うで比べ 7
クロスロード南町の五番街、ここマルティエの亭では、昼の修羅場をようやくに終えた店内に、なにやら緩んだ空気が満ちており、片付けと洗い物を終えた従業員達も簡単な食事を終え、今は緩りと寛いでいるのだ。
もしも、この時間まで居座る客がいたならば、それはそれで迷惑ではあるのだが、階段下の縄張りに鎮座する、この卑しい野良猫に関しては、最早この店で客扱いする者もいないであろうか。
「んで、結局なにしに来たの? 」
この、招き猫にもならぬ傷面の野良猫が、唯一呼び込んだ客である栗色の髪の少女は、先程から石のように押し黙っており、時折、ちらり、ちらりと御用猫の顔色を伺っては、その度に何やら首を振るばかりであるのだ。もっとも、食事だけは必要充分に平らげており、店主のマルティエも、そこには文句の付け所も無いのではあるが。
「う、うん、それがね……うぅん、その、これは、以前に猫から尋ねられた事ではあるのだが、その、それの答えという訳でもないのだが」
「なんだよ歯切れの悪い、何か言い難い事なのか? 今更遠慮するような仲でもあるまいに、構わないから言ってごらん」
ようやくに口を開いたリリィアドーネに対する御用猫の返答は、清酒の満たされた猪口を、傾けながらの言葉である、しかし、この真っ直ぐな少女には、何か感じるところもあったのだろうか、少しばかり頬を染め、俯きながらに感謝の言葉を告げるのだ。
「いつも思うんだけどさ……チャムのお尻を触りながら言われてもさぁ……リリィは、あれで嬉しいのかね? 」
「女の子はね、ああなると盲目なのよ……そうね、ドナもそのうち分かるわ」
「えぇ……マルティエは分かるっての? 今のリリィと立場を変えて考えてみてよ」
「……あ、今日のマドレーヌは上手く出来てるわ、ドナもそろそろお菓子作りに挑戦してみる? 」
少しばかり離れたテーブルでは、彼らについての意見が交わされている。今は静かな店内とはいえ、そのやり取りまでは聞こえてこないのであるが、彼女らにとっては日常的に目撃している光景であり、内容についてもおおよその想像はついているのだ。
もっとも、リリィアドーネの持ち込む本題については、決して描き耳を立てる事もない、呪いで音を消していない以上、機密という訳でもないのだろうが、そこはマルティエという女性の出来た所である、従業員達にも、その辺りついては、きちんと言い含めてあるのだ。
「その、な、例のマスカンヴィット伯爵の娘であるのだが……それが、少しばかり困った事になっていて……」
途切れ途切れに事情を説明するリリィアドーネである、彼女してみれば、直属の上司である騎士団長二人からの命令ではあるのだが、やはり、それを御用猫に頼むというのには、少々抵抗があるのだ。先日は珍しくも、彼から頼み事をされたというのに、それについては力になれず、尚且つ、逆に面倒ごとまで持ち込んでしまったのだ、真面目な彼女が申し訳の無さに肩を落とすのも、やはり当然といえるだろう。
「なんだ、そんな事であったか、別に気に病む必要もあるまいに……むしろ、ジッタンビットに近づく理由も出来たのだ、こちらとしては、リリィに感謝したいくらいだよ」
この店に来るまで、いや、たった今まで多少の文句は覚悟していたリリィアドーネであったのだが、目の前の男から返ってきたのは、なんとも優しげな笑顔なのである。彼女が途端に顔を、くしゃり、と歪め、胸に手を当てたのは、多感な年頃の少女にとって、これもまた、当然の事であろうか。
「ぐぅ、すまな……いや、ありがとう、猫には、いつも世話になってしまう」
「なに言ってるんだ、可愛いリリィの困りごとをな、俺が無視したことが、ただの一度でもあったというのか? 」
「ぎゅう」
遂に耐えきれなかったのか、額がテーブルに付くほどに頭を下げ、リリィアドーネは、ぐりんぐりんと悶えるばかりである。
「先生ぇ、猫の先生ぇー、無視した事も結構あったと思いやすぜ? 」
「奇遇だな、俺もそう思う」
御用猫の膝の上で、食事を終えた卑しいエルフは、その卑しい尻肉を揉まれながらに疑問を述べたのであるが、果たして卑しい野良猫からの返答は、やはり当然ながら、いつも通りであったのだ。そもそもが、ジッタンビットについての揉め事解決は、なし崩しにとはいえ、すでにウォルレンから請け負っている、今更リリィアドーネの頼み事を断る理由が、御用猫にあるはずもないだろう。
「そうだな、とりあえずは会ってみるか、話を聞く限り変わった女ではあるようだが……ま、そういった手合いの扱いには慣れているからな……甚だ不本意では、あるんだけどな」
手酌の酒を再び呷り、御用猫はこともなげに言うのだ。いかな奇人変人とはいえ、志能便たち程ではあるまいと、今の彼は高を括っている。
「あ! それで思い出した、猫よ、これは団長からの言伝で……」
「ん? どっちのだ、熊おやじか、それともアルタソか? 」
自らの仕事を思い出したのか、がば、と顔を上げたリリィアドーネであったのだが、何故か彼女は動きを止めると、再びに言い澱むのだ。
「い、いや、これは……大丈夫だ、必要無い、うん、私は、信じてるから」
「ん、そうか? よく分からんが、まぁ、とりあえずは任せておけよ……とは言いながら、ジッタンビットに会う段取りは、リリィに頼むしか無いのだがな……それで構わないか? 日取りは任せるよ」
「うん、それは任せて、少しくらいは役に立ってみせるから」
話がまとまった安心からか、それとも他の理由であるか、リリィアドーネは、普段の真っ直ぐな笑顔を取り戻すと、即座に立ち上がるのだ。彼女が、こうして寸暇を惜しむのも、仕事の合間にやって来たからなのではあろうが。
(やれやれ、相変わらずに真面目な奴だ、もう少し、のんびりしても、ばち、は当たるまいに)
少しばかり名残惜しそうな表情をみせる串刺し王女を見送ると、御用猫は両手を組んで伸びをする。
「さあて、ならば当たって砕けてみるか……しかし、リリィが来たのは丁度良かった、ウォルレンに呼び出させるつもりであったが、相手に脈ありと思われても面倒だったのだ、これはまさしく、僥倖であったな」
「うわぁ、相変わらずひでー言いぐさでごぜーますね、悪いおとこやで、でも、そんなアナタも好きよ」
「おう、ならば、おチャムさんにも働いてもらおうかな、最近は無駄飯ばかりであったのだ、そろそろ返してもらおうか」
「やっぱりキライよ! 非道い男なのよ、結局は私のカラダだけが目当てで……うは、わはは、やめ、やめろ! おいよせ、昼飯が逆流する! 」
きゃいきゃい、と喧しく騒ぎ立てる卑しい二人組もまた、いつもの光景なのである。
「……少なくともさぁ、リリィに男を見る目は……いや、あんのかね? いまいち、良く分かんない」
「……私に、それを聞かないでよ」
かつて駆け落ちまでしたマルティエの亭主であったが、今は行方知れずなのである。
「……ドナには、無いと思うよ」
今まで、ずっと黙っていた従業員の少女、ミザリであったが、最後に放り投げた言葉は少々、辛辣なものであったのだ。