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プロローグ 異世界転生ってどういうこと……!?


 剣の刃と、甲殻がぶつかり合う音が響く。

 そこかしこで、猛々しい声と爆音が混ざって聞こえてくる。悲鳴も聞こえてくる。

 その過酷な戦場で、少女たちは音楽を奏でる。

 誰かを勇気づけるために。

 誰かを前に進ませるために。

 誰かの命を救うために。

 自分達ができることをする。

 「音楽」という形で戦う。

 場所、異世界のとある戦場。開演時間=友軍の作戦開始時刻。細かく言うなら帝国暦3075年、水の月19日、火の刻。観覧料、完全フリーのボランティア。出演バンド、一組だけ。観覧可能人数、おいくらでも。具体的な数はわからない。

 異世界ワンマンライブ、スタート。

 

 彼女たちの異世界音楽生活は、一人の少女の転生から始まった。

 

 鷹峯碧は、音楽好きな少女だった。

 演歌歌手の母と音楽プロデューサーの父を持つ彼女にとって、音楽や歌は日常にごく自然に溶け込んでいるものであり、彼女の生活の一部だった。

 成長するにつれて、当たり前のように碧は音楽にのめり込んでいった。

 母親から歌の歌いかたを教えられ、母から受け継いだ歌声と幼さゆえのあどけなさで小さな頃から地元の大人たちの人気を集めていった。

 そんな彼女も年を重ねていくうちに、自分の将来について悩むようになり始めた。

 碧が好きなのは、歌であり音楽である。それは間違いなかった。

 そして、彼女はできるのなら自分の好きなことで生活していきたいとも思っていた。

 だが、願うだけでそれが叶うほどその世界は甘くはない、ということも彼女は知っていた。

 いったいどういった形で将来を過ごしていけばいいのか。彼女は悩み続けた。

 碧の両親は、我が子の苦悩を理解しつつも、あえてなにも口出ししないようにしていた。

 「私と同じように演歌歌手になりなさい」とも、「安定した仕事につきなさい」とも言わなかった。

 その優しさが、かえって娘を悩ませることになるとも知らずに。

 中学校卒業までには、その答えは出てこなかった。

 そんな碧の心の中には、かつて見た記憶が残っていた。彼女が小学校一年生の時に偶然見た軽音のライブの記憶。

 記憶のなかに残るバンドは、女子高生だけで構成されていた。

 ステージの上に立つ彼女たちは、キラキラと輝いていた。

 わたしも、こんな女の子になりたい。ステージの上で輝ける女の子になりたい。碧は、そう思い始めるようになった。

 高校では、軽音楽をやろう。できるのなら楽器も一つくらい弾けるようになって、あのときの彼女たちみたいに輝けるようになろう。

 碧は決心し、高校受験をどうにか突破し、第一志望の高校に入学することができた。

 これから、わたしの輝く高校生活を始めよう。

 そう心に誓い、碧は高校生活の一歩を踏み出す、はずだった。

 高校入学の初日、彼女の命は一度消えることとなる。

 

 「え? ここは……?」

気付くと、真っ暗な空間にいた。

 光ひとつない空間。自分の姿も見えない。

 たまらず、碧は暗闇に向かって声を出した。

「あの、誰かいませんか?」

「ここにいるわよ」

 返事が帰ってくると共に、光が空間にともされた。一度ついた光は、一気に暗闇を満たしていく。

 思わず碧は目を手でおおってしまう。まばゆい光に、目が眩みそうだった。

 目が光になれてくると、碧は光の中に人影を見た。

 「あ、あなたは……?」

そこには、一人の女性がいた。白と水色を主体にした衣服をまとう、美しい蒼銀の髪と青い目をした女性だった。

 「天使。そんなところかしらね」

天使と名乗るその女性の背中には、その言葉にふさわしい白く大きな羽が一対生えていた。あまりの白さ故に、心なしかその時の碧の目にはそれが自ら光を放っているようにも見えた。

 天使は、柔らかく笑った。しかし、その笑みにはどこか得体の知れないものがあり、碧は無意識のうちに後ろに一歩下がっていた。

 「あら、なかなか勘の鋭い子だこと」

天使は底知れない笑みを浮かべる。

 そして、一瞬の間に碧との距離を詰めると、

「そういう子、好きだけど嫌いよ」人間の少女をその碧眼で見つめ、彼女の細い顎をしなやかな指で持ち上げた。

 「おぉっ? お姉ちゃん、その子誰?」

新たな声が響く。今いる天使とは違う、明るくまっすぐな声だった。

 碧眼の天使は碧から手を離すと、大仰な仕草でため息をついて見せた。

「新しい召喚者よ。全く、ハードワークにもほどがあるわ」

「へぇ~。新しい召喚者かぁ。わたしたちとあんまり変わんないんだね」

「それはそうよ。天使と人間にそこまで大きな身体構造の差は無いもの」

 もう一人の天使は、碧を興味深そうに眺める。頭に生える髪から爪先まで見渡すその素振りには、蒼い眼の天使ほどの奥深さは感じられなかった。ただ、純粋な好奇心から来るような目だった。

 「え、え……? あなたは……?」

碧はもう一人の天使の登場に戸惑うばかり。だが、当の天使は全く気にする様子もなく屈託のない笑顔を碧に向けた。

「おっと、名乗りが遅れやしたね。あっしはラクラン。こちらにいらっしゃる、雷天使たる大天使フェニキアサスの妹っす」

 突如口調を妙に男らしい……というか妙に芝居がかったものに変えたその天使は、「ラクラン」と名乗った。褐色の肌に、清潔感溢れる形でまとめた長い黒髪が、健康的な印象を与えたが、それと同時にこの二人が本当に姉妹なのか、という疑念を碧に抱かせた。

 碧の困惑をよそに、ラクランは笑っている。

「とはいえ、あっし自信はそんなに優秀でもないんすよね。今は、将来の土天使になるべく実姉のもとで修行中の身っす」

話している内容が内容だけに、あっけからんと笑って飛ばすラクランの態度は碧をさらに困惑させた。

 「そういえば、あなた今日が初の実地研修よね? なら、この娘の手続きをやってみなさい」

「えっ? いいの?」

「私も仕事続きで疲れているもの。少しは楽させて頂戴。何か困ったことがあったらヘルプはしてあげるから、一通りやってみなさい。できるわね?」

「うん!」

碧が何も言えずにいる間に話は次々と進み、碧はラクランのフィンガースナップ一つで突如現れた木の椅子に座らされた。

 「えと、召喚者さんが椅子に座ったから……と。すんません。初めてなもんで。多少のミスは多目に見てほしいっす」

苦笑いしながら謝るラクラン。とはいえ、碧からしてみれば、そんなこと知らないよといった気持ちなので、どうにも反応を返しづらい。

 そんな碧の気持ちなど分かっていないラクランは、深呼吸をしてから少しだけ真面目な表情になった。

「そんじゃ、これから転生に関する各種手続きを始めさせていただくっす」

 「あの、ひとつ質問していいですか?」

「ん? なんすか?」

いきなり碧に手を挙げられ、リズムを最初から崩されたラクランは軽くずっこけてしまうが、すぐに元の表情を取り戻した。「元の」とはいっても、それは神妙な面持ちになる前の軽い表情だったのだが。

 「『転生』って、どういうことですか?」

「あれ? お姉ちゃんから聞いてないんすか?」

次のラクランの言葉で、碧は衝撃の事実を突きつけられた。しかし、それはラクランたち天使からしてみれば別に衝撃でもなんでもない。ごく当たり前の、「手続き」にすぎなかったから。

 

 「あなた、一度死んでるんすよ」


 「……え?」

「ちょっと失礼するっす」

二の句を継げない碧にラクランは歩み寄る。そうして碧の額にその人差し指を当てると、その指が光を帯び始めた。

 碧の心臓は、突きつけられた言葉と突然の超常現象にその鼓動を早める。

「気を楽に。落ち着いていてほしいっす」

ラクランは柔らかく、しかし有無を言わさないような口調で碧に語りかけると、人差し指に光の糸をつけながら碧の額から手を離した。

 光の糸はラクランの手のひらで丸まると、固まって一つの光の球になった。

 褐色の肌をした天使はその球を覗きこむと、一人でぶつぶつと呟き始めた。碧は、自分の額に何か起きてやしないかと両手を額に当てて探る。

 「さて、名前……えーと、何て読むんだっけこのカンジ……」

「タカミネアオイ、よ」

「あ、そうだったね。……コホン。名前、タカミネアオイ。性別、女。年齢、15歳。死因は……なんすかこれ。『突如飛来した隕石の破片に全身を貫かれ死亡』……。こんなのあっちの世界にあるんすか?」

 ラクランの質問に、彼女の姉は肩をすくめてみせる。

「火天使の脳筋野郎が手荒にやらかしたせいよ。現場がどれだけ悲惨なことになるか想像できないわけでもないでしょうに」

 そこまで言って、フェニキアサスは歪んだ笑みを浮かべる。形の整った美しい唇が、怪しくつり上がった。

「あなたの死体はさぞ惨たらしいことになっていたでしょうね。全身の肉という肉が砕かれ、臓物は飛び散り、地面や壁に血や体液がへばりつき……あぁ、考えただけでもおぞましい」

蒼銀の髪をなびかせて、フェニキアサスは体を震わせ、くねらせる。

「だけど、そういうの好きなのよね~。ふふ、見てみたかったわ。脳筋バカの失態の証拠と、己の欲望を満たし快楽を与えてくれるモノを」

 その歪んだ「欲望」と自らの死に様、そして自分の体に起きた惨状を知り、目眩にも似た感覚を碧は知覚した。

 眼の焦点が定まらない碧に、ラクランは語りかける。

「大丈夫っすか? 水飲みます?」

碧がたまらず頷くと、黒髪の天使は指を軽く鳴らす。椅子の時と同じように、水の入ったコップがラクランの手の中に現れた。

「ほい。どうぞっす」

水を受け取り、碧は少しずつそれを飲み干す。幾ばくか、気分が楽になっていった。

 息をついた碧に、ラクランが苦笑いを向ける。

「うちのお姉ちゃん、優秀で美人なんすけど性格と嗜好がどうもあれで。すんません」

「聞こえているわよ、ラクラン。自分のおかれている状況を正確に把握することは大事よ」

 地獄耳で聞き付けるフェニキアサス。彼女の妹は、姉のそんな発言をに呆れたような困ったような表情をして

「言い方ってものがない?」

と言ってみせた。

 フェニキアサスは相変わらずのつかみどころのない笑顔をしながら

「それに関しては反省しているわ。ごめんなさいね、碧さん」

と頭を軽く下げる。しかし、その言葉に反してあまり悪く思っているような態度ではなかった。

 妹天使もそれは理解していたのか、艶のある黒髪をかき回しながら碧に視線を向けた。

「まぁ、何はともかく事態理解しました?」

「わたしは、一度死んだんですね……」

ラクランの言葉に、碧は首を縦に振る。正直、横に振りたい気持ちの方が強かった。

 だが、今自分の置かれている状況を理解し始めた碧の脳裏には、自分が元の世界から消える瞬間の記憶が、少しずつ浮かび上がっていた。

 ――空から突如降ってくる、赤く輝く岩の塊。

 「何あれ」とも、「怖い」とも、「逃げなきゃ」とも、ましてや「美しい」なんて思う暇もない。赤熱する岩石は、みる間に地表めがけて落下していた。

 自分の十数メートル前に墜ちた隕石は、爆発にも似た轟音とまさに爆発のごとき熱を放射する。衝撃波と熱風は、自らの体を貫き焼いていく。

 「熱い」「痛い」そう思えたのもつかの間。目の前には、無数の熱された石が迫っていた。

 ――そして、それからの「あっち」での記憶はない。

 それは、自分の存在そのものがあの世界からは消えてしまったことの証明でもあるのだろう。

 思い出したくもない記憶だけをやけに鮮明に再現する自分の頭を、碧は抱えながら椅子の上でうずくまった。

 何でこうなったの?なにも変わらない日のはずだったのに。無事第一志望の高校に受かって、入学式も終えて、これから高校生活が始まると思っていたのに。楽しいことも、

 ラクランはそれを見て、言いづらそうに頭をかく。

 「……まぁ、そうっすね。朽ちてしまったあなたの肉体からあっしら天使が魂だけ回収して、ここでかりそめの『器』だけ与えている状態っす」


 「わたしは、これからどうなるんですか」

 「まぁ、大きく分けて二つっすね。一つは、みなさん人間が『天国』とか『極楽浄土』って呼ぶところ、『魂の住みか』に移ってもらって、そこでしばらく生活してもらいます。で、時期が来たら新たな肉体、赤ん坊の体を割りふって改めて一から人生を始めてもらうって感じすかね」

 「で、もう一つがあっしらがやってもらいたい方っすね。欲を言えばみんなこっちを選んでほしいっす」

「え、それって……」

 「あなたたちが元々住んでいた世界とは違う異世界に飛んでもらって、改めて人生を送ってもらうって方法っす。こっちを選んでほしいんで、こっちを選んでくれたら色々と自由に選べるようにしてあるっす。性別の選択とか、種族の選択とか……まぁ、ちょっとしたオンラインゲーム並みのキャラクリエイトができるっすよ。あとは、何か一つ二つくらい物を持っていっていいとか……」

 「回りくどい勧誘なんて要らないわよ、ラクラン。私たちが知りたいことはただ一つ」

 「天国からやり直すか、異世界で生き続けるか」

 「わたしは……」

わたしは、まだ生きていたい。赤ちゃんになってそこからまた十数年なんて待てやしない。例え異世界だとしても、わたしは。

「わたしは、わたしの人生の続きを生きたい。鷹峯碧という人生をまだ、終えたくはありません。異世界に行ったとしても、わたしという人間の人生が途切れるわけではないはず」

 「おぉ~っ、アオイさんずいぶんとかっこいいこと言うっすね。しびれるっす」

「そうね。まるで物語のクライマックスのような台詞をはいてくれるじゃない」

 「でもね、これは終わりだけではなくってよ。始まりでもあるはずよ。あなたの二度目の命の、ね」

 「二度目の命……」

 「そうっすね。じゃ、これで決まりっすね。そうとなったら色々と選択してもらうっすよ」

「選択、ですか?」

「そうっす。まずは種族。身体能力の高い獣人族に、知能の高い妖精族。あとは、すべてにおいて高い力を持つ……」

「わたしは、鷹峯碧としての人生を続けたいんです。だから、わたしの今の姿は偽りたくも、変えたくもないです」

 「え、いいんすか? 今までの転生者の方みなさん姿何かしら変えてるんすけど」

「はい、この姿のままで」

 「そうなると、どうするっすかね……。ちょっと失礼するっす」

「え? きゃっ」

「じゃあ、何か持っていきたいものはあるっすか? さすがにスマホとかはあっちの文明を崩しかねないんでアウトっすけど、ペンとかならぜんぜんオッケーっすよ。なんならあっしらで用意することもできるっす」

「え? なんだろう……持っていきたいもの……」

「『あなた』とかはダメ……?」

「それはさすがに無理っすよ。あっしもあっしでやることあるんで」

「ですよね……」

「じゃあ、この着ている服を持っていってもいいですか」

「はい、いいっすよ。あとなんかあるっすか」

「え? まだいいんですか?」

 「うっす。見た目一切変化させてないんで、まぁ特別にどうぞっす」

「じゃあ……死ぬ直前にわたしが背負っていたナップザックと、その中身をすべて」

「了解っす。それじゃ、最後に一つ」

「え?」

 「あなたの、夢を教えて。そして、あなたが信じるものは何?」

「ラクラン、さん?」

「難しく考える必要はないっす。思い付いたものを言ってくれればそれでオッケーっすよ」

「わたしの夢、と、信じているもの……」

わたしの夢。信じているもの。そんなもの、あの時から変わっていない。

 いつだって、あのときの光景に近づけるよう夢見ていた。音楽の力を信じて、毎日歌っていた。

 だけど、夢に近づく勇気が湧かなかった。これでいいのかと、悩んでしまっていた。

 だけど、今ならできる。私は一度死んでいる。これから行くのは異世界。構いやしない。思うがままに過ごして見せよう。

 不思議な勇気と、半ばやけっぱちな覚悟がその時の碧にはあった。

 「わたしの夢は、一つ。例えどんな世界でも、ステージの上で輝いて、みんなをワクワクさせられるような人になりたい。そして、わたしの信じているものは、音楽の力。必ず、どんな人にも響く音楽が何かあるって、信じています」

 ラクランは頷く。自然と、優しく笑えていた。

 生きようとするものには、強い光がある。その光は、他の人をも巻き込んで照らす。見知らぬ人であろうと、優しく包み込んで生きる意思を与える。

 ラクランは、転生者となる一人の少女にその光を見た。

 か弱く、少しの恐怖にも掻き消されてしまいそうな小さな光。だが、そこには確かな暖かさがあり、その中心には決して折れないだろう芯があった。

 光の芯は、信じるものから生まれていく。何か一つの事を信じ続ける限り、芯はずっとその人の中にある。何度でも光を生む。

 そう、ラクランは考えていた。考えていたから、マニュアルにもない質問をしてみた。

 ――きっと、この子はあっちの人も照らせる。この子が奏でる音は、子守唄にも軍歌にもなる。みんなを照らす、温もりを持った明るい光になる。

「そうっすね。きっと。うん」

ラクランは書類には何も記さなかった。書類ではなく、心の中に記しておいた。人が持つ、意思の力を。

 「それじゃ、これで手続きは終了っす。新たな生活を、異世界で楽しんできてくださいっす」

書類を閉じ、ラクランは碧を立たせる。碧は、少し戸惑ってはいたが自分のおかれた状況を受け入れ、前に進もうとしているようだった。

 「あ、もう出発なんですか? とりあえず、ありがとうございま……えっ?」

笑って立ち上がった碧は、その瞬間言葉を失った。

 碧が見たのは、自分の体が崩れていく光景だった。自分の体が、まるで土人形でもあったかのように崩壊していく。

 指先が崩れ落ち、腕に入ったヒビが見る間に全身に広がっていく。

 たまらず碧は叫んだ。その光景は、どうにか乗り越えかけた自分の死の恐怖を再び呼び起こすのには十分すぎるものだったから。

「これ、いったいなんて……いやだ! 崩れる……!」

 パニックになる碧に、ラクランは話しかける。

「落ち着いてほしいっす。仮の器の崩壊っすよ。別にまた死ぬ訳じゃないっす」

「助けて!いや、いや……!」

碧は、何も聞こえない。恐怖が、五感を塗りつぶしていた。

 「まともに聞いているか疑わしいけれど、一応今のうちに伝えておくわね」

恐慌する碧に、フェニキアサスは変わらない調子で告げる。その目に、心配する様子も憐れむ様子もなかった。

「あなたが今から行く世界は、『カルシャール』と私たちが呼ぶ世界。その中の人類が、『セント・ルシア帝国』と呼ぶ国にあなたを下ろすわ。あとは、あなた次第ね」

 「……!」

ヒビは口や喉にまで広がり、叫ぶことすら碧にはもうできなくなっていた。

 何も言えず、ただその目に恐れだけを浮かべながら、碧の仮初めの器は消滅した。

 残ったのは、天使二人だけ。ラクランが、頭を困り顔で掻いていた。

「うーん。やっぱこの転生方法見直した方がよくない?結構ホラー展開だと思うんだけど。これまでにも叫んじゃう人いたんじゃないの?」

 フェニキアサスは何も答えない。「沢山いた」という答えの代わりだと思うことにした。

 「あっちの心が弱いのよ。まったく、これだからぬくぬくと生きてきた小娘はイヤね」

何も答えなかった天使は、大ぶりな仕草をしながら消えた人間を侮辱する。

 「そういうもんかなぁ……。まだわかんないことだらけだ」

どうしたらいいのか分からなかった天使は、その黒髪を掻き回しながら消えた人間の無事をせめてものお詫びとして祈っていた。

 人の無事は、彼女たち天使にとっても大事だったから。

 「……あ」

そして快活な天使は気づく。今さっき旅立った転生者に、異世界の言葉を話すための能力を付与し忘れていたことを。

「ま、いっか。あの娘ならどうにかできるでしょ」

それは、あまりにも楽観的で希望的観測な考え方だった。だが、その考え方も、彼女が人間を信じているからこそできたのかもしれない。

 本当のことは、彼女自身しか分からない。


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