うで比べ 8
御用猫とリリィアドーネが向かったのは、クロスロードの中央街、通称『上町』と呼ばれる区画である。ここはかつて、都市国家であった頃のクロスロードの名残りである古い城壁に囲まれた、上流階級の者が暮らす街であり、貴族や富豪たちの住まいが並ぶ一等地なのであった。
「これはこれは、噂の名誉騎士どのにお会いできるとは、いや、光栄の至り、ううむ、長生きはするものだ……して、ご用件は何であろうか、我が娘を妻に娶るというならば、それなりの出迎え方もあるのだが」
「ははは、まさかでありますよ、確かに、ジッタンビット嬢は魅力的な淑女でありますが、情けないことに、私は未だ、会話を交わしたことすら無いのです、今日は騎士リリィアドーネの付き添いでありまして……彼女と、そちらのお嬢様、友人同士で並んで見れば、さぞかし見栄えもするであろうかと……実は最近、絵画にも興味を覚えているのですよ、叶うならば、その画を目に焼き付けて帰りたいと……はは、彼女には少々、無理を言ったのですがね」
上街の東側にあるマスカンヴィット家の邸宅は、かなりの歴史があるらしく、苔むした古い石壁には、幾重にも重なる、つる草が絡み付いていた、とはいえ手入れは行き届いているようであり、それら天然の装飾も、何か荘厳な雰囲気を醸し出すのに一役買っているであろうか。
「ふむ、そうであったか……いや、最近の若い騎士ときたら、なんとも軟弱なものでな……少しばかり叩きのめされたからといって、娘への求婚を諦める者のなんと多いことか……噂の辛島殿なれば、とも思ったのであるが……どうですかな、どうやら、今の縁談も纏まる気配は無い様子であるし、ここはひとつ」
「マスカンヴィット伯爵、失礼ですが、そろそろ、ジッタンビットどのとお会いしたいのですが」
少しばかり長口上な伯爵の言葉を、リリィアドーネは、これまた少しばかり乱暴に遮る。クロスロードの貴族にとって、短い会話は失礼にあたるという慣習はあるのだが、このマスカンヴィット伯爵は、どうやら生来の話好きでもあるようなのだ。
「おお、これは申し訳ない、娘ならば今は稽古場に居るはずだ、どれ、私が案内しよう、お茶の前に、水あみもさせたいのだ……先に言葉を交わしておいた方が良いだろう」
着いて参られよ、と先導する伯爵は、なんとも矍鑠としたものである。御用猫の予想よりも、線の細い人物ではあったのだが、これは以前の心労から痩せ細ってしまった為であり、かつてのマスカンヴィット伯爵は、アドルパスやワイヤードにも引けを取らぬ肉体美を誇っていたのである。
「これ、ジッタンよ、お客様だぞ、何か約束があったのではないか? 」
マスカンヴィット邸には、武家の名門らしく、広めの稽古場が備えてあった。真砂土を敷き詰めた無骨な造りは、やはり古い様式であり、見慣れぬ者には、まるで処刑場のようだと感じられるやもしれぬ。
「お父様! あぁ、いけない、私ったら、今日はお二人が訪ねて来る日だったのに……ごめんなさい、リリィアドーネ、ついつい夢中になってしまったみたい、恥ずかしいわ」
「ふふ、相変わらず真面目というか、しかしな、父としては、もう少し女らしい嗜みを覚えて欲しくもあるのだぞ」
「まぁ、お父様ったら……私がこんなに剣術を好きになったのは、お父様の影響なのですからね、そういった要望が、おありでしたなら、新しい家庭教師は、女性の方をお願いしますね」
ぴしゃり、と白髪の頭を叩き、マスカンヴィット伯爵がにこやかに笑う、それを受けたジッタンビットも、なんとも柔らかな笑顔を見せているのだ。その景色は、この親娘の仲が、どれほど良好であるかを、如実に物語っているだろう。
(む、聞いていた話と随分違うな……リリィアドーネの顔を見るに、脚色が大袈裟という訳でもなさそうだ……なるほど、父親の前では、普段のジッタンビットをみせぬということか)
「初めまして、ジッタンビット嬢、私は辛島ジュートと申します、リリィアドーネとは、仕事上の付き合いがありまして、今日は少しばかりお話をしたく、こうして同行した次第なのです、不躾な願いを聞き届けて頂き、感謝いたします」
「まぁまぁ、ご丁寧なお方……うふふ、こちらこそ、噂の名誉騎士様にお会いできる事、楽しみにしていたのですよ」
軽く握手したのは、互いに騎士であるからこその作法である。しかし、柔らかな笑顔を浮かべる男女の外では、マスカンヴィット伯爵とリリィアドーネが、少しばかり、眉根を寄せていたであろうか。
「お父様、汗を洗い流す前に、お二人とお話しておきたいのです……あの、お茶の支度の方は……」
「うむ、良い良い、私が手配しておこう、ジッタンに友人が訪ねて来るなど、久しぶりであるからな、今日は秘蔵の茶葉を出してやろう……実は、菓子の方もな、バルタバンダ商会から、あれを特別に買い求めておいたのだ」
「まぁ! もしかして葛切りですか? なんて夏らしい、ありがとうございます、お父様」
満足げに頷くと、マスカンヴィット伯爵は稽古場を後にする。にこやかな笑顔にて手を振りながら、それを見送るジッタンビットであったのだが。
「ほんで、なんじゃ、やるんか? 」
「……は? え? な、なにを、突然」
まったくに表情を変えず、笑顔のままに告げられた言葉に、リリィアドーネは上手く発声もできない様子である。少しばかり上ずった声は、普段より幼く感じるであろうかと、御用猫は顎をさすりながら感心していたのだが、恐らくこれは思考の逃避であろう。
察していたのだ、自らに迫る危機を、野良猫の本能が。
「なんと、せっかちな奴だな、まずは話を聞くべきだろう」
「そうか? なら聞くわ、よし話せ」
こてり、と首を傾げるジッタンビットは、完全に脱力した状態であり、強い言葉の割には、敵意などというものを感じ取ることはないだろう。
何が原因であるものか、雪のように真っ白な髪は、おかっぱに切り揃えられており、尊大とも思える言動に反して、体格は華奢な方である。とはいえ、エルフという種族は、人間種よりも肉体的に頑健であり、見た目だけで膂力を判断するのは、素人の陥りやすい過ちであろうか。
エルフを良く知る御用猫なれば、その力量を見た目で判断することはない。ジッタンビットは耳が無いために、外見上は美形の人間にしか見えないのであるが、彼は事前に、そうと知っているのだ、可愛らしい外見にも、くりくりと良く動くアーモンド型の緑眼にも、決して、気を許す事は無いのだ。
だが、それすら凌駕するほどに、彼女の突きは鋭いものであった。
「あっ!? 」
リリィアドーネの短い悲鳴が、御用猫の耳に届く前に、ジッタンビットの掌底は、彼の顎に叩き込まれていたのだ。完全なる脱力状態からの攻撃は、本来ならば、御用猫の遣う『カディバ一刀流』においてこそ、根幹と呼ばれ、重要視される動きであったのだが。
(ぐっ……速い! )
単純な踏み込み速度ならば、リリィアドーネの方が上であろう、しかし、ジッタンビットの動きは、意を消し、呼吸を偽装し、間合いを眩惑するものであったのだ。かろうじて直撃こそ避けた御用猫であったのだが、視界を揺さぶられ、次の瞬間には、敵の動きを見失ってしまう。
ぼぐん、と、くぐもった音は、彼の右肘が外れた音である。逆関節を取られた御用猫は、そのまま背負いで投げられ、肩口から地面に叩きつけられる。
「ぐうっ! 」
「とどめっ! 」
間を空けず、ジッタンビットの足刀が、御用猫の首を狙って放たれた。もしも、横合いからリリィアドーネが組みついていなければ、野良猫の卑しい人生にも、幕が降ろされていた事であろうか。
「ば、馬鹿者! 何を考えている! 辛島どのはテンプル騎士だぞ! このような私闘、王宮に知られたならば割腹ものであるぞ! 」
「はぁ? こいつが先にやってきたんじゃろ、わしに殺気を向けて、ただで済むと思うなよ! 」
ジッタンビットの主張は、通常ならば、到底聞き入れられるものではないだろう、しかし、御用猫には、心に当たりがあったのだ。自身さえも意識せぬところで、彼女に向けた警戒心を、隠しておくことが出来なかったのであろうと思い当たるのだ。
(これは……なんと無様だな、本能的に恐れたか……しかも、それを相手に気取られるとは……ガンタカに言われた時に、注意しようと決めてはいたのだが……まぁ、こればかりは、仕方ないか)
思わず笑いを零した御用猫に、ジッタンビットが牙を剥く、リリィアドーネの腕の中で暴れる白髪のエルフは、どこか、かつて戦った月狼と、その好敵手である老エルフに似ているであろうか。
「ああ、リリィ、構わないぞ、そいつの言うことにも一理ある……そして理解したよ、野生動物を手なづけるには、力で抑えつけるのが一番だ、ともな」
「おぉん? やんのか! 調子のんなよ、いてこましたるわ! 」
がるがる、と興奮状態のジッタンビットには、もはや人の声が届いているかも怪しいところであるのだが、御用猫は、なにか奇妙な確信めいたものも覚えていたのである。
「まぁ、そう興奮するなよ……お父様に迷惑をかけたくは無いだろう? ……そうだな、三日後に、けり、を付けようか、東町のな、田ノ上道場に来い、場所はリリィに案内してもらえ」
先ほどまで、あれほどに暴れていたエルフの女は、御用猫の言葉に、ぴたり、と動きを止めると、鼻息をひとつ吐き出し、その獣性を収めてゆくのだ。
「……ふん、まぁええわ、おい離せ、水浴びしてくる、のど乾いたから、茶ぁにしよう……あの、ぶよぶよは、嫌いなんじゃがのぅ」
全くに付いてこられない様子のリリィアドーネを叩いて身を離すと、白髪のエルフは、歯を見せて笑うのだ。それに苦笑を返した御用猫は、無理矢理に関節を嵌め込むと、その痛みに眉根を寄せる。
おそらく、マスカンヴィット伯爵の秘蔵の紅茶は、汗を垂らしながら飲み干す事になるだろう。
(……まぁ、夏場で助かった、不審には思われまい)
あとは、隣で狼狽える少女の演技をどうにかすれば、この場は乗り切れるであろう、などと考えながら。
御用猫は、なんとも割に合わぬ今回の面倒ごと、どこから金を引っ張るべきであろうかと、真剣に頭を悩ませ始めたのであった。