覆う。悔いは多いが、怖くはなかった。ずっと視えなかった龍の姿を、視ることができたから。
◆
ミドナのもとに旅立つ直前、隊長は笑みを浮かべていた。少し離れたところから見ていたが、その表情ははっきりと見えた。言葉にできないほど悔しくて、悲しいけれど、それを見て少しだけほっとした。
ヴァイスが少し足を引きずるようにしながら、隊長の亡骸に近づいていった。そして、隊長の両目に向かって両腕を振り下ろし、爪で顔を刺し貫いた。
「……ミカエルを、そして数えきれないほどのメルヴィルを殺しておいて、安らかな死が貴様に訪れると思ったのか?言ったはずだ、その眼を潰し、翼を千切り、惨たらしい死をくれてやる、と……!」
ヴァイスは続けて隊長の翼の片方に手をかけ、へし折った。初めはあまりに急な出来事に驚くことしかできなかったが、目の前で起こったことを理解するにつれ、激しい怒りが込み上げてきた。
ヴァイスがもう片方の翼に手をかけたところで、近くにいたメルヴィルが駆け寄って叫んだ。
「ヴァイス様、もうおやめください!退がって治療を……!」
「黙れ!……どうして自分は自らを慕う同胞に見届けられて、ミドナのもとに向かえると……そう思ったんだ?どうして、どうして、どうして……!」
ヴァイスは自身を諌めるメルヴィルを突き飛ばして隊長の亡骸に向き直り、再びその身体を傷つけ始めた。そのあまりに残酷な行いに、メルヴィルさえも黙って身を震わせていた。私は隊長の言葉を思い出しながら必死に堪えていたが、ヴァイスが隊長の右腕を切り裂いたところでとうとう耐えきれなくなってしまった。怒りに震える身体を抑えながら、ゆっくりとヴァイスのもとに近づいてゆく。
「おい、お前……何を、してるんだ……!」
「副隊長、駄目だ!」
数頭の龍が私の両腕を掴み、引き下がらせようとした。抵抗しながら、必死に前へ進み続ける。
「離せ!私は……!」
「隊長の指示に従うんだ!俺たちはもう、”朧”じゃない……全部に従えなくてもいい!隊長のことなんか……忘れられるわけがない!」
「……」
私を押さえている龍のうちの一頭が、私に向かって叫んだ。彼らもきっと、私と同じ気持ちなのだろう。それはわかっているけれど、私は他の仲間のように賢くはない。言葉一つで怒りを鎮められるほど、賢くはないのだ。
「でも……それでも、生きるんだ!復讐のことも、朧のことも、隊長のことも、忘れられなくても……俺たちは……それでも、生きなければならないんだ……!」
涙を浮かべながら、彼はそう訴える。彼の言葉が終わると同時に、ヴァイスは隊長の亡骸から離れた。満足したとでも言いたげな、憎らしくて仕方がない表情をしていた。
「……私の戦いは、これで終わった。後は王として、全てのメルヴィルのために……!」
ヴァイスはそう呟いて飛び去った。傷つけられ、ぐちゃぐちゃになった隊長の亡骸の前に、力なくへたり込んだ。悲しみが、後悔が、怒りが、同時に私の中に渦巻いて、抑えられなくなった。
「うう……うああああああああああッッ!!」
「!」
辺りの龍がこちらを向くのも構わず、私は涙を流しながら咆哮した。
雨が降り、森の半分を覆うほどの巨大な炎の海を消し止め始める中、空に見える歪みへと吸い込まれるように、私は飛び上がっていった。
八章──眼を見切る(下)── 完




